静岡で重量鉄骨構造の建物ならアイディースリー池田建設 【スタッフブログ】

ブログタイトルをカメさん日記より変更しました。当社スタッフが日々の活動やイベントの案内などをブログで紹介します♪♪

東日本大震災視察レポート 第3回

2011年06月09日 10時48分15秒 | 監督の現場日記

5月13日

8:00~ タクシーにて、大観荘を出発し、東松島~石巻のS港飼料に

向け出発。タクシーの運転手さんの話を聞きながら、仙石線の駅を列車が

倒壊した所、学校が2階に土足で上げることを認めず、何人もの人が死亡

した所、海岸線に何百人が遺体となって転がっていた所など

 また、東松島の太平洋に面した海岸線を案内して頂きました。

津波の強大な力の前に人々は何も出来ず、ただその力に屈伏した様子が

そこにありました。東松島~石巻のS港飼料の工場に向かいました。

10:30頃、S港飼料の石巻工場に着きました。

S港飼料のS工場長がこの後、案内をして下さいました。

S港飼料は海辺にあり、原料は船から直にサイロに取込むようになってお

りましたが、海側が約700位沈下し、工場全体は約4.5m位の津波が

押寄せた跡がありました。

地震の時に原料を積んでいた船が港についていたが、S工場長の判断で船

のロープを解き、船は沖に全速で逃げ助かったと聞きました。

また、セルシオで来ていたお客様に車で逃げないでサイロに上がれと指示

し、すぐに工場の間から4mの黒い水が押寄せたと聞きました。

自動車で逃げていたら助からなかったと言っていました。

S港飼料の従業員の方々もサイロに逃げ、夜中中寒さに耐えていたそうで

すが、夜明けと共に自宅が心配だと言う人が増え、あとは自己責任で水の

中を帰したそうです。

またS工場長は家畜の餌を扱っているという事で、電力会社及び土木事務

所に掛け合い、特別な計らいをさせたと言っていましたが、大震災の中ほ

んとうに大変だったと思いました。

石巻市も海沿いと北上川沿いで、津波の被災が大きく、日和山から見渡し

た全面が壊滅状態でした。

S工場長も浴槽の水を灯油ストーブで沸かし、炊事に使っていたと話して

いました。

あまり細かくは話してはくれませんが、水と瓦礫の中を何キロも歩いて自

宅に戻った時には色々な物を見たと思いました。

石巻市~女川町(原発の町)を見たいとS様に話し、車で案内して頂きま

した。女川町は原発の町である為か、小さい入江の町の割には大きな建物

が多く建ち、高台には大きな病院がありました。

しかし、津波の押寄せるスピードと高さが25m程にもなって、町全体が

壊滅状態でした。

RCの2階建の警察の建物やS造の4階の建物が横倒し、基礎がそのまま

地上に横転していました。

女川の様子を見た時、人間のやる事は自然の力の前では何とむなしいか、

思い知らされた気持ちでした。とにかく30m以上の所に逃げることが

先だと思いました。

ただ、津波も5時間の間だけ耐える事の出来るシェルターを作っておけ

 

ば、人命は助ける事が出来ると考えられます。

女川の被害は、今まで見て来た被災地と違い、あまりにもすごい津波の力

を見せつけられ、自分達の無力感で声を出す気にならなくなりました。

自然の力に対応するには、海沿いの地域では地震力よりも津波対策をしっ

かりやる事が重要です。

S港飼料のS工場長のような、その時の判断力と行動力が生死を分けるも

のだと実感しました。

 

今回の東北大震災でわかった事

  1.地震によるライフラインの壊滅     

    電気 ・ 水道 ・ 電話 ・ 携帯 

 2.情報を得る事が出来にくくなる  (携帯ラジオのみ) 

 3.津波に対する日頃の避難準備が十分でない 

 4.想定外の津波であった 

 5.震災後、国・自治体の対応は遅い 

 

 6.津波は平野部では地上5m位、秒速10m位で何度も押寄せる                                                                                 また、次の日も場所によっては水が1.5m位残る 

 7.女川町のような地形では、25m位海が盛上がる 

  8.津波は鉄筋コンクリートの2階建の建物を横倒しにする 

※ 地震に強い安心安全な建物を造り、社会に貢献する事を理念とする

  我社は、津波時には命を守るシェルターを考案し、社会に貢献する

  事も必要と思われます。

 

工事部長 Ryou

 

 

 

 


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東日本大震災視察レポート 第2回

2011年06月09日 10時20分36秒 | 監督の現場日記

 成23年5月12日~14日

城県 ・仙台市 若林区  531人死亡  (4/11付)

       ・名取市 仙台空港 863人死亡  1000人不明

      ・多賀城市     179人死亡    10人不明

      ・仙台市 宮城野区、若林区  531人死亡

      ・松島町       2人死亡    10人不明

      ・東松島      913人死亡

      ・石巻市      2670人死亡  2770人不明

      ・女川町      394人死亡   870人不明

協力頂いた方 ・・・ O構造 O様

                 S港飼料 S工場長様

                   タクシー運転手さん

 5月12日

  静岡8:30発  仙台12:04着  K市議・池田会長・深澤

 仙台駅にてK市議の友人のO構造のO様が待っていてくれました。

 そして仙台市の被災した建物の復旧調査を行った時の資料を頂きました。

特に造成地の地盤が動き、地盤が強度を失った為、建物の基礎に被害が

及んだ例が多い事を取り上げていました。

また、鉄骨造では津波の被害による建物4棟を検証して、地面から約3m

程度の津波にあった建物の構造体は、一部手直しも含め、再使用可能と

判断出来るとしていました。

た、RC造のマンションの調査報告書の資料も頂きましたが、地震の揺れ

が大きく、耐震スリットの巾が25m/mと小さい為、雑壁がいたる所、

壊れてしまったと報告していました。

 被災された荒巻川平町内会の震災直後の活動の様子、町内会の情報の

伝達等、また助け合いの活動の資料も頂きました。

様の資料による説明を伺いながら、被災地視察を仙台空港のある

名取市の海沿いから案内して頂く事になりました。

仙台市内を車で走りながら被災の状況を見ましたが、道路の段差、歩道の

液状化した箇所が多く見られ、倒壊した建物はほとんど無く、屋根瓦の脱

落等の被害程度が多く見られました。

名取市の海沿いに近づくと、津波被害にあった建物が多く現れました。

名取市は仙台平野にあり、海岸沿いに海から3km~5kmの所にある

仙台東部道路まで津波が来て、その高速道路が高い為、そこで止まったと

思われました。

平野部なので約4m位の津波が押し寄せ、2階の床上まで上がった様子が

わかりました。

仙台空港は既に営業していましたが、2階の床まで津波が上がった様でし

た。また、広い範囲で被災した建物及び自動車等の残骸が未だ片付けられ

ておらず、復旧の難しさが感じられました。

 

 仙台平野に遡上した津波は、秒速10mのスピードで地面より4m程度の

高さで、内陸5km程度まで達しました。

そして、名取市 約1900人、若林区・宮城野区531人もの命を奪い

ました。

平野部はすぐに逃げる高台がありませんし、近くにRC造・S造の高い建

物で避難できる様な物がありませんと、このように多くの人命が失われま

す。津波のおさまる約5時間位の間、避難できるシェルターを考えたらよ

いと感じました。

O様の案内で、名取市~仙台若林区~宮城野区~仙台港~多賀城市を視察

し、松島に向かいました。

松島湾内の海沿いの地域は、湾内の島々に津波の力が消されたと思われ、

被災の程度は少なかったようです。波の高さも2m位でスピードもそんな

に速くなく、死者も12人という事でした。

松島湾内を案内して頂き、大観荘まで送って頂きました。

大観荘は大きなホテルでしたが、殆どの客が震災関係の人で、

別館はすべて警察の方々でした。

 今日一日被災地を案内して頂きましたO様、ありがとうございました。

 

工事部長 Ryou

                  


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東日本大震災視察レポート 第1回目

2011年06月09日 09時49分24秒 | 監督の現場日記

こんにちわ。工事部長のRyouです。

東日本大震災の被災地に4月・5月に視察に行って来ました。

レポートを何回かに分けてご報告します。

視察地 ① 平成23年4月18日~19日

 1.福島県

 2.宮城県  ・気仙沼  711人死亡 1420人不明

        ・南三陸町 441人死亡    30人不明

                                      (4/11付)

    協力を頂いた方 ・・・ M水産 M様

 4月18日 

   本社出発17:00 東名 → 東北自動車道 → 

                     福島駅西口東横イン 23:00到着

 

4月19日 雨

   8:00   島駅西口東横福イン 出発

  13:00頃   気仙沼 到着  視察

  14:00   気仙沼 出発

  15:30   南三陸町 到着  視察

  16:30   南三陸町 出発

  23:00   本社 到着

福島駅西口東横イン(第1日目宿泊ホテル)の外壁修理中(タイル)

福島~一関インターまで東北自動車道車中より視察した事項は、

屋根瓦の脱落が見られる程度でした。

一関~気仙沼までも、地震のみの災害は屋根瓦の脱落程度で、

外見上は大きな被害は無い様に思われました。

気仙沼港に近づき、津波の到達した所に来て初めて被害の実態を見て、

信じられない光景でした。

当社社員I君の友人でM水産社長のM様に当時の様子を、自宅の庭の

気仙沼港を見下ろせる場所で聞いたところ、津波は地震から10分以内

に、港と西側の川から押し寄せて来た。

車で逃げようとしていた人は、目の前で流されていった。

気仙沼中心地内を高さ15m位の波が飲み込んだ。と話してくれました。

また、津波は何回も押し寄せたとの事でした。

ライフラインの復旧はしていない様でしたが、津波の被害にあった人々と

無い人々の差は天と地ほどでした。

M様の話を約30分程伺い、これから南三陸町に行きたいと言ったとこ

ろ、地元の人でなければ道が寸断されていて、とても行けないので案内

してくれるとの事で、南三陸町まで案内して頂きました。

気仙沼~南三陸町に行く途中、小さな入江にある集落も壊滅状態で、

小さな川沿いに山の方まで津波が押し寄せた事がよくわかりました。

リアス式海岸特有の津波の盛上る様子がよくわかりました。

 海辺と山合いを交互に走り、約1時間40分程で南三陸町に着きました。

南三陸町は壊滅状態でした。静岡新聞に載った鉄骨造の防災センターの

鉄骨だけ残った建物を視察しました。

また、鉄骨構造体のみ残った建物も数棟ありました。

RC造の病院とアパートも構造体は残っていました。ブロック造の便所が

残っていました。

とにかく津波の高さが5階建のRC造マンションの5階の床まで上り、

その強大な力に言葉が出ない程でした。

そんな中で残った鉄骨構造体の中に津波シェルターがあれば、人命は

助かったのではないかとも感じました。

高台の避難所の高校に行き、避難所の管理人の方に話を聞いたところ、

現地はとにかく情報不足で困ったとの事でした。

持参した静岡新聞の三陸町の報道紙面を見て、非常に有り難いと話して

ました。 

現地は当日とにかく寒くてシャッターを押す手が動かなくなる程でした。

被災された方々の苦労をしみじみ感じました。

16時30分頃、南三陸町を出発し、静岡に向かいました。

東北自動車道、宮城県内は大雪でした。

 

 

 

 


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