5月13日
8:00~ タクシーにて、大観荘を出発し、東松島~石巻のS港飼料に
向け出発。タクシーの運転手さんの話を聞きながら、仙石線の駅を列車が
倒壊した所、学校が2階に土足で上げることを認めず、何人もの人が死亡
した所、海岸線に何百人が遺体となって転がっていた所など
また、東松島の太平洋に面した海岸線を案内して頂きました。
津波の強大な力の前に人々は何も出来ず、ただその力に屈伏した様子が
そこにありました。東松島~石巻のS港飼料の工場に向かいました。
10:30頃、S港飼料の石巻工場に着きました。
S港飼料のS工場長がこの後、案内をして下さいました。
S港飼料は海辺にあり、原料は船から直にサイロに取込むようになってお
りましたが、海側が約700位沈下し、工場全体は約4.5m位の津波が
押寄せた跡がありました。
地震の時に原料を積んでいた船が港についていたが、S工場長の判断で船
のロープを解き、船は沖に全速で逃げ助かったと聞きました。
また、セルシオで来ていたお客様に車で逃げないでサイロに上がれと指示
し、すぐに工場の間から4mの黒い水が押寄せたと聞きました。
自動車で逃げていたら助からなかったと言っていました。
S港飼料の従業員の方々もサイロに逃げ、夜中中寒さに耐えていたそうで
すが、夜明けと共に自宅が心配だと言う人が増え、あとは自己責任で水の
中を帰したそうです。
またS工場長は家畜の餌を扱っているという事で、電力会社及び土木事務
所に掛け合い、特別な計らいをさせたと言っていましたが、大震災の中ほ
んとうに大変だったと思いました。
石巻市も海沿いと北上川沿いで、津波の被災が大きく、日和山から見渡し
た全面が壊滅状態でした。
S工場長も浴槽の水を灯油ストーブで沸かし、炊事に使っていたと話して
いました。
あまり細かくは話してはくれませんが、水と瓦礫の中を何キロも歩いて自
宅に戻った時には色々な物を見たと思いました。
石巻市~女川町(原発の町)を見たいとS様に話し、車で案内して頂きま した。女川町は原発の町である為か、小さい入江の町の割には大きな建物 が多く建ち、高台には大きな病院がありました。 しかし、津波の押寄せるスピードと高さが25m程にもなって、町全体が 壊滅状態でした。 RCの2階建の警察の建物やS造の4階の建物が横倒し、基礎がそのまま 地上に横転していました。 女川の様子を見た時、人間のやる事は自然の力の前では何とむなしいか、 思い知らされた気持ちでした。とにかく30m以上の所に逃げることが 先だと思いました。 ただ、津波も5時間の間だけ耐える事の出来るシェルターを作っておけ
女川の被害は、今まで見て来た被災地と違い、あまりにもすごい津波の力
を見せつけられ、自分達の無力感で声を出す気にならなくなりました。
自然の力に対応するには、海沿いの地域では地震力よりも津波対策をしっ
かりやる事が重要です。
S港飼料のS工場長のような、その時の判断力と行動力が生死を分けるも
のだと実感しました。
今回の東北大震災でわかった事 1.地震によるライフラインの壊滅 電気 ・ 水道 ・ 電話 ・ 携帯 2.情報を得る事が出来にくくなる (携帯ラジオのみ) 3.津波に対する日頃の避難準備が十分でない 4.想定外の津波であった 5.震災後、国・自治体の対応は遅い
6.津波は平野部では地上5m位、秒速10m位で何度も押寄せる また、次の日も場所によっては水が1.5m位残る
7.女川町のような地形では、25m位海が盛上がる
8.津波は鉄筋コンクリートの2階建の建物を横倒しにする
※ 地震に強い安心安全な建物を造り、社会に貢献する事を理念とする
我社は、津波時には命を守るシェルターを考案し、社会に貢献する
事も必要と思われます。
工事部長 Ryou