イスラム教とキリスト教 知られざる「セックスの大疑問」 なぜ処女が神聖視されるのか?
現代ビジネス より 220121 島田 裕巳
セックスを無視して宗教 を語ることはできない!『性(セックス)と宗教』の著者で宗教学者の島田裕巳氏が、さまざまな宗教における性の扱い方の違いを浮き彫りにし、人間の性の欲望と宗教の本質に迫る!
⚫︎ムハンマドが残したことばに注目
拙著『性(セックス)と宗教』でふれたイスラム教のスンナ(預言者ムハンマドの残したことばや行動を伝えるもの)には、注目されるものがあります。「婚姻の書」のなかに、次のような伝承があります。
ジャービル・ブン・アブド・アッラーが「結婚しました」と言ったとき、神の使徒は「どんな女か」と尋ね、「既婚の女です」と答えると、彼は「なぜ乙女とその愛撫を選ばなかったのか」と言った(『ハディース イスラーム伝承集成』5)。
この伝承からすると、ムハンマドは、処女との結婚をより好ましいものとしていたことになります。ムハンマドがいったい何人の妻と結婚したのかについてははっきりしないところがありますが、最初の妻であるハディージャは15歳年上の寡婦で、処女ではありませんでした。
これに対し、最愛の妻とされるアーイシャは処女でした。
「婚姻の書」では、「アーイシャによると、彼女は6歳のとき預言者に嫁ぎ、9歳のとき正式に結婚し、9年間共に暮らした、という」(同)とあります。正式に結婚したという箇所には、訳者が「実際に性的交渉をもつこと」という注釈を施しています。
このためイスラム法では、女性は9歳で結婚が可能だとされています。アーイシャが9歳のとき、ムハンマドは56歳でした。
このアーイシャとの結婚については、別の伝承があります。それは、イブン・アビー・ムライカによると、「イブン・アッバースはアーイシャに『預言者はあなた以外に処女を娶らなかった』と言った」(同)というものです。
2001年に起こったアメリカでの同時多発テロの首謀者とされたウサーマ・ブン・ラーディン(オサーマ・ビン・ラーデン)の出したものに、「二聖モスクの地を占領するアメリカ人に対するジハード宣言」というものがあるのですが、そこでは殉教者たちは天国に召され、「72人の純粋なる楽園の処女たちと結婚」できるとされています。
アフマドとティルミジーによって伝えられたとされるこの宣言を紹介した保坂修司はこの部分に注釈を加え、「アブーイーサー・ティルミジー(825~892年)。伝承集、Sunanの編者。
引用されたハディースは未確認」としています(「オサーマ・ビン・ラーデンの対米ジハード宣言」『現代の中東』35、2003年7月)。
ここに出てくる「楽園の処女たち」は、アラビア語でフール、ペルシア語でフーリーと呼ばれるものです。このフールについて、14世紀シリアのイスラム教法学者、イブン・カスィールは、『コーラン』の56章35~37節についての注釈において、ムハンマドは、天国で処女と交わることができるかと聞いてきた信者に対して、それは可能で、しかも交わった後、彼女は処女に戻ると答えたとしています。
該当する『コーラン』56章では、「まことに、われらは彼女ら(天女)を創生として(出産によらず)創生した。そして、彼女らを処女となした。熱愛者に、同年齢に(なした)」とあります(『日亜対訳クルアーン』)。これだと意味を理解するのが難しいですが、井筒俊彦訳の岩波文庫版では、同じ箇所が次のように訳されています。
一段高い臥牀(ねだい)があって(そこで天上の処女妻たちと歓をまじえる)。我ら(アッラー)が特に新しく創っておいたもの、この女たちは(地上の女のように両親から生れたものでなく、この目的のために特別に新しく創った女である)。特に作った処女ばかり。愛情こまやかに、年齢も頃合い(『コーラン』下)。
交わった処女が、性交渉の後、処女に戻るということは、具体的には処女膜が再生されることを意味します。ここでは、処女と交わることと、それが幾度にも及ぶことに価値がおかれています。
『コーラン』の第19章は、「マルヤム」と呼ばれています。マルヤムとは、マリアのアラビア語の呼び名です。
一方、イエスのほうは「イーサー」と呼ばれます。第19章では、マルヤムがイーサーを産んだときのことについて述べられています。そこでは受胎告知と同じように、マルヤムのもとに天使ジブリールが現れたとされます。
ガブリエルのアラビア語での呼び名であるジブリールは、マルヤムにむかって「私はおまえの主の使徒にほかならず、私がおまえに清純な男児を授けるためである」と言いました。
それに対してマルヤムは「いまに私に男児ができましょう。人(男性)が私に触れたことはなく、私はふしだらであったことはないというのに」と答えています。マルヤムは処女だったわけで、処女のまま身籠もり、出産したとされます。
ここに夫となるはずのヨセフは登場しませんが、福音書の記述がもとになっています。イスラム教には原罪の観念はなく、『性(セックス)と宗教』でも見ているように、性に対する禁忌は存在しません。
そして、処女というものの価値が高く評価されています。もちろんそれは、男性にとってのことで、女性の側からすれば、とらえ方はまったく異なるでしょう。その点はまた別に論じる必要があります。
処女=原罪を免れた特別な存在
一方、キリスト教で処女ということが問題になるとき、それは主にマリアについて言われます。マリアは神と直接交わったわけではなく、性行為を経ないまま聖霊の力によって身籠もったとされています。
ただ、処女であるということは、原罪を免れた特別な存在ということであり、その点でマリアは信仰の対象となり、マリア崇敬が生み出されることとなりました。キリスト教では、処女性は神聖なものとされたのです。
『性(セックス)と宗教』でふれた宗教学者のエリアーデには「暇な神(デウス・オティオースス)」という考え方があります。
これは主に天空神について言われることですが、宇宙の創造神は、当初は最重要の存在と見なされていても、やがて後景に退いて暇な神になり、新しい神が信仰の対象になっていくというのです。
キリスト教は、まさにその道をたどったことになります。キリスト教はユダヤ教で説かれた創造神を共有しますが、その神はやがて退き、代わりに神の子であるイエスが前面に押し出されることとなりました。
十字架に掛けられたイエス像が教会に飾られるのも、それが関係します。神の姿が描かれることがほとんどなかったことも、関心がイエスに移っていく要因となりました。
人類全体の罪を背負って犠牲となったイエスは、信者にとって極めて重要な存在ではあるものの、包みこむような優しさは感じさせません。福音書に記されている伝承でも、イエスは信仰に対する厳しさを常に求めています。
イスラム教では神の慈悲深さが強調され、あらゆることを許してくれる存在だということがくり返し説かれていますが、キリスト教の神やイエスは到底慈悲深いようには見えません。
そこでキリスト教に登場したのが、マリアというわけです。マリアのことは福音書などではほとんど何も語られていませんが、彫刻や絵画においては、慈悲を感じさせるような形をとっています。
とくに数多く作られてきた聖母子像では、幼子イエスを抱き、優しく見守っているように描かれています。
こうしてイエスは後景に退いて暇な神となり、マリアが前面に出るような形になりました。マリアは、三位一体を構成する一位格ではありません。
しかし、マリア崇敬を考えてみるとき、父なる神、神の子イエス、そして母マリアが信仰の対象になっているかのようにも見えます。
こうした形での三位一体が成立する上では、マリアが処女であり、原罪を免れていることが極めて重要な意味を持ちました。
仮に、神が直接マリアと交わったという伝承が存在したとしたら、マリア崇敬はもっと別の形をとっていたはずなのです。