市川猿之助家、「悲劇」の始まりは何だったのか? その血脈と芸
現代ビジネス より 230625 中川 右介
⚫︎市川猿之助の事件で歌舞伎が注目されている
「世襲」「門閥」「男子のみ」といった旧態然とした方法で、芸を継承していることそのものへの批判も出てきた。
「市川猿之助家」とは、そういう歌舞伎界の旧弊を打破してきた家でもある。それなのに、世襲してしまったことが、悲劇の始まりでもあった。
当代の役者はいかなる歴史を背負って舞台に立っているのか? 明治から現在まで、歌舞伎座の頂点を目指す七大名家の興亡を描きつくした大著。歌舞伎を観るのが、もっと面白くなる!
⚫︎市川猿之助家も世襲だが
市川猿之助家も世襲である。初代から4代目まで男系男子で続いている。だが、直系ではない。
初代の子が2代目、だが、2代目の子は猿之助を襲名せず、一世代飛んで、2代目の孫が3代目となった。ここまでは男系男子の直系である。
3代目猿之助は女優・浜木綿子と結婚し長男が生まれたが離婚し、子は浜が引き取った。香川照之である。3代目と香川は絶縁状態で、成人した香川が面会を求めても3代目が頑なに会わなかった話は有名だ。
そして2012年に、3代目の弟・4代目市川段四郎の子・亀治郎が4代目猿之助を襲名した。世襲ではあるが、親から子ではなく、伯父から甥への継承だ。
⚫︎世襲・門閥を否定した3代目
代々の猿之助は、歌舞伎界では異端だった。
初代は9代目市川團十郎の弟子だったが破門になり、やがて許されて復帰した。歌舞伎以外の新派や新劇にも出ていた。
2代目も、新劇に出て、すでに松竹が歌舞伎興行のほとんどを担うようになっているなか、松竹に反旗を翻したこともある。
3代目は23歳で猿之助を襲名したが、直後に祖父(2代目)と父が亡くなったので、「劇界の孤児」となった。歌舞伎は門閥主義で座組が決まるので、後ろ楯のなくなった3代目猿之助は、大幹部の誰かに頭を下げて一門に加えてもらうしかなかったが、それを断り、自分で独自の公演を始めた。
3代目猿之助は、他の歌舞伎公演とは異なる、徳川時代にあったケレン味のある、娯楽としての歌舞伎を復活させた。宙乗りや早替わりといった技法で、観客を沸かせた。
さらに、現代語のセリフ、西洋音楽を用いた、伝統的歌舞伎とは一線を画した「スーパー歌舞伎」も創案した。
それらは「猿之助歌舞伎」と呼ばれ、興行成績はよかったが、歌舞伎座の「松竹大歌舞伎」には出演できなかった。劇界で、猿之助一門(澤瀉屋)は異端的な存在、一種の独立王国となった。
その王国には、他の一門にいた役者も加わったが、一般家庭出身の役者も多い。
3代目猿之助は世襲・門閥にとらわれず、一般家庭出身者を歌舞伎役者として鍛え、登用していたのだ。市川右近(3代目右團次)を筆頭に、市川笑也、市川笑三郎、市川猿弥、市川春猿(現・河合雪之丞)、市川月乃助(現・2代目喜多村緑郎)などである。
そのひとりが、弟・4代目段四郎の子、市川亀治郎――4代目猿之助である。
亀治郎は幹部役者の子ではあるが、いわゆる「御曹司」としての扱いはされていない。猿之助一門が異端の存在であり、その当主の子ではなく甥だったからだ。
⚫︎歌舞伎の御曹司
幹部役者の子は「御曹司」と呼ばれる。猿之助の同世代では、13代目市川團十郎、10代目松本幸四郎、5代目尾上菊之助らが、その代表だ。
単に「役者の子」ではなく、「一門の長」の子である。
彼らは3歳くらいで「初御目見得」し、6歳前後で役者としての名をもらい「初舞台」を踏む。そして子役時代を経て、10代後半から「花形歌舞伎」に出て、父の芸を演じる。幼少期から父と同座して、その芸を間近に見て覚える。
同時に、彼らはいわゆる帝王学も自然と学んでいく。
大幹部である父は、自分が主役を演じるだけではなく、誰に何の役を当てるかといったことや、何年後に誰に何を襲名させるかといったこと、さらには一座としての財務も担わなければならない。さらに、歌舞伎界全体を率いていく立場にもなる。
御曹司たちは、父の舞台の外での姿も間近に見て、松竹との交渉の仕方、他の役者との接し方、ご贔屓とのつきあい方などを学んでいく。
世襲の利点は、このように、幼少期からの徹底した英才教育が可能だということだ。
大幹部役者の子たちは、芸と帝王学の2つを叩き込まれて育つ。「お前は長男だから」「お前は家を継がなればならない」と言われ続けて育つので、無意識のうちに身につく。
しかし、亀治郎(4代目猿之助)は、「王家の次男の子」として生まれ、王位継承権はあるものの、現実には王位を継承する可能性は薄かったので、誰かから帝王学を学んだ形跡はない。
⚫︎「舞台あらし」となった亀治郎
2003年、亀治郎(4代目猿之助)は、父・段四郎とともに、伯父の猿之助一門から出て、フリーになった(歌舞伎界でどの一座にも加わらないという意味)。伯父と衝突したわけではなく、もっと広い世界を経験したいというのが理由だと説明している。
しかし、フリーになってはみたが、大幹部たちは自分の子を引き立てるので、亀治郎は役に恵まれない。たまに大役をつとめると、段違いにうまいため、他の役者をくってしまい、次は呼ばれなくなった。演劇マンガ『ガラスの仮面』(美内すずえ)でいう「舞台あらし」的な存在となってしまう。
歌舞伎座からお呼びがかからない亀治郎は、国立劇場を借りて自主公演をしたり、大河ドラマ『風林火山』に出たり、明治座などで自分よりも若い役者を率いて公演するようになっていく。
一方、亀治郎が一門を出た年の11月、3代目猿之助は公演中に倒れ、舞台に出られなくなった。一門は市川右近(現・3代目右團次)を主役にして公演を続けた。
3代目猿之助の役を学び身につけている市川右近が、子のいない3代目の後継者になるのではと思われた。
だが、香川照之が自分に息子が生まれ、その子を歌舞伎役者にさせたいと思い込んだことで、予期せぬ展開となる。
子を歌舞伎役者にするために、香川は自分も歌舞伎役者になると決意した。
こうして、香川と3代目猿之助の父子は和解した。だがさすがに香川が「猿之助」を名乗ることはできない。
⚫︎「猿之助」と「澤瀉屋一門の長」を継承したはずが
香川の思いを汲んで、従兄弟である亀治郎は澤瀉屋(猿之助)一門に復帰し、猿之助を4代目として襲名することになった。亀治郎は「ずっと亀治郎でいたい」と言っており、それは「猿之助を継がない」という意味だったが、猿之助になったのだ。
つまり、世襲・門閥に囚われていないはずの3代目猿之助は、結局は、自分が見出して育てた役者たちよりも、血縁者を後継者に選んだのである。
2012年6月が、3世代4人の襲名披露公演で、3代目市川猿之助が2代目猿翁に、2代目亀治郎が4代目猿之助に、香川照之が9代目市川中車に、その息子が5代目市川團子になった。
これで、4代目猿之助は、3代目の「芸」だけでなく、「澤瀉屋の長」というポジションも継承したはずだった。
実際、襲名からしばらくは、猿之助は一門を率いた公演をしていた。だが、いつしか一門から離れ、自分だけで歌舞伎座に出たり、他の演劇に出たりするようになっていく。
一門は猿之助抜きに、市川右近(現・右團次)を座頭として公演することもあったし、坂東玉三郎や市川海老蔵(現・團十郎)を座頭とする公演で脇を固めていた。
猿之助主演のヒット作『ワンピース』には澤瀉屋一門が総出演していたが、一門以外の若い役者も起用されていた。
この一門の状況に危機感を持ったのか、2016年に市川春猿と市川月乃助が新派へ移籍した。
2017年には、右近が市川宗家の海老蔵(13代目團十郎)の仕切りで「市川右團次」という名跡を3代目として襲名し、以後は成田屋(市川宗家)の公演に多く出るようになった。
澤瀉屋一門から、役者が減っていく。
⚫︎「天才役者」と「一門の長」との両立は困難だったか
4代目猿之助は『ワンピース』などの新作歌舞伎に若手を登用・抜擢し、彼らから慕われていたが、一門の役者たちの面倒を見ることには関心が薄そうだ。
猿之助襲名前、「ずっと亀治郎でいたい」と言っていたのは、「生涯一役者として生きたい」という意味だ。役者として、「猿之助の芸」は継ぎたかったが、「一門の長」になる気はなかった。
だが、さまざまな事情で、「猿之助」になってしまった。それが悲劇の始まりだ。
「天才であること」と「組織のリーダーであること」は、ときに矛盾する。両立は至難の業だろう。その矛盾が臨界点に達したのかもしれない。
現時点では、何があったのかは分からないが、猿之助が、自らの名を冠した「猿之助奮闘公演」に大きな穴を空けたこと、6月、7月、8月、9月も座頭での公演が予定されていたが、それらへの手当も何もせずに、突然の行動に出て、自分の都合で興行に危機をもたらしたのは、紛れもない事実だ。
澤瀉屋一門の今後も、不安定、不確実となった。
一門や松竹よりも、自分が優先したのは、芸術家としては立派である。だが、多くの人の生活を預かる立場、リーダーとしては、失格だ。
帝王学が身についていなかったのだろう。
御曹司として育てられなかった者がトップに立ったことでの悲劇だ。
日本でいちばん有名な一族もまた、伯父から甥へ継承されようとしている。
つまり、次男の家に生まれた子が、将来トップに立つ運命にある。
💋世襲、伝統継承 …