goo何気無い日々が心地よい安寧

何気無い日々が続く様に。生きていく事の大変さがカナン。ある種空気の様な存在になりたいもの。

🚶…宇治橋…左岸…隠元橋…右岸…Alp 230625‘

2023-06-25 20:42:00 | 🚶 歩く
🚶…大島…右岸堤防道…宇治橋…左岸河川敷&堤防道…隠元橋…右岸堤防道…Alp👀…右岸堤防道…>
🚶10812歩2kg

⛅️隠元橋31℃曇天だが風穏やか(強い時心地よく)真昼間だけにやっぱり暑い
 ベランダ30℃室温29℃

🔁ぐるっと回る今日のコースの土手の除草やっとほぼ済,歩き易くなる,いつまで持つか…雑草繁殖成長著しい昨今。除草業者中に飼料会社有り何処の飼料に?



🗃️遂に「ここ冷え」購入。昨夏はエアコンレス,過去10数年エアコン苦手(妻)も有りほぼ未使用できたが,室温32℃越えでの読書は…睡眠確保で電気代96%レスを信じて!
 ピンポイントで妻も楽かと思う。さあていつから始める…

💊長〜久々に正露丸!



ハロー







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和歌に使われる枕詞と地名の関係を調べてみた  202306

2023-06-25 11:35:00 | なるほど  ふぅ〜ん

「あをによし」「八雲立つ」「神風や」…和歌に使われる枕詞と地名の関係を調べてみた
  LihullHomes より 230625  上江洲規子



和歌に使われる「枕詞」は地名と関係が深い

 奈良には、日本最古の大仏や石舞台、壁画の美しい高松塚古墳など、独特の文化がある。
奈良の「あすか」は「飛鳥」と「明日香」、二つの表記がある。地名の「あすかむら」は「明日香村」、近鉄の駅名は「飛鳥駅」と、どちらも公的に使用されており、使われる頻度も、同じ程度ではないだろうか。
なんともややこしいが、実はこの表記の違いを紐解く鍵は、和歌の枕詞にある。

「あすか」の音の由来は、中洲を意味する『スカ』に接頭語のアがついたとするものや、冬鳥のイスカが飛来するからとするものなど諸説あり、「明日香」のほかにも「安宿」「阿須賀」などの漢字があてられた。それぞれ「あすか」と読めるが、「飛鳥」を「あすか」と読むのは無理がある。「あすか」の枕詞が「飛ぶ鳥の」だったため、「飛鳥」も「あすか」と読むようになったのだ。

 また、「飛ぶ鳥の」が枕詞になった理由も、地形が鳥のように見えるからとか、各地にあった「あすか」と呼ばれる土地のなかで、飛ぶ鳥のごとく栄えていたからなどといわれている。

飛ぶ鳥 明日香の里を置きて去(い)なば 君があたりは 見えずかもあらむ
元明天皇 万葉集巻一(七八番)

   (奈良県明日香村キトラ古墳  春日大社)

同じような事情は、「春日」にもある。
「飛鳥」と違うのは、本来どのような表記をしていたのかが詳しくわからないことだ。「かすが」の語源は「神の住処」「霞の住処」など諸説あり、それぞれの表記は記録にみつかっていないが、「春日(はるひ・かすが)」という枕詞の意味としてふさわしいのは「神の住処=神住処(かすか)」が近そうだ。

 春日(はるひ)を 春日(かすが)の山の 高座(たかくら)の 御笠(みかさ)の山に 朝さらず 雲居たなびき 貌鳥(かほどり)の 間(ま)なくしば鳴く 雲居(くもゐ)なす 心いさよひ その鳥の 片恋(かたこひ)のみに 昼はも 日のことごと 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 立ちて居て 思ひぞ我がする 逢はぬ子(こ)故に
山部宿禰赤人 万葉集巻三(三七二番)

 理解に少々手間がかかるのは「長谷」だろう。「はせ」を「長谷」と表記するのは、「初瀬(はせ・はつせ)」の枕詞が「こもりくの」だからだ。「こもりく」は山に囲まれた谷を意味する言葉で、山に囲まれた長い谷だから、「長谷」を「はせ」と読む。
 初瀬は第21代雄略天皇が宮を置いたとされる地で、「泊瀬」の表記もある。西国三十三所第八番札所で、奈良時代に開基された長谷寺の縁起によれば、初瀬川上流から毘沙門天の宝塔が流れて来て、泊まった場所ゆえに「泊瀬」と呼ばれたという。

 こもりくの 初瀬の山の 山の際(ま)に いさよふ雲は 妹にかもあらむ
柿本朝臣人麿 万葉集巻三(四二八番)

このように万葉集をはじめ、和歌に詠まれている枕詞には地名と深いかかわりがありそうだ。
そこで、地名と枕詞の関係を調べてみた。

スサノオが詠んだ最古の和歌にある、枕詞「八雲立つ」は出雲

「八雲立つ」の枕詞がつけられるのは神の国、出雲だ。
出雲の語源も諸説あるが、雲が湧きたつ土地だからとするのが一般的だろう。山陰地方は雨がよく降るため、土地の人は「弁当を忘れても傘を忘れるな」と言うほどだそうだ。その出雲の枕詞は「八雲立つ」で、出雲がそもそも「雲が出る土地」であるから、さらに「八つの雲が立つ」のは少々強調がすぎる気もする。

「八雲立つ」の枕詞がつけられたのは、書面に残っている日本最古の和歌だ。詠んだのはスサノオで、高天原でもっとも貴い神「三貴神」の一柱でもある重要な神だから、歴史があるだけでなく品格も高い枕詞といえよう。スサノオが和歌を詠んだのは自分の結婚式でのことだ。

 スサノオのいたずらが原因で姉のアマテラスが岩戸に隠れてしまい、世界は真っ暗闇に包まれてしまう。オモイカネらのアイデアで世界に光が戻るが、スサノオは高天原を追い出されてしまった。そしてやってきたのが出雲だ。ヤマタノオロチを退治してクシナダヒメを助け、彼女を妻とする。その結婚式の座で詠まれたのが次に示す和歌だ。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を
               (速須佐之男命 古事記)

良い歌かどうかは各自の判断に任せるが、同じ言葉を繰り返すことでリズムが生まれるから、最古の和歌は、技巧よりも節回しが重視されたのかもしれない。
ちなみに、『怪談』で知られるラフカディオ・ハーンは帰化する際、この枕詞から「八雲」をとり小泉八雲を名乗った。彼は松江のまちを愛し、『神々の国の首都』という随筆を書いているので、明治時代の出雲に興味のある方は手に取ってほしい。


 奈良の枕詞「あをによし」、大和の枕詞「あきつしま」

奈良の枕詞が「あをによし」なのは有名だが、「青丹よし」と書かれるように奈良山の辺りで青の顔料がとれたからだとか、「青丹」が青の土(青)・赤の土(丹)を表したことから奈良の山を讃えたものともいわれている。それが、いつしか古都・奈良を示す枕詞になった。

あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり
太宰少弐小野老朝臣 万葉集巻三(三二八番)

さて、奈良になる以前、日本初の王権が置かれた「大和」の枕詞についてはあまり知られていない。大和の枕詞は「あきつしま」。漢字にすれば「蜻蛉島」となる。
「あきつ」は蜻蛉の古語だ。多くの人が集まって栄えた大和には広々とした田圃があり、蜻蛉がたくさん飛んでいたのかもしれない。しかし、『日本書紀』や『古事記』には、田圃とは関係のないエピソードが記されている。

ひとつは『日本書紀』の初代神武天皇条。神武天皇が即位して31年目の夏に、腋上の嗛間(ほほま)の丘に登って大和の国を眺め、「狭いけれど、蜻蛉が交尾をするように山が連なる美しい国だ」と喜んだとある。嗛間の丘は奈良県宇陀郡の国見山のこととされ、首長が高いところから治める国を見て、それを褒めることを「国ほめ」という。国ほめは儀礼的に行われており、『万葉集』にも舒明天皇の「国見歌」が残されている。

もう1つは『古事記』にある、第21代雄略天皇に関するエピソードだ。雄略天皇が現在の吉野あたりで狩りをしていたとき、虻がとんできて腕を刺した。「やられた! 」と悔しく思っていると、蜻蛉が飛んできてこの虻を食べてしまった。それを見た天皇は、「この日のことを地名に残そう」と、大和の国を「あきつしま」と呼ぶようにしたというのだ。

蜻蛉島(あきづしま) 大和の国を 天雲に 磐舟(いわふね)浮べ 艫(とも)に舳(へ)に 真櫂(まかい)しじ貫き い漕(こ)ぎつつ 国見しせして 天降(あも)りまし 払ひ平らげ 千代重(かさ)ね いや継ぎ継ぎに 知らし来る 天の日継と 神ながら 我が大君の 天の下 治めたまへば(後略)
大伴宿禰家持 万葉集巻十九(四二五四番)

また、「あきつしま」とは別に、「そらみつ」「そらにみつ」の枕詞があるが、これも『日本書紀』の記述による。アマテラスの孫にあたるニギハヤヒがこの地に降りてきたとき、「空見つ 大和の国」と褒めたのが由来だ。

難波の枕詞「葦が散る」、伊勢の枕詞「神風や」など
地名につく枕詞は他にもある。
干潟が広がり、葦の多かった難波の枕詞は「葦が散る」「葦」。

海原の ゆたけき見つつ 葦が散る 難波に年は 経ぬべく思ほゆ
大伴宿禰家持 万葉集巻二十(四三六二番)

伊勢の枕詞は「神風や」。「神風」という枕詞は伊勢神宮の祭神であるアマテラスからではないようだ。『風土記』によれば、神武天皇が伊勢を平定する以前、この国にはイセツヒコという神がいた。しかし、神武天皇を恐れ、八風を起こして太陽のように光り輝いて東の地へと飛び去ったとあり、「古語に『神風の伊勢の国は常世の浪寄する国』というのはこのことを指す」と記している。
伊勢に吹く神風は、アマテラスより先住の神であるイセツヒコが吹かせたものなのだ。

山辺の 御井を見がてり 神風の 伊勢娘子ども 相(あひ)見つるかも
長田王 万葉集巻一(八一番)

「真金吹く」は「吉備」の枕詞。吉備は現在の岡山県あたりで、岡山県東部にある西粟倉村あたりでは、たたら製鉄が盛んにおこなわれていた。たたら製鉄は砂鉄を利用するもので、たたらと呼ばれる鞴(ふいご・空気を送る装置)で炎に風を送って高熱にし、砂鉄を融かす。近代には西洋製鉄が盛んになったため、たたら製鉄は廃れるが、日本刀の素材として欠かせない「玉鋼」は、たたら製鉄でしか作れない。

ま金吹く 丹生のま朱(そほ)の 色に出て 言はなくのみぞ 我が恋ふらくは
詠み人知らず 万葉集巻十四(三五六〇番)

関東にも枕詞のついた地名がある。「打ち寄する」は「駿河」の枕詞で、駿河湾に打ち寄せる波をイメージしたのだろう。また「する」が繰り返されることで、リズムを生む効果もある。

なまよみの 甲斐(かひ)の国 うち寄する 駿河(するが)の国と こちごちの 国のみ中(なか)ゆ 出で立てる 富士(ふじ)の高嶺(たかね)は 天雲(あまくも)も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上(のぼ)らず(後略)
詠み人知らず 万葉集巻三(三一九番)

地名につけられた枕詞を見ると、当時の人々がその地を、またその土地の景色や歴史を、どのように見ていたのかわかるかもしれない。
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脳研究者が驚いた「勝手に勉強する子」ができ上がるプロセス  202306

2023-06-25 11:15:00 | なるほど  ふぅ〜ん

これほど脳が活性化する方法を見たことがない…脳研究者が驚いた「勝手に勉強する子」ができ上がるプロセス
  プレジデントOnline より 230625  川島 隆太


 あまたある方法論の中で、我が子に真っ先に取り入れるべきものは何か。人間の脳活動の仕組みを研究する川島隆太さんは「幼少期は読み聞かせ、学童期以降は音読をぜひ継続的に実践してほしい」という――。(第2回/全3回)
※本稿は、川島隆太📗『子どもの脳によいこと大全』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。


「音読」が最も脳を活性化させる
私はこれまで数百にものぼる実験を行い、脳が活性化する様子を研究してきました。
 その中で、最も強く脳が活性化したのが「音読」でした。現在においても、私は音読以上に脳を活性化させる実験結果は見たことがありません。

 音読を行うと、脳の神経細胞が一斉に活性化し、脳の血流がどんどん高まって、大脳全体の70パーセント以上が活動しはじめることがわかっています。

 言語を読んでいるときに脳内で起こっていること
言語を読んでいるとき、脳内では何が起こるのでしょうか。

 まず、私たちが文章を黙読すると、目にしたものを調べるための「視覚野」がある後頭葉が働きはじめます。次に、目を動かす指令を出す「前頭眼野」が働いて文字を目でとらえ、言葉の意味を理解しようと働く「ウェルニッケ野」が意味をつかもうとします。
 そして、「脳全体の司令塔」である前頭前野が働き、読んだ文章を理解し、記憶し、思考するという活動が行われるのです。

 このとき面白いことに、聞こえた音を調べる「聴覚野」という脳の部位も働いていることがわかっています。つまり、私たちは文章を黙読しているとき、心の中で声に出して読み、その自分の声を聞いているということです。

 1日10~15分の音読で記憶力20%UP
黙読するだけでも、脳の広範囲が働いていることがわかりますが、これが音読になると、働く範囲がさらに広く、強く活性化することがわかっています。

中でも特に強く反応するのが、「頭の良し悪しを握るカギ」である前頭前野です。

 脳全体の血流が高まり、活性化した状態にできるのですから、脳の「準備体操」として音読は最適であるといえるでしょう。実際に、1日10~15分の音読を行うと記憶力が20%アップするという研究もあります。

 小さなお子さんが自分で文字を読めるようになると、声に出して絵本を読んでいる姿をよく目にしますね。実は、あれが非常によい前頭前野のトレーニングになっているのです。

 読書は脳の構造自体を変化させる
学童期になったら勉強の前に教科書を音読する。あるいは、ちょっと難しい文章を理解したいときには意識的に声に出して読むことをおすすめします。記憶力や理解力がアップして、学習効果を高めることが期待できます。

 とはいえ、なんでもかんでも音読をするのは、あまり現実的ではありません。当然ながら、純粋に読書を楽しむときには静かに黙読するのが通常です。こうした普通の読書であっても、子どもの脳にとてもよい影響のあることが科学的に明らかになっています。

 私の研究では、読書習慣がある子どもたちの脳画像や言語発達に関するデータを分析したところ、言語発達や脳の構造に次のような影響を与えることがわかりました。

 脳の神経細胞同士をつなぐ神経線維である「弓状束(きゅうじょうそく)」は、言葉との関係が深いといわれていますが、読書習慣のある子どもは、その構造がよりよく発達していることが確認できたのです。

 読書は脳の構造自体を変化させる。その事実に、脳の専門家である私たちでさえも大きな衝撃を受けました。

 読書時間が長くなるほど偏差値も高くなる傾向
また、読書習慣は、子どもの成績を向上させることもわかっています。

次のグラフは、2017年(平成29年)の小学5年生から中学3年生までの子ども約4万人の「平日の1日当たりの読書時間」と「4教科(国語、算数/数学、理科、社会)の平均偏差値」をまとめたものです。

筆者提供
読書を「まったくしない」が最も低く、そこから、読書時間が長くなるほど偏差値が高くなっている傾向が明らかです。

「まとまり読み」ができるようになることが大切
読書習慣のある子どもたちは、小学校中学年から「まとまり読み」ができるようになります。

 文字を一文字ずつ追うのではなく、文字を意味のあるまとまりとしてとらえ、効率的かつ、スピーディに読み進めるようになるのです。

 この段階に入った子どもは、文章を読むことがまったくストレスになりません。そのため、自分で本をどんどん読み、さらに知識を積み上げていくという、“理想的なループ”に入ります。
 どのクラスにも数人はいる「親に『勉強しろ』と言われなくても勝手に勉強する子ども」とは、こうしたプロセスで成長していきます。

 1日30分の読書週間は2時間の学習に匹敵
この4万人の子どもを調査・分析した結果から、さらに次のようなこともわかりました。

・「勉強2時間以上で読書をまったくしない」群の平均偏差値は50.4
・「勉強2時間以上で読書を1日10~30分する」群の平均偏差値は53.6
・「勉強30分~2時間で読書を1日10~30分する」群の平均偏差値は51.3

 つまり、同じ勉強時間でも、読書を1日10~30分するだけで偏差値は「3」上がる。
さらに、1日2時間以上勉強しても、まったく読書をしていないと、それ以下の勉強時間の子どもより成績が悪くなる……という驚きの結果が出ています。

 ここから、子どもには毎日30分程度の読書習慣をつけることが望ましい。すると、2時間の学習に匹敵する成績アップ効果が期待できるといえるのです。

「読む習慣」をつけさせることが大事
 家庭で読書習慣をつけるためには、子どもが少しでも興味を持つ本をたくさん与えるとよいでしょう。

 このとき、親としてはつい、「勉強に役立つものがいいだろう」と、図鑑や百科事典などを与えてしまいがちです。それらに興味を持たない子どもの場合は、当然ながら手に取ることもなく、ほこりをかぶったまま……。そんなご家庭も多いのではないでしょうか。

 幼少期の子どもたちの脳発達にとって重要なのは、「何を読むか」よりも「読む習慣をつけること」です。

 子どもがヒーローもののテレビシリーズに夢中なら、その関連本からはじめたり、大好きなアニメの原作本を買って渡したりするのもよいでしょう。

 好きなジャンルであれば、たとえわからない文字があっても、子どもは一生懸命に読もうとします。それを続けていくうちに脳が慣れてきて、小学校中学年ぐらいになると「まとまり読み」ができるようになるはずです。

 漫画でも「何も読まないよりはまし」
ところで、読書に関して「漫画でもよいのでしょうか?」という質問をよく受けます。「何も読まないよりはまし」と、私としては答えています。

 漫画を読んでいるときの脳活動も測定したことがありますが、前頭前野は活字の本を読むときほどには活性化していませんでした。それでも、文字が大好きな脳にとっては、漫画の吹き出しの中の文字を読むことで、通常より活性化する反応が見られました。

 とりわけ、物語性のある漫画を夢中になって読むのは、脳にとって悪いことではありません。「いろいろな言葉の意味を漫画で覚えた」というのもよくあるケースです。

「勉強の妨げになる」と、子どもから漫画を取り上げる必要はありません。「文字を読むトレーニングの一環」と考えてかまわないでしょう。

 幼少期は「読み聞かせ」で心が育つ
幼少期のお子さんの場合は、家庭での「読み聞かせ」がお子さんにとっての読書習慣となります。

📗川島隆太『子どもの脳によいこと大全』(プレジデント社)

 学童期の読書習慣は、前頭前野を活性化して思考力や言語能力の発達にポジティブな影響を与えるものでした。対して、幼児期の読み聞かせは、感情に関わる「心の脳」の発達に大きな影響を与えるということがわかっています。

 子どもが物語を聞いているとき、脳にどんな活動が起こるのか。まず、「耳から音を聞く」作業を行うために側頭葉の活動が活発化します。次に、感情や記憶に関わる「大脳辺縁系」が活性化します。

大脳辺縁系は、感情が働くときに活動するため、「心の脳」と呼ばれています。

 本を読む喜び、学ぶ楽しさを身につける
一方で、「頭の良し悪し」に関わる前頭前野については、読み聞かせをしている間はあまり働いていませんでした。

 そう聞いて、少し残念な気持ちになった親御さんもいるかもしれません。しかし、それは少々早計というもの。

 なぜなら、たくさん読み聞かせをしてもらった子どもは、自然な文脈で言葉を学習し、情操や感情表現を豊かに発達させていくからです。
 それだけでなく、本を読む喜び、学ぶ楽しさも身につけていきます。

 親子で読み聞かせの役割をチェンジしてみよう
そうした体験が強力なモチベーションとなって、成長するにしたがって自ら本を読むようになり、「何も言わなくても自分から勉強する子ども」へと成長していくでしょう。

 子どもが自分で文字を読めるようになったら、ぜひ読み聞かせの役割を親御さんと交代してください。今度は子どもが音読をして、親御さんがそれを聞く側に回るのです。

 音読によって子どもの前頭前野が強く活性化し、子どもはさらに「頭のいい子」に成長していくことが期待できます。


川島 隆太(かわしま・りゅうた) 東北大学加齢医学研究所教授
1959年千葉県生まれ。89年東北大学大学院医学研究科修了(医学博士)。脳の機能を調べる「脳機能イメージング研究」の第一人者。ニンテンドーDS用ソフト「脳トレ」シリーズの監修ほか、『 スマホが学力を破壊する』(集英社新書)、『 オンライン脳』(アスコム)など著書多数。
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世界中の人々が、なぜか「日本の四国」を歩き回るワケ 202306

2023-06-25 11:03:00 | なるほど  ふぅ〜ん

「涙」が出るほどの衝撃…!世界中の人々が、なぜか「日本の四国」を歩き回るワケ 『マイ遍路』著者・白川密成さんに聞く
  現代ビジネス より 230625  広部 潤


「四国遍路」のすごい魅力
自分の中の古臭い先入観が、驚きと共に、心地よく覆されていく一冊だった。

 約1200年前に空海(弘法大師)が修行した88の霊場を巡礼する「四国遍路」。多くの人はこの言葉から、白衣をまとい杖(金剛杖)を片手に歩く「お遍路さん」の姿を思い浮かべるだろう。筆者も同様だった。

 今回、📗『マイ遍路 札所住職が歩いた四国八十八ヶ所』という新刊書を手に取ったのは、著者の過去の著作を面白く読んだ記憶から、今回もきっと刺激的な読書体験を与えてくれるだろうと考えたからだった。予感は的中したものの、実は遍路自体については当初、高齢者が黙々と88の札所(お寺)を歩いて回っているくらいの漠然としたイメージしかなかった。

 著者の白川密成さん(45歳)は、自らも57番目の札所である栄福寺(愛媛県今治市)の住職。『ボクは坊さん。』などの著書があり文筆活動でも人気を集める。今回の『マイ遍路』は、その密成さんが合計68日間をかけて1200kmに及ぶ遍路を自分の足で歩いた記録である。

 読み進める中で驚嘆したのは、遍路が実に豊かで、多様で、みずみずしい体験だということだった。四国各地の大自然、空海ゆかりの静謐な諸寺院、お遍路さんを優しく支える地元の人々、そして、国内外から巡礼に訪れる老若男女の声……。温かく滋味あふれる体験記に、筆者がぼんやりと抱いていた貧弱な先入観は吹き飛び、きわめて魅惑的な人生体験としての遍路の像が浮かび上がってきた。

「八十八ヶ所の全体像を肌で感じたい」のがきっかけだったという巡礼の中で、何を感じ、考え、自分の何が変わったのか。ゆったりした空気が流れる栄福寺に密成さんを訪ねてお話を聞いた。

 行きたいと感じたのだから、行こう
──一口に「遍路を歩く」と言っても、相当の時間とエネルギーを費やします。日々の住職のお仕事もある中で、実行するのは大きな決断が必要だったのではありませんか?

密成 一人の人間としても、仏教の修行者としても、四国遍路を歩く体験をしたいとはずっと考えていました。一皮むけたいとも思っていましたし、また、坊さんや住職というのは特に四国では大事にされるところがあって、その肩書が逆に自分にとって鎧(よろい)のようになっていた。だから、いったんそれを脱いで、栄福寺住職でも僧侶でもない形で、人間として四国遍路や空海と対峙したかったんです。
 まあ、実際に歩いている間、周りに僕が坊主だとバレたことは何度もありましたけど(笑)。

 木立に囲まれた栄福寺にはゆったりした空気が流れている
ある時期に、自分の中で、何となく「今が四国遍路に行くときだ」と強く感じるようになりました。僕は24歳で住職になったとき、糸井重里さん主宰のウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」(ほぼ日)に「坊さん。」という連載を始めたのですが、書かせてもらうための作戦を特に練ったわけではなく、ただ糸井さんに「今書かせてほしいんです」という思いをそのまま伝えたんですね。

 四国遍路についても同じように、「行きたいと感じたのだから、行こう」とあまり深く考えずに決めました。歩き始めて何が起こるかは、もう四国任せ、お大師さん(空海)任せにしよう、と。

急がずに、ゆっくり
──遍路では、決して急がず、ゆっくり、のんびり歩くというスローな方針が魅力的でした。1つの寺で1時間以上過ごすというのも、すごく豊かな姿勢に感じられて。

密成 今思うと、そういう歩き方をして本当によかったです。前から住職として、ここ(札所である栄福寺)に遍路で来られる方々を見ていて、「結構急いでいる人が多いな」と思っていたんですね。もちろん、忙しいお仕事の合間に参っているとか、食事の時間に遅れないよう宿に着かなきゃいけないなど、やむを得ない事情もあるのでしょうが、せっかく四国の大地を歩ける機会なのに、急ぐのはもったいないという気がしていました。それで、大前提を「ゆっくり歩く」「のんびり回る」にしよう、と。

 実際、お寺に1時間いると、「ああ、ゆっくりしていてよかった」と感じることがよく起こるんです。地元の人が話しかけてくれたり、境内の奥まで行ってみたら本堂にないような面白いものが見つかったり……。たとえば高知県の大日寺(第28番札所)では、奥の院に参拝して病気が治った人が穴の開いた自然石をお供えする風習があるんですが、行ってみると本当に、祠の周りに穴の開いた石がたくさん積まれていた。「この風習はどういう神話性の現れなのだろう」と考えたりして、たいへん豊かな時間を過ごしました。

 ゆっくり、のんびりというのは、遍路だけでなく、坊さん自身の姿勢も本来そうあるべきだと思うのですが、現代社会の中心が明らかにそれと逆の方向に行っています。なので、せっかく遍路をするなら、急がないことを大切にしたいな、と。ある意味で、ゆっくり歩き、急がないことは、それによって遍路が仏教修行になり得るくらいの、重要な点かもしれません。

なぜ「世界中」から人がやってくるのか
──実に多様な人々が四国遍路に来ていることにも驚きました。不勉強で恐縮ですが、高齢の人や、何かに失敗した人、不幸な出来事で悲嘆に暮れている人などが多いのではないかなどと浅薄な先入観を持っていました。しかし実際は、本当にいろいろな人が、いろいろな思いを持って歩いているのですね。

密成 確かに時代を遡ると、病気に苦しむ人や故郷に居場所を失くした人が歩くという側面もあったようですが、現代はとにかくさまざまな人が遍路に来ますね。祈るために来た人もいれば、長い道を歩きたくて来た人、自転車に乗りたくて来た人、ただ何となく来た人……(笑)。移動手段も、徒歩やボロボロの自転車から、公共の交通機関、車とさまざまです。オートバイのハーレー(ダビッドソン)でツーリングしながら回っている人もいるし、ランボルギーニ・カウンタックでここに来た人もいます。でも、ほとんどの人が手を合わせるんです。

 たくさんの人が、それぞれの動機とやり方で、遍路という合言葉の下に、四国に来て巡礼して回っている。それもあって今、各地の札所を中心に、面白くて風通しの良い場所になっている。仏教では、昔どうしたという過去の話が多いのですが、四国遍路は間違いなく、現代における聖地でありながら、楽しい場になっています。

 お坊さんでもいろいろな人が歩いていますよ。宗教的に仏教を突き詰めている人、修験道に入れ込んでいる人、坊さんになるかどうか迷って遍路に来られた人もいました。海外の僧侶もよく来ます。中国やチベット、台湾、インド、ベトナム、フランス……さまざまな国から来られますよ。日本に遍路という巡礼があると聞いて、歩いてみたら充実した経験になり、帰国してまた他のお坊さんに勧めるというケースが多いようです。

 アチャン・ニャーナラトーさん(日本出身の上座部仏教僧侶、英国在住)が歩き遍路でここに来られたときにお会いしたこともあります。初対面でしたが、いろいろ大切なお話を伺うことができて尊敬の念を持ちました。それから何度かメールや電話をやりとりするきっかけになりましたね。

「ヘンロ・ユーチューバー」になる人
──海外からは、お坊さんだけでなく多くの人が遍路に来るのですね。密成さんも歩いている間、アメリカ、イタリア、フランス、スイス、デンマーク、オーストラリア、台湾といった国からの巡礼者と出会います。中には「ヘンロ・ユーチューバー」になるという人もいるそうで、驚きました。

密成 テレビ番組の「YOUは何しに日本へ?」で四国遍路に来る人の回もありましたし、とにかく多くの国の方がいらっしゃいます。行政や企業はインバウンドのために「来ていただく」ことを重視していて、それは非常に大事ですけど、来る人たちは特に「モノよりコト」というか、面白いこと、気持ちの良いことを体験したいのかもしれません。

 日本では、モノがたくさんある東京や京都も楽しいと思うんですけど、四国のような大自然の中を、時に苦しさを感じながらも気分良く、ただ歩く、そして祈る。皆さん、そこに、宗教を土台にしながらも宗教の枠内に留まらない、大切なものの存在を感じるのではないでしょうか。

 メッテ・ホルムさんというデンマーク人翻訳家がおられます。村上春樹さんの多くの作品をデンマーク語に翻訳され、ドキュメンタリー映画『ドリーミング村上春樹』の主人公にもなった方ですが、彼女がやはり遍路がお好きで、僕もこの寺でお話ししたことがあります。
「私は文章を書くことで自分を知るのです。あなたもそうでしょ?」と言われたのを覚えています。海外のお坊さんと話したと思えば、日本文学の翻訳者とも語り合うという、世界の中でも面白い場所に遍路がなっているんですよね。

──車で回る参拝者だけでなく、肉体的にきついときもある徒歩での遍路にも、国内外から多くの人がトライするというのは興味深いです。密成さん自身も、体力を消耗した日には足の痛みに悩まされたり、めまいを覚えたり……。

密成 股ずれになったり(笑)。やはり毎日何十kmと歩くと負担はかかりますね。でも、歩いて疲れ切るというのも、なかなか現代の日本ではできません。非生産的な時間がもったいないように感じてしまう。特にふだんデスクワークが多いと、疲れるのも新鮮な経験で、ある意味、気持ち良くもありました。

 一日中雨に打たれるというのも、考えてみれば人生で初めてでした。でも、動物はみんなやっていることですよね。生き物としては当たり前の経験をさせてもらっていたなあ、と今では思います。そのときはただ寒かっただけですけど(笑)。

訪ね、祈り、また歩く
密成 「人間は自然物」という考え方が、日本人の信仰の根底にあるような気がします。生物も植物も石ころも含めて自然に存在するさまざまなものの一つが人間なのだ、と。
 つまり、人間だけが特別な存在なのではない。そして個別に持っている生命とは別に、他の自然物とも共通して持っている生命があるのではないか、その生命が「神」や「仏」と呼ばれてきたものに近いのではないか……。そんなことを考えながら大自然の中をお遍路するのがまた楽しいんです。

 歩きながら瀬戸内海や太平洋を眺め、そこで獲れた魚を食べ、山に登り、雄大な四万十川を徒歩で渡るなんて珍しいこともして、お寺を訪ね、祈り、また歩く。本当に不思議で面白い経験でした。

──そうやって周囲の状況を五感で捉え、思い、感じたことを記した本書の文章は非常にリアルで、読んでいてところどころ、自分が歩いているかのような感覚を覚えました。

密成 そのように受け止めてもらえるのは、担当編集者に助けられたところが大きいですね。遍路を歩いた記録も書籍として残したいと相談したところ、編集者は快諾すると同時に、「書くための遍路はしないでください」とも言ってくれたんです。あくまで「一人の人間として歩いてみたい」という思いのまま自由に回ってみて、その軌跡を記したものが結果として本になればそれでいい、と。

 編集者や出版社によっては、「せっかく書くのだからあの名所は必ず回ってください」「いかにもお坊さんらしく書いてください」などと求めてくる場合もあるかもしれない。その結果、教科書的、お説教的な本になったかもしれない。でも本書ではそういった作為的な指示が一切なく、「思ったままに歩き、感じたままに書いてほしい」だけだったことに助けられました。
 おかげで、本書の原稿を書いていて、もう一度遍路を歩いているように感じたんです。合わせて2回、四国を巡礼したような印象で、さらに豊かな経験になりました。できれば、その経験を読者にもこの本を読みながら、追体験していただきたいです。多くの経験者が「遍路するとその記録を書きたくなる」と言っているのも、感覚的によくわかりましたね。

血みどろになって苦しんでいる人たちへ
──歩く人々を、地元・四国の住民の皆さんが共に応援して支えていこうとする姿勢、中でも「お接待」(巡礼者に無償で飲食物や宿を提供すること)の親切さ、熱心さに感銘を受けました。考えていた以上に、お接待が頻繁に行われていて。

密成 ふだん、「手放すことが大切です」「喜捨(金品を寄進すること)が大事です」なんて話をしていますけど、では実際に持っているものをパッと手放せるかとなると、それがなかなか難しい。僕らのような坊さんでも、そうでなくても……。しかし四国遍路という習俗の中では、お金でも食べ物でも、持っているものを差し上げるということが自然にできてしまうんですね。そこは遍路の強さだと思います。

 歩いている人たちも、お接待を受けて非常に驚くことが多いそうです。皆さん、ふだん社会生活や仕事で揉まれる中で、大なり小なり「俺とお前とどっちが凄いか」「俺は誰か」といったことばかり考えて、血みどろになって苦しんでいますよね。
 そこへ「あなたが誰だか知らないし、凄いかどうかも知らないけど、修行しているようだからこれを差し上げます」と言われて食べ物をもらったりすると、人によっては涙が出たり、頭を殴られたような衝撃を受けたりするという。
 これは、「他者より上に行こう」とか「個として自分らしくあらねばならない」といったこだわりから解放される、つまり「私」から解放されるからなのですね。

 一方、お接待する側には、毎日何食ものお弁当を作るおばあちゃんとか、たくさんコーヒーを淹れて飲ませてくれる若い女性とか、この栄福寺でも熱心な方々がおられますけど、皆に共通しているのは「やらせてもらっている」とおっしゃるところですね。
 人に「良いことをしてあげている」のではなく「良いことをさせてもらっている」のだ、と。

「私」から解放される
密成 これは決して、東南アジアの仏教のような「善行により良きカルマが生まれて自分に返ってくる」といった思想ではないと感じています。シンプルに、人を助けるのが凄く嬉しい。救われている感じがする……。これもまた、「私」から解放されるからだと思うんです。
 実際の日常生活では、「私」でいなければなりませんよね。仕事もするし、利益も上げなきゃいけない、生きていかなきゃならない。
 でも、遍路でお接待を受けている時間や、お接待をしている時間には、「俺が俺が」「私はこうしたい」という気持ちから離れて、ちょっとだけ自分から解放される。
「私」であることが、ありがたいと同時に、苦しみにも繋がっているのを解除してくれるわけです。

 そういう時間を持つ嬉しさ、気楽さは、複雑な宗教性や倫理性ではなくても、遍路が持つ大事な仏教的成分の一つです。
「私」のない世界というのは、生命体にとって、おそらく原初の姿なのでしょう。
それが、「四国を遍路するのはふるさとに帰るようだ」とよく言われる由縁なのだと思います。  
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「悲劇」の始まりは何だったのか? その血脈と芸  202306

2023-06-25 10:34:00 | なるほど  ふぅ〜ん

市川猿之助家、「悲劇」の始まりは何だったのか? その血脈と芸
  現代ビジネス より 230625  中川 右介


⚫︎市川猿之助の事件で歌舞伎が注目されている
「世襲」「門閥」「男子のみ」といった旧態然とした方法で、芸を継承していることそのものへの批判も出てきた。

「市川猿之助家」とは、そういう歌舞伎界の旧弊を打破してきた家でもある。それなのに、世襲してしまったことが、悲劇の始まりでもあった。

 当代の役者はいかなる歴史を背負って舞台に立っているのか? 明治から現在まで、歌舞伎座の頂点を目指す七大名家の興亡を描きつくした大著。歌舞伎を観るのが、もっと面白くなる!

⚫︎市川猿之助家も世襲だが
 市川猿之助家も世襲である。初代から4代目まで男系男子で続いている。だが、直系ではない。

 初代の子が2代目、だが、2代目の子は猿之助を襲名せず、一世代飛んで、2代目の孫が3代目となった。ここまでは男系男子の直系である。

 3代目猿之助は女優・浜木綿子と結婚し長男が生まれたが離婚し、子は浜が引き取った。香川照之である。3代目と香川は絶縁状態で、成人した香川が面会を求めても3代目が頑なに会わなかった話は有名だ。

 そして2012年に、3代目の弟・4代目市川段四郎の子・亀治郎が4代目猿之助を襲名した。世襲ではあるが、親から子ではなく、伯父から甥への継承だ。

⚫︎世襲・門閥を否定した3代目
 代々の猿之助は、歌舞伎界では異端だった。

 初代は9代目市川團十郎の弟子だったが破門になり、やがて許されて復帰した。歌舞伎以外の新派や新劇にも出ていた。

 2代目も、新劇に出て、すでに松竹が歌舞伎興行のほとんどを担うようになっているなか、松竹に反旗を翻したこともある。

 3代目は23歳で猿之助を襲名したが、直後に祖父(2代目)と父が亡くなったので、「劇界の孤児」となった。歌舞伎は門閥主義で座組が決まるので、後ろ楯のなくなった3代目猿之助は、大幹部の誰かに頭を下げて一門に加えてもらうしかなかったが、それを断り、自分で独自の公演を始めた。

 3代目猿之助は、他の歌舞伎公演とは異なる、徳川時代にあったケレン味のある、娯楽としての歌舞伎を復活させた。宙乗りや早替わりといった技法で、観客を沸かせた。

 さらに、現代語のセリフ、西洋音楽を用いた、伝統的歌舞伎とは一線を画した「スーパー歌舞伎」も創案した。

 それらは「猿之助歌舞伎」と呼ばれ、興行成績はよかったが、歌舞伎座の「松竹大歌舞伎」には出演できなかった。劇界で、猿之助一門(澤瀉屋)は異端的な存在、一種の独立王国となった。

 その王国には、他の一門にいた役者も加わったが、一般家庭出身の役者も多い。

 3代目猿之助は世襲・門閥にとらわれず、一般家庭出身者を歌舞伎役者として鍛え、登用していたのだ。市川右近(3代目右團次)を筆頭に、市川笑也、市川笑三郎、市川猿弥、市川春猿(現・河合雪之丞)、市川月乃助(現・2代目喜多村緑郎)などである。

 そのひとりが、弟・4代目段四郎の子、市川亀治郎――4代目猿之助である。

 亀治郎は幹部役者の子ではあるが、いわゆる「御曹司」としての扱いはされていない。猿之助一門が異端の存在であり、その当主の子ではなく甥だったからだ。

⚫︎歌舞伎の御曹司
 幹部役者の子は「御曹司」と呼ばれる。猿之助の同世代では、13代目市川團十郎、10代目松本幸四郎、5代目尾上菊之助らが、その代表だ。

 単に「役者の子」ではなく、「一門の長」の子である。

 彼らは3歳くらいで「初御目見得」し、6歳前後で役者としての名をもらい「初舞台」を踏む。そして子役時代を経て、10代後半から「花形歌舞伎」に出て、父の芸を演じる。幼少期から父と同座して、その芸を間近に見て覚える。

 同時に、彼らはいわゆる帝王学も自然と学んでいく。

 大幹部である父は、自分が主役を演じるだけではなく、誰に何の役を当てるかといったことや、何年後に誰に何を襲名させるかといったこと、さらには一座としての財務も担わなければならない。さらに、歌舞伎界全体を率いていく立場にもなる。

 御曹司たちは、父の舞台の外での姿も間近に見て、松竹との交渉の仕方、他の役者との接し方、ご贔屓とのつきあい方などを学んでいく。

 世襲の利点は、このように、幼少期からの徹底した英才教育が可能だということだ。

 大幹部役者の子たちは、芸と帝王学の2つを叩き込まれて育つ。「お前は長男だから」「お前は家を継がなればならない」と言われ続けて育つので、無意識のうちに身につく。

 しかし、亀治郎(4代目猿之助)は、「王家の次男の子」として生まれ、王位継承権はあるものの、現実には王位を継承する可能性は薄かったので、誰かから帝王学を学んだ形跡はない。

⚫︎「舞台あらし」となった亀治郎
 2003年、亀治郎(4代目猿之助)は、父・段四郎とともに、伯父の猿之助一門から出て、フリーになった(歌舞伎界でどの一座にも加わらないという意味)。伯父と衝突したわけではなく、もっと広い世界を経験したいというのが理由だと説明している。

 しかし、フリーになってはみたが、大幹部たちは自分の子を引き立てるので、亀治郎は役に恵まれない。たまに大役をつとめると、段違いにうまいため、他の役者をくってしまい、次は呼ばれなくなった。演劇マンガ『ガラスの仮面』(美内すずえ)でいう「舞台あらし」的な存在となってしまう。
 歌舞伎座からお呼びがかからない亀治郎は、国立劇場を借りて自主公演をしたり、大河ドラマ『風林火山』に出たり、明治座などで自分よりも若い役者を率いて公演するようになっていく。

 一方、亀治郎が一門を出た年の11月、3代目猿之助は公演中に倒れ、舞台に出られなくなった。一門は市川右近(現・3代目右團次)を主役にして公演を続けた。

 3代目猿之助の役を学び身につけている市川右近が、子のいない3代目の後継者になるのではと思われた。

 だが、香川照之が自分に息子が生まれ、その子を歌舞伎役者にさせたいと思い込んだことで、予期せぬ展開となる。
子を歌舞伎役者にするために、香川は自分も歌舞伎役者になると決意した。

 こうして、香川と3代目猿之助の父子は和解した。だがさすがに香川が「猿之助」を名乗ることはできない。

⚫︎「猿之助」と「澤瀉屋一門の長」を継承したはずが
 香川の思いを汲んで、従兄弟である亀治郎は澤瀉屋(猿之助)一門に復帰し、猿之助を4代目として襲名することになった。亀治郎は「ずっと亀治郎でいたい」と言っており、それは「猿之助を継がない」という意味だったが、猿之助になったのだ。

 つまり、世襲・門閥に囚われていないはずの3代目猿之助は、結局は、自分が見出して育てた役者たちよりも、血縁者を後継者に選んだのである。

 2012年6月が、3世代4人の襲名披露公演で、3代目市川猿之助が2代目猿翁に、2代目亀治郎が4代目猿之助に、香川照之が9代目市川中車に、その息子が5代目市川團子になった。

 これで、4代目猿之助は、3代目の「芸」だけでなく、「澤瀉屋の長」というポジションも継承したはずだった。

 実際、襲名からしばらくは、猿之助は一門を率いた公演をしていた。だが、いつしか一門から離れ、自分だけで歌舞伎座に出たり、他の演劇に出たりするようになっていく。

 一門は猿之助抜きに、市川右近(現・右團次)を座頭として公演することもあったし、坂東玉三郎や市川海老蔵(現・團十郎)を座頭とする公演で脇を固めていた。

 猿之助主演のヒット作『ワンピース』には澤瀉屋一門が総出演していたが、一門以外の若い役者も起用されていた。

 この一門の状況に危機感を持ったのか、2016年に市川春猿と市川月乃助が新派へ移籍した。
 2017年には、右近が市川宗家の海老蔵(13代目團十郎)の仕切りで「市川右團次」という名跡を3代目として襲名し、以後は成田屋(市川宗家)の公演に多く出るようになった。
 澤瀉屋一門から、役者が減っていく。

⚫︎「天才役者」と「一門の長」との両立は困難だったか
 4代目猿之助は『ワンピース』などの新作歌舞伎に若手を登用・抜擢し、彼らから慕われていたが、一門の役者たちの面倒を見ることには関心が薄そうだ。

 猿之助襲名前、「ずっと亀治郎でいたい」と言っていたのは、「生涯一役者として生きたい」という意味だ。役者として、「猿之助の芸」は継ぎたかったが、「一門の長」になる気はなかった。

 だが、さまざまな事情で、「猿之助」になってしまった。それが悲劇の始まりだ。

「天才であること」と「組織のリーダーであること」は、ときに矛盾する。両立は至難の業だろう。その矛盾が臨界点に達したのかもしれない。

 現時点では、何があったのかは分からないが、猿之助が、自らの名を冠した「猿之助奮闘公演」に大きな穴を空けたこと、6月、7月、8月、9月も座頭での公演が予定されていたが、それらへの手当も何もせずに、突然の行動に出て、自分の都合で興行に危機をもたらしたのは、紛れもない事実だ。

 澤瀉屋一門の今後も、不安定、不確実となった。
 一門や松竹よりも、自分が優先したのは、芸術家としては立派である。だが、多くの人の生活を預かる立場、リーダーとしては、失格だ。

 帝王学が身についていなかったのだろう。
御曹司として育てられなかった者がトップに立ったことでの悲劇だ。
 日本でいちばん有名な一族もまた、伯父から甥へ継承されようとしている。
つまり、次男の家に生まれた子が、将来トップに立つ運命にある。




💋世襲、伝統継承 …
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