奈良県 桜井市出雲 十二柱神社五輪塔
国道165号から北側に出雲の集落内を通る旧道に入ると北側の山の手に十二柱神社がある。石段の右手に大きい五輪塔が建つ。相撲の祖で埴輪の発明者としても有名な野見宿弥の供養塔との伝承があり、元は南方300mの野見宿弥の塚といわれた場所(塚の本)にあったものを明治20年(一説に明治16年)にここに移したらしい。野見宿弥は垂仁朝の人で、実在したとすれば古墳時代初め頃になる。出雲という地名からの付会伝承であろう。高さ2.8m余のきめの粗い花崗岩製で表面の風化はやや進行している。直接地面に据えられ基壇や台座は見られない。地輪は低めでやや下方が広く、水輪は球形で少し側面が欠損しているせいか背が高く見え、全体のバランスから見ればやや小さめである。火輪は軒が異常に厚く、軒反には隅増しが顕著でなく、全体に真反りに近い緩やかな曲線を描く。火輪の隅降棟の屋だるみは緩い。空風輪は大きく高い。風輪の椀形、空輪の宝珠形ともにスムーズな曲線を描き硬い感じは受けない。各輪四方に薬研彫の種子があるが、通常の四門ではなく、清水俊明氏によれば地輪にはヂリ(持国天)、ビ(増長天)、ビー(広目天)、バイ(多聞天)の四天王、水輪は金剛界四仏、火輪はバイ(薬師如来)、バク(釈迦如来)、キャ(十一面観音菩薩)、カ(地蔵菩薩)、風輪はカーン(不動明王)、ユ(弥勒菩薩(如来))、マン(文殊菩薩)、ボロン(一字金輪仏頂)、空輪は一字欠損しバン(金剛界大日如来)、ア(胎蔵界大日如来)、サ(観音菩薩)となっているとのこと。このような複雑な種子の配列例は他にみることができず極めて異色といえる。規模が大きく、全体のフォルム、種子などのディテイルも個性的で定型化した鎌倉後期仕様のものとは異なった特長がある。ぶ厚い軒口などは剛健であるが、水輪の横張が足りないので安定感には欠け、大きく高い空風輪とあいまって全体に背伸びしたたように見える。造立時期の特定は難しいが、下広がりの地輪と横張の少ない水輪、反りの緩やかな異様に厚い火輪の軒はいちおう古い特徴で、鎌倉後期仕様の様式が普及する以前のものと見たい。傍らの説明板によると鎌倉初期とあるが、それはちょっと古すぎると思う。鎌倉中期末ないし後期初めごろのものではないだろうか。また、移建時に地輪内に一字一石経を納めた穴があったと伝え、今も地輪内にそのままにしてあるという。納経による作善・供養と思われ、五輪塔の造立趣旨を考える上で興味深い。
参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻 石造美術 231~232ページ
なお、大和盆地を挟んだ西側の当麻には宿弥との相撲で敗れた「当麻蹴速之塚」の伝承を持つ大きい五輪塔があり、こちらも訪ねられるとおもしろいでしょう。