石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 犬上郡甲良町正楽寺 勝楽寺の石造美術(その2)

2008-02-16 01:07:35 | 滋賀県

滋賀県 犬上郡甲良町正楽寺 勝楽寺の石造美術(その2)

勝楽寺本堂左17手墓地の奥、山裾に五輪塔の部材を長方形に並べ囲んだ一画に3基の重制無縫塔が並ぶ。いずれも花崗岩製で高さ90cm前後。中央が開山(雲海)塔で、向かって右が二世(深渓)塔、左が三世(九岩)塔とされる。中央塔は、前後二石を組み合わせた平面八角形の切石基壇上に立ち、基礎、竿、中台は八角形で基礎底部の各角に短い脚を設け左右に持送りをつけ、各側面に輪郭を巻いて内に格狭間を配する。上面は低い一段を経て抑揚感のある複弁反花とし、さらに受座につなげて竿を受ける。竿は正面に「開山」の2字を陰刻し、側面には1つおき(「面取」に相当する面)に蓮華座上の舟形背光の前に3連如意宝珠を積み上げたレリーフを中央に配する。中台は薄い受座底を設け、単弁請花で無地の薄い側面を受け、上面には複弁反花座を刻みだす。その上に単弁二重鱗葺の蓮華座を載せ卵形の塔身を置く。18丁重な彫りと細部までいきとどいた意匠・表現は典麗かつ温雅で、塔身の曲線も素晴らしく3基中最古と考えられる。開山塔にふさわしいが、竿正面の「開山」銘については川勝博士、田岡香逸氏ともに後刻と推定されている。なお、開山の雲海正覚(or意?)和尚は暦応4年(1341年)の示寂。没後間もない頃の造立と思われる。田岡香逸氏は1370年ごろと推定されており、33回忌にでも造塔したのだろうか。小生は賛同しかねる。09右塔には切石基壇は見られず直接地面に基礎を据えている。中央塔と同じく基礎、竿、中台は平面八角形。基礎各側面に輪郭を巻き内に格狭間を配す。基礎上面は中央塔に見られる一段は省き反花を経て竿受座に続ける。反花は基礎側面中央に通常の複弁を、左右(基礎側面各角に当たる)に覆輪付単弁を配し、隙間には根元まで延びる間弁(小花)を入れている。複弁と単弁を交互に配す珍しい意匠である。竿は正面に「昭塔」の2字を陰刻し、「面取」に相当する各面の中央に開敷蓮花のレリーフを飾る。1つおきにレリーフを飾るのは中央塔と同じである。10中台は下底に竿受座を設け繰形に持ち送り一段張り出して側面を素面にしている。中台上面は平らに切って椀状の単弁二重鱗葺の請花座を挟んで卵状の塔身を載せる。中央塔に比べると細部の意匠に簡略化が見られ、基礎側面の格狭間の肩が下がるなど新しい要素が見て取れる。左塔も直接地面に基礎を据え、同様に基礎、竿、中台は平面八角形で、基礎側面に輪郭を巻いて内に格狭間という意匠は他塔と同じで、そこから一段を経て反花、竿受に続ける手法は中央塔と同じである。反花は基礎各角に細長い間弁(小花)を入れる。これは大和15系の五輪塔の反花座の隅弁によく見られる手法である。竿は正面中央に「穆塔」の2字を陰刻し、「面取」相当面に1つおきのレリーフを入れる手法は他塔と同様である。レリーフは中央塔と同じく舟形背光に3連如意宝珠を蓮華座上に積む意匠である。中台は下底から側面は右塔と同じく繰形の持ち送りの上下に一段を設け、側面は素面とする。中台上面は中央に薄い複弁反花座を刻みだし、シャープな小花付の覆輪付単弁の蓮華座を載せる。この蓮華座の上面に低い塔身受座を刻みだす。その上の塔身は他塔に比べ側面のカーブに硬さが目立ち円筒状に近い。基礎の輪郭や格狭間、竿のレリーフ、塔身を受ける蓮花座の蓮弁など細部の彫りが深くシャープな印象を受ける。3基ともよく似た感じの無縫塔だがよく見ると微妙にそれぞれの個性があり、最古と見られる中央塔の構造・形式や意匠を基本的に踏襲しつつ細部の意匠に少しずつ個性を主張する部分を交えている。右塔が南北朝末期、左塔が室町初期の造立されている。無縫塔は卵塔とも呼ばれ、鎌倉前期、京都泉涌寺開山塔として大陸から導入採用され、主に禅宗の高僧の墓塔として普及し、その後宗派を越えて広がり、今日も僧侶の墓塔として多く造立されている。塔身と基礎を基本とする単制のものがほとんどだが、竿と中台、請花を備えた本格的な重制の無縫塔は、近江でも珍しく、欠損のない優品が3基並ぶ様子はまさに壮観、見るべきものである。

なお、勝楽寺に程近い若一神社には鎌倉後期の完形石造宝塔があり(2007年2月1日記事参照)、裏山の勝楽寺城はハイキングコースとして整備されている。静かな境内に立ち文武に優れた乱世の奸雄の不敵な生き様に思いをはせるのも一興、石造マニアならずとも訪れたい場所である。

写真上左右:立ち並ぶ様子、中左:中央塔(開山)、中右:右塔(2世)、下、左塔(3世)

参考:『滋賀県の地名』平凡社日本歴史地名体系25 787~788ページ

   川勝政太郎 『歴史と文化近江』 176~177ページ

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 133ページ

   田岡香逸 「近江彦根市と犬上郡の石造美術」―北野寺・唯念寺・念称寺・勝楽寺―

        (後) 『民俗文化』188号


滋賀県 犬上郡甲良町正楽寺 勝楽寺の石造美術(その1)

2008-02-16 00:22:55 | 宝篋印塔

滋賀県 犬上郡甲良町正楽寺 勝楽寺の石造美術(その1)

慶雲山勝楽寺は婆沙羅で知られる武将佐々木高氏(京極導誉)の菩提寺で、臨済宗建仁寺派。寺蔵の有名な導誉の肖像は京都国立博物館に寄託される。背後の山塊は導誉が築かせその後多賀氏などが拠った勝楽寺城の跡で尾根筋などに遺構が残る。現在の寺の本堂は江戸時代のものだが、山門は城跡から天明年間に移建された城唯一の木造遺構と伝えられる。03建武4年(1337年)ごろ柏原から甲良庄に根拠を移した導誉は、康永4年(1345年)に甲良庄地頭職を得ている。以後、応安6年(1373年)78歳で亡くなるまで当地を本拠としたという。勝楽寺は、導誉ないし息子の京極高秀が暦応4年(1341年)、京都東福寺5世山叟慧雲の法嗣であった雲海正覚(正意?)和尚を招いて開山とし建立された。雲海和尚は間もなく死去し、入寂の際の遺偈の墨跡が残る。その後も京極氏の菩提寺として隆盛を誇ったが戦乱を経て次第に衰退し、時々の領主から断続的に保護を受け続け今日に至っている。本堂背後の山裾に安山岩製(硬質の砂岩の可能性も残る)の瀟洒な宝篋印塔がある。04京極氏の重臣、新平兵衛尉の墓というが不詳。平らな切石を敷いて基壇とし基礎は上2段式で側面は各面とも壇上積式で内に格狭間を配し、格狭間内三方に三茎蓮花、山側の背面のみ大きい開蓮花のレリーフを格狭間内いっぱいに飾っている。格狭間は側線や花頭の曲線に硬さがあり、大きい開蓮花は下底が平らで中房が水平に細長く花弁が左右に行くにしたがってS字状に変形する。多分に図案化が進行したものである。塔身は月輪内に蓮華座を設けないで金剛界四仏の種子を薬研彫する。種子は月輪のやや上方に偏って深く刻まれ、曲線を強調した独特のタッチで達筆ではあるが雄渾や端麗といった形容詞にふさわしいものとはいえない。笠は上6段下2段で二弧輪郭付の隅飾は軒から入って立ち上がり、直線的に外傾する。相輪も欠損なく、伏鉢の曲線は硬く下請花は複弁、上請花は小花付単弁。九輪部は線刻で表現し、逓減がやや大きい。宝珠の曲線は滑らかだが重心が少し高く上請花とのくびれが大きい。石材のせいもあってか全体に表面の風化が少なく保存状態は良好。意匠の細部は退化・形式化が進んでいるが表面処理や彫り自体は丁寧に仕上げられている。造立時期は室町時代、15世紀半ばないし後半ごろまで降ると思われる。また、本堂左手の墓地に導誉の墓と伝えられる宝篋印塔がある。07花崗岩製で塔身は失われ、笠と相輪は原型をとどめないほど破損しているが、なかなか大きいもので田岡香逸氏は8尺塔と推定されている。基礎は上2段式で側面は輪郭格狭間、三茎蓮花のレリーフを正面にのみ入れている。こうした破損は風化や倒壊によるものとは考えられず、火中したか故意に打ち欠かれたかいずれかであろう。破損が著しく造立年代の推定は困難だが、導誉の没年である応安6年よりは遡りそうである。1305年ごろと推定されている田岡氏の説に従っておく。24導誉塔の左には塔身が五輪塔の水輪に入れ替わった宝篋印塔がある。傍らに「赤田栄公墓」と刻まれた自然石の碑が立つ。上端近くまで埋まった切石基壇の上に据えられ、基礎は側面壇上積式で上2段。各側面に格狭間・三茎蓮花のレリーフを飾る。格狭間は上花頭中央が狭く、やや肩が下がり、脚部が極めて短い。彫が非常に浅いのが特長。笠は上6段下2段で、軒は薄く、軒からかなり入って二弧輪郭付の隅飾が外傾しながら立ち上がる。隅飾輪郭内は素面。相輪は上請花と宝珠を欠損する。伏鉢の曲線はスムーズで下請花は複弁、九輪はやや逓減が目立つ。田岡氏は1315年ごろと推定されているが、もう少し新しく南北朝前半ごろものではないだろうか。赤田栄公がどういう人物かは不詳。(その2に続く)

写真上左:本堂裏宝篋印塔全景、上右:本堂裏宝篋印塔基礎の開蓮花、

下左:導誉塔、下右:赤田塔

なお、導誉の墓とされる宝篋印塔は柏原清滝寺徳源院の京極家墓地(応安6年銘)にもあります。

※ 参考図書はその2にまとめて記載します。

 

  

【追記】

 今更ながら少し記事を補足させていただきます。記事にある「赤田栄公」というのは赤田栄という人物で、赤田左衛門尉とも。赤田氏は嵯峨源氏。赤田というのは越後の地名で、鎌倉時代の初め頃、幕府の御家人として渡辺綱の子孫が彼の地の地頭に任じられ名乗るようになったとか。その後、近江犬上郡に移住、佐々木源氏に属したようですね。代々名前が一字なのは遠祖に当る源氏の伝統を継ぐものでしょうね、渡辺党の祖であるかの頼光四天王の一人渡辺綱も一文字名です。赤田栄は佐々木導誉とほぼ同時代の人で観応の擾乱で戦死したと伝えられているようです。しかし、赤田氏はその後も拠点を移しながら室町・戦国時代を生き抜いた近江の名族だということです、ハイ。

 赤田栄と京極導誉との関係は不勉強で存じ上げませんが、導誉の墓と伝えられる宝篋印塔のそばに寄り添うように墓塔とされる石塔がまつられていることから、導誉の旗下に属したのでしょうか、あるいは徳源院京極家墓所に北畠具行の供養塔とされる石塔があるように、敵対したものの導誉も一目置くような花も実もある勇士だったのでしょうか、そのあたりは機会があれば今後調べたいと思います。

 なお、赤田栄の墓とされる寄集め塔ですが、無銘なので彼の墓塔と断定することはできません。塔身にある五輪塔の水輪は室町時代に降る別物でしょうが、宝篋印塔の基礎と笠は恐らく一具のもので、その形状から推定される造立時期は、観応二年とされる赤田栄の没年と齟齬のない頃と思われます。(2011年1月追記)