石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 東近江市箕川町 永昌寺宝篋印塔

2011-09-11 12:10:41 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市箕川町 永昌寺宝篋印塔

旧永源寺町箕川は山間の寒村で、集落東寄に臨済宗永源寺末の永昌寺がある。01石段を上りささやかな境内に進むと本堂前の庭に宝篋印塔がある。02山景をバックにして宝篋印塔をメインに据えた苔むした庭の風情には趣がある。もっとも苔は石造物の観察には適さないが勝手に取り払うわけにもいかない。田岡香逸氏の報文によれば、寺は元々西北方、谷を隔てた山裾の寺屋敷と呼ばれる場所にあったのが後に現在の場所に移され宝篋印塔も一緒に移建されたとされる。さらにその後の道路拡幅でも1mばかり移動しているとのこと。花崗岩製で基礎から相輪まで完存する。高さ約142cm、基壇や台座は見られない。基礎は上二段で幅約44cm、高さ約35cm、側面高約26.5cm。各側面とも輪郭を巻いて内に格狭間を配し、本堂側の東側面には二葉の散蓮レリーフが施される。北側面にも同様のレリーフがあるが、南側と西側の格狭間内は判然としない。川勝政太郎博士は一面は三茎蓮で残る三面が散蓮とされ、田岡香逸氏は散蓮があることは触れられているが他の側面のレリーフには言及されていない。03_2池内順一郎氏は二面が散蓮、二面が格狭間内素面とされている。基礎は風化も進んだうえ苔むしており、先学の見解も分かれているので詳しい観察が必要であるが果たせなかった。塔身は幅約22.5cm、高さ約21.5cmでやや幅が勝り、側面に薬研彫りされた金剛界四仏の種子は小さく力の抜けた表現になる。04笠は軒幅約45cm、高さ約30cm、軒厚約4.5cm。基礎幅より笠軒幅がわずかに大きいので別物の可能性も無くはないが、この程度は許容範囲として差し支えないだろう。笠下が段形にならず請花になる所謂「特殊宝篋印塔」で上は五段。隅飾は二弧輪郭式で輪郭内は素面。基底部幅約14cm、高さ約14.cm、軒端からは約0.5cm入って立ち上がる。隅飾の笠上段形への擦り付け部分が大きく段形も傾斜ぎみで細かい部分の彫成はやや粗くシャープさに欠ける。笠下の請花は素面の単弁で、隅弁と中央主弁の間に大きい小花を配する。相輪は枘を除く高さ約54cm。九輪は沈線状で請花は上下とも単弁のようである。造立時期は南北朝時代、14世紀中葉~後半頃と考えられている。市指定文化財。笠下を請花とする宝篋印塔は、大和では13世紀代に遡る例があるが、近江では鎌倉末期と推定される愛荘町東円堂の真照寺塔(2010年9月9日記事参照)が今のところ最古と考えられ、唯一の在銘品が旧蒲生町外原の正養寺塔(康永四年(1345年))。近江では概ね14世紀中葉から後半がその盛期と考えられる。基礎上を反花にして塔身の上下を反花と請花で荘厳するものと本例のように基礎上を段形とするものがありこの点注意を要する。

 

参考:田岡香逸「近江東小椋の石造美術(1)」『民俗文化』第36号

   池内順一郎『近江の石造遺品(上)』

   川勝政太郎『歴史と文化 近江』

 

文中法量値は田岡報文、池内報文に基づき0.5㎝単位に揃えたもので実地略測ではありません。

 

さて宝篋印塔を観察していると地元の方が声を掛けてきました。「何をしている?ちゃんと許可を取ったのか?」とのこと。これこれしかじかと来意を説明しても意に介せず、許可が要るんじゃないのか一点張り、聞く耳をもたない。こっちも「そこまでおっしゃるのなら致し方ないので退散します」。そんで側面の格狭間内を確認することも出来ないまま退散の憂き目に。したり顔をしてステテコ姿で歩き去るおっさんの後姿の憎憎しいことといったらありませんでした。…おっさんは自分ではいいことをしたと思っている…

確かに許可が必要かといわれれば必要かもしれない。普通はご住職に一声かけるのが常道です。でもここの場合一見する限り無住なのです。本山にでも問い合わせて兼務の住職なりの連絡先を調べてお願いをして、教育委員会にも連絡し、自治会長にも説明して了解をもらって…そんなことをしてたらそれだけで何日もかかるし、許可が得られるかどうかも不透明です。オフィシャルな本格調査ならいざしらず、一石造マニアの個人的な石塔見学にいちいちそのようなことを強要するのはナンセンスです。境内立入禁止の表示でもあればやむをえませんが、門は開かれており、境内に立ち入ることにいちいち許可が必要とは思わなかったわけです。ここも過去に2度程来ていますがこのようなことを言われたのは今回が初めてでした。

ところで「一見卒塔婆/永離三悪道」という偈頌をご存知でしょうか。塔婆を一目見ただけで三つの悪道(地獄道、餓鬼道、畜生道ないし貪、瞋、癡)から永遠に離れることができるという意味です。この後「何況造立者/必生安楽国」と続くのですが、鎌倉時代の板碑等にも刻まれる有名な卒塔婆(いうまでもなく卒塔婆はストゥーパの音訳で仏塔の総称)の功徳を謳う偈頌です。であればつまり石塔を見ることも参拝の一形態と解されるわけです。実測図の計測をしたり拓本したりする場合は参拝の範疇を超えた調査なので許可が必要だと思います。しかし本堂に手を合わせ、境内の石塔を見学する限りにおいていちいち許可が必要だとは思いません。

一方、過疎の村の無住寺院等では仏像什器類の盗難は深刻な問題です。善意の来訪者・参拝者までも排除してしまうこうした住民の過剰とも思える反応は、皮肉にも防衛手段としては有効と考えざるをえません(かといってこれが正常な状態だとは思えませんが…)。確かに訪れる者もない山間の無住寺院の庭先でうろうろしている小生は傍目には不審者に映るのも無理からぬことだと思います。しかし不審者が即不法侵入者や泥棒ではない。来意をきちんと説明しているんですから、わかって欲しかったなぁ…。やり場のない不愉快な思いと無力感に苛まれ、握る帰路のハンドルは実に重かったです。

まぁ石造見学をしているとこういうことはよくあります。知り合いの石造の大先輩は調査中に警察まで呼ばれて大騒ぎになってたいへん困惑したという話をされていました。めげずに取り組んでいくしかありません。

むろん多くのお寺では「ようこそお参り」が基本姿勢ですし、地元の方も遠方からわざわざ石塔を見に来たというのでいろいろと貴重なお話を聞かせて頂くことも少なくありません。