滋賀県 東近江市木村町 柳之宮神社宝篋印塔
木村町集落の北西、水田の中にこんもりした社杜が見えるのが柳之宮神社である。名神高速道路がすぐ北側を通っている。付近一帯は木村古墳群で、東方約500mに復元整備された天乞山古墳と久保田山古墳が残る「悠久の丘 蒲生あかね古墳公園」がある。ケンサイ塚という一番大きい古墳が久保田山古墳と神社の間にあったが高速道路建設に伴う土地改良工事で消滅したという。
社殿の向かって右手、一段高く石積みで設えた一画に石の柵に囲まれて宝篋印塔が祀られている。基壇や台座は見当たらず平らな割石の上に据えられている。相輪を失い五輪塔の空風輪が載せてある。花崗岩製でキメの粗い斑岩質と見受けられる。笠下を請花にする田岡香逸氏のいうところの「特殊宝篋印塔」である。笠上までの現存高は約93cmで元は五尺塔と思われる。基礎は幅約47.5cm、高さ約35.5cm、側面高約28cm。上二段で上端の幅約27cm。各側面とも輪郭を枠取りし、北側を除く三方はいずれも輪郭内に格狭間を配し、格狭間内は開敷蓮花のレリーフで飾る。輪郭は束部、葛部はともに幅約4cm、地覆部で約4.5cm。開敷蓮花のレリーフはかなり厚手に彫成され、側面のツラよりも1.5cm程盛り上がっている。格狭間は概ね整った形状であるが両肩が下がり側線がふくらみ気味で茨の出が大きい。北側面のみは輪郭内素面とする。こういう場合ここに刻銘を刻む例がまま見られるが何も確認できない。正面並びに左右側面観のみを意識して荘厳したことは明らかで、死角になる裏面は手を抜いたものと考えられる。逆に考えればレリーフで飾らないこうした面があるおかげでその反対側が正面だろうとわかるのである。塔身は高さ、幅とも約24.5cm、側面に金剛界四仏の種子を月輪、蓮華座を伴わないで直に薬研彫りする。文字は小さく筆致はやや拙い。笠は軒幅約44.5cm、高さ約33cm。軒の厚さは約5cmとやや薄く、軒から上に比べて軒以下が薄い(低い)。笠上は五段、隅飾は二弧輪郭式で軒端から約1cm入って立ち上がる。基底部幅約13.5cm、高さ約17cm。カプスの位置が少し低く上の弧が細高い印象を受ける。笠下の請花は素面の単弁で隅弁の間に主弁3枚、弁間には小花がのぞく。下端には幅約27.5cm、厚さ約1.7cmの塔身受座を作り出している。枘穴は径約9cm、深さ約4cm。基礎上を段形に笠下を蓮弁にするのは先に紹介した箕川永昌寺塔と同じタイプで、規模もよく似ている。ただ、隅飾の段形への擦り付け部分や基礎輪郭の彫り込み、段形の彫成のシャープさなど造形的にはこちらの方がより丁重である。無銘であるが造立時期については諸先学の見解はほぼ一致しており南北朝時代の前半、つまり14世紀前半から中葉頃と考えられている。なお、基礎側面の格狭間内を、開花蓮レリーフを中心に極端に膨らませるのは近江では鎌倉末期から南北朝頃の石塔の基礎にしばしば見られる手法である。なお、石柵の入口には同じくらいの大きさの基礎だけの宝篋印塔が転がっている。基礎上蓮弁で側面に格狭間内に開敷蓮花のレリーフがある。造立時期も概ね同じ頃と思われる。
写真右上:輪郭内が素面なのがおわかりでしょうか、ここに銘があってもいいんですが見当たりません。写真左中:わかり難いかもしれませんが格狭間内が開花蓮を中心に大きく盛り上ります。
参考:川勝政太郎『歴史と文化 近江』
川勝政太郎「近江宝篋印塔補遺 附、装飾的系列補説」『史迹と美術』380号
田岡香逸「近江蒲生郡の石造美術-柳宮神社と託仁寺の特殊宝篋印塔を中心に-」
『民俗文化』第41号
池内順一郎『近江の石造遺品(上)』
文中法量値はコンベクスによる実地略測ですので多少の誤差はご容赦ください。
「特殊宝篋印塔」というのは田岡香逸氏が唱えられた呼び方ですが、池内順一郎氏のおっしゃるように「特殊」という概念の規定がどうもいまひとつで、単に笠下を請花にした宝篋印塔とか笠下が蓮弁の宝篋印塔でいいと思います。
さて、神社の入口に古墳の石棺材を利用したと思われる手水鉢があります。木村古墳群の中のどれかから出たものに相違ありません。そういえばここから程近い川合地内の街道沿いには石棺材に地蔵を刻出した石棺仏もあります。石造物にしても古墳にしても祖先のさまざまな思いや営みを顕著に伝えるモニュメンタルな遺産で、似たものはあっても同じものはふたつとない地域に根ざした文化資源です。その価値を明らかにして後世に大切に守り伝えていくのが今を生きる我々のつとめです。消滅したケンサイ塚古墳は古墳群中最大規模を誇りましたが、応急的な発掘調査をしただけであっさり破壊されてしまったそうです。もったいないことでした。規模のうえからは二番手三番手が立派に復元整備されたのは結構なことですが、一番大きかった古墳の破壊を許してしまった過去を思うと何とも皮肉なことに思えてなりません。