滋賀県 野洲市小篠原 妙光寺山地蔵磨崖仏
美しいコニーデ形の山容が印象深い近江富士こと、霊峰三上山。そのすぐ北にある妙光寺山の中腹に優れた地蔵磨崖仏がある。別名「書込み地蔵」、傍らには「北尾三方地蔵」と彫った標石もある。山麓の入口から案内板に従って狭い山道を登っていくと、ところどころに大小の岩塊が散在している。
やがて巨岩を組み合わせたような岩神竜神祠に到り、さらに右方に進むと程なく目的の磨崖仏に着く。わかりにくいとの記述もあるが現地のポイントポイントに案内表示板があり、山道は狭くかなり急ではあるが歩きやすいように整備されている。急斜面に露出する高さ幅ともに約6m余の巨岩のほぼ垂直に切り立った壁面に東面して縦約175cm、幅約95cm、深さ約15cmの長方形の枠を彫り沈め、内に像高約155cmの地蔵菩薩の立像を厚肉彫にしている。緻密な花崗岩で保存状態も良い。光背は認められず、長方形枠の外側に蓮華座がある。蓮華座は線刻のようでもあるが薄肉彫とすべきかもしれない。
蓮華座の蓮弁は大ぶりでよく整い、優美かつ力強い鎌倉調を示す。像容は右手に錫杖、左手に宝珠の通有の地蔵像で、頭の小さいすらりとしたプロポーションが印象的。
錫杖に添えた右手指先の表現や中空を見据えるような厳しい面相表現に写実性が看取される。体躯や衣文はやや平板ながら、破綻ないまとまりを見せる。袖裾は下に届かず、前方を向いた両足先は靴を履いている。錫杖の石突は衲衣の中に隠れるようになって下に届いていない。この短めの錫杖と靴が近江の古い地蔵石仏の特長とされる。そういえば湖南市の少菩提寺跡にある地蔵三尊と作風が似ているようにも見える。枠内、像の左右に各一行の刻銘がある。向かって右に「元亨四年甲子七月十日」、左に「大願主経貞」とあるのが肉眼でも確認できる。元亨四年は鎌倉時代末の1324年である。彫り込み枠の上方には壁面を断面L字型に加工した彫り込みが見られ、懸造り風の木造の屋根が載っていた可能性もある。
さらに地蔵の彫り込み枠の右側にも別に小さい彫り込み枠がある。田岡香逸氏の報文によれば縦約59cm、幅約37cm、深さは約4.5cmの大きさで、清水俊明氏によるとこの枠内には笠石に風鐸を吊るした笠塔婆が線刻され、その塔身部分にも刻銘があるという。
高い位置にあって足場も悪く肉眼では銘文はおろか線刻笠塔婆も確認できないが、清水氏の著書に載せられた写真には確かにそれらしいものが写っているのがわかる。
なお、岩塊の下には数基の箱仏(石仏龕)が集められており、中世墓の存在をうかがわせる。霊峰三上山に抱かれたこの付近は、中世には福林寺や東光寺といった有力寺院が甍を並べた一種の聖地であったらしい。地蔵磨崖仏のある場所もあるいは山岳寺院の跡とも考えられるが、周囲にそれらしい平坦面などは見当たらない。急峻な山腹の岩壁に忽然と刻まれた磨崖仏のあり方を考える時、奈良春日山中の磨崖仏(夕日観音や朝日観音)が想起される。春日山中の磨崖仏でも可能性が指摘されるように、付近の山中が広く葬送の場所だったのではないかという気がしてならない。中世墓というより「屍陀林」である。葬送地の諸霊を引接する地蔵菩薩として惣供養的な目的で造立されたのか、はたまた何らかの供養や作善を目的に刻まれた地蔵菩薩に結縁を願う人々によって葬送の場となっていったのか、鶏と卵のような話だがその辺りの実態の解明は今後の課題であり、あるいはまったく別の可能性も含め造立の背景に関しては後考を俟つほかない。ともあれ、作風優秀で保存状態も良好、加えて紀年銘があるとなれば資料的価値も高く、近江の石仏にあって屈指の優品ということができる。
参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』
田岡香逸「近江野洲町の石造美術(前)-小篠原・妙光寺-」
『民俗文化』第102号
清水俊明 『近江の石仏』
写真右二番目:目を細めて遠くを見つめるような眼差しが見るものを惹きつけます。
右最下:向かって右側に小さい彫り沈め枠があるのがおわかりでしょうか?
文中法量値は清水氏の著書に拠ります(一部田岡氏)。これも諸書に取り上げられ今更小生が紹介するまでもない著名な磨崖仏ですね。思ったより行きやすかったのでお勧めです。それにしても右側の枠内の線刻笠塔婆と刻銘が気になります。どなたか詳細についてご存知ではないでしょうか?
さて、妙光寺山とその周辺には福林寺跡の磨崖仏群、東光寺の法脈を受け継ぐ不動寺の不動磨崖仏や重美指定の石灯籠をはじめ優れた石造物が残る宗泉寺などがあって石造マニアにとって興味の尽きないエリアです。ただ、この地蔵磨崖仏の周囲は個人の松茸山のようで、山道沿いにロープが張られ無粋な立入禁止の札がたくさんぶら下がってました。罰金10万円!だそうです。無用のトラブルを未然に防止する意味からも訪ねられるのは冬場から春先がよいでしょう。