石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 天理市苣原町 大念寺十三仏板碑

2011-11-28 21:39:42 | 奈良県

奈良県 天理市苣原町 大念寺十三仏板碑

天理市苣原は市街地から東方、布留川を遡った山間の静かな集落で、大念寺は集落のほぼ中央、公民館とは国道25号の旧道を挟んだ北側に位置する。01_2融通念仏宗で向台山来迎院と号する。本堂向かって左手に一際目を引く立派な十三仏が立っている。03以前は旧本堂前の門前右側にあったが近年本堂改修に伴って現在の場所に移建された。花崗岩製で高さ約2m、幅約52cm、正面を平らに整形し、十三仏を半肉彫りしている。全体の姿は縦長の板状ないし偏柱状で上端を山形にした板碑形を呈する。よく見ると下端はやや幅が狭く、下から3/4程まではほぼ同じ幅で立ち上げ、上部1/4ほどは上端に向かって少し幅を狭くしてから先端の山形につなげている。側面から背面は粗く整形したままである。虚空蔵菩薩を除く12尊は三列四段とし、像高は約20cm前後で各尊とも蓮華座に座す。十三仏は各回忌の本尊を供養するもので、十王信仰から発展したと考えられている。1初七日:不動明王、2二七日:釈迦如来、3三七日:文殊菩薩、4四七日:普賢菩薩、5五七日:地蔵菩薩、6六七日弥勒菩薩、7七七日:薬師如来、8百ヶ日:観音菩薩、9一年:勢至菩薩、10三年:阿弥陀如来、11七年:阿閦如来、12十三年:大日如来、13三十三年:虚空蔵菩薩という順列が定まってきたのが室町時代初めの14世紀末から15世紀初め頃とされている。04その頃の古いものは十三仏を種子で表すが、像容で表す例も室町時代を通じて次第に増加してくる。05_2また、各尊の配列にはいろいろなパターンがあって興味深い。本例における配列は、右下からスタートして、3・2・1、6・5・4、9・8・7、12・11・10で右から左に進み、一度右に戻って上の段に進んでいく。なお、上段の中央は阿閦如来で大日如来が中央にない。古い例ほど変則的な配列になるといわれている。各尊像を見ていくと、1不動明王はいかめしい表情で右手に利剣を携えている。2釈迦如来は施無畏与願印、3文殊菩薩は三ないし五髻の童子形で剣を右手に持つ。4は菩薩形で蓮華か何かを持つようで普賢菩薩、5地蔵菩薩は声聞形で持物は錫杖と宝珠、6弥勒菩薩は胸元に塔のようなものを捧げもっているのでそれとわかる。02_27は胸元の左手に薬壺らしいものを乗せる如来形で薬師如来、8は菩薩形で大きい蓮華を捧げ持つ観音菩薩、9の勢至菩薩は合掌している。10の阿弥陀如来は指で輪を作った両手を胸元に掲げた説法印。11阿閦如来の印相は普通左手で衣の一端を執り、右手は降魔印とされるがこれは左手は胸元にあって右手は肩の辺りに上げた施無畏印のように見える12は智拳印とわかるので金剛界の大日如来である。上部に単独で配される13虚空蔵菩薩は、やや大きめに作られ、左手に剣、右手は何かを胸元に捧げ持つ(三弁宝珠か?)。面相部の残りも他に比べると良く、端正な表情が印象的である。頭上には立派な天蓋のレリーフがある。下端近くの平坦面に陰刻銘がある。右端に「天文廿二二年乙卯」、左端に「二月十五日」とある。その間に六行にわたり「琳祐 衛門/道西 弥六/妙西 源六 道善/妙光 助九郎 三郎二郎/道慶 助五郎/三弥 又三郎」と結縁者名が刻まれている。天文廿二二(=24年)は西暦1555年、室町時代後期16世紀中葉の造立である。時代相応で各尊ともやや頭でっかちでお人形さん風の像容になってはいるが、2mもある良質の花崗岩を用いて蓮華座や面相、持物など細部の意匠表現まで丁寧に仕上げており、大和でも最も大きく作風優秀な十三仏として著名なものである。このほか境内には箱仏や双仏石などが多数見られる。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   清水俊明 『奈良県史』第7巻 石造美術

   清水俊明 『大和の石仏』

   土井 実 『奈良県史』第17巻 金石文(下)

 

十三仏もなかなか興味深いテーマでこれからも見て行きたいと思っています。庶民レベルの信仰の表われと考えられているようですが、これだけ立派なものを作れるのはそれなりに有力な人達だったと思います。中世の終りから近世初め頃にかけてちょくちょく作られているようで、近畿では大和に特に多いようです。諸書に取り上げられて著名なものですが大和の代表選手ということでご登場願うこととしました。そうそう、これまた難読の地名ですが「ちしゃはら」ないし「ちしゃわら」と読みます。