京都府南丹市日吉町四ツ谷 海老谷会所跡宝篋印塔
威音寺の南東、谷筋を挟んだ旧道南側の山裾にある。隣接する旧の会所(現在は空地)を建てた際に土中から掘り出されたという。中央塔は基礎から相輪まで揃い左右のものは塔身がない。向かって右の塔は相輪も失われている。大鳥居総夫氏は向かって左から1号、2号、3号塔としている。いずれもよく似た大きさで、基礎3面を輪郭格狭間とし、素面の一面に10行ほどの陰刻銘を刻む。笠は上6段下2段で、隅飾が二弧輪郭で直線的に外傾する手法は共通する。残る相輪も、請花が上は覆輪付単弁、下が複弁で九輪の凹凸が浅い点は同じである。中央塔の塔身は蓮座月輪内に金剛界四仏とする。いずれも基礎幅35cm前後、高さ25cm前後で、どれも側面高はかなり低い。塔高は部材が揃う中央塔で約118cmと小さい。ただし、それぞれの部材が当初から一具という確証はなく、混成している可能性は否定できない。向かって左の1号塔の基礎は他のものと異なり注目される。正面の輪郭内中央を縦長円形に彫沈め、内に合掌坐像が半肉彫で刻まれている。膝を揃えて端座する髪の長い像容は女性とみられ、願主(妙金尼)の寿像と考えられる。面白いのは、輪郭内中央の像容と格狭間の左右部分が併存している点で、輪郭の束部分に「大願主」(向かって右)、「妙金尼」(向かって左)の陰刻銘が肉眼でも確認できる。背面の銘は読みづらいが「右意趣者/為逆修善根/奉造立塔婆/彼依功徳妙/金懺除業障/早登解脱蓮/華焉法界衆/生同成正覚/応永十七年二月十五日」とされ、応永17(1410)年に逆修塔として作られたと知られる。中央の2号塔銘は「右意趣者値/…禅門三十/三廻之辰奉/彼塔婆造立/…普利/化生楽土者/応永八年辛巳/十月一日/孝子等敬白」で応永8年(1401)年の造立、父親の33回忌の供養塔である。向かって右の3号塔は「右意趣者為/逆修善根彼/寶篋印塔奉/造立處結願/一見…本/起因俱入清浄…以下三行不明…/□同成正覚/応永二二年七月十四日」応永4(1397)年の造立である。「宝篋印塔」の文字が見られる点が貴重。生前供養や33回忌供養のために14世紀末から15世紀初めに相次いで造立されたことがわかる。こうした造塔供養を立て続けに行える経済力を蓄え信仰心に篤い有力者がいたことを示しており、今でこそ訪う人も少ない山深い寒村の趣を見せている当地だが、物資流通の幹線道沿いにあった往昔の姿を偲ぶことができる。
参考:大鳥居総夫「丹波威音寺の宝篋印塔その他」『史迹と美術』445号
川勝政太郎『日本石造美術辞典』
こういう状況。苔むした残欠状態ですが3基とも長文の造立銘があって資料価値は高いものです。
背後に見える四角い白いものは案内看板で長年風雨にさらされボロボロ、文字もほとんど読めません。
中央塔の基礎背面。苔むしているが刻銘があるのがハッキリわかる。肉眼での判読はちょっと難しい…。
向かって左の基礎正面。表面を覆う苔を取り除くと大願主/妙金尼の文字と当の妙金尼さんのお姿と思しい合掌像が…
現在会所は別の場所にあって旧会所建物は跡形もありませんが、跡地のどこかに塔身や相輪が埋まっているかもしれません。また、これらがまとまって埋まっていたとすれば、この旧会所跡は廃滅した寺院の坊院か何かかもしれません。谷を挟んだ威音寺は見える距離です。よく見ると格狭間の形状が少しずつ異なり、古い方がより「まし」であることが見て取れます。文中法量値、銘文は大鳥居総夫氏の報文によります。
年末にバタバタと3本連続でUPしましたが、丹波方面初見参です。旧日吉町シリーズはこれでいったん終了。同時に平成28年もこれでおしまい、ご愛顧ありがとうございました。皆様、どうぞよいお年をお迎えください。