京都市 右京区 梅ケ畑奥殿町 為因寺宝篋印塔
為因寺は集落内の小さい寺院。境内東寄りのある宝篋印塔は、この付近にあったとされる善妙寺の遺品と伝えられている。
花崗岩製。現存高約210㎝。相輪は、先端の宝珠と下半を失い、残っているのは上請花とその下の4輪分だけである。昭和9年の10月にこの石塔を調査された川勝政太郎博士らが境内に転がっていたのを載せたのだそうである。二重の切石基壇の上に二段の段形部分が直接載せてある。基壇の上段が基礎のようにも見えるが、基礎は亡失、別石作りの低い素面の基礎であっただろうと推定される。塔身は全体に大きく、幅より高さが勝る。西側正面に「阿難塔」、背面に「文永二(1265)年乙丑/八月八日建之」と割合大きい文字で陰刻されている。通常見る四仏の種子などは刻まれていない。笠は上六段下二段で、各隅飾りを別石とし、笠石本体も二石からなる。すなわち、軒と下二段及び上一段目までと上二段目以上を分けている。軒側面と同一面で立ち上がるよう上の一段目と同じ高さに隅飾りの基底部を作りつけている。隅飾りは笠石上端に拮抗する程の高さがあり、基底部分の幅は軒幅の1/3程もあるので、左右の隅飾りに挟まれた軒口中央の上側には長方形に切り欠いた部分があるように見えるが、これが一段目になる。隅飾りは一弧素面で直立する。長大な馬耳状と言われる隅飾りである。段形は逓減が一定せず、上端又は下端にいくほど各段が徐々に低くなっている。こうした段形の作り方は厳密な規格性が感じられない。むしろ定型化以前のおおらかさの現れと見るべきだろう。本塔とよく似た形状の宝篋印塔が高山寺開山廟に二基存在しているが、川勝博士により高山寺式の宝篋印塔と称されている。いずれも各部別石づくりで、小生などが見慣れた宝篋印塔とは一線を画する独特の風格があり、素朴でありながら堂々とした存在感がある。高山寺式の宝篋印塔は、我が国最古の宝篋印塔の形状を示すものと考えられており、その中で為因寺塔は、不完全ながら主要部分が残る唯一の在銘品である点が貴重。国重文指定。
参考:川勝政太郎「新資料 京都為因庵の文永二年在銘宝篋印塔『史迹と美術』第49号1934年
〃 『京都の石造美術』1972年
これも今更の感がある超有名な宝篋印塔です。善妙寺は高山寺の別院。寺の名前の「善妙」は、高山寺に伝わる国宝「華厳宗祖師絵伝」にも登場する女性からとっているようです。承久の乱で罪を得た公卿の妻子を高山寺の明恵上人(1173~1232)が保護し匿ったとされる尼寺で、塔身の「阿難塔」の文字からこの石塔が釈尊の弟子であった阿難の供養塔として建立されたものと考えられます。阿難は、釈尊の養母であった摩訶波闍波提らの出家について、渋る釈尊を説得し認めてもらったことで初めて女人出家の道を開いたとされる人物。いかにも尼寺の遺品らしい石塔です。石塔の願主だったであろう尼さん達は、阿難の向うに明恵を重ね合わせていたのではないでしょうか…。