石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 米原市朝妻筑摩 朝妻神社宝篋印塔及び層塔(その2)

2013-08-05 22:15:54 | 宝篋印塔

滋賀県 米原市朝妻筑摩 朝妻神社宝篋印塔及び層塔(その2)
(最近再訪し、コンベクス略測を行ったので粗々の法量値を参考までにご報告します。詳細は2007年1月8日の記事をあわせてご参照ください。)ま
ず、宝篋印塔について、02_2現状の地上総高約191cm、笠石上端までの現状地上高は約160cmで、上二段の基礎は幅約89.5cm、現状高約41.5cm、現状側面高約33.5cm、段形下段の下端幅約71.5cm、上端幅約68.5cm、上段の下端幅約56.5cm、上端幅は約54cm。06_2ちなみに基礎下端は概ね10cm程度地中に埋まっていると思われる。塔身は幅約44cm、高さ約45.5cm、月輪の直径約34cm。月輪内の梵字は「ア」の四転、すなわち「ア」「アン」「アー」「アク」で、宝幢、開敷華王、無量寿、天鼓雷音の胎蔵界四仏であろう。種子の彫りは浅く、風化磨滅のせいですっかり角が取れて鋭利感は失われているが薬研彫と思われる。近江では概して宝篋印塔の塔身種子は貧弱なものが多いが、その近江にあっては雄渾な種子の範疇に入れてもいいであろう。笠は上六段、下二段、笠上の段形最上端面は幅約40cmで、中央に径約34cm、高さ約11cmの伏鉢が同石で刻み出されているのは非常に珍しい手法である。また、笠下の段形最下端面の幅は約50.5cm、軒の幅は約82.5cmで軒の厚みは約9cmである。伏鉢を含めた笠全体の高さは約73cm。07三弧輪郭付の隅飾の基底部の幅約25cm、高さは約35.5cmと長大で軒口からの入りは約1cm。隣り合う左右の隅飾の先端の間の距離は約83cmである。また、隅飾の輪郭の幅は約3cmと大きさの割りに狭い。輪郭内は素面。相輪は九輪部分を五輪ほど残すのみで、残存高約31cm。径は下方で約19cm、上部の径約17.5cm。当初から一具のものと考えて特段の支障はない。01_4この相輪の本来の高さは1m近くあったと思われ、とすれば、塔の本来の総高は2.7m程と推定され、元は九尺塔として設計されたものと考えられる。近江に残された宝篋印塔でも屈指の規模を誇るものの一つに数えられる。
一方、層塔は、上に載せられた別物の小さい五輪塔を除く現状地上高約167cm、素面の基礎は幅約58cm、現状地上高約35
.5cm、初層軸部(塔身)の高さ約44cm、幅約37.5cm。各側面に刻まれるのは像容四方仏だが、風化磨滅が激しく衣文はおろか印相も肉眼では確認しづらい。彫沈めた舟形光背を背にした蓮華座に坐す如来坐像と思われる。像高は各約30cm。蓮華座の蓮弁はすっかり磨滅して明らかでない。現状初層の軒幅約68cm、二層目の軒幅約61cm、三層目で約52cm。傍らには外に2層分の笠石と最上層と思しい笠石が置かれている。このうち最上層笠石の軒幅は約44cm、隅棟の突帯から宝塔の笠石との指摘もあるが、突帯断面が凸形でなく、全体にやや低平な形状から層塔の最上層と考えることも可能で、これを含めれば都合6層分の笠石になるが、六重塔というのは考えられない。元は五重もしくは七重であったと考えられる、というのは案内看板にあるとおり。笠の逓減の様子からは七重以上であった可能性がより高いだろう。基礎がやや小さ過ぎ、寄せ集めの疑いも払拭できないにしても、付近には外に層塔の部材などは見当たらず、わざわざ傍らに置いているのだからまぁこれら笠石も一具と考えるのが自然ではなかろうか。この辺りについては後考を俟つほかない。

 
2007年1月28日付の記事の中で「神社の南方の民家庭先の畑中に周囲よりやや高くなった荒地があり、層塔、宝篋印塔など石塔類が集められているのを見かけたが、あるいは関連があるのかもしれない?」という記述をしましたが、これらはすべてセメント製だというご指摘をさる斯道の大先達の方から頂戴しました。Photo_2早速、現地に行きまして、左の写真のとおり確かにセメント製の現代のものだということを確認してきましたのでご報告します。01_5どうやら、ご近所の方が石塔を模してセメント製の造形を作られ庭先に陳列されておられたようで、朝妻神社の宝篋印塔の造立の背景を考えるうえで特に関係はなさそうです。逆にセメント塔の造立の背景に朝妻神社の宝篋印塔の存在があるかもしれません…。小生のいい加減な記事のせいで、現地で無用のご足労をおかけした由を承り、たいへん恐縮しております。謹んでお詫び申し上げますとともに、拙い記事をご覧頂き、わざわざ有益なご指摘を頂戴しお礼申し上げる次第です。今後ともご指導賜りますようお願いいたします。なお、2007年1月28日の記事文中「朝妻王廊」というのも間違いで正しくは「朝妻王廟」です。朝妻神社と、北方を流れる天野川を挟んだ世継集落にある蛭子神社には、雄略天皇皇子と仁賢天皇皇女の悲恋の物語に七夕伝説を結びつけた面白い伝説があるとのことで、蛭子神社には皇女の墓とされる「七夕石」があり、朝妻神社の宝篋印塔は「彦星塚」と呼ばれているそうです。また、世継集落内にある浄念寺の境内には宝篋印塔や宝塔、層塔などの石塔残欠がいくつか集められており、中でも層塔の初層軸部(塔身)(写真右)は火中したと思われる破損が痛々しいものですが、像容の四方仏を刻んだ背の高い立派なもので、おそらく鎌倉時代中期を降らない時期のものとお見受けしました。また、宝篋印塔や宝塔も概ね14世紀前半代頃を降らないものと思われます。湖畔に程近いこの地に残された古い石塔類は、往昔の朝妻湊の繁栄や原風景を偲ばせる貴重な遺物と言えるかもしれません。


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