滋賀県 米原市池下 三島神社宝塔
旧坂田郡山東町、三島池は四季折々に装いを変える霊峰伊吹の山容を水面に映す景勝の地で水鳥の飛来地としても知られる。別名比夜叉池。池の西岸の小高い場所に三島神社があり、神社の南側、岸沿いの道路に面して小祀がある。木立の中の斜面に玉垣に囲まれた石造宝塔が祀られている。この宝塔にはひとつの伝説がある。昔、溜まらない池の水を甦らせるために、時の領主佐々木秀義の乳母だった比夜叉御前と呼ばれる女性が自ら進んで人柱となり池の底に生き埋めになったため、以来池の水が枯れることがないといわれている。深夜になると今でも御前といっしょに埋められた機織の音が池の底から聞こえてくるという。宝塔はこの比夜叉御前の供養塔とされている。この付近でよく見かけるキメが荒く表面がざらついた感じの花崗岩製で現高約100cm余。傍らには五輪塔の火輪が置いてある。基礎は幅約35cm、高さ約23cm。側面四面とも輪郭を巻いて格狭間を配する。格狭間内は素面のようである。塔身は首部と軸部を一石で彫成し、軸部は重心を上に置く肩が張り裾がすぼまった棗形に近い円筒形で、扉型などは見られず、首部とともに素面。笠は幅約34cm、笠裏には一重の斗拱型の段形を有し、軒口は厚く隅に向かって厚みを増しながら力強く反転する。下端に比べ上端の反りが顕著である。四注の隅降棟は表現されておらず、頂部には露盤を削りだしている。相輪は九輪部中ほどまでが残るが請花の弁はハッキリしない。元は4尺塔と思われる。全体に表面の風化が進んでいるがシンプルですっきりした印象を与える。規模が小さく、意匠的には退化と考えられる向きもあるが、格狭間の形状、塔身や笠の軒のフォルムは概ね鎌倉調をとどめている。造立年代については、いまひとつ決め手に欠け、何ともいえないが、あえてというと鎌倉末期頃と考えたいがいかがであろうか。なお、佐野知三郎氏は鎌倉後期の造立と推定されている。
参考:佐野知三郎「近江石塔の新史料」(1) 『史迹と美術』412号
ちなみに、佐々木秀義は、保元・平治の乱頃から鎌倉幕府草創期にかけての頃の人で、宇治川先陣争いで有名な佐々木四郎高綱の父にあたる人物。宝塔の年代をそこまでもっていくのはちょっと無理ですので比夜叉御前の供養塔とするのはやはり伝説の域をでません。しかし、仮に三島池の歴史が中世以前に遡り、宝塔が遠くから移築されたものでないという前提で考えれば、土木工事や農耕に欠かせない水を供給する灌漑用の「池」とぜんぜん無関係とも思えない、何らかの供養行為の所産であった可能性のある石造宝塔が、造立のいきさつが忘れ去られた後世になって佐々木秀義などと付会されて形成された民間伝承なのかな程度に留意しておいてもいいんじゃないかと思います。また、単なる伝説であったとしても、ただそれだけで片付けてしまわないで、領民のために乳母を人柱にせざるをえなかった秀義の苦悩、進んで秀義のために人柱になった御前の心根はいかばかりか…などと思いをはせることができるような心の余裕をもって苔むした石造物と接することできれば、川勝博士のいわれる「奥行きのある石造美術の鑑賞態度」につながるのかなと思います、ハイ。まして夜な夜な池の底から悲運の比夜叉御前が機を織る音がしてくるなんて蒸し暑い真夏の夜にぴったりの話だと思いませんか。カタンコトンカタンコトン…