滋賀県 蒲生郡竜王町小口 本誓寺宝篋印塔
先に紹介した善法寺から東にわずか約150m、街道(県道165号春日竜王線)の東に面して牟礼山本誓寺(浄土真宗仏光寺派)がある。本堂前、境内南側に基礎から相輪まで揃った宝篋印塔が立っている。花崗岩製で高さ約171cm。五輪塔の地輪のような無地の四角い切石の上に立っている。傍らには層塔の笠石や一石五輪塔、小形の宝篋印塔の基礎などが集めらている。基礎は上2段で側面四面とも輪郭を設け、格狭間を配して内側面に、開敷蓮花のレリーフを刻んでいる。側面の高さに対する幅の割合が大きく安定間がある。格狭間は肩が下がらず、側線がスムーズで脚部は短く、概ね整った形状を示す。開敷蓮花のレリーフは立体的に張り出している。塔身は高さよりやや幅が勝り、北西側正面を除く3面には蓮華座上月輪を線刻した中に南西側「タラーク」、背面南東側に「ウーン」、北東側に「アク」の金剛界四仏の種子を、雄渾とはいえないが端整なタッチで薬研彫している。本来「キリーク」があるべき北西側には幅広の舟形背光を彫りくぼめ、合掌する俗形坐像を半肉彫りしている。風化摩滅が比較的少なく可憐な表情が実に印象的で、衣文は明らかでないが襟や袖が表現されている。これについて佐野知三郎氏は「僧形と思われる合掌坐像」とし、田岡香逸氏は「合掌する地蔵坐像」とされている。笠は上6段下2段。軒と区別してやや外傾する隅飾は3弧輪郭付で、輪郭内には蓮華座上の月輪を平板に陽刻している。各面とも月輪内に地蔵菩薩の種子と考えられる「カ」を陰刻するというが肉眼では確認できない。相輪も完存し下請花複弁、上請花は小花付単弁、先端宝珠は重心がやや高い。九輪の逓減は目立つ方ではないが、伏鉢や上下請花、宝珠などの曲線部に硬い感じが出ている。造立年代について、佐野氏は「鎌倉後期後半を過ぎるものと思われる」とされ、田岡氏は鎌倉後期後半式で1320年ごろとされている。構造形式・意匠表現が完成し定型化した近江の宝篋印塔のアイテムをほぼ押さえ、彫成も全体に抜かりなくいきとどいた感じだが、相輪の仕上がりや格狭間の脚部など細かいところに雑さが見て取れる。基礎の張り出し気味の開敷蓮花、幅広の塔身なども新しい要素である。佐野、田岡両氏の指摘のとおり、鎌倉末期頃として大過ないものと考えられる。なお、田岡氏は笠の隅飾内に地蔵菩薩の種子「カ」を見出され、さらに塔身に阿弥陀仏の「キリーク」に代わって刻まれた像容を地蔵菩薩と判断され、「六道能化の地蔵菩薩に引接され、弥陀の浄土に安住できるという信仰にもとづくものであるから」同じ浄土信仰に通じる旨を指摘されているのはさすがだが、僧侶も出家俗人も、そして地蔵菩薩にしても皆「僧形」であり、持物や印相により判定するのが常道である。浄土に引接される造立主の俗人出家の合掌姿である可能性も残ることから、地蔵菩薩と断定するには、もう少し慎重さが必要と思われる。
参考:佐野知三郎 「近江石塔の新史料」(六) 『史迹と美術』426号
田岡香逸 「近江竜王町の石造美術―鏡・薬師・七里・小口―」『民俗文化』 125号
池内順一郎 『近江の石造遺品』(上) 235~238ページ
滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』 173ページ
田岡香逸氏は「像容の解釈が十分でない」とか「本稿によって補正されるべきである」など佐野氏に対して礼を欠くような記述をされていますが、これはいただけません。小生は冷静で慎重な佐野氏の姿勢を支持したい。池内順一郎氏も指摘されているように、田岡氏はどうも一言多いので、損をされているのではないでしょうか。ともあれ、今日小生がこうして石造美術と邂逅でき、その素晴らしさに触れることができるのは、川勝博士はいうまでもなく、田岡氏をはじめとする先人の業績と学恩のおかげであり、こうした先人への敬意と感謝の気持ちを常に忘れず、謙虚な態度で粛々と、理解を深めていくことが大切と感じています、ハイ。