川勝博士と文章
12月23日は川勝政太郎博士の命日に当たります。1905年のお生まれなので今年で生誕106年、亡くなられたのが1978年なので没後33年になります。
博士が編集主幹として生涯を費やして手がけられた『史迹と美術』誌の古いバックナンバーをめくっていると、面白い記事を目にすることがあります。先に紹介した伊行末を偲ぶ会を催された件もそうですが、こうした記事からは川勝博士の人となりを垣間見ることができ、たいへん興味深いものがあります。
川勝博士は、石造美術をはじめ多様なテーマで多くの著作を残されています。本格的な内容を啓蒙的にわかりやすく、しかも簡潔に書かれた博士の文章を読むにつれ、よく練られた文章だと感心しています。
昭和16年9月発行の『史迹と美術』第130号に載せられた「編後私記」に川勝博士自身の言葉で面白いことが書かれています。「…それから次に谷崎潤一郎の「盲目物語」、「芦刈」、「春琴抄」を又引つぱり出して読んだ。この文豪の近年の物語風な著作は不思議に心を捕らえるものがある。あの風格のある文章の力は大きい。我々の書くものでも、こう言う風に人の心を捕らえるようにならないものかと、つくづく思う。文章にもいろいろある。読んでも何を言っているのか判らぬ文章、判るが面白くもない文章、人を引き付ける文章、再三読み返したい印象を受ける文章。原稿紙を汚すこと幾許かを知らない我々だが、さて文章とは難しいものである。琢磨し尽してしかも平凡な文章が書けるようになりたいものだと思うが、残念ながらその十が一も及びつかない。文芸作品と論文とは別なものだが、谷崎のものなどを読むと何か一考すべきものを感じる。」(仮名遣等を一部改変)とあります。川勝博士が谷崎を評価し、人の心を捕らえる文章の表現力に着目し、「琢磨し尽してしかも平凡な文章」を志向しようとされたことがわかります。一方、昭和40年8月発行の『史迹と美術』第357号に「谷崎文学と石造美術」というコラムを書かれています。前月に亡くなった谷崎へのオマージュ的なコラムで、それによると谷崎の『瘋癲老人日記』という小説の文中に、川勝博士の実名が出てくるんだそうです(…小生はまだ読んでません)。さらに京都の著名な石造美術品に関する記述もあるそうで、登場人物のセリフの中などに間接的に登場し、内容から昭和23年発行の『京都石造美術の研究』が元ネタになっているらしいとのことです。谷崎と直接面識はなかったとのことですが、知らない人が読めば「川勝なる人物も架空のものとする人も多いだろうと思うと苦笑を禁じえない」と述べておられます。面白いですね。
それにしても文章の力、表現力というのは大切なことだと思います。読み手にうまく伝わらなければ何も言ってないのと同じだし、人の心をつかむことができなければ広く共感を得ることはできません。むろん博士もおっしゃるように論文と文芸作品は違いますが、言葉の定義の空虚な議論、難解な論文等を読むと、単なる論者の自己満足じゃないか、誰のため何のための議論なのかを忘れてないか、と思うこともあります。
何もこのことに限ったわけではありませんが、ことに等閑視される石造物の価値を顕彰していくうえでは、その重要な方便として文章や言葉の問題はよくよく考えなければならないことだと思います。
ちなみに、平成2年11月の史迹美術同攷会の創立60周年記念祝賀会での記念講演における、三歳年下の盟友であった佐々木利三氏の証言によれば、川勝博士は若い頃、小説を書いておられたことがありペンネームは「東条元(とうじょうもと)」といったらしいです。いや面白いですね。
参考: 川勝政太郎 「編後私記」 『史迹と美術』第130号
川勝政太郎 「谷崎文学と石造美術」 『史迹と美術』第357号
佐々木利三 「史迹美術同攷会六十年の歩み-故川勝主幹と私-」
『史迹と美術』第612号
史迹美術同攷会創立六十周年記念祝賀会記録