石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 蒲生郡日野町原 原共同墓地宝篋印塔

2011-05-05 23:15:24 | 宝篋印塔

滋賀県 蒲生郡日野町原 原共同墓地宝篋印塔

日野町の北東の山手に原地区があり、集落の南側の丘陵裾に地区の共同墓地がある。墓地の奥、少し高くなった場所に、名号碑が立ち、棺台のある吹さらしのスレート葺きの覆屋が見える。01この覆屋の東側に小型の宝篋印塔2基と三界万霊塔が並んでいる。06これらの石塔は元々、集落内の満徳寺(万徳寺)の故地にあったもので、寺が廃寺となり地区の会所となって貯水槽を設けるに際して現在の場所に移されたものとされている。三界万霊塔は自然石を利用した近世のものだが、宝篋印塔2基はともに中世に遡るものである。中央にあるのが今回紹介する宝篋印塔である。花崗岩製。相輪を失って五輪塔の空風輪と思しきものが代わりに載せてある。基礎下には幅約49cm、高さ約14cmの台座がある。反花座にあるはずの蓮弁が見られないので、いちおう繰形座である。塔本体と風化の程度や石材の質感がやや異なるように見え、四角型の石灯籠か何かの残欠を転用している可能性もあることから、この台座が本来の一具のものと断定するにはやや疑問が残る。02基礎下から笠上までの残存塔高は約66cm、元は1mに満たない三尺塔と思われる。基礎は上二段、側面左右の束部分を地覆と葛石と区別する壇上積式で、各側面とも羽目部分に格狭間を入れ、東側面を除く三面は格狭間内に三茎蓮のレリーフがある。東側面のみは開敷蓮花のレリーフとなっている。基礎は葛、地覆部で幅約30.5cm、束部の幅約29.5cm、高さ約25.5cm、側面高約20cm。束部分の幅は約5cm、地覆部、葛石部分の幅はともに約3.5cm、段形上段の幅は約20cm。05三茎蓮は基部に宝瓶が表現される。三茎蓮の茎は、直立する中央茎を左右の茎部が交差し、左側はぐるりと一回転して花弁部分は上を向き、右側は外反する弧を描いている。こうした三茎蓮は「熨斗結び」式とも称される一風変わったスタイルのもので、南北朝以降に出現するとされている。西側の左花弁部分は二重円で表され、南側は中央茎の左右に簡略化された散蓮と思われる文様を描いている。凝った意匠だが写実性には乏しく、図案化が進んだ表現と考えてよい。開花蓮もかなりデフォルメされている。格狭間はあまり整ったものとは言えず、花頭部分の外側の弧が大きく、側線は膨らみ過ぎで、脚部は短く脚間はかなり狭い。塔身は幅、高さとも約16cm、各面とも種子を浅く陰刻するが文字が小さく風化摩滅も手伝って判然としない。田岡香逸氏は金剛界四仏としているが疑義もある。西面は「キリーク」で間違いないが、肉眼で見るかぎり北面は「サク」、南面「ア」、東面「ウーン」に見える。池内順一郎氏は、北面を「アク」、南面「ア」、東面「バイ」と推定されている。光線の加減もあり何ともいえないが採拓してしっかり確認すればはっきりするかもしれない。03月輪や蓮華座は伴わず筆致も拙い。端正で雄渾な種子を大きく刻む大和などと異なり、近江では塔身の種子が小さく拙いものが多い傾向があるが、その近江にあってもかなり貧弱な種子である。西面、北面の種子左右に造立銘が陰刻されている。肉眼での判読はかなり厳しくなっているが、西面に「道円(因?)禅師/法心禅尼」、北面に「明徳元年/八月廿五日」とあるらしい。明徳元年は南北朝時代最末期、1390年に当る。笠は軒幅約27.5cm、高さ約25cm、軒の厚みは約3cm。上五段、下二段で各段形は上に比べ下が低い。隅飾は惜しくも1つが欠損しているが、残る3つは割合残りがよい。軒から少し入って直線的にやや外反しながら立ち上がり、基底部幅約9cm、高さ約12cm。04三弧輪郭で、輪郭内には蓮華座上に円相月輪を平板陽刻し、内に種子を小さく陰刻している。月輪内の種子はごく小さいので肉眼で確認するのは難しいが、格面とも違う種子で、田岡香逸氏によれば、「バ」「シャ」「ビ」「オン」「ア」「ウーン」というから、なかなか細かいところまでこだわりが感じられる。また、通常六段の笠上を五段とするのは近江ではさほど珍しくない。寄集めの疑いもあるが、風化の度合い、石材の質感、大きさのバランスなどから推して一具のものと考えて不都合はない。三尺塔と宝篋印塔としては小品ながら、壇上積式の基礎、近江式装飾文様、三弧輪郭の隅飾、隅飾内の荘厳など近江系宝篋印塔の各アイテムを備え注目される。近江系宝篋印塔の主要なアイテムを揃えたものとしては最も新しい在銘品で、近江系宝篋印塔の基準資料として貴重である。

道円(因?)、法心というのは、おそらく在俗出家の夫婦で、造立主の両親もしくは自身夫妻と思われ、その供養のために造立されたものと考えられる。キリーク面に法名を刻んだのも阿弥陀浄土への往生を意識したものだろうか。

北側の宝篋印塔はほぼ同大で、相輪と隅飾を全て失い、基礎も破損が目立つ。塔身は後補。基礎上が蓮弁式で、格狭間内は三面が開花蓮、一面が三茎蓮で、開花蓮の張り出しが大きい。一見すると似た感じだが、よく見ると意匠表現はずいぶん異なる。時期もだいたい同じ頃のものと思われるがこちらの方がやや古いと見たい。

 

参考:田岡香逸『近江の石造美術(3)』

   池内順一郎『近江の石造遺品(上)』

 

日野町は石造美術の宝庫である近江にあっても特にコアな場所で、いたるところに見るべき石造物が残され見飽きません。ここからすぐ近く、杉の大屋神社や川原の妙楽寺跡には完存する宝篋印塔があります。いずれも無銘ですが14世紀前半頃のものと考えられています。

妙楽寺跡にあった応安二年(1369年)銘の石灯籠は、早く国の重要美術品に指定されていましたが、去る昭和50年、基礎を残して盗難に遭い現在行方不明とのこと。どこかの資産家の庭にでもおさまっているのでしょうか…。まさに許せぬ暴挙、憤りを禁じえません。身近にあって等閑視されがちな石造物ですが、祖先の思いや祈りを伝えるかけがえのない遺宝、同じものはふたつとない貴重な歴史的資料です。その地域にあって子孫に守り伝えていくべき地域の財産であり、好事家の所有欲を満たすために盗まれ取引されるなんてことはあってはならないことです!こうしたことを根絶するには、盗人には当然厳罰(&仏罰&天罰)ですが、ブローカーや所蔵者も盗品との認識の有無にかかわらず、強制的に没収できるようなルールが必要ではないでしょうかね?所有者が転々するうちにロンダリングされてしまうというのであれば、例え善意であっても売買に関与した者は処罰の対象としてもいいかもしれません。逆にそれで地下に潜るというのであれば、おとり捜査とかしてじゃんじゃん検挙すればいいんじゃないでしょうか!

いやはや、ちょっと興奮しちゃいまして申し訳ありません。とにかく早く見つかって無事に元に戻されるのを祈ってやみません、ハイ。


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