石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 天理市福住町別所 福住別所二尊石仏龕(双仏石)

2008-02-07 00:54:16 | 奈良県

奈良県 天理市福住町別所 福住別所二尊石仏龕(双仏石)

福住別所の公民館の北に100ばかり行くとT字路があり、右に折れるとゴルフ場に通じる交差点の北側の山裾に石仏がある。01先に宝篋印塔を紹介した下之坊寺(2007年1月28日記事参照)から北東約400mの距離にある。花崗岩製で龕(軸)部と笠石の二石からなり総高約150cm。龕(軸)部は高さ約120cm、幅約100cm、厚さ約24cmの長方形に石材を削り出し、背面は荒削りのままとするが、正面を平らに彫整し隅切した長方形に大きく彫りくぼめ、その中に向かって左に錫杖と宝珠を手にした地蔵菩薩、右に来迎印の阿弥陀如来の二立像を蓮華座上に半肉彫りする。像高約89cm、若干地蔵の方が背が高い。像容は頭が大きく全体に稚拙な彫成だが、阿弥陀の腰から太股あたりにかけての衣文の処理や微笑ましいお顔の表現など見るべきものがある。外枠左右に「明徳元年(1390年)庚午卯月十一日奉造立之/右為二親聖霊也本・・・(孫次郎)・・・敬白」の刻銘があるらしいが肉眼では判読できない。02亡くなった両親の供養のために造立されたもの。笠は幅約125cm、奥行き約50cm。寄棟造で笠裏には薄い垂木型を刻みだす。軒口は垂直に切って桧皮葺の段を設けているのは、先に紹介した桜井市上之宮春日神社宝塔にも見られる手法で、大和系の意匠かもしれない。石仏龕の笠にしては手が込んだ意匠といえる。笠は全体に扁平で屋だるみが緩く、軒の厚みはさほどでなく、軒反も先端で少し見られる程度。箱仏とか笠仏と呼ばれるこの種の石仏龕は墓地や寺院などいたるところにみられ、たいていは中世末期のものとされている。規模の大きいものや意匠の優れるもの、龕部に隅切を設けてあるものは比較的古いとされるが紀年銘を持つものはほとんど皆無で、実際には詳しい年代は、はっきりしない。紀年銘に加え造立の趣意が知られ、亡失することが多い笠も揃ったこの石仏龕は、箱仏・笠仏の年代上限を知る上で貴重なメルクマルといえる。なお、別名泥かけ地蔵と呼ばれ、男児を望めば阿弥陀に女児は地蔵に泥を塗って祈願する風習があり、この日も花が供えられ、阿弥陀に泥が塗りつけてあった。

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 220ページ

   清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 373ページ

   中 淳志 『写真紀行 日本の石仏200選』 88ページ


京都市 左京区大原勝林院町 勝林院北墓地石鳥居

2008-02-06 00:45:10 | 京都府

京都市 左京区大原勝林院町 勝林院北墓地石鳥居

勝林院の境内を北に抜け暫く林の中の道を行くと共同墓地に行き当たる。Photo 墓地の西端の一番低いところに小さい石鳥居がある。花崗岩製で高さはわずか106cmながら太い柱と荒叩きの表面が朴とつとして、ある種の貫禄のような趣さえ見せている。地面に平らな基壇石を置き、両端を柱の断面形にあわせて丸くくりぬいて両側の柱をはめ込んで固定しているようで、左右の柱は太く裾はやや広がって転びをつけている。貫と額束、笠木と島木はそれぞれ一石彫成で貫は柱外に貫通しない。笠木と島木は全体に緩く反り、笠木の上面は緩く稜を設け、両端はほぼ垂直に切っている。額束東側には長方形の額を刻みだし、「如法経」の文字を陰刻する。また額の左右の貫に4行にわたり「奉造立石鳥居寛正二年(1461年)辛巳十一月・・・」の銘があるというが肉眼でははっきり確認できない。川勝博士は如法経を埋納した場所の門として建立されたものと推定されている。それが経塚なのか塔婆を伴うのかは知る手立てはない。小さいが江戸時代の鳥居には見られない雰囲気があり、中世に遡る紀年銘も貴重なものである。墓地には室町期の石塔や石仏が多数みられ、中には正和2年銘の宝篋印塔もある。(これは別途紹介します)ずっと継続していたか否かは不詳だが中世まで遡りうる墓地と思われる。今日的な常識では鳥居は神社にあるもので、墓地にあるのはピンとこないが、近江湖西の玉泉寺墓地や当尾の辻千日墓地のように墓鳥居というものが稀にあり、北野天満宮の東向観音寺五輪塔と伴社石鳥居がかつてセットで忌明信仰の対象とされていたように塔婆と鳥居が組み合わされる例もある。

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 39ページ

京都の大原は三千院をはじめ著名な観光スポットが多い土地ですが、実は見るべき石造美術が多いところで、観光客の多くは気付かず見逃してしまいます。先に大長瀬宝篋印塔を紹介しましたが、今回は大原石造美術シリーズ第2弾として勝林院北墓地の石鳥居を紹介しました。


滋賀県 愛知郡愛荘町松尾寺 大行社石造露盤ほか

2008-02-05 00:28:27 | 宝篋印塔

滋賀県 愛知郡愛荘町松尾寺 大行社石造露盤ほか

大行社は、湖東三山のひとつ松尾寺こと天台宗金剛輪寺の南門の守護神として勧請されたとされ、山王21社のひとつで祭神は高御産巣日命あるいは氏神大行事大権現という。02 大行事権現がどういう神格を意味するか不明。本地は毘沙門天のようである。社殿は重要文化財で元金剛輪寺本堂北の三所権現社を明治時代に移建したもので蟇股に文安四年の銘があるという。標高468m余の秦川山西麓にある金剛輪寺へは行くには国道307号を松尾寺の交差点を東に折れ、名神高速道路の高架をくぐっていく道が一般的で、松尾寺の交差点から1kmほど南から上蚊野から松尾寺の集落を経て行くルートは門前駐車場の奥、ちょうど裏手に当たる。自動車で行くには道幅が狭く通る人も稀なようだがこちらが南門側に当たる。教専寺横の鳥居をくぐり手水鉢の脇、石垣上の社殿向かって右手の石積の麓、自然石の上に寄せ集めの石燈籠が載っている。石造物の残欠を適当に組み合わせたもので、宝篋印塔の基礎に六角形の火袋を積み笠の代わりに珍しい石造露盤をかぶせ、頂には五輪塔の空風輪を置いてある。露盤は宝形造の建物の屋根頂部にある部材で、宝珠や相輪とそれを受ける平らな方形の伏盤からなるのが一般的だが伏盤部分のみでも露盤と呼ぶ。03 金属製や瓦製が多く、石造のものは希少で近江でも先に紹介した旧蒲生町称名寺の例(2007年1月21日記事参照)を含め2、3の例が知られているに過ぎない。有名なものに京都高雄の神護寺文覚上人廟のものや岩手平泉の毛越寺観自在王院のものなどがあるが、昭和47年時点の田岡香逸氏の知見では全国でも19例に過ぎず、その後の新資料について詳しくないが30例あるかどうかといったところではないかと思われる。さてこの石造露盤であるが、幅約55cm、高さ約20cmの花崗岩製、底面は大きく彫り窪め、側面四方は二区に分割した壇上積式で区画内に格狭間を配する。13 側面の上下の葛と地覆部分は突帯状にせり出し、区画内、格狭間の彫りは割合深くしてある。側面葛部分と区別して屋根部分の軒先が立ち上がり、傾斜はややむくんで四柱の隅棟の稜線はそれ程明確でない。頂部には円形の受座を刻みだし、空風輪が載っているため確認できないが田岡氏によれば中央に枘穴があるという。この枘穴が底面の窪みに貫通するか否かも確認できない。いずれにせよ枘穴に差込式に宝珠が載る構造であろう。川勝政太郎博士は肩の下がった格狭間の形状から南北朝とされ、田岡香逸氏は側面高の低さや川桁御河辺神社石燈籠基礎との構造形式の共通性から鎌倉後期後半とされる。一番下の宝篋印塔の基礎は上反花式、埋もれて確認できない背面東側を除く各側面は壇上積式で格狭間を配し、西側と北側に左右対称の三茎蓮花のレリーフがある。彫りが浅い格狭間は肩が下がらず、ふくよかな側線が美しいカーブを描いて短い脚に続く。抑揚感のある上反花の彫成も見事で、元5尺塔と思われやや規模が小さいが鎌倉末期を降らないものである。火袋はさほど古いものではないだろう。35年以上前の田岡氏の報告時と変わらず、現在も灯篭として使用されているらしく火袋以下は菜種油と煤で汚れている。石造露盤は極めて珍しいものなので灯火の熱による劣化や地震などによる倒壊が少々心配である。

 

参考:川勝政太郎 『歴史と文化 近江』172ページ

   田岡香逸 「続々近江湖東の石造美術」(前)・(後) 『民俗文化』112号及び113号

   その他現地の案内看板や社歴碑も参考にしました。

 


滋賀県 愛知郡愛荘町平居 生蓮寺宝篋印塔

2008-02-03 02:03:18 | 宝篋印塔

滋賀県 愛知郡愛荘町平居 生蓮寺宝篋印塔

平居集落の北東寄りに浄土宗生蓮寺がある。山門を入りあまり広くない境内の左手、ブロック塀沿いに立派な宝篋印塔がある。13_2花崗岩製、高さ162cm、基礎は直接地面に置かれているようで基壇等は見当たらない。上2段式で側面四方に輪郭を巻き内に格狭間を入れており、西側はブロック塀に接し見えないが各面とも三茎蓮花のレリーフを配するようである。輪郭は左右が広く上下が狭い。格狭間は輪郭内に大きく配され、上部花頭はまっすぐで側線のカーブは下方がやや硬く、まっすぐ立ち上がる脚間はやや狭い。19全体として伸びやかな印象の優れた格狭間といえる。格狭間内の三茎蓮花は各面ともよく似た意匠で、大きい葉が左右対称に下向きかげんに外を向いている。輪郭、格狭間、三茎蓮花ともに彫りは浅く、平らに仕上げている。基礎幅約59cm弱、側面高32cm余。塔身は金剛界四仏の種子を、月輪を刻まず直接薬研彫する。本来西側であるべきキリークが正面東側になっている。02 端正なタッチだが勇健さはない。幅約29cm弱、高さ約30cm。笠は軒幅約54cm、上6段、下2段で、幅・高さとも非常に大きい隅飾は、軒と区別してほぼ垂直に立ち上がり、一弧素面で各面に大きくアを直接陰刻している。隅飾の先端は5段目に達し、幅は軒の1/3を越える。相輪は高さ約54cm、下請花は複弁、上請花は副輪付単弁のようで、伏鉢と宝珠の曲線はまずまずだが九輪はほとんど線刻で間隔が不統一かつ平行でない。無銘ながら各部揃った優品で、大きい隅飾のインパクトが強い。造立時期の決め手に欠けるが、幅に比して背の高い塔身、低めの基礎、左右幅の広い基礎輪郭、浅く平らな格狭間や三茎蓮花の彫りなどいずれも古調を示す。一方、相輪は全体に彫りが拙く退化を示すと思われる。ただし相輪は全体的にやや短い観があり、別に相輪の残欠が脇あるので別物かもしれない。相輪を別物と仮定し長大で特徴的な隅飾を定型化以前のものと見れば鎌倉後期でも始め頃、13世紀末ごろまで遡る可能性がある。すぐ南隣にもひとまわり小さい宝篋印塔があるが寄せ集めである。このうち笠はなかなか立派なもので上5段下2段、隅飾が二弧輪郭式で内部に種子を直接刻んでいる。

参考:佐野知三郎 「近江石塔の新資料(一)」 『史迹と美術』412号

平居は先に宝篋印塔を2度にわたり紹介した広照寺のある畑田の北隣にある集落です。平居の西隣の東円堂にある真照寺には鎌倉末期とされる笠下請花式の宝篋印塔があります。また北隣の栗田の本善寺には六字名号を塔身に刻む完存の宝篋印塔があるとのこと(未見)。さらに西隣は東近江市勝堂町で、ここの瑞正寺にある宝篋印塔は一茎蓮、鎌倉後期初めごろの優品。勝堂の共同墓地には完存する南北朝ごろの五輪塔があります。この付近は湖東地方でも最も石造美術の分布密度の濃い場所です。(この密度の濃い分布状況は小生などからみればなんともうらやましいかぎりです)鎌倉時代の終わりごろから室町時代にかけて隣り合う村々で競いあうかのように次々と宝篋印塔など石造塔婆が造立されたのでしょうか。それだけ中世には経済的にも豊かで信仰心に厚かった土地柄ともいえるかもしれませんね。

(高さ162cmは佐野氏報文を参照、各部寸法はコンベックスによる現地実測)