専制と隷属、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しよう

2005年02月08日 12時00分48秒 | Weblog
 日本国憲法の前文に、次のような行がある。 「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」 戦後六十年を迎え、日本国民の大半は、おそらくこの翻訳調の憲法に慣れてしまっているに違いない。この行も、すんなりと読んでしまって、当たり前のような感じを受けている人は、少なくないのではないか。
 しかし、眼光紙背に徹する気持ちで、じっと繰り返し読んでいると、近年、アメリカが進めてきた軍事行動の映像が、まざまざと脳裏に浮かんでくる。それは、「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において」という行で、鮮明になってくる。ブッシュ米大統領が演説で強調した「悪の枢軸国」という言葉を借りるなら、名指された「イラン、イラク、北朝鮮」が、まさしく「専制と隷従、圧迫と偏狭」に相当し、「地上から永遠に除去」されなければならない国々であると思い当たるのである。日本国憲法は、「永遠に除去しようとしている国際社会」と記述しているだけで、「だれが除去しようとしている」のかについて明確に示していない。となれば、主体が、国際連合であっても、アメリカ軍であっても構わないという理屈になる。
 「恐怖と欠乏」という言葉は、1941年8月14日の大西洋憲章にある「恐怖と欠乏の自由」という言葉(大西洋憲章6条)に由来している。
 「正義」の「正」という文字は、「一」が「中国の城郭都市」を示し、「止」が、実は「戈をかざして進む兵士の姿」、すなわち、「進軍」を表しているという。この文字の成立ちからすれば、「正」とは「征服した側」の文字、つまり、「勝てば官軍」を意味していると解釈できる。要するに「正義は、勝利者」の側にあるということである。
 「専制と隷従、圧迫と偏狭」により国民を苦しめていたイラクのフセイン元大統領が打倒され、イランの政権が次の対象となり、次いで、北朝鮮が倒される番であるというのは日本国憲法の立場からすれば、当然の帰結ということになる。経済制裁などというような生温いいやり方では、この憲法が示しているような「除去」はできない。
 曽我ひとみさんの父親が食道ガンで亡くなったという報道に接し、この思いを改めて強くした。
 北朝鮮という「怪物」の建国し、朝鮮戦争の最前線に立たせ、アメリカ・韓国との対決に利用した中国や旧ソ連の責任は、極めて重い。北朝鮮・金正日政権の「体制(レジーム)」を打倒して、「恐怖と欠乏」の地獄から北朝鮮の国民を救うのに一番に責任があるのは、中国とロシアである。
 もし、両国が、北朝鮮国民の「人権」を軽視したり、無視したりして責任を果たさないのであれば、そのときは、国連が「軍事行動」を決議してでも、金正日政権を「この地上から永遠に除去」する行動に踏み切らざるを得なくなる。中国とロシアが「拒否権」を行使した場合、アメリカ、英国、フランス、ドイツなど自由民主主義国家が、「有志連合」を形成してでも、北朝鮮に軍事行動を起こすべきである。日本も当然、この軍事行動に協力を惜しんではならないだろう。



2005年2月7日(月)
天国と地獄が逆さまに
 「なんてことをするんだ-ッ」
 怒りに震えて、絶句した。言葉を失ったと言ってもよい。
 愛知県安城市のスーパー「イトーヨーカドー安城店」で、二月四日午前、乳児・青山翔馬ちゃん(十一カ月)が刺殺された。犯人の氏家克直(三四)が、果物ナイフ(刃渡り約15センチ)で翔馬ちゃんの頭を刺したのである。ナイフは、頭から10センチも突き刺さり、先端はアゴにまで達していたという。氏家は、近くにいた客らに暴行して逃走、現場から一・二キロ離れた路上で殺人未遂容疑で緊急逮捕されている。
 これまでに中学生・酒鬼薔薇聖斗が小学6年の男の子を殺して首を切断した事件、中学1年の男児が四歳の幼児を高層の駐車場で局部を切断されたうえに路上に突き落とした事件、奈良市内の毎日新聞販売店の配達員が少女を誘拐して殺し、歯を抜いて遺棄した事件等々、残忍な事件は枚挙に暇がないけれど、ナイフを頭に刺して、それがアゴまで達した状態で救急車に運ばれている残酷な姿を想像しただけでも、ゾッとする。しかも、犯人は「たまたま目に入った」と供述しているといい、殺された翔馬ちゃんはもとより、家族はこの「不条理」をどう理解していいか苦しんでいることだろう。
 6日の通夜に先立ち、翔馬ちゃんの父親・圭一さんが「極刑でも許せない」と涙ながらに話していた。計画性のない偶発的な事件で1人殺したくらでは犯人を死刑するのは難しいかも知れない。だが、人数の多い少ないで死刑にするか否かを決めるのは、遺族の気持ちにそぐわない。殺し方からみて、今回の事件は、無抵抗で逃げることもできない乳児が被害者であるだけに、「死刑」にしてしかるべき残忍極まりない事件である。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉は、奇麗事である。犯人・氏家そのものを憎む。
 それにしても、犯人の氏家が、1月末に豊橋刑務所を仮出所して1週間も経たないのに凶悪事件を起こしたという事実を、刑事政策上、問題にすべきである。
 全国の刑務所は、定員オーバーで満員状態といい、刑務所が模範囚であれば刑期が残っていれば、少しでも早く仮釈放したいという気持ちはよく理解できる。
 それでも今回の事件を突きつけられると、法務省の判断が間違っていたと断じざるをえない。ましてや、寒風厳しいこの真冬に受刑者を放り出すというのは、狂犬や狼を野に放つも同然である。保護観察官、保護の監視の目があり、自立を助ける更生保護施設があるとはいえ、頼れる身内もなく、定住の家もなく、職もなければ、当然、「犯罪」に走るのは目に見えている。
 受刑者は、「自由」を望んでいても、不況の最中、公共事業も少なく、人足仕事が減少している昨今、本音のところでは、刑務所から出たくはないと言われている。刑務所から解き放たれて、直ぐに舞い戻りたいがために意図的に罪を犯す累犯者が少なくない。今の世の中は、「天国と地獄」が逆転しているようなところがあるからである。「居所付き、三食付き、風呂付き、運動も適度にでき、おまけに、ときにはカラオケも楽しめる刑務所」は「天国」、娑婆は「地獄」なのである。 氏家にあえて同情するとすれば、「もっと手加減して、ケガ程度で止めておけばよかった」と言いたい。思わず自制心を失い、カッとなったのが、「運の月」だった。
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