激動の7世紀の出来事です。660年に百済が唐と新羅によって滅ぼされると、斉明天皇は661年に九州の「朝倉橘広宮」(福岡県朝倉市)において、百済復興の戦に備えました。
しかし、7月24日に「朝倉橘広宮」において68歳で崩御されたということです。
今回は、7世紀に「日本」の基礎を築いた、「女帝斉明天皇の終焉の地」であると言われる、「朝倉橘広宮」跡を紹介したいと思います。
「日本書紀」によると、この「朝倉橘広宮」において、すでに百済での敗戦(663年の白村江の戦)を暗示させるかのような不思議な記事がうかがえます。
一つ目は、「朝倉橘広宮」を作る際、朝倉社の木を切ったため神が怒り、宮殿を壊したといいます。また、宮中には鬼火が出たため、病気になって死亡者が多く出たとあります。
そして、何と「斉明天皇」までもが崩御されました。
二つ目は、「斉明天皇」の「喪の儀」の出来事です。661年8月1日の夕方、朝倉山の上に鬼が現れ、大笠を着て「喪の儀」を見守っていたというのです。衆人は皆、不思議に思ったと。
その後、斉明天皇の御遺骸は奈良県の飛鳥の川原に移されました。
現在、中大兄皇子が喪に服したと言われる、恵蘇八幡宮の境内にある「木の丸殿跡」や、斉明天皇の御遺骸を仮安置したと言われる「御陵山」(古墳)、近郊には斉明天皇や中大兄皇子に関する神社等を探訪することができます。
舒明天皇亡き後、天皇となった「皇極天皇」。645年の乙巳の変(大化の改新)後、655年に再び重祚して「斉明天皇」となりました。
「日本」の基礎を築き、波乱の人生を九州で終えた「斉明天皇」は、どの様なおもいで「最後」を迎えたのでしょうか・・・
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