古代史スペシャルということで「百済歴史散策(扶余・公州・益山・端山)」に、とてもマニアックな歴史ツアーに参加しました。
前回は、古代の「百済の地を訪ねて(陵山里古墳群・陵山里寺跡・国立扶余博物館)」(3)の様子を、紹介しました。
この日は、「扶余」を離れて光州(コンジュ)市に行きました。
今回は、古代の「百済の地を訪ねて(宋山里古墳群・国立光州博物館)」(4)の様子を、紹介したいと思います。
〇朝鮮三国の一カ国だった百済が475年、ソウルの漢城から熊津(ウンジン)(現在忠清南道・公州市)に南下し、さらに538年泗沘(サビ)(現在忠清南道の扶余郡)へ遷都するまでの王都として知られている公州には、64年間百済首都だった熊津時代に造成されたと伝わった百済王陵「宋山里(ソンサンニ)古墳群」があります。
海抜130メートルの宋山(ソンサン)の緩やかな稜線のに位置している「宋山里古墳群」は、もともと17つの古墳がありましたが、百済の第25代の「武寧王(ムリョンワン)」の古墳である武寧王陵(ワンヌン)をはじめ、王や王族の7つの古墳だけが復元されています。
〇「国立公州博物館」は、忠清南道の北部地域から発掘された文化財を保管・管理している博物館で、1971年発見された百済時代の「武寧王」(501~523)と王妃の墓である武寧王陵から出土した文化財を特別管理しています。この博物館では、武寧王陵から出土した遺物のほとんどを観覧することができ、現在の博物館の建物はその文化財を展示するために新しく建てられたものです。武寧王陵以外にも多くの遺跡や遺物を発掘してきたこの博物館は、2つの展示室があり、現在は国宝19点と宝物4点などを含む、約1000点の遺物が展示されています。第1展示室では、武寧王陵から出土した遺物が展示されており、金でできたベルトや腕輪、青銅の鏡や、実物大の武寧王陵の墓の模型が展示されており、王陵内部も見ることができます。公州は忠清南道のほぼ中央に位置します。かつて百済の王都だった時代があり(475年~538年の五代、63年間)、その頃は熊津(ウンジン)と呼ばれていました。そしてこの公州には宋山里古墳群があり、武寧王陵をはじめ、王や王族の7つの墓が群集しています。因みに後に、武寧王の子である第26代聖王が538年に、熊津(現・公州)から泗沘(現・扶余)に都を移しました。また、この聖王によって仏教が日本に伝えられたのです。「武寧王」の陵墓の墓誌石には王は、523年5月7日に亡くなり2年あまりの殯(もがり)の後、525年8月12日に王陵に埋葬され、王妃は526年12月に亡くなり、殯の後529年2月12日に王陵に埋葬されたということが分かります。
この墓誌から、埋葬されていたのが「武寧王」だと特定できました。よくも盗掘にあわずに完璧な形で出現した王陵は、韓半島の考古学史上最大の発見の一つといわれます。
武寧王陵は、王妃を合葬した磚室墳(焼成煉瓦を積み重ねた墳墓)で、玄室には王と王妃の棺が並んでいました。そして、この木棺の材質が日本の近畿地方南部でしか産出しない高野槙(コウヤマキ)と判明したことにより、当時の日本と百済の関係に大きな注目が集まったということです。
今回の歴史ツアーで楽しみにしていた一つに、武寧王陵から出土した遺物の見学でした。想像して以上に素晴らしいものでした。特に、木棺に興味を注がれました! これだけの副葬品は、日本でなかなか見ることができませんね。しいて言うなら、奈良県駒郡斑鳩(いかるが)町の「藤ノ木古墳」の副葬品(冠や馬具、銅鏡など)ですかね~
ところで、韓国でいくつかの博物館を見学して思ったことは、どの博物館もとてもわかりやすく整備されていることです。しかも、国立博物館の入館は無料なのです。また。写真撮影が許可されていることにも驚きました。そのおかげで、今回も多くの文化財を紹介することができました。
次回は、古代の「百済の地を訪ねて(光山城)」(5)の様子を、紹介したいと思います。
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