泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

飛鳥の「豊浦」散策

2014年09月06日 15時09分50秒 | 歴史

明日香村の豊浦の集落は、甘樫丘北麓にあり、飛鳥地方最初の宮都となる「推古天皇」の「豊浦宮」・「小墾田宮」が営まれた地です。

今回は、「推古天皇」や「聖徳太子」が活躍した「飛鳥時代の地」を散策し、撮ってきました。

〇「豊浦寺」・「豊浦宮」跡

集落内にある「向原(こうげん)寺」は、その名などから「ムクハラの寺」の地に建つと伝承されています。6世紀中ごろ、仏教が百済の国から日本に伝わった時に、百済から贈られた仏像を安置した場所が、蘇我稲目の邸宅である「向原(ムクハラ)」の家で、その家を寺としたとされています。その「向原(こうげん)寺」境内から、厚さ90センチほどに版築された基壇跡が見つかりました。飛鳥時代の「豊浦寺」の遺構と推定されています。さらに、その下層から石敷き遺構と建物跡が発見され、「豊浦宮」の遺構とほぼ断定されました。

境内には、火炎のような「文様石」や「講堂」の礎石を見ることができます。また、すぐ近くには、「豊浦寺」の塔礎とみられる礎石もみることができます。

      

〇「なんば池」・「甘樫坐神社」

「向原(こうげん)寺」のすぐ南に「なんば池」があります。仏教をめぐって、蘇我氏と対立していた物部氏が百済伝来の仏像を捨てたという伝承があり、その場所が「なんば池」だそうです。その仏像を本田善光が拾って、信濃(長野県)に持ち帰って安置したのが「善光寺」のはじまりだと言い伝えも残っています。

「向原(こうげん)寺」のすぐ南西には、「甘樫坐神社」があります。この地で、允恭天皇のときに、「盟神探湯(くがたち)」が行われたといわれてます。煮えたぎる湯に手を入れて真偽を判断する神判のことです。現在、毎年4月に湯立て神事で再現された様子を見ることができます。また、境内には、飛鳥の謎の「立石」を見ることができます。

   

〇「小墾田宮」跡・「石神遺跡」・「水落遺跡」

雷丘の東に「雷丘東方遺跡」があり、ここが「小墾田宮」ではないかといわれています。かっては、「小墾田宮」の有力な推定地として、豊浦寺跡の北にある「古宮土壇」があげられていました。発掘調査の結果、庭園遺構がみつかりましたが、「宮」と関係するような建物跡は確認できなかったようです。一方、「雷丘東方遺跡」の発掘調査では、井戸跡等がみつかり、「小墾田宮」と書かれた土器が出土しました。さらに、倉庫群とみられる建物跡が発見されました。このことから、雷・豊浦・奥山・小山にかけての一帯が、「小墾田宮」跡だといわれています。

ここで発掘された物が、近くにある旧飛鳥小学校校舎を利用した「明日香村埋蔵文化財展示室」にて見ることができます。

また、近くには飛鳥時代の古道「山田道」があり、外国や辺境の人々をもてなしたとされる迎賓館跡といわれている「石神遺跡」や、日本最初の水時計台跡である「水落遺跡」があります。「石神遺跡」からは、石敷き広場や建物跡がみつかっています。日本書紀にも出てくる「石造須弥山石」(国重文)や「石造男女像」(国重文)が出土しています。近くにある、「飛鳥資料館」で見ることができます。

             

〇「雷丘(いかずちのおか)」

豊浦の集落近くにある飛鳥川を挟んで、甘樫丘の向かいにある丘が、万葉集にも詠まれた「雷丘(いかずちのおか)」です。「日本書紀」によると、雄略天皇が家来に「三諸山(みもろやま)」の神を捕えよと命じましたが、捕えたのは雷のような声と炎のような目をもつ大蛇であったため、こわくなった天皇は大蛇を放たせたと言われています。この話をもとに、落ちた雷を捕えた場所を「雷丘(いかずちのおか)」だという伝説が生まれたといわれています。とても、ロマンあふれる話ですね!

  

 〇「飛鳥時代」は、592年「推古天皇」が飛鳥の地である「豊浦宮」で即位したことからはじまります。

  豊浦寺跡の北にある「古宮土壇」跡の夕焼けの景色を見ていると、古代にタイムスリップしてしまう自分がいました!

 

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古代の「伝承地」散策

2014年09月03日 20時23分01秒 | 歴史

今回は、飛鳥周辺の地である桜井市や橿原市にある、古代の「伝承地」を撮ってきました。

歴史上に出てくる、古代の「伝承地」を散策しますと、いまさらのことですが、「奈良の歴史」の重さを感じることができ、ロマンあふれる散策をすることができました!

〇「磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)」・・・奈良県桜井市

奈良県桜井市南部の古地名で「磐余(いわれ)」と言う所は、5・6世紀ごろの大和国家の政治の中心地で、古代多くの「天皇の宮」があった場所です。

この場所は、仁徳天皇の第一皇子であり第17代天皇「履中(りちゅう)天皇」の宮跡と伝承されている、「磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)」と呼ばれている所です。

「履中(りちゅう)天皇」は、5世紀初めの天皇で中国の「宋書」に見える、「倭の五王」の一人に比定するという説があります。

現在その場所は、「若櫻神社」となっていて、とても静かな所でした!

  

〇「上之宮遺跡」・・・奈良県桜井市

「聖徳太子」が幼少期から青年期を過ごした「上宮」の候補地の一つです。6世紀末から7世紀初頭のものとみられる苑池遺構が復元され、史跡公園として整備されています。

発掘の結果、掘立柱建物・石溝・敷石遺構などが造営されていたようです。

現在、住宅地の中にありますが、「聖徳太子」が、幼少期から青年期を過ごした場所と思うだけで、何だかワクワクするような不思議な所でした!

  

〇「石川精舎(いしかわしょうじゃ)・・・奈良県橿原市

仏教が6世紀中ごろ、百済より伝わりました。その後、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の両氏が、互いにいがみ合あいました。

584年に、百済から弥勒石像等が、崇仏派の蘇我馬子の手に入り、邸宅の東に仏殿を営み、弥勒の石像を安置し三人の尼を迎えて法会を行ったと言われています。

馬子の造った「石川の宅の仏殿」は、橿原市石川町にある「本明寺」が伝承されています。「石川精舎(いしかわしょうじゃ)」の呼び名が、今に伝わる所です。

小学校の裏に位置する所にありました。無住の堂が一つあり、境内には「塚」があり、ひっそりとしていました!

  

〇「大野丘の塔」・・・奈良県橿原市

崇仏派の蘇我馬子は、「塔」を「大野丘」の北に建て、司馬達等の会得した舎利をおさめたと言われています。その後、排仏派の物部守屋は「大野丘の塔」を切り倒して火を放ち、仏像や仏殿も焼き払ったとされています。

現在、「大野丘の塔」の跡は、橿原市和田町の集落北はずれの水田の中にあり、「トノン田の大野塚」と呼ばれる土壇と伝えられています。発掘調査の結果、土壇は確かに塔跡であることが判明しました。今は、「和田廃寺跡」と呼ばれています。

土壇の中に、礎石らしきものが見られ、1400年ほど前に仏教をめぐっての争いが、ここで行われたかと思うと、とても感慨深いものがこみあげてきました!

  

〇「田中宮跡」・・・奈良県橿原市

飛鳥の地に、「岡本宮」を築いた舒明天皇は、636年に「岡本宮」が火災で焼失し、現在の橿原市の田中町に「田中宮」を築き移り住んだと言われています。

その後、この地に居住していた蘇我系の田中氏は、「田中宮」の跡地を譲りうけて氏寺を築いたとされています。建立の時期は不明ですが、その廃寺跡から出土した軒瓦などから、650年前後には造営されたと推定されています。

現在は、「法満寺」という寺がその場所とされています。境内には、円形に造出された礎石が残っています。

周囲を民家に囲まれており、注意しなければ門前を通り過ぎてしまいそうな所でした。飛鳥から少し離れた場所に位置し、舒明天皇は再び飛鳥に戻ることはありませんでした。

しかし、舒明天皇の後、皇后である「皇極天皇」が再び飛鳥の地に、「飛鳥板葺宮」を築き、「日本」という国の基礎を築くこととなりました!

  

 

コメント (2)
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