cogito ergo sum

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ちょっとまじめに…

2007-08-07 | Weblog
昨日は広島の原爆記念日、9日は長崎、15日には終戦記念日とこの時期になると平和について考えさせられることが多くなります。
今日はちょっとまじめにその関連についてすこし。

今年は久間さんの「しょうがない」発言問題が取りざたされたりもしましたが、原爆を投下した側であるアメリカでも、これまでとはすこし態度が変わって、原爆と向き合おうという雰囲気が高まっているようです。
 
 これまでは、原爆は今の状況から考えればひどいこと、認められないことではあるものの、戦争という異常な状況、まったくもって異常な状態にあった当時の日本に対して、採る方策として仕方がなかった、またそのように判断し、原爆投下を推し進めた人たちも、一つの信念に駆られた、狂信的な人たちがほとんどであったというような捉え方がアメリカでは中心的になっていたようです。
 しかし、そうしたことはアメリカに特有なことではないと思います。自分の立場に置き換えて考えてみても、日本が被害を受けた原爆等については詳しく学んでいても、それ以前の植民地政策、日露戦争、日中戦争、真珠湾攻撃、そうしたことに関しては詳しく学ぶことはあまりなく、自虐的過ぎるといわれる歴史を学んできたはずの世代ですが、やはり加害の歴史は、被害の歴史に比べ、強く印象に残るほどの教育とはなっていないのだと思います。
 戦争からこれほどの月日が過ぎても、依然として各国の歴史認識には大きな開きがある。それはやはり間違いのない事実なのです。
 いってみればそれが戦争というものなのかもしれません。歴史は必ず書く者、見出す者のフィルターにかかって生まれるものなのだから、ある程度は仕方がないのだと思います。
 でも、だからといって開きのあるままにしておいてよいはずはないのです。時の流れとともに、互いが共同的に研究し、共通の認識として認められる歴史を作っていくことが、未来の有効のために必要であり、そうして生かされてこそ歴史という学問分野の大きな意義が発揮されるのだと私は思います。
 
 では今回のアメリカの姿勢はそうした流れの中にあるのでしょうか。
 残念ながらそうは言い切れないような気がします。戦後、旧ソ連との冷戦下に入り、核を使用する、再び原子爆弾というカードを切る可能性があったために、原子爆弾の事実、核の実態を一般に明らかにすることなくこれまでやってきた、現在は?核というカードを自らが用いるようなことは国際関係上ほぼ不可能に近い。(無論研究はしているでしょうが)それよりは他に作ってしまった敵、テロリスティックな急進的な動きの国が核を持ち、そのカードを切ろうとする動きが出てくるということのほうが現実的な世の中になっている。そのタイミングで日本の原爆への注目を高めてきたというような面も見え隠れしているように思います。

 無論これは私が個人的に考えただけで、それこそ被害妄想かもしれません。
 しかし、今回のアメリカのように、動機はわからないところがあるにしても、被害者側の言い分に耳を傾ける姿勢が各国に出てくるということは決して悪いことではないと思います。
 きれいごとだけでは進まない世界的平和、こうした各国の思惑をうまく調整することによって、一歩でも前へ進んでほしいものだと思います。そして、できるなら、小国だけれども、異例な発展をとげた、特徴的な位置にある日本がその調整役として外交を繰り広げられるような国になっていけるなら、国民としても誇れる国になっていけるのではないかと思います。
 
 なんだかぐじゃぐじゃと意味不明に書き綴ってしまいましたが、今日はちょっとまじめに平和について考えてみました。
 終戦という節目のこの時期、年に一度でも、一個人として、こういうことを真剣に考えることも、小さいながら意味のあることではないでしょうか。

 まったく自己満足なだらだら文になってしまいましたね
 最後まで読んでくれた方、読みづらくてごめんなさい
 ではきょうはこのへんで…