光のガイドからの最大のギフト。
それは。
私たちは「すでに満たされている」ということを、
自分の体験を通して識ることが出来たということ。
人は、
何かをしなければ満たされない。
何かをしなければ幸せになれない。
そう「思い込んでいる」ということが、よくわかった。
朝晩欠かさず、いや…もしかすると、
年がら年中…アファメーションを念仏のように唱える。
〇〇ボードに、あんなことやこんなことを書く。
ノートに、◇◇◇◇◇◇◇を何十回…いや何百回と書きまくる。
クライアント様の中にも、いらっしゃった。
いいと思う。
それらを否定するわけではない。
でも、それにとらわれすぎて「執着」や「執念」になってしまうと怖い。
結局、手を変え品をかえ、延々とやり続けることになると思う。
そうではなく。
自分の本質は、宇宙と響き合う存在(意識)だと気づくこと。
愛と光の存在だと識ること。
そうすることによって。
もうすでに満たされているということがわかってくるし、
〇〇がないと、〇〇が出来ないと、
という条件はいらないということも分かる。
外側の世界のものをどれだけ加えても、
「満たされていない」という想いからスタートしてしまうと、
それらは「欠けている」「足りない」部分を
(と思い込んでいるだけなんだけど)
埋めるもの、補うもの、ということになってしまって、
やってもやっても終わりがない。
でも。
常に満たされている存在、そのものだと分かれば、
外側の世界も自ずと見え方・捉え方が変わってくる。
たとえ、外側の世界でどんな出来事が起ころうと、
自分の内側が満たされていて、
愛と光の存在だということを識っていけば、
人は自分自身に課した捉われから解き放たれて、自由に生きていくことが出来る。
何かをしなければ満たされないのではなく、
すでに満たされている存在なんだということ。
それを識っていくことによって世界は変わっていく。
自由とは何かがだんだんわかってくる。
もちろん何かを求めてはいけないということでもないし、
何かを欲することが悪いということでもない。
そういうことを言っているのではない。
もっと根っこの部分に気づいてほしいと思う。
気づいたうえで、その世界を生きていくと、
本当に様々なものが違ってくる。
幸せは、外側に何かを足すことではない。
それは。
私たちは「すでに満たされている」ということを、
自分の体験を通して識ることが出来たということ。
人は、
何かをしなければ満たされない。
何かをしなければ幸せになれない。
そう「思い込んでいる」ということが、よくわかった。
朝晩欠かさず、いや…もしかすると、
年がら年中…アファメーションを念仏のように唱える。
〇〇ボードに、あんなことやこんなことを書く。
ノートに、◇◇◇◇◇◇◇を何十回…いや何百回と書きまくる。
クライアント様の中にも、いらっしゃった。
いいと思う。
それらを否定するわけではない。
でも、それにとらわれすぎて「執着」や「執念」になってしまうと怖い。
結局、手を変え品をかえ、延々とやり続けることになると思う。
そうではなく。
自分の本質は、宇宙と響き合う存在(意識)だと気づくこと。
愛と光の存在だと識ること。
そうすることによって。
もうすでに満たされているということがわかってくるし、
〇〇がないと、〇〇が出来ないと、
という条件はいらないということも分かる。
外側の世界のものをどれだけ加えても、
「満たされていない」という想いからスタートしてしまうと、
それらは「欠けている」「足りない」部分を
(と思い込んでいるだけなんだけど)
埋めるもの、補うもの、ということになってしまって、
やってもやっても終わりがない。
でも。
常に満たされている存在、そのものだと分かれば、
外側の世界も自ずと見え方・捉え方が変わってくる。
たとえ、外側の世界でどんな出来事が起ころうと、
自分の内側が満たされていて、
愛と光の存在だということを識っていけば、
人は自分自身に課した捉われから解き放たれて、自由に生きていくことが出来る。
何かをしなければ満たされないのではなく、
すでに満たされている存在なんだということ。
それを識っていくことによって世界は変わっていく。
自由とは何かがだんだんわかってくる。
もちろん何かを求めてはいけないということでもないし、
何かを欲することが悪いということでもない。
そういうことを言っているのではない。
もっと根っこの部分に気づいてほしいと思う。
気づいたうえで、その世界を生きていくと、
本当に様々なものが違ってくる。
幸せは、外側に何かを足すことではない。