昨日のブログ、京都御苑散策は日曜日の話。
土曜日は実家からほど近い山科本願寺跡を散策しました。
山科本願寺があったのは今から500年以上前、室町末期の戦国時代の話。
山科中央公園のグランド脇には小高い山があるのです。
ただの築山のようですが…
実はこれは土塁、防塁の痕跡。この地は山科本願寺を中心に寺内町が発達。
対立する細川氏や六角氏など幕府方権力者や法華宗からの攻撃を防ぐため、土塁がめぐらされていました。
山科本願寺と寺内町は灰燼に帰し、本願寺勢は越前と加賀の境にある吉崎に逃れることになります。
このお土居の辺りの地図を見ると…山科本願寺の痕跡だけでなく、近世以降の東西本願寺の山科別院もあります。
土塁が残る山科中央公園からみて安祥寺川の対岸には…
蓮如上人の廟所が。蓮如上人の時代、この山科で本願寺の勢力が強大になり…
警戒した細川、六角勢は本願寺と対立する法華宗と結託し、山科本願寺を攻めるのです。
蓮如上人廟所の近くには蓮如上人の銅像が立っていたようですが、戦時中の金属供出で取り外されたままになってます。
真宗大谷派(東本願寺)の山科別院長福寺には、新たな蓮如上人の銅像が建てられていました。
山科本願寺跡は、山科団地、山科中央公園や安祥寺中学校になっていますが…本願寺跡に直接建ったわけではありません。
大正10年から昭和45年までは、カネボウ(鐘紡=鐘淵紡績)の大工場がありました。
山科区役所の公式ページ、山科の発展を説明する記事の中に、鐘紡山科工場の写真が掲載されていました。
土曜日は実家からほど近い山科本願寺跡を散策しました。
山科本願寺があったのは今から500年以上前、室町末期の戦国時代の話。
山科中央公園のグランド脇には小高い山があるのです。
ただの築山のようですが…
実はこれは土塁、防塁の痕跡。この地は山科本願寺を中心に寺内町が発達。
対立する細川氏や六角氏など幕府方権力者や法華宗からの攻撃を防ぐため、土塁がめぐらされていました。
山科本願寺と寺内町は灰燼に帰し、本願寺勢は越前と加賀の境にある吉崎に逃れることになります。
このお土居の辺りの地図を見ると…山科本願寺の痕跡だけでなく、近世以降の東西本願寺の山科別院もあります。
土塁が残る山科中央公園からみて安祥寺川の対岸には…
蓮如上人の廟所が。蓮如上人の時代、この山科で本願寺の勢力が強大になり…
警戒した細川、六角勢は本願寺と対立する法華宗と結託し、山科本願寺を攻めるのです。
蓮如上人廟所の近くには蓮如上人の銅像が立っていたようですが、戦時中の金属供出で取り外されたままになってます。
真宗大谷派(東本願寺)の山科別院長福寺には、新たな蓮如上人の銅像が建てられていました。
山科本願寺跡は、山科団地、山科中央公園や安祥寺中学校になっていますが…本願寺跡に直接建ったわけではありません。
大正10年から昭和45年までは、カネボウ(鐘紡=鐘淵紡績)の大工場がありました。
山科区役所の公式ページ、山科の発展を説明する記事の中に、鐘紡山科工場の写真が掲載されていました。
昨年、久しぶりに京都に行きましたが、とてもよかった!
コロナが落ち着いたら、また京都に行ってみたいですね。
前回は、奥さんが一緒だったので活動範囲が限られたのですが、
次回は一人旅で思いっきり満喫したいですね!
京都も人が戻ってきましたが、良し悪しは別として外国人はほぼいません。少し昔の京都の感じです。
ひとり旅なら中心部の有名寺院より、郊外の穴場もいいです。個人的には法界寺の阿弥陀如来坐像などはオススメですよ。観光客はほとんど来ないので国宝を独り占めできます。中心街からの移動は時間を要するので世界遺産の醍醐寺とセットで!
ただしお寺は凄くても、周辺は団地に囲まれていてはんなり感はないので女子受けはしません。