心身社会研究所 自然堂のブログ

からだ・こころ・社会をめぐる日々の雑感・随想

近代日本社会と健康ブームの軌跡

2022-06-27 13:23:55 | 社会・社会心理

一昨日の6月25日、ホリスティック医学協会で、「近代日本社会と健康ブームの軌跡」についてお話させて頂きました。

 

“健康ブーム”……それは近代日本において、単なるブームではない。

それは当の社会の変動期の危機の表現であり、その超克の企図であり、その頓挫であり、

頓挫することでの新たな社会の創出であり、危機の更なる深化であった。

私たちの健康は一体どこへゆくのか? 「健康」とは何だろうか?

というのがその趣旨です。

 

25年も前に私が書いた下記の論文をもとに、この25年間の動向も付け加えて、

近代日本社会における健康ブームの実態を社会心理学的に分析し、

「健康」の真の条件を模索したもので、おかげさまで好評をいただきました。

 

当日視聴された方々からも、そうでない方々からも、お問い合わせがありましたので、

とりあえず、下記の論文をお読み頂ければありがたく思います。

 

<論文>

津田真人 1997a 「『健康ブーム』の社会心理史:戦前編」、『一橋論叢』第117巻第3号、49-67頁。 →原論文を読む

────、1997b 「『健康ブーム』の社会心理史:戦後編」、『一橋論叢』第118巻第3号、83-101頁。 →原論文を読む


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宗教と社会的思いやり

2022-04-27 13:00:48 | 社会・社会心理

社会心理学者のミルトン・ロキーチは、かつて、宗教と社会的思いやり(social compassion)の関係を明らかにするため、

世界の主要な宗教8つの熱心な信者を対象に、最も思いやりの深い宗教はどれかを調査をしたところ、

どの宗教の信者も、思いやりの深さは同程度との結果が出ました。

 

さすがは宗教。どの宗教であれ、やっぱり思いやりは宗教が専売特許! というべきでしょうか。

 

そこでロキーチはさらに、全く信仰を持たない無宗教の人びとと彼らを比較する調査をしてみたところ、

何と、前者の人たちの方が思いやりが深いという結果が出たのです!

 

ただしどの宗教にも、多数派と少数派があり、

無宗教の人びとよりも思いやりが浅かったのは多数派の人たちであり、

少数派の人びとは、わずか10数%を占めるにすぎないとはいえ、

無宗教の人びとをはるかにしのぐ、思いやりの深さだったそうです。

 

<文献>

Rokeach, M., 1969a  Value-system and. Religion, in Review of Religious Research, vol.11, no.1, pp.3-23.

――――, 1969b  Religious values and social compassion, in Review of Religious Research, vol.11, no.1, pp.23-38.

 

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ヒトの「超社会性」について

2019-07-02 10:42:00 | 社会・社会心理

 ヒトはアリストテレスの「社会的動物」の定義ではないですが、社会をなして生きるところが他の動物たちと決定的に異なるとよく言われます。しかし、動物がヒトのそれに近い意味での「社会」をなして生きることが顕著な特徴になったのは、まちがいなく哺乳類からのことですし、もっと広くとるなら、「社会」はもっと「原始的」な生物たちから連綿と受け継がれてきた伝統というべきものです。

 実際のところ、むしろヒトは、群体的な無脊椎動物(colonial invertebrate)や社会的昆虫(アリ、シロアリ、ミツバチ、カリバチ、ススメバチ)、哺乳類ではハダカデバネズミと並んで、進化生物学者たちが「超社会的」な種と呼ぶものに属す動物とみることができます。いいかえれば、生物の進化において、膜翅類(アリ、ミツバチ、カリバチ、ススメバチ)、シロアリ、ハダカデバネズミ、ヒトの少なくとも4回にわたって、「超社会性」(ultrasociality)が独立に進化してきたということもできます[Haigt 2006=2011,p.74]。

 とはいえヒト以外の「超社会性」は、明白な遺伝的基礎が存在し、遺伝子の近縁性を前提とする血縁淘汰にもとづく血縁性利他主義による超社会性=「真社会性」(eusociality)です。たとえば社会的昆虫では、「半数性単為生殖」と呼ばれる生殖パターンにより、メンバー間の遺伝的な近縁性が非常に大きく、その巣やコロニーは、すべての個体の遺伝子の共有率が非常に高い、いわば1つの大きな血縁家族となっており[Ibid., p.75]、それ自体がほとんど1つの大きな個体(有機体)、「超個体」をなすのです。個々のメンバーは、この大きな身体の1つの細胞です(有機体内の幹細胞と同様に、個々のアリはコロニーが必要とする特定の機能を遂行するために、さまざまな身体形態をとることができます)。これは、遺伝的な近縁性の共有に基づく限りでの超社会性と言えましょう。
 
 しかしその遺伝子の共有率は、家系が分岐するごとに急速に低下してしまうため(きょうだいで1/2、甥や姪で1/4、いとこで1/8、またいとこどうしで1/32)、血縁性利他主義による「超社会性」は、数十匹からせいぜい百匹レベルの集団をしか維持することができません;数千もの群れになると近縁な個体が存在する確率はきわめて低くなりますから、残りは進化論的にはむしろ競争相手にしかすぎません[Ibid.,p.75]。このようなヒト以外の「超社会的」な種の、遺伝的な近縁性の共有に基づく超社会性=「真社会性」(eusociality)に対して、ヒトが示す「超社会性」(ultrasociality)ないし「『超』向社会性」[長谷川 2016,p.109]は、遺伝的に無関係な個体どうしの間で、「互恵性=返報性」(reciprocity)」によって、大規模な協力が生じる状態、互恵的利他主義による超社会性なのです。

 しかし、互恵的利他主義が成立するためには、お返しをせずにタダ乗りするフリーライダーが必ず出てくるので、それを排除する仕組みを必要とし、そのためには集団内での正確な個体識別や、過去のやり取りについての正確な記憶などの高度な認知能力が不可欠になってくるでしょう[長谷川 2016,p.109]。それゆえ厳密な意味での互恵的利他主義は、ヒト以外の動物で存在が証明された例はないとされています(他の動物の相互扶助は、互恵的利他主義のような高次の能力なしに行なわれているのです)[同]。それはちょうど、情動伝染や感情移入などの「情動的共感」がさまざまな動物で観察されるのに対して、「認知的共感」は人にのみ固有のものとされるのとパラレルです[同,p.111]。

 動物においても「多くの種が返報性で応じ」、ヒトではさらに、ヒトだけがさらにゴシップという返報性をもつとはいえ[Ibid.,p.85]、ロバート・チャルディーニによれば、ヒトにも「返報性の自動的な反射」があり、それは動物行動学的な反射と非常によく似たものだといいます[Cialdini 2001]。曰く、「返報性は根深い本能であり、社会生活の基本通貨と言えるだろう。」「返報性は、関係性における万能薬だ。」――好意には好意を、侮辱には侮辱を、目には目を(アイ・コンタクト)!、歯には歯を・・・というように、私たちはたえずお返しをする。。。感謝も復讐も、どちらも返報性です。そして「感謝と復讐は、人類を超社会性へと導いた大きな一歩である。そしてそれらが、1枚のコインの表裏であると認識することが重要だ。どちらか一方だけが進化することは困難だっただろう。」その原動力は、自動的かつ無意識的な模倣(同期的な活動)への性向にあるというのです。

 とすると、ヒトの集団主義は生物学的な宿命でしょうか? たしかに「真社会性」では、巣やコロニーのすべてのメンバーは実際に運命共同体となっているので、「群淘汰(集団淘汰)」(group selection)の論理が貫徹しますが、ヒトの「超社会性」においては、集団の利益に対する自己犠牲はフリーライダーによって凌駕され、利己主義者のほうが次世代でより多くの子孫を残し、「個人淘汰」の貫徹の下に「群淘汰(集団淘汰)」は成立しないことが、1960年代にコンピュータ・モデルによって証明されました。
 
 ただしこれは、D・S・ウィルソンが指摘したように、「文化」を持たない生物に適合するシミュレーションにすぎないかもしれず、文化とりわけ宗教が、遺伝子にかわって、「群淘汰(集団淘汰)」の力として働くのではないかと考えることもできます;しかも文化は、子孫を持つというゆっくりとしたプロセスで広がるのでなく、新しい行動や技術や信念を採用すると、いつでも急速に拡大するのです。こうして文化や宗教によって増強された「群淘汰(集団淘汰)」は、集団内の調和や協力を促進するかたわら、個人間の争いを集団間の争いのレベルに押し上げ、外集団のメンバーや内集団の背教者・裏切り者に対して、他の生物たちにはありえないような残虐行為を断行するのです。

 ウィリアム・マクニールは、そうした文化的な「群淘汰(集団淘汰)]のために、人類の歴史において、ダンスや宗教的な儀式や軍隊訓練における同期的な動作が果たしてきた役割を明らかにしました[McNeill 1995;Ibid., pp.340-1]。「文化」の生物学的な意味、ヒトの動物性の文化的な意味が、いま改めて、強く問い直されてきていると言えるでしょう。


<参照>
・Cialdini、R., 2001  Influence: Science and practice. 4th ed. Boston: Allyn & Bacon.
・Haigt, J., 2006 The Happiness Hypothesis: Finding Modern Truth in Ancient Wisdom. =藤澤隆史・藤澤玲子訳、2011『しあわせ仮説――古代の知恵と現代科学の知恵』新曜社。
・長谷川眞理子、2016  「進化心理学から見たヒトの社会性」『認知神経科学』第18巻3-4号、
pp.108-14。
・McNeill, W. H., 1995 Keeping together in time : Dance and Drill in human history. Cambridge, M.A. : Harvard U.P.

 

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マシュマロ・テストの凋落

2018-06-10 15:45:00 | 社会・社会心理

心理学または社会心理学で「人間行動に関する、最も成功した実験のうちの1つ」ともされ、発達心理学にも大きな影響を与えてきた、「マシュマロ実験」または「マシュマロ・テスト」(Marshmallow Test)というものがあります。スタンフォード大学の心理学者ウォルター・ミシェルが、子どもの「自制心レベル」を測るために、1960年代後半から1970年代前半にかけて考案し実施した実験です。

どんな実験かというと、椅子に座った被験者の子どものすぐ目の前には、机の上のお皿に、おいしそうなマシュマロが1つ置かれています。実験者は「私はこれからちょっと用があるんで、このマシュマロをキミにあげるよ。でも、もし私が15分後に戻ってくるまで食べるのを我慢できたら、さらにもう1個マシュマロをあげよう。でも、私のいない間に1つ目を食べちゃったら、2つ目はなしだぞ」と言って、部屋を出て行くんです。

さて、子どもたちはどうするか? その行動はしっかり隠しカメラで記録されたんですが、1人だけ部屋に残された彼らは、あの手この手を尽くして、健気なほど必死に目の前の誘惑に抵抗します。自分のお下げを引っ張ったり、机を蹴ったり、マシュマロをなでるだけしてみたり、匂いだけ嗅ぎに行ってみたり・・・。目をふさいだり、椅子を後ろ向きにしてマシュマロを見ないようにする者もいました。こんなふうにして、すぐ手を出してマシュマロを食べた子どもは少なかったのですが、最後まで我慢し通して2個目のマシュマロを手に入れた子どもは、1/3ほどだったそうです。

→Mischel, W., Ebbesen, E. B. & Raskoff Z. A.,1972 Cognitive and attentional mechanisms in delay of gratification, in Journal of Personality and Social Psychology, vol.21, no.2, pp.204–18.

Mischel, W. (1974). Processes in delay of gratification, in Berkowitz, L.(ed.), Advances in experimental social psychology, vol.7, New York, NY: Academic Press,pp.249–92.

このちがいに、「自制心のレベル」のちがいが表われる・・・というわけで、この方法が、子どもの「自制心レベル」を簡便に測定できる格好の手段として、これまで心理学の世界にも大いに幅を利かせることになりました。ひいては、ここで明らかにされる「自制心レベル」が、子どもの将来の長期的な社会的成功の度合をも予測しうるものとして、脚光を浴びてきたのでした。

おまけに、「自制心」を発揮した子どもの脳画像を撮った結果によると、腹側線条体と前頭前皮質の活性化の度合に有意な差異が認められたとして、脳科学的に裏づけられる真理としてお墨付きを与えられもしたのでした。
https://www.webcitation.org/62C1F65DW?url=http://www.sciencedaily.com/releases/2011/08/110831160220.htm

前頭葉の“おりこう脳”と、扁桃体の“いやいや脳”なんていう科学的俗説も、まちがいなくこの延長上にあるでしょう。

ところがつい先日の5月25日、何と、かねて被験者の数を増やすなどしながら、マシュマロ実験の再現の検証を行なっていたニューヨーク大学のテイラー・ワッツ、カリフォルニア大学アーバイン校のグレッグ・ダンカンとホアナン・カーンのグループは、再現実験研究の結果、マシュマロ実験の効果は限定的との結論に達したとの発表を行なったのです。

→Watts, T. W., Duncan,G. J.& Quan,H., 2018 Revisiting the Marshmallow Test: A Conceptual Replication Investigating Links Between Early Delay of Gratification and LaterOutcomes,in Psychological Science,vol.29, pp.1159–77.
http://journals.sagepub.com/doi/abs/10.1177/0956797618761661

スタンフォード大学での実験は被験者が大学の関係者に限られていたのですが、再現実験ではより広範な被験者についての実験が行なわれ、被験者の家庭の年収などの要素も含め、複合的な分析を行なったところ、「2個目のマシュマロを手に入れたかどうか」はむしろ被験者の経済的背景と相関が高く、長期的成功の要因としては「2個目のマシュマロまで我慢できる「自制心」よりも、被験者が経済的に恵まれていたかどうかの方が重要であること、「2個目のマシュマロ」と長期的な成功は原因と結果の関係ではなく、経済的背景という一つの原因から導かれた2つの結果であったこと、が示されたというのでした。

ウォルター・ミシェルの著書『マシュマロ・テスト』の邦訳の帯に寄せた、以下のお2人の推薦文の底の浅さが際立ってしまいます。。。
・「マシュマロ・テストで我慢できた子どもは社会的に成功した。自制心の重要性と育て方を解説。あなたも子どもも自制心を高められる。」(大竹文雄氏)
・「目先のマシュマロをがまんする子供の意志力がその後の人生をも左右する――意志力と動機づけ、さらにその鍛え方をめぐる各種類書の集大成!」(山形浩生氏)

もっとも、これはすべからく科学的真理というものの運命。科学的真理はつねに新たな真理に上書きされていく、どこまでも仮説としての真理にすぎません。問われるべきは、科学的真理をもあたかも宗教的真理と同質の真理であるかのように思念してきた、20世紀以降の「人間神格化イデオロギー」ではないでしょうか?

たとえば、経済的な背景が原因だとして、では貧困はなぜ問題なのでしょうか? 貧困それ自体の問題なのか、それとも貧困に伴なう暴力的な環境、安全性の欠如、社会的支援の剥奪等が問題なのか(だとしたらそれは、貧困のない環境でも起こらないことではありません)。ここでも、経済的な問題を宗教的真理のように断定することはできません。そしてまた、後者の心理社会的な問題も、宗教的真理のように断定することはできません。

 

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アイ・コンタクトの本態

2017-03-02 16:45:00 | 社会・社会心理

アイ・コンタクトといえば、イコール“愛コンタクト”! って私たちはすぐに想定してしまいそうですが、本当にそう言えるでしょうか? そこに哺乳類特有の「社会的関与」の表われをみるポリヴェーガル理論も、その気配なきにしもあらずですが、果たしてどうでしょうか? 
 
2人の人間が、30cmの至近距離で30秒間じっと見つめ合っているとしましょう。そこには、たちまち怪しい雰囲気が漂い始めるでしょうが、たぶんその後2人は、 抱き合うか、さもなければ殴り合いになるかのどちらかでしょう。つまり愛と敵対の両極の可能性があります。ケンカをしようとする時か、恋に落ちようとしている(すでに落ちている)時でなければ、ふつう2人の人間が黙ったまま10秒以上互いの眼を見つめることはないと言われます[スターン『母子関係からの出発』,p.25](ただし唯一の例外は、乳児と母親の関係ですが、これもしかしヒトにのみ特有の、生物学的にきわめて稀な例外とみるべき現象です)。

そして実に、(類人猿以前の)ほぼすべての動物にとって、相手をじっと見つめることは敵意の表われであり、アイ・コンタクトはむしろ威嚇の信号行動です(でもそれなら「交感神経系」の「可動化」反応です)。もしこれをじっと見返せば、威嚇の儀式的水準をこえる、本気のケンカを宣戦布告したことになってしまいます。アイ・コンタクトが、動物たちに最も危険な行動として恐れられる所以です。彼らにとって目と目を合わせることは、いわば相手のテリトリーを侵犯することであり、マカクザルなど、出合いがしらのほんの一瞬のまなざしで勝負が決してしまうほどです・・・いうまでもなく、視線をそらした方が負けです。

その場合アイ・コンタクトは、愛か敵対かよりも、愛であれ敵対であれ、それがどこまで本気かの本気度を示す信号になっているというべきかもしれません。とすればアイ・コンタクトはむしろ、自-他の意図の一致・不一致の度合を確認する行動であって、自他の分離を前提としたうえでの自他の融合、三者関係を前提としたうえでの二者の関係ということになります。現にアイ・コンタクトは、哺乳類でもまだ十分には発現しきらず、霊長類、なかでも真猿類でこそ顕著に生じ始める行動であり、またアイ・コンタクトが生じる際の脳内では、背内側前頭前皮質を中心とするメンタライジング・ネットワークが活性化することも確認されてきています[乾 敏郎,『脳科学からみる子どもの心の育ち』p.129]。アイ・コンタクトはいわば愛には愛を、敵対には敵対をもってする返報性(reciprocality)の度合を示す信号であり、返報性のメディアとしてこそ社会的なのであって、単に愛のメディアとして社会的なのではありません。そもそも愛と敵対の両面あってはじめて社会的なのです。

では、愛であれ敵対であれ、もしアイ・コンタクトで自-他の意図の不一致があらわになるとしたら? そのとき私たちが感じるのがです。というか、そもそも自分が相手を見るのを相手が見る、または相手が自分を見るのを自分が見るというアイ・コンタクトの構造自体、すでに恥の構造そのものではないでしょうか。現に、相手から見られることなく自分が相手を見る時には少しも感じなかった恥を、自分が相手を見るのを相手が見ているのがわかるや、たちまち強烈に感じてしまいます。そして恥を感じたそのとき、多少とも私たちは凍りつくのです。だとすればアイ・コンタクトは、「社会的関与」の源でもあり、「可動化」の源でもあり、そして「不動化」の源でもあることになります。腹側迷走神経複合体の活性化でもありうるし、交感神経系の活性化でもありうるし、背側迷走神経複合体の活性化でもありうることになります。まさにこの重層性においてこそアイ・コンタクトは社会的なのであり、そこに「社会的関与」だけを見ようとするのは、その表層だけを掬って捨てる惜しむべき営みと言わねばなりません。

 


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