心身社会研究所 自然堂のブログ

からだ・こころ・社会をめぐる日々の雑感・随想

3・11以後に向けて(9)

2011-08-02 19:44:00 | 3・11と原発問題
たとえば関東大震災の際に、あの朝鮮人大虐殺を煽るデマを、官憲側から(!)広めるのに積極的に手を貸した当時の警視庁官房主事(これは警視総監に次ぐナンバー2の、政界をも裏から自在に操作する枢要な地位でした)が、戦後は”テレビの父””プロ野球の父””プロレスの父”、さらには”Jリーグの父”など数々の挙国的大衆文化ブームの仕掛人となっただけでなく、何より原子力ブームに火をつけ、”原子力の父”と呼ばれるに至った張本人でもあったことを、果たして偶然の一致として片付けるべきでしょうか。

その男の名こそ、ほかでもない。泣く子も黙る、読売新聞・日本テレビのドン、正力松太郎です。並外れて権勢欲と嫉妬心が強く、エゴイスティックなリアリストで、大衆心理の掌握にかけては天才的な嗅覚を示した正力は、関東大震災後の世を震撼させた難波大助の皇太子(後の昭和天皇)狙撃事件で警視庁を引責辞任すると、読売新聞を(後藤新平に出してもらった金で)買収して、たちまち朝日・毎日に並ぶ三大紙に育て上げ、戦後はただちにテレビ放送網の設置で公職追放の解除をねらい(そして作戦成功)、次いで原子力の推進で総理大臣の座をねらって(こちらはもう一息のところで失敗)、政治的な行動を起こしたのでした。
総理大臣になるために、まずは1955年2月、69歳にして郷里の富山2区から代議士に初出馬し、(湯水のようなカネと人海戦術で辛うじて)初当選します。原子力導入には確固たる政治的基盤が必要との信念から、警視庁時代の人脈をフルに生かした裏工作を自ら買って出て保守合同を実現(いわゆる「55年体制」の成立・・・とすると正力氏は、ある意味では“55年体制の父”でもあったわけです)、その論功行賞人事で入閣とともに初代の原子力委員会の委員長となり、原子力推進のために科学技術庁を創設し、自ら初代長官を兼任する一方、その原子力推進構想は、GHQに解体を指令されていた財閥に、事実上、復活への確実な足がかりを与えることにもなりました。こうやって正力の野心に引きずられる形で、<原子力ムラ>の原型が、おぼろげながら少しずつ整えられていったのがわかります。
とはいえ、これら正力の業績の多く、とりわけテレビと原子力の導入を実質的に手がけたのは、正力の“影武者”で自他共に認める反共主義者・柴田秀利であり(柴田秀利『戦後マスコミ回遊記』)、正力本人はせっかくの”原子力の父”の称号とは裏腹に、原子力そのものには全く無知無関心な男でした(ある委員会では、核燃料を「ガイ燃料」と発言して満座の失笑を買っています)(佐野眞一『巨怪伝』pp.505,525-6)。しかし柴田の手腕とアメリカン・コネクションとによって、テレビそして原子力の導入は、さらにゴルフ・ブーム、遊園地建設、ディズニー・ブームから後の東京ディズニーランド創設にまで至る広大な副産物の裾野を持つことになります。

実際、ゴルフでいえば、ゴルフ界のオリンピックともいわれる「カナダ・カップ」世界選手権大会の創始者は、原子力企業ジェネラル・ダイナミックス社の会長兼社長にして、1954年5月に正力~柴田の招きで来日して日本中を原子力ブームの渦に巻き込んだ「原子力平和利用使節団」の団長ジョン・ホプキンスであり、この来日を機に1957年10月、第5回「カナダ・カップ」が日本で開催されることになって、これを柴田の陣頭指揮で日本テレビが4日間ぶっ続けで世界初の完全生中継、しかも日本人の中村寅吉が個人優勝・団体優勝ともかっさらったことから、一気にゴルフ・ブームとなり、それまで一部特権階級の道楽にすぎなかったゴルフの今日にまで至る大衆的普及の基礎が作られたのでした。
この成功にとどまらず、さらに柴田は、「亭主がゴルフにあまり熱中すると、女房を顧みなくなるという万国共通の弊害がある。これをゴルフ・ウィドウという」とか言って、ゴルフコースを核にした遊園地を正力に作らせ、これが「よみうりランド」となって(『巨怪伝』p.567)、高度成長期の遊園地ラッシュの先鞭をつけることになります。「よみうりランド」建設にあたって正力は、アメリカのディズニーランドやユニヴァーサル・スタジオのテーマパークを綿密に調査させています。やがて20年も後に、日本にも「東京ディズニーランド」が建設されるわけですが、これもやはり、ウォルト・ディズニーと原子力の切っても切れない密接な関係から生まれたものであることはあまり知られていないようですね。
もともと戦前から中南米諸国向けなどに、反ナチス親米プロパガンダ映画を作製していた実績のあるディズニーは、1953年末にアメリカ大統領アイゼンハワーが行なった有名な国連演説”atoms for peace”(平和のための原子力)のためのアニメ入りプロパガンダ映画『わが友原子力』を、アメリカ海軍と上述の原子力企業ジェネラル・ダイナミックス社の要請で製作し(面白いことに、数あるウォルト・ディズニーの伝記類を見ても、この事実はほぼ全く言及がありません)、これがやがて日本でも1958年の元旦に日本テレビで放映されて大成功を収め、これを機に同年8月末からは『ディズニーランド』のテレビ放映が開始されることになるのです。毎週金曜夜、プロレス中継と隔週交互の放映で、この時間帯は黄金の番組枠になったとか。そしてこの延長線上に、ディズニーと柴田の交友関係、正力と京成電鉄の(昭和3年の「京成疑獄」以来の)因縁深き関係から、早くも1961年には、京成電鉄の川崎千春に日本版のディズニーランドを浦安沖の埋立地に建設する構想が生まれており、これが紆余曲折をへた末、川崎の跡を受けた高橋政知の手により、1983年に「東京ディズニーランド」として開園するに至るのです。ちなみにその高橋は、柴田の存在なしには「東京ディズニーランド」は実現していなかっただろうと述懐しているそうです。(『巨怪伝』p.478、有馬哲夫『原発・正力・CIA』pp.218-20)

こうして正力~柴田の仕掛けた原子力ブームは、テレビ・ブームともども、自身の領域だけにとどまらず、プロ野球ブーム、プロレス・ブーム、サッカー・ブームから、ゴルフ・ブーム、遊園地ブーム、ディズニー・ブームといった数々の大衆消費文化の広大な裾野を形成しました。お父さんはテレビでプロ野球やプロレスを見、会社のつきあいや接待でゴルフに興じ、家では妻子とテレビを見、遊園地に行き、息子は野球やサッカー、娘はディズニーランドみたいなステレオタイプな大衆文化のライフスタイルは、このように実は、すべて原子力とワンセットになって持ち込まれ、定着したものだったのです。ニッポンの大衆たちは、誰も彼も、お父さんもお母さんも、息子も娘も、一家ぐるみ会社ぐるみで、原子力のもたらす単に電力そのものというより、その周囲に賑やかに繰り広げられるいわば「大衆文化複合体」の丸ごと全体を享受することによって、「原子力体制」のこの上なく幸福な<受益者>として、組み入れられてきたのでした。

このように、原子力ブームの裾野は限りなく広く、懐は限りなく深いです。こうした原子力ブームを介して、<原子力ムラ>は次々と版図を広げ、あたかも全「国民」生活すべての隅々に至るまでが、そっくり<原子力ムラ>の内部に繰り込まれているかのような、いうなれば<一億総原子力ムラ>のごとき装いをまとって、「原子力体制」は存立してきました。これほどの触媒力を秘めた原子力ブームとは、いったい何だったのでしょうか。原子力ブームはなぜこれほどまでに深甚な影響力をもちえたのでしょうか。
それは、ここまでの記述でもチラチラと垣間見られたように、単にブームの仕掛人・正力の政治的な野心や興行師的な天才、あるいは柴田の国士的信念だけによるのでなく、何よりもそれらがアメリカの世界戦略、とりわけ対ソ戦略、その一環としての対日戦略と利害が合致するものであったからにほかなりません。とすれば<原子力ムラ>は、もはや<一億総原子力ムラ>にすらとどまらず、いやむしろそれ以前に、その究極の大奥としてアメリカを後ろ盾に控え、アメリカなしにはそもそも存立しえない、<アメリカ植民地ムラ>でもあるのだということを露わにせずにはいなくなってきます。


(文中敬称略。次回以降も同様)


 <つづく>

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