世界はキラキラおもちゃ箱・第3館

スピカが主な管理人です。時々留守にしているときは、ほかのものが管理します。コメントは月の裏側をご利用ください。

風の断旗⑬

2018-06-10 04:17:51 | 夢幻詩語


シリルはくちびるを噛んだ。来る前に練っていた脚本はもうとうにふきとんでいた。彼は目を閉じ、自分の中に生じた暗闇に向かって問いかけた。するとその時、あの病院での夜に聞いた不思議なメロディが空耳のようによみがえった。

ああ、これはアコーディオンの音だ。そうだ、彼は言っていた。これはまるで、ガラスのアコーディオンを弾くように難しい、と・・・・・・。ガラス? ガラスのアコーディオンだと? そんなものなら、いっそ・・・・・・。

砕いてしまえばよい!!

シリルは目を開けた。その目に真っ先に入ってきたのは、執務室の壁にかけられた、鷹眼旗だった。

ジャルベールが勝手に変えた、アマトリアの国旗だった。

彼は急速に頭の中に新しい脚本をつくった。その手はポケットの中を探った。小さなライターの冷たい感触が指に触れた。よし、OKだ。一世一代の大芝居を打ってやる。

シリルはライターをポケットから出すと、それに火を点けながら、つかつかと旗に歩み寄った。そして旗の縁を火で焦がすと、その裂け目をつかみ、一気に旗を引き裂いた。一連の動作を止める者は誰もいなかった。

旗は予想以上にもろかった。ネズミの悲鳴のような音をたてて見事に真っ二つに裂けた。それだけでなく、壁から勢いよく落ちて、ばらばらになった。

効果抜群だ。

そしてシリルは叫んだ。

「ジャルベールは政権を放棄した。このままにしておくことはできない。今からこの国の舵は、このわたし、シリル・ノールがとる!!」

一瞬、あたりが水を打ったように静かになった。だれかが前に出ようとするのを、だれかが押さえた。シリルの心臓は、ばくばくと鳴り、耳が熱く上気した。これは賭けだ。この自分が、恐ろしく滑稽な道化になるか、立役者になるかの。どうでる。

断旗の乱か、と誰かが小さく言った。それとほぼ同時に、後ろの方でエミールが拍手をし始めた。それに操られるかのように、拍手の数はどんどん増えていった。どこから集まってきたのか、残っていた職員たちも、執務室の中に入ってきて、拍手をした。

満場の拍手に迎えられ、シリルは手を挙げて、それに応えた。

(つづく)




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風の断旗⑫

2018-06-09 04:17:51 | 夢幻詩語


シリル・ノールが大統領府に飛び込んできたのはそれから六時間ほど後のことだった。

「どうしたんだ、ここは! 守衛もいないのか! 鍵すらかかっていなかったぞ!!」

車を降り、殴り込み同様に入ってきたシリルを、最初に迎えたのはエミールだった。

「おお、ムッシュー、ここに入ってきてはいけません」
そうは言ったが、じつは大統領府の鍵を開けておいたのはエミールだった。彼が電話でシリルがこっちに向かっていることを知り、一計を案じてみたのだ。

「ジャルベールはどこだ! 話がしたい。シリル・ノールが来たと伝えろ! 国がどういうことになったか、すべて教えてやる!!」

鬼のような剣幕でまくしたてるシリルに気おされ、エミールは何も言えなかった。後を追ってきた護衛官に目で合図したが、彼も戸惑うばかりで何をどうしたらいいかわからず、しきりに首を振った。それを見たシリルは、瞬時に事態を把握した。逃げたな。馬鹿どもが。

そのままずかずかと執務室に向かうシリルを止める者はいなかった。執務室がどこにあるかは、議員時代に何度も通ったことがあるので知っていた。

堂々と廊下を歩く自分を、かろうじて残っていた職員たちが陰から呆然と見ているのを、シリルは感じた。誰も何もしようとしない。これは完璧な無政府状態だと、シリルは思った。馬鹿どもが集まって、政治をだいなしにしたのだ。

ノックもせずに執務室に入ると、蠅が一匹、頬をかすめた。死臭がした。

窓の下に、毛布で覆われた死体があった。シリルは目眩がした。

なんだこれは。これが国の中枢か。馬鹿なのか、これは!?

心の叫びは、声にならなかった。

シリルは死体に近づき、毛布をめくって顔を確かめた。ジャルベールだ。間違いはない。

「コンドは? フランソワ・コンドはどこだ?」

シリルがそばにいたエミールに尋ねると、エミールは副大統領コンドが逃亡したことが、ジャルベールの自殺の原因ではないかと言った。シリルは顔を覆った。ため息も漏れなかった。

これは何かの滑稽劇なのか? そうであればいい。だがそうではない。絶望的だ。最悪だ。どうすればいい。どうすれば・・・・・・

いつの間にか、十数人の護衛官が、彼の周りを囲んでいた。その視線には、何か重要なことを指図してほしいかのような願望が含まれていた。

(つづく)




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風の断旗⑪

2018-06-08 04:17:14 | 夢幻詩語



アマトリア陸軍少佐エミール・ガズルは、私用の電話を終えると、自室から出、廊下を何度か折れて、大統領執務室に向かった。そこには、アマトリア第二十代大統領ピエール・ジャルベールの首つり死体が、下ろされて寝かされているはずだった。

ガズルは、ジャルベールの護衛としての任務にあたっていたが、同時に、シリル・ノールの密偵としても働いていた。苦い職務だが、彼はシリルに恩義があったのだ。

老いた母が不治の病にかかった時、シリルは彼によい医者を紹介してくれ、治療費の一部も貸してくれた。おかげで最初半年と言われていた母の寿命は三年に伸び、エミールは心行くまで孝行することができたのだ。

母親を心から愛していたエミールにとって、シリルは恩人であった。だからジャルベールの護衛として働くことが決まった時、シリルの密偵として働くことも引き受けた。内心、ジャルベールでは国が危ないと考えていた軍人の一人だった。

「とにかく、このままにしておくことはできない、が・・・・・・」

執務室のドアを開けた時、彼の耳に聞こえたのは、同僚のそんな声だった。

「副大統領はどうした。コンドは?」

エミールが聞くと、他の同僚が答えた。

「フランソワ・コンドは行方不明だ。一昨日あたりから姿が見えない」
「ジャルベールが自殺したのはそのせいかな?」
「おそらく」
「コンドだけが、ジャルベールの頼りだったか」

ジャルベールの遺体は、執務室の窓の下に寝かされていた。毛布をかけられ、顔は見えないようにされているが、覆いきれなかった足だけが、上等の革靴を履いたまま、たけのこのように天井を差して固まっていた。

「国民にはどう知らせたらいいと思う? いやそもそもこれはわれわれの仕事なのか?」
「護衛はジャルベールが死んだ時点で終わりだろう」
「静かだな。他の職員はどうした?」
「知るもんか」

護衛官だけで話し合った結果、とにかく遺体はしばらく動かさないでおくことになった。警察に連絡すればすぐにコトがばれる。護衛官だけでは何の判断もできない。よい案が浮かぶまで、しばらく自室で待機、ということになった。でたらめにもほどがあるが、他に何も思い浮かばなかったのだ。

エミール・ガズルは自室に戻る前に、大統領府内部をめぐってみた。大方の職員は逃げたようだ。何てことだろう。国が大変なことになっているというのに、大統領府がほとんどもぬけの空とは。いや、そもそもここは大統領府なのか。あれは、あそこに転がっている死体は、大統領のものなのか?

無力感と冷え冷えとした疲労感に襲われたエミールは、一旦自室に戻った。そしてベッドに座ると、手は自然に電話をとり、番号を押した。

(つづく)




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風の断旗⑩

2018-06-07 04:17:07 | 夢幻詩語



翌朝早々、シリルは執事のダヴィドを伴って病院を出、自邸に戻った。門の前にはもう、彼の慈善を目当てに集まっている市民の群れが見える。

ジャガイモはまだあるはずだ。パンを焼くための小麦粉もまだ残っている。シリルは頭の中で素早く計算した。

「ガソリンはまだ残っているな」シリルの声に、後からついてきた執事のダヴィドは素早く答えた。「はい、タナキアを半周できるほどには」

「それだけあればいい。運転手に言え。トレガドに行く。ジャルベールに、たっぷりと文句を言ってやる!!」

何が保養だ!!と叫びながら、シリルは浴室に飛び込み、手早く体を洗った。疲れなどふきとんでいた。昨夜見た病院の風景が目に焼き付いている。何かをせねばならない。とにかく彼は今、大統領を相手に、大芝居を打つつもりだった。頭の中で脚本を練りながら、その芝居のための衣装も考えた。

頭を乾かし、油をつけて整えると、執事に命じて、議員時代のスーツを出して来させた。きつい芝居をするには、かっこうが肝心だと言うことを、シリルは知り抜いている。人間は何よりもまず、見栄えで判断するからだ。

上等な葉巻を入れた、これまた上等な煙草入れと、一目で高級とわかる銀色のライターをポケットに入れ、おそろしくしゃれたスカーフで首を絞めた。鏡に映った自分は、どこの王侯貴族にも引けを取らないほど、立派に見える。これでいい。

頭の中を流れる脚本の中で、二度とこんなことはするなとジャルベールに怒鳴りながら、シリルは帽子をかぶり、ガソリンをたっぷり食った車に乗り込んだ。そして、よし、出せ、と運転手に命じる寸前、執事のダヴィドが慌てて追いかけてくるのが目に入った。

「だんな様、だんな様、お待ちください!!」

何事かと車の窓を開けると、とびこむようにダヴィドが首を突っ込んできた。そして声を潜めながら言った。

「密偵からの連絡です。ジャルベールが、アミスコットの大統領府で、首を吊ったそうです」

「何・・・・・・?!」

シリルは目を丸々と見開いて、ダヴィドを見返した。頭の中で作っていた脚本が、ばっさりと鎌で刈り取られたように、ふきとんだ。

まさか、一国の大統領が、首を吊る? こんなときに?

にわかには信じられなかった。だが密偵の情報を疑うことは難しい。こんなときにそんな嘘が言えるわけがない。いやしかしまさか・・・・・・。たしかめてみなければわからない。さまよう思考とは別に、シリルの体は自動的に動いていた。朝食をとっていなかったことを今さらに思い出し、急に空腹を覚えた。ダヴィドにパンと水をもって来るように命じながら、シリルは脚本を新たに作り直した。とにかく、いかねばならない。

そして車の中で素早くパンをかじりながら、彼は厳然と運転手に言った。

「トレガドはやめだ。アミスコットに向かえ」

「ウィ、ムッシュー」

車は軽いうなりをあげて、滑り出した。

(つづく)




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風の断旗⑨

2018-06-06 04:18:33 | 夢幻詩語


負傷者は、肩と右腕を黄色い布で巻かれていた。カーテンか何かの布だろう。目を固く閉じた顔が、黒糖のように黒くなっている。息はしているが、もう長くはもつまい。シリルはこみあげるものを感じ、うつむいて手で顔をおおった。

「なぜだ。なぜこんなことになった・・・・・・」

しばし沈黙が続いた。シリルは気付いていなかった。病院の中を迷っているうちに、時刻は夜になっていたのだ。執事がついてきているはずだが、あまりの惨状に呆然として歩いているうちに、はぐれてしまった。

暗闇が迫ってきた。時々負傷者のうめきが聞えるだけで、恐ろしい静寂に辺りは覆われた。椅子に座った姿勢のまま、シリルはいつしかうとうとしていた。その耳の中に、微かに美しいメロディが聞えて来た。透き通るような美しい音だ。同時に、薔薇の甘い香りも流れて来た。

シリルは夢の中で薔薇の庭の中にいた。ああ、これはうちの庭ではないか。園丁のアンブロワーズが、いつも世話をしている、自慢の薔薇の庭だ。最近は忙しくて見る暇もなかったが、アンブロワーズはちゃんとやっているらしい。なんといいにおいだろう。

記憶があざやかによみがえってきた。ふと、かすかに戦闘機の音が聞えて来た。見上げると、たった一機の戦闘機が、銀色に光りながら、青空を横切っていた。ああそうだ。だれかが言っていた。

「この国は、ガラスのアコーディオンを弾くように、難しい・・・・・・」

シリルは寝言のようにつぶやく自分の声を聞いて、目を覚ました。するとその耳に、誰かの答える声が飛び込んできた。

「おや、だんなにも聞こえるんですか、あの音が」

シリルは寝覚めのぼんやりした意識の中で、声の主を探したが、薄暗い常夜灯の明りの中では、負傷者たちの群れはまるで不確かな塊のようで、だれがだれだかわからなかった。

「あれは、ノエルが弾いてるんですよ。毎晩毎晩、おれたちのために」

声は続けた。話し方から察するに、若い男ではなさそうだ。

「あの音は、いいやつにしか聞こえないんです。誰も知らないことだけど・・・・・・」

「ほう、それはどういうことだね?」シリルが尋ねると、男は一、二度せき込んでから、答えた。

「だめですよ。こんなこと、だれにでも教えちゃだめなんだ。ああ、ジャルベールなんかに、入れるんじゃなかった・・・・・・」

声はそこで途切れた。沈黙と暗闇が、どうしようもない眠気をともなって、おおいかぶさってきた。

(つづく)




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風の断旗⑧

2018-06-05 04:17:53 | 夢幻詩語



爆撃そのものは、三十秒ほどで終わったらしい。だが町は一日中燃え続けた。時ならぬ妖火が、チュリオンの西の空を焼いた。異様な臭いが、風に混ざって流れて来た。

ロメリアの戦闘機の部隊はすぐに去った。彼らを追撃するアマトリアの戦闘機は、一機も現れなかった。

「ジャルベールはなにをしてるんだ!」シリルは窓から西の空を見ながら、吐き捨てるように言った。

その日の夕方ごろ、タイカナから流れてきた負傷者の行列が、チュリオンに現れた。タイカナはもはや焼け野原になったので、助けを求めて、隣町のチュリオンにやってきたのだ。

やけどを負い、足を引きずり、みじめに破れた服を着た人間たちの群れは、まるで亡者の行列の様にも見えた。チュリオンの住人は息を飲んだが、反応の早い人間が、真っ先に行列に声をかけ、彼らをチュリオン最大の病院に案内した。

途中で歩けなくなった負傷者を、背負って歩く住民も多かった。みな、ほとんど何も言わなかった。ただ、涙だけが、物言わぬ叫びのように、人々のほおを流れ続けていた。

その日の夜、チュリオンの大病院は、タイカナから流れて来た大勢の負傷者で埋まった。ベッドの数など足りるはずがない。床や机の上にも毛布を敷き、患者をあちこちに寝かせて、てんてこ舞いの手当てが始まった。

消毒薬が足りないという叫びを聞いて、住民が酒を持ち寄ってきた。包帯の代わりに、カーテンやシーツを引き裂いて傷にまいた。下の世話をしてやりたくても手が回らず、たれながしの状態が続いた。後はもう何が何だかわからなかった。

三日もすると、腐臭が漂い始めた。医師も看護師も、手当てに振り回され、死人を外に運ぶことさえ、なかなかできないのだ。地獄のような情景があちこちで起こった。

シリル・ノールも、病院でこの一部始終を見た。密偵の情報から、タイカナのほかに四つの町が爆撃を受けたことを知った。首都アミスコットも一部が焼け野原になったと言う。

シリルは病院を回っているうちに、ベッドに横たわっている負傷者の中に、知った顔を見て立ち止まった。やつれ果てているが、学生時代の後輩に間違いなかった。思わず声をかけようとしたが、死んだように眠っている。だがそこから動くことができず、近くにあった椅子に座り込んだ。

(つづく)




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風の断旗⑦

2018-06-04 04:16:53 | 夢幻詩語


シリルも、毎日の食糧調達に疲れ果てていった。いくら交友範囲の広いシリルとはいえ、限界はある。その限界がひしひしと迫っている、ある日のことだった。

シリルが朝起きて間もなく、冷たい水で顔を洗っていると、執事のダヴィドが叫ぶように声をあげて、洗面所に躍り込んできた。

「だんな様! だんな様! 大変です!!」

「何事だ」

「空が、西の空が燃えています!!」

シリルは息を飲みこんだ。体は反射的に動いた。タオルで顔をふきながら、寝間着のまま外に走り出た。ダヴィドの言った通り、西の空が赤く燃えていた。

午前中だ。夕焼けなどであるはずがない。

風がうなり、空が轟いていた。それが戦闘機の音だと気づくのに、数分かかった。

「タ、タイカナだ! 隣町のタイカナがやられてるんだ・・・・・・!」

「神よ・・・・・・!」

庭に出ていた召使たちが口々に言った。

シリルは呆然としながら上空を見た。釘を並べたように、ロメリアの戦闘機の軍団が光っていた。

「本土攻撃か・・・・・・!」

シリルは邸内に走り戻り、飛びつくようにラジオをつけた。ラジオは戦時下の統制で、常にニュースを流していた。だがラジオは爆撃については何も言わなかった。ただ、大統領ジャルベールが、休暇のため、保養地トレガドにむかうと、それだけのことを小さく伝えただけだった。

シリルはラジオを床に投げつけながら、叫んだ。

「馬鹿者が!!!」

(つづく)




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風の断旗⑥

2018-06-03 04:17:42 | 夢幻詩語


チュリオンという町にある自邸には、毎日のように、飢えた町の人々が押し寄せる。シリルは召使を総動員して、世話に当たらせていた。

シリルがシラテスから持って来たジャガイモを見た時、女中頭のベルタは涙を流して喜んだ。

「ありがとうございます! これだけあれば、千人分のスープができるわ!!」

また後から追加が来る、というと、ベルタは一層喜んだ。箱の中身は屑芋と言った方がよいものばかりで、中には芋というより豆と言った方がいいものまで入っていたが、ベルタの喜びはひとしおだった。

早速女中たちに皮をむかせ、スープの仕込みに入った。もっといいものを作ってやりたかったが、今はかさを増やすために、屑野菜と一緒に煮込んで、スープにするしかない。

大なべを七つも仕込んで、薄い塩味のスープを作る。あればベーコンやハムの薄切りを入れることもあった。そういうものもみな、シリルがどこからともなく調達してきてくれるのだ。

毎日昼頃になると、大小の器を持った市民たちが、二百人近くも列をなして、シリルの屋敷の前に並んだ。

アマトリア人は行儀が良い。こんな非常時にも関わらず、みな順番を守って一列に並び、器にスープを入れてもらっていく。これだけがたよりだという市民も多く、シリルは慈善をやめることができなかった。女中たちも髪を振り乱して働いていた。

来た者みんなに与えられたらいいのだが、長い時間並んでもスープもパンももらえない者もいた。そんな時ベルタは自分の分も人に与えてしまう時があった。

何て時代だろう。何て時代だろう。戦争がこんなことになるとは思わなかった。

人民は警察の耳をはばかって滅多に口に出しては言わなかったが、ジャルベールへの呪詛を胸の中に積み上げている者は多かった。

飢えて死んでいく市民も少なくなかった。シリルは国民が疲弊していく様子を、黙って見ているしかない自分を嘆くことしかできなかった。

民主制とは何なのだ。

すべての人民を幸せにしようとして、すべてを平等にしてみたら、いい人材とよくない人材の見分けもつかない教養の低い人間に権力が渡り、そういう者が大勢集まって、エゴを振り回すようになった。民主制の理想を掲げながら、たくみなレトリックで嫉妬を隠し、人民は高い資質を持つよい人材をことごとくつぶしていく。なぜか。自分よりいい奴が嫌なのだ。自分が一番でなくては嫌なのだ。そういう平等を根底から侮辱するエゴが、民主制の国には、常に嵐のように吹きまくのだ。

(つづく)




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風の断旗⑤

2018-06-02 04:17:39 | 夢幻詩語



小さな国旗がいくつも翻る、不気味な戦時下の町の中を、シリルの乗ったトラックは一直線に、故郷の町チュリオンを目指した。

アマトリアの国旗は本来「時計紋旗」というものである。白い地に青い太線の二重丸を染めぬいたものだが、外側の丸は永遠に続いていくアマトリアの時を表し、内側の丸は、その中で繰り広げられるありあまるこの世界の豊かさを表す。シンプルだが美しい旗だ。アマトリアに古くから伝わる、時の王の伝説を元にしたものである。

しかし今、アマトリア各地で掲げられている旗は、ちがうものだった。「鷹眼旗」という。デザインはほぼ同じだが、色が違うのだ。

ジャルベールの仕業だった。彼は時計紋などという名が、青臭い文人気質を感じさせるものとして嫌ったのだ。だから色を臙脂色にして「鷹眼旗」などという勇ましい名にしたのである。

アマトリアはロメリアに影響されて、民主制の国となったが、今はジャルベールの独断でなし崩し的に民主法は凍結され、事実上ジャルベールの独裁となっていた。国民は文句を言わないわけではなかったが、戦時下の厳しい統制下では、何もできなかった。

ピエール・ジャルベールはほとんど見栄えだけで大統領になったような男だ。軍人上がりのスタイルの良さと、根っこから政治家的でない経歴が、随分と清潔に見えたのだ。

前回の大統領選での対立候補だったシリル・ノールは、伯爵家の流れをくむ国内有数の資産家であり、金の流れからいろいろな不穏な噂を流された。議員としての実績も厚いのにかかわらず、人民の票はジャルベールの方に流れた。

人民は金持ちに嫉妬する。高貴なものが成功するよりも、下賤なものがのしあがるという話を好む。

シリルが金持ちの家に生まれたのはシリルの罪ではない。かえってシリルはそれを、神が自分に使命を与えた証拠だと考えていた。自分にはやらねばならないことがある。だからこの家に生まれたのだと。

平等をうたい上げる民主国家と言えど、選挙には金がかかる。誰にでもできることではない。

自分が大統領になれていれば、国はこんなことにならなかっただろう。ジャルベールは恰好だけのぼんくらだ。政治的なことは副大統領のコンドがほとんどやっているといううわさもあるが、シリルは密偵の話から、それを裏付ける冗談のような情報をいくつかつかんでいた。

シリルの内心の悔しさは相当なものだが、ともかくも今の彼は食糧の調達に忙しい。

(つづく)




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風の断旗④

2018-06-01 04:17:22 | 夢幻詩語


シリルの内面的な焦りとは別に、ジャガイモの買い付けは順調に進んだ。旧知の友人は、こんな時だからこそ助け合わねばならないと言って、かなり安くゆずってくれた。シリルは心より感謝し、旧知を暖めてまた深い友情を結んだ。

シリル・ノールは、国内有数の資産家だったが、今その私財を投じて、食糧不足に苦しむ人民のために慈善を行っていた。このジャガイモも自分が食うために買ったのではない。これでうすいスープを作り、人民に与えるために買ったのだ。

自宅倉庫には、ウリムズにある農場から取り寄せた小麦もある。それに申し訳程度のパン種をこめて硬いパンを作り、毎日のように人民に分けていた。

国のために何かをせねばならない。焦るような気持ちで彼はそれをやっているのだったが、日々もどかしさは募るばかりだった。

自分に、政治的手腕を発揮できる機会が与えられれば、存分にやれることがあるものを。

これが民主制の決定的な難点だ、と彼は思っている。時に嫉妬や低級な願望に振り回される人民が、一時の軽い迷いで、為政者を選んでしまう。それを防ぐ手立てがない。

それはともかく、シリルはジャガイモの箱をトラックに積み込むと、自分もその助手席に乗り込み、運転手に言った。

「最短距離を行ってくれ。ガソリンも節約せねばならない」

すると忠実な運転手は、穏やかな声で、「ウィ、ムッシュー」と言った。

(つづく)




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