本書のタイトルには、「稀代の文才を育てた王朝サロンを明かす」という長い副題が付いている。本書は、2024年2月に朝日選書1041として刊行された。
「はじめに」の冒頭は次の文から始まる。
「紫式部とは、どのような人物だったのだろうか。どのような環境に生まれ育ち、いかにして漢籍、和歌、物語文学のほか、さまざまな有職故実に堪能な女性として成長したのだろうか」この問いかけが本書のテーマである。だが、最初のパラグラフの末文は、「そのいきさつをはじめ、紫式部の生まれた年や名前などもまったく不明といわざるをえない」と明記する。そこから「紫式部の実像」探求が始まる。現存する史資料を駆使して、実像に迫ろうとした書である。史資料を基盤に、根拠を明示した上で、著者の論理と推論が重ねられて行く。そこからうかがえる実像が明らかにされた。ここには学究的なスタンスが貫かれている。
紫式部の実像として、端的な事例を第11章から取り上げてご紹介する。『紫式部日記』の中で、紫式部は清少納言批判を記している。このことは以前に他書でも触れていて、読んだ記憶がある。本書ではその箇所を引用した上で、著者は次のように説明している。
「紫式部の清少納言に対する評価は異常といってもよく、すでに五、六年前に清少納言は宮仕えをやめているため、現実に対面したことはなく、それでも執拗に厳しいことばを連ねる。紫式部はもっぱら『枕草子』と女房からの話が情報源であったはずで、直接交流したことのない彼女に対し、感情的とまで思われるような口吻で批評する」(p290-291)と。そして、この記述について、「道長から宮仕えを求められた折、中宮彰子を、かつてはなやかだった定子文化サロン以上にし、具体的に清少納言をもちだし、匹敵する働きをするように厳命されたのではないかと思う」(p291)と、紫式部の批評ぶりから著者は推論を推し進めている。
これを「実像」の一側面と捉えると、現在NHKの大河ドラマ「光る君へ」で進行中のまひろ(紫式部)とききょう(清少納言)の交友関係は、脚本家の独自の想像力がフィクションとして大胆に織り込まれて進展してきているものと言える。この先どのように『紫式部日記』に記述された内容と整合させていくのだろうか・・・・そんなことが気になる。大河ドラマにおけるまひろとききょうの親交の進展状況から、紫式部と清少納言の関係をイメージする人は、「紫式部の実像」からはかなりかけ離れていくことになるのではなかろうか。紫式部と『源氏物語』、さらには藤原道長がどのように描き込まれるかに関心があるので、他にも部分的な違和感をいくつか抱きながらも、今まで見ることのなかった大河ドラマなのだが、「光る君へ」は見つづけている。
余談として『紫式部日記』での清少納言批評には、別の解釈もある点をご紹介しておこう。池田亀鑑著『源氏物語入門[新版]』(教養文庫)は「作者とその像」において、次のように説明している。
「日記の中で、和泉式部の奔放な行動や、清少納言の衒学的な態度を非難しているのも、決して対抗心や嫉妬心ではありますまい。実は、自分の内部に対する間接的な鞭であったと考えていいでしょう。それだけに紫式部には、みずから高く己を持すといった性格がある」(p37)と。日記記述の解釈にも学者によりかなり幅がありそうだ。
さて、本書の構成をご紹介しておこう。
1章 セレブ二人の間を取り持つ
2章 具平親王文化サロンと父たち
3章 父為時の官僚生活の悲運
4章 紫式部の少女時代
5章 為時の越前守赴任
6章 為時の任務と宣孝との結婚
7章 女房の生活
8章 紫式部の宮仕え
9章 紫式部之宮中生活
10章 中宮彰子御産による敦成親王誕生
11章 献上本『源氏物語』
12章 その後の紫式部
本書から学んだことの要点をいくつか取り上げ、覚書を兼ねてご紹介したい。
1. 紫式部が女房として仕えた当初は「藤原の式部」と呼ばれていたと推測される。
『栄花物語』では「藤式部」と呼ばれている。父為時が式部丞だった。(2章)
2. 中務宮(具平親王)の邸・千種殿は文人サロンの場であり、紫式部の父為時の兄の
為頼は具平親王と和歌における交流があった。為時と為頼は同じ敷地に住んでいたと
思われるため、紫式部はおじから和歌の手引きをしてもらったと推定できる。
紫式部にとり、具平親王は近しい人物であった。宮中の文化から諸芸能に至るまでの
親密な師でもあったと推定できる。 (1章~3章)
3. 為頼・為時の母(定方女)と、具平親王母(荘子)はおば・姪の関係であり、紫式
部と具平親王の祖母は姉妹である。紫式部と具平親王は遠縁の関係でもある。(3章)
4. 夫・宣孝の喪が明けたころから、紫式部が成長する娘賢子の理想的な将来の姿とし
て筆を執ったのが「若紫物語」であり、短編として書かれたと著者は想像している。(8章)
5. 南北朝時代の書『河海抄』は、大斎院選子から中宮彰子に物語の求めがあり、中宮
は紫式部に新しい物語を作り差し出すよう命じた。それで紫式部が石山寺に参籠して
物語を書き始めたとの説を伝えている。『源氏物語』の生み出される端緒となる。
大斎院選子は、12歳で賀茂斎院に卜定めされ、天皇五代57年間その任にあり、物語
を収集し、文化サロンを形成した。選子内親王は具平親王の妹である。(7章~8章)
6. 紫式部が女房となったのは、寛弘2年(1005)12月29日とする説が有力。だが、その
直後から宮中を退出し、出仕拒否の期間が続く。寛弘4年4月当時には、すでに女房で
あったとしかいえない。 (8章~9章)
7. 『紫式部日記』は人に読まれることを前提に書かれた作品である。
寛弘5年7月から始まり、中宮彰子が敦成親王を出産する見聞記は、道長の求めに応じ
て記された高度なドキュメンタリー作品となっている。道長とかその周辺から資料が
与えられないと書くことができないほどの複雑さを含む。(10章)
さらに詳しくは本書をお読みいただくとよい。
本書の中で、著者が興味深いことを述べている。最後にそのことに触れておこう。本文から引用する。
*「物語に登場する人物のようだ」とか、「まるで絵に描かれているのと変わらない」などとする表現が、しばしば清少納言や紫式部の口から出される。当時の人々のものを見る眼は、物語の内容とか絵の場面がまず先に想念に浮かび、その基準で現実の姿を判断していたのであろうか。それほど、日常生活の中に、物語や絵が普通に存在し、人々に共有されていたのであろう。 p247
*清少納言がいた定子サロンにも、大斎院の女房集団にも、わがほうはけっして引けをとらないとする。『紫式部日記』は人々に読まれることを前提にしているだけに、世の人が想像している以上に自分たちは高度な文化集団であると主張したく、それはまた道長の願いでもあった。 p298
紫式部その人を知るための学究的なアプローチとして役立つ一冊である。
それにしても、紫式部は幾重もの御簾の向こう居るかの如く、素顔を見せることのない人だなぁと感じる次第。
ご一読ありがとうございます。
「はじめに」の冒頭は次の文から始まる。
「紫式部とは、どのような人物だったのだろうか。どのような環境に生まれ育ち、いかにして漢籍、和歌、物語文学のほか、さまざまな有職故実に堪能な女性として成長したのだろうか」この問いかけが本書のテーマである。だが、最初のパラグラフの末文は、「そのいきさつをはじめ、紫式部の生まれた年や名前などもまったく不明といわざるをえない」と明記する。そこから「紫式部の実像」探求が始まる。現存する史資料を駆使して、実像に迫ろうとした書である。史資料を基盤に、根拠を明示した上で、著者の論理と推論が重ねられて行く。そこからうかがえる実像が明らかにされた。ここには学究的なスタンスが貫かれている。
紫式部の実像として、端的な事例を第11章から取り上げてご紹介する。『紫式部日記』の中で、紫式部は清少納言批判を記している。このことは以前に他書でも触れていて、読んだ記憶がある。本書ではその箇所を引用した上で、著者は次のように説明している。
「紫式部の清少納言に対する評価は異常といってもよく、すでに五、六年前に清少納言は宮仕えをやめているため、現実に対面したことはなく、それでも執拗に厳しいことばを連ねる。紫式部はもっぱら『枕草子』と女房からの話が情報源であったはずで、直接交流したことのない彼女に対し、感情的とまで思われるような口吻で批評する」(p290-291)と。そして、この記述について、「道長から宮仕えを求められた折、中宮彰子を、かつてはなやかだった定子文化サロン以上にし、具体的に清少納言をもちだし、匹敵する働きをするように厳命されたのではないかと思う」(p291)と、紫式部の批評ぶりから著者は推論を推し進めている。
これを「実像」の一側面と捉えると、現在NHKの大河ドラマ「光る君へ」で進行中のまひろ(紫式部)とききょう(清少納言)の交友関係は、脚本家の独自の想像力がフィクションとして大胆に織り込まれて進展してきているものと言える。この先どのように『紫式部日記』に記述された内容と整合させていくのだろうか・・・・そんなことが気になる。大河ドラマにおけるまひろとききょうの親交の進展状況から、紫式部と清少納言の関係をイメージする人は、「紫式部の実像」からはかなりかけ離れていくことになるのではなかろうか。紫式部と『源氏物語』、さらには藤原道長がどのように描き込まれるかに関心があるので、他にも部分的な違和感をいくつか抱きながらも、今まで見ることのなかった大河ドラマなのだが、「光る君へ」は見つづけている。
余談として『紫式部日記』での清少納言批評には、別の解釈もある点をご紹介しておこう。池田亀鑑著『源氏物語入門[新版]』(教養文庫)は「作者とその像」において、次のように説明している。
「日記の中で、和泉式部の奔放な行動や、清少納言の衒学的な態度を非難しているのも、決して対抗心や嫉妬心ではありますまい。実は、自分の内部に対する間接的な鞭であったと考えていいでしょう。それだけに紫式部には、みずから高く己を持すといった性格がある」(p37)と。日記記述の解釈にも学者によりかなり幅がありそうだ。
さて、本書の構成をご紹介しておこう。
1章 セレブ二人の間を取り持つ
2章 具平親王文化サロンと父たち
3章 父為時の官僚生活の悲運
4章 紫式部の少女時代
5章 為時の越前守赴任
6章 為時の任務と宣孝との結婚
7章 女房の生活
8章 紫式部の宮仕え
9章 紫式部之宮中生活
10章 中宮彰子御産による敦成親王誕生
11章 献上本『源氏物語』
12章 その後の紫式部
本書から学んだことの要点をいくつか取り上げ、覚書を兼ねてご紹介したい。
1. 紫式部が女房として仕えた当初は「藤原の式部」と呼ばれていたと推測される。
『栄花物語』では「藤式部」と呼ばれている。父為時が式部丞だった。(2章)
2. 中務宮(具平親王)の邸・千種殿は文人サロンの場であり、紫式部の父為時の兄の
為頼は具平親王と和歌における交流があった。為時と為頼は同じ敷地に住んでいたと
思われるため、紫式部はおじから和歌の手引きをしてもらったと推定できる。
紫式部にとり、具平親王は近しい人物であった。宮中の文化から諸芸能に至るまでの
親密な師でもあったと推定できる。 (1章~3章)
3. 為頼・為時の母(定方女)と、具平親王母(荘子)はおば・姪の関係であり、紫式
部と具平親王の祖母は姉妹である。紫式部と具平親王は遠縁の関係でもある。(3章)
4. 夫・宣孝の喪が明けたころから、紫式部が成長する娘賢子の理想的な将来の姿とし
て筆を執ったのが「若紫物語」であり、短編として書かれたと著者は想像している。(8章)
5. 南北朝時代の書『河海抄』は、大斎院選子から中宮彰子に物語の求めがあり、中宮
は紫式部に新しい物語を作り差し出すよう命じた。それで紫式部が石山寺に参籠して
物語を書き始めたとの説を伝えている。『源氏物語』の生み出される端緒となる。
大斎院選子は、12歳で賀茂斎院に卜定めされ、天皇五代57年間その任にあり、物語
を収集し、文化サロンを形成した。選子内親王は具平親王の妹である。(7章~8章)
6. 紫式部が女房となったのは、寛弘2年(1005)12月29日とする説が有力。だが、その
直後から宮中を退出し、出仕拒否の期間が続く。寛弘4年4月当時には、すでに女房で
あったとしかいえない。 (8章~9章)
7. 『紫式部日記』は人に読まれることを前提に書かれた作品である。
寛弘5年7月から始まり、中宮彰子が敦成親王を出産する見聞記は、道長の求めに応じ
て記された高度なドキュメンタリー作品となっている。道長とかその周辺から資料が
与えられないと書くことができないほどの複雑さを含む。(10章)
さらに詳しくは本書をお読みいただくとよい。
本書の中で、著者が興味深いことを述べている。最後にそのことに触れておこう。本文から引用する。
*「物語に登場する人物のようだ」とか、「まるで絵に描かれているのと変わらない」などとする表現が、しばしば清少納言や紫式部の口から出される。当時の人々のものを見る眼は、物語の内容とか絵の場面がまず先に想念に浮かび、その基準で現実の姿を判断していたのであろうか。それほど、日常生活の中に、物語や絵が普通に存在し、人々に共有されていたのであろう。 p247
*清少納言がいた定子サロンにも、大斎院の女房集団にも、わがほうはけっして引けをとらないとする。『紫式部日記』は人々に読まれることを前提にしているだけに、世の人が想像している以上に自分たちは高度な文化集団であると主張したく、それはまた道長の願いでもあった。 p298
紫式部その人を知るための学究的なアプローチとして役立つ一冊である。
それにしても、紫式部は幾重もの御簾の向こう居るかの如く、素顔を見せることのない人だなぁと感じる次第。
ご一読ありがとうございます。