鏡海亭 Kagami-Tei  ウェブ小説黎明期から続く、生きた化石?

孤独と絆、感傷と熱き血の幻想小説 A L P H E L I O N(アルフェリオン)

生成AIのHolara、ChatGPTと画像を合作しています。

第59話「北方の王者」(その1)更新! 2024/08/29

 

拓きたい未来を夢見ているのなら、ここで想いの力を見せてみよ、

ルキアン、いまだ咲かぬ銀のいばら!

小説目次 最新(第59)話 あらすじ 登場人物 15分で分かるアルフェリオン

第57話(その5・完)「嘆きよ、我に集え」

目次これまでのあらすじ | 登場人物 鏡海亭について
物語の前史プロローグ

 


5.「嘆きよ、我に集え」


 
 魔術が一時的に造り出した仮想の世界か、あるいは本人の残留思念のようなものを相手にしているのか、いずれにせよルキアンの目の前に現れたアマト・コドゥエは、彼に駆け寄ると、感極まった様子で握手を求めた。
「こんな日が来るなんて。君の名は、《僕の死後(あと)》になってから初めて知った。ルキアン・ディ・シーマー君!」
 初対面でのその勢いに、引っ込み思案のルキアンはいささか戸惑った。だが、アマトはルキアンの様子を気にすることもなく、彼の手をひったくるようにして強く握手をすると、次いで彼の背に腕を回し、親しげに何度か軽く叩いた。
 どう反応してよいか、こういうやり取りが苦手なルキアンにはよく分からず、なされるがままに突っ立っている。
 ――この人は、《嘆きよ我に集え》に応えたはずなのに……。でも、恨みや怒りを吐き出すのではなく、こんなに嬉しそうだなんて。
 もっとも、ルキアンのそんな違和感も長くは続かなかった。アマトはルキアンを抱擁したまま、突然に言葉の調子を抑え、陰惨な声になってつぶやいたのである。その声は物静かながらも、ルキアンの背筋に冷たい感覚を走らせるほどの憎しみを帯びていた。いかに温和で人当たりの良いアマトであろうと、この世を離れる際に彼の抱いていった怒りは、微笑みの仮面の下に隠しておけるほど生易しいものではなかった。
「明けない《永遠の青い夜》のもと、何日も、幾月も、やがては幾年も、僕らは息苦しい地下都市に潜み、ただひたすらに耐え、あの日の青空をいつしか忘れていった」
 アマトの目から活き活きとした光が失われ、瞳孔がやや開いたかのような、虚ろな瞳にルキアンの姿を映している。苦渋に満ちた表情で何かを回想しながら、アマトは問うた。それはむしろ自問だった。
 
 なぜ僕らは、命を奪い合わなければならなかったのか。かつて自身の愛する人や友であったものと。
 
「すべては《エルフ》たちの……いや、宇宙から来た《イルファー》たちの、魔石《ケレスタリウム》がもたらした悪夢だ。彼らを責めることができないのは、頭ではよく分かっているんだ。いや、彼らは、むしろ人類を新たな繁栄に導き、常に善意にあふれ、僕たち愚かな人間に尽くしてくれてさえいた。だが、そもそもの、彼らとの最初の遭遇さえなければ」
 人類とは異なる知的生命体との史上初の接触、そんな未曽有のニュースに目を輝かせる少年時代のアマトの姿が、一瞬、ルキアンの脳裏をかすめた。偏見や雑念のない、純粋な好奇心に胸躍らせる彼の瞳が、ルキアンにはとても眩しかった。その穢れのない輝きに打たれ、ルキアンの青い目からなぜか涙が流れ落ちる。その涙の理由も把握できないままに。
 幼いアマトと入れ替わりに浮かび上がったのは、黄金色の髪とルビーを思わせる澄んだ紅の瞳、そして尖った長い耳をもち、人間より華奢ながらも背丈はひと回り高い、イルファーの女性の姿だった。彼らの民族衣装か何かであろうか、体に密着し、銀の金属光沢を浮かべて輝く水色のスーツを彼女は身に着け、困惑した表情で立ちすくんでいる。多くの人間たちが彼女に詰め寄り、中には殴りかかろうとしている者までおり、さすがに他の人間に腕を抑えられ、なだめられていた。その群衆の後ろでは、アマトがうつむき、拳を握り締め、無言で体を震わせている。
 幻燈のごとき光景が流れ去り、ただ一人残されたアマトがルキアンと再び向き合う。アマトは感情の色のない声で――いや、正確には、嘆きの情念を必死に押さえつけ、自身の奥に封じ込めようとするかのように――遠き未来から来た少年ルキアンに、あの《永遠の青い夜》のもとで起こった出来事を語り始める。
「《ケレスタリウム炉》が稼働直後に暴走、大爆発を起こし、大気中に拡散された青い灰のもたらす《魔染》によって、人間は正気を奪われ、その体さえも人外の者と化し、伝説や昔話の中で《魔物》と呼ばれていた存在と同様のものが僕たちの前に次々と出没することになった。今の時代に君たちが、オークやゴブリン、さらにはトロールなどと呼びならわしている魔物たちの祖先は、《魔染》によって異常な遺伝子変異を起こした僕らの同胞たちなんだよ」
 過去の御子たちから受け継いだぼんやりとした記憶や、パラディーヴァのリューヌから教えられた話などから、ルキアンは《魔染》のこと自体、曖昧には知っていた。けれども、それがやはり真実なのだと、こうして経験者の口から直接に受け取る結果になり、ルキアンの受けた衝撃は想像以上に大きかった。
 決して溢れ出さぬよう、アマトが押さえつけていた怒りが、痛恨の思いが、彼の心の重石を乗り越えて流れ始める。
「僕は、ショウを、息子を……魔物と化したわが子を……彼の命をこの手で終わらせなければならなかった。歪んだ笑顔で僕を見つめる1匹の魔物を。しかし、本当は僕は最後まで手を下すことなく、あの子の意思のまま、殺されるべきだったのではないかと。いや、そうではない。あれでよかったのだと。他の誰かではなく、僕自身が彼の魂を解放してやることが、父としての最後の義務だったのではないか。分からない。僕はあれからずっと迷い、苦しんでいる。もう答えを出してしまった、二度と戻らないあのときのことに」
 アマトの言葉は、御子としての彼自身からルキアンが受け継いだおぼろげな記憶をも呼び覚まし、それに具体的なかたちを与え、互いに共鳴し合ってルキアンの気持ちをなおさらに搔き乱す。
 
 ――パパ、いつか、灰の晴れる日が来たら、一緒に星を見ようね。それから青い空も。約束だよ。
 
 アマトの息子がまだ幼かったときの声が、その姿が、ルキアンの思いの中で、同じ年頃のアマト自身と交錯する。似たように星空に憧れていたアマトが、以前から欲しかった小さな天体望遠鏡を父から手渡され、いっぱいの笑顔を弾けさせている姿と。
 
 己の中に次々と浮かび上がる幻をルキアンは受け止め切れず、うめくように声を上げ、何度も首を振った。
 そんな彼の肩にアマトがそっと手を置いた。
「でも、《永遠の青い夜》のもとで起こったことは、もういいんだ。そこについては、僕は一定の区切りをつけなければ、生きていけなかった。あれは仕方がなかった。誰も悪くない。みんなの善意が、偶然の事故で最悪の結果を招いた。そういうことだと思ってる。だけど許せないのは」
「アマトさん……」
 彼の名を、ただ口にするしかなかったルキアンには、抑えられない怒りをアマトが向けている相手のことが、はっきりと分かっていた。アマトの声が遠くなっていく。
「許せない。僕たちがあんなに苦しんで、日の光の差さない薄闇の世界の中で、大切な人たちを次々と失い、それでも必死に生き延びようと、変わり果てた《地上界》を這いずり回った後、やっと戻ってきた青空と陽光を……ショウが待ち望んだものを……《天上界》の奴らは奪った。自分たちが見捨て、《天空植民市(スペース・コロニー)群》からよそよそしい目で見下ろしていた地上を、僕たちが血の滲むような思いと沢山の仲間たちの屍の山の先に取り戻した惑星《エルトランド》からの恵みを、《天空人》たちは一方的に取り上げた!」
 
「奴らは、ショウが死してもなお、あの子が夢見たものを、まだ奪い取るのか!!」
 
 何かの歯止めが砕け散ったかのように、一気に、アマトの怨念がルキアンの中に流れ込んできた。激しい負の力の奔流を受け止めきれず、心の目を閉ざされかけたルキアン。すると、幻の中で星空の向こうを見つめ、呆然と立ち尽くすアマトの姿がそこにあった。
「そうか……。はは。あはは。これは報いだ。地上人を踏みつけにし、自分たちの繁栄のために散々奪い取った天空人たち。奴らの思い上がりに対して、裁きの刃が振り下ろされたに違いない」
 アマトは、今までの彼とは異なる狂気に満ちた目をして、何かに喝采を送っている。
「そうだ。燃えろ、全部燃えてしまえ、天上界よ。コロニーなんて全て落ちてしまえばいい!!」
 
 いまのアマトは見ていた。《紅蓮の闇の翼 アルファ・アポリオン》が炎の翼を羽ばたかせ、彗星のような長い尾を引いて星の海を飛ぶ姿を。リュシオン・エインザールの呼び声に応え、召喚された《闇》のパラディーヴァ、黒き羽根の天使リューヌがアルファ・アポリオンと一体化し、その機体は、漆黒の宇宙にゆらめく青白い炎の十字架のように変わった。天上界の12の天空都市を防衛する連合宇宙艦隊が、アルファ・アポリオンの放った《ステリアン・グローバー》の莫大な閃光と灼熱に呑まれ、全長数キロにも及ぶ規模の戦闘艦が次々と消滅していく様子を、アマトは身じろぎもせず眺めていた。そして、星空に際限なく伸びた《炎の翼》によって――それは揺らめく炎のように見えるも、実際には人工的に造り出された時空の断絶面なのだが――空間ごと切り裂かれ、数百隻単位の艦が真っ二つとなり、あるいは次元の裂け目に呑み込まれてかき消えてゆく信じ難い光景を。
 
「だから、だから僕は……《紅蓮の闇の翼》を決して蘇らせてはならないと、僕がただの兵器みたいになってアルファ・アポリオンが意のままにすべてを破壊し尽くすことは、絶対に避けなければいけないと。これを見れば、分かる、じゃないか……」
 ルキアンは唇を震わせ、アマトに対してでもなく、誰に対するでもなく呆然とつぶやいた。
 
 もはや守り手を失った天空諸都市を睥睨し、アルファ・アポリオンが《司牧の大鎌》と畏怖されたそれを高々とかかげると、生命を持たない機械の軍勢が、漆黒の宇宙空間を埋め尽くす無人の戦闘ユニットや自律型の《アルマ・マキーナ》の大軍が、コロニーに向かって殺到していく。それを食い止めようとする防衛側の無人機も羽虫の群れのごとく湧き出でたが、怒れる天の騎士の大鎌が輝くと、それらの制御はすべてアルファ・アポリオンに奪われた。
 エインザール博士に従う3つの《柱のAI》、大規模支援衛星システム《マゴス》に搭載された《メルキア》、《ベルサザル》、《キャスペリーネ》は、数多の無人機を戦略レベルでも個々の機体レベルでも完璧に運用し、天空軍の動向をすべて手に取るように把握しつつ、残らず殲滅した。それはもはや《人の子》が立ち向かえる相手ではなかった。何の恐れも哀れみも感じない無人の兵器の大群が、人知の及ばない超AIに制御されて襲い掛かる状況は、魔王に操られた不死者(アンデッド)が押し寄せる有様を思わせる。否、それ以上に戦慄すべきものであった。
 そもそも勝敗は戦いが始まる前に決していた。《柱のAI》は、天空植民市のインフラやネットワークはもとより、同じく天上界側の政府機関・軍事組織の主要な管理AIを、開戦と同時にほぼ支配下に置いていたのである。その上で《天帝宮》と《世界樹》をネットワークから孤立させ、戦いが進む中、最終的には当該惑星圏の制宙権までも掌握するに至った。
 
 アマトは引きつった顔で、生気のない不自然な笑みをルキアンに向けた。
「僕にも、やっと見えたよ。天上界は、天空植民市群は滅びたんだね。そうだね? あの炎の翼に、裁きの大鎌に、天空人たちの街は焼き尽くされたんだ。ははは。よかった、ショウ、見ているか。僕たちの恨みは《紅蓮の闇の翼》が晴らしてくれたんだ。いいじゃないか。あはははは。それで、それで……よかったんだ……天上界なんて、滅びてしまえば……」
 しかし、復讐が果たされたことに歓喜し、最初は狂ったように笑いながらも、やがてアマトの声は徐々に小さくなり、途絶え、そして、静かにしゃくり上げるように彼は泣いていた。
 ルキアンは、どこで語り掛けようかと、その瞬間を探して迷っていたが、意を決したように粛々と告げた。
「あなたの次の御子、僕の先代の御子であるリュシオン・エインザールによって、彼の生み出したアルファ・アポリオンによって、天空植民市のいくつかは破壊され、無数の天空人の命が宇宙に失われました。僕は、エインザール博士が狂信的なテロリストだったのか、地上を天上界から解放した英雄だったのか、まだよく分かりません。ただ……ただ、おそらく、アマトさんも今は知っているように、人類は……」
「そうだね。僕は知っているよ。地上界が天上界に勝利した後、人類は何らかの理由で滅亡して、僕たちの世界は……君たちのいう《旧世界》は消え去った」
 気が付くと、アマトはいつの間にか再び、彼らしい穏やかな表情を取り戻していた。
「ねぇ、ルキアン君。旧世界の人類は、天と地の争いの果てに滅びた。それは、救いのない愚かな人間という者に対する、神のくだした罰だったのかな。僕らは争い合って、やられたらやり返し、取られたら奪い返し、殺されたら、その何倍も殺し返そうとした。愚かだった。でも、そうするしかなかった。ただ奪われ続け、ただ黙って命を踏みにじられるだけというのは、地獄よりも辛く、そして何より誤っている。そんなことを認めてよい道理などない。だから、たとえ一方的な正義でも、一瞬の勝利でも、力ずくでもそれを示さなければ……。だけど、結果だけみれば、そんな憎しみの応酬の果てには何もない。それは地獄にしか続かない一本道なんだよ」
 複雑な面持ちで彼の言葉を聞いていたルキアン。彼は、争いの連鎖は何も生まないというアマトの想いに半ば共感し、半ば疑問を覚えながらも、慎重に、静かに言葉を返す。
「あの、アマトさん……。僕も同じような問いかけを、ある人にぶつけたことがあります。言葉で分かり合おうとしない相手に対して、ただ蹂躙されるままに耐え続けるよりは、双方が傷つくことになっても戦う方がよいのか。そうではなくて、たとえ理不尽や暴虐に目をつぶってでも、長い目で見れば戦わない道が正しいのか。分かりませんでした。でも、迫る現実の中では、そこで答えを選び取らないわけにはいかないのです。人が己の存在をかけたそのような選択に対し、それがどのようなものであろうと、間違っているだなんて簡単に否定することは、僕にはできません」
 これから何か大切なことを伝えようと姿勢を正し、御子としての威厳をにわかに浮かべたルキアンに、アマトは少し驚いている。
「ですが、その選択を……たとえその道の先には破滅しかなくても、人が自由に選択すればおそらく誤った道を選ぶことになるのだとしても、それでも、選び取るのは僕たち人間自身じゃなきゃ、だめだと……思うんです。この世界に予め定められた目的、《人の子》のさらなる高みへの昇華に向けた筋書きに、僕らのような《愚かな人間》たちが何も知らずに背いたとしても、だからといって、人間自身の選んだ道の先にある様々な未来を摘み取り、地獄に続く道だけを残して、そこに人を追いやり、世界を《リセット》するようなことは絶対に許してはいけないんです。たとえそれが《神の意志》、つまりは《あれ》が本来備えている《絶対的機能》の一環なのだとしても」
 一気にそう言ってのけると、頬を紅潮させ、上気して眼鏡を少し曇らせて、ルキアンはアマトに頭を下げた。
「だから、僕にあなたの想いを預けてください、アマトさん」
「ルキアン君……」
 アマトは困惑しながらも、やがて彼の表情の中で、希望や信頼がそれを超えて広がっていった。
「君を信じる。必ず、《あれ》の《御使い》に勝って。僕の、ショウの、気持ちを晴らしてほしい」
 
「あの青空を、澄んだ星の海を、今度こそ必ず取り戻してほしい」
 
 そう願ったアマトの顔に優しい微笑が戻ったことを、ルキアンは無性に嬉しく思った。
 --そうですね。《優しい人が優しいままで笑っていられる世界》に近づきたいんです。アマトさん。
 そんな彼に頷きながら、アマトは後ろの方を手で示すのだった。
「ありがとう。君のおかげで、僕の気持ちは落ち着いたよ。だけど、まだ沢山の人たちが君を待っているようだ」
 しばしの沈黙の後、ルキアンは厳かに一礼し、アマトのもとを去った。
 
 ◆ ◇
 
 アマトの意識が離れていくのを感じた直後から、異なる人々の無数の思念が、また新たにルキアンに流れ込んでくる。それは、暗闇に投げ込まれたたったひとつの灯に、失われた沢山の魂が手を伸ばしてくるようなイメージとして、彼には感じられた。
 真っ暗ではないのに、何も見えない――むしろまばゆい光の中で、数多くの気配に埋め尽くされているのだが、そのひとつひとつは認識できないという不思議な状況の中、ひときわ強い想いが伝わってくる。先ほどのアマトのときと同様に。そのうちでも明らかに大きい、つまりは憎しみや悲しみの情がいっそう深い、負の感情の力の一段と強いところに、ルキアンは精神を集中する。
 前ぶれもなく肩や背中がずっしりと重くなり、負のエネルギーの大きさにルキアンは吐き気を催すほどだった。気が付けば、時計と人形、そして精密な工具であふれかえった部屋の中に、彼は呼ばれていた。その片隅で作業用のスツールに腰掛けていた職人が、薄紫色の大きな瞳を不自然に透き通った笑みで満たし、おもむろに振り返った。茶色い髪を頭の後ろで無造作に束ね、あくまでも穏やかな面持ちの青年の姿と、彼を前にして得体の知れない寒気を感じ、再び嘔吐感を覚えざるを得なかったルキアンの姿とが、強烈なコントラストを成している。
「この、息苦しい空気感は。この場を支配する底無しの……あきらめの……心は」
 職人の青年は、自ら造り上げたのであろう愛らしい少女の人形を手にして、寂しそうに瞼を閉じ、そして言った。
 
「本当に美しいものは、創り物の中にしかありません」
 
 そう告げた彼が口元に哀しい微笑を浮かべるが早いか、彼の愛した世界を――自らの手になる作品に囲まれ、その物言わぬ体に宿した命が息づくような無数の人形たちと、精巧無比の仕上がりで時を刻み、整然と協奏を続ける数多くの時計とともに、彼の姿を――荒れ狂う業火が一瞬で呑み込んだ。炎はさらに勢いを増し、手を伸ばしたルキアンまでも舐め尽くさんばかりであった。
 青年の心の本質的な部分に何ひとつ触れられなかったことに、落胆するルキアン。だが、先も見えないほど燃え盛る火焔の渦の中から、安堵の思いに包まれた心の声が響く。
 
 ――ありがとう。僕の嘆きを受け止めてくれて。悲しまないで。僕は最後の最後で、大当たりを引いたらしい。次の世で生まれる御子、新たなる地の御子、その名はアマリア。悪いね、あなたにすべてを託そう。もう、疲れた……。
 
 ◇ ◆
 
「あれ? 僕は、あの後、どうして」
 意識を失っていたことを、いま目がさめて、初めてルキアンは自覚した。行く手を阻む猛火がまだ燃え広がっているように錯覚して、彼は思わず起き上がり、その場から夢中で退いた。すると背中が何かに当たった。それは温かい、人間の体の感覚だ。
「目が覚めたか。ほぅ? そちは、いずれ来る世の御子のようじゃの。なんじゃ、《闇》ではないか。《水》ではないのか」
 おっとりとして穏やか、気品がある一方、どことなく、取りすまして高飛車な感じもする中年の女性の声だ。
「すべて言わずともよい。分かっておる。そなた、名は何と申す? 我は《海皇(かいおう)》ソラ。この地において大海の民を統べる者。水の御子じゃ。海の王にして水の御子たる我が、ソラ(空)などという名、奇妙じゃろ?」
 人跡も稀な氷の海を連想させる、透き通るような水色の髪を、頭上で左右に巻き、天女の衣を思わせる衣装をまとった彼女の姿は優美にして、しかし他者を寄せ付けない透徹した威厳があった。
「僕は、ルキアン・ディ・シーマー、闇の……あ、あ、あの! すいません!!」
 気が付くと、高貴な竜宮の女王の膝を枕に借りている形になり、その柔らかな感触にルキアンは慌てて起き上がろうとした。
「よい、よい。気にするでない、兄弟よ。そなたは御子、魂で結ばれた御子の絆は深く、それに比べれば、我に流れる人の世の王の血など、薄い水のようなものじゃ。もっと近こう寄れ。その顔をよく見せよ」
 最初の印象とは異なり、ソラには包み込むような温かさもあった。
 ――この人は、王として、御子として、求められる役割を忠実に果たすことに慣れ過ぎて……幼い頃からそういうふうに教えられながら育ったのだろうか……自分自身として、ひとりの人間として生きることを忘れて。
 結局、ソラの言葉に甘え、彼女の膝枕で安らぎを覚えつつあったルキアンは、選ばれし者としてのソラの孤独を、得意の妄想癖であれこれと勝手に思い浮かべ、悲しい想いに満たされた。そんな彼の耳に、何気ない調子でソラが口にした言葉が、寂しげに響いた。
「弱さを……みせられなかった。いや、他者に対してではない。我自身が未熟であったがゆえ、己の弱さを認めたくなかったのじゃよ」
 独り言のようなソラの言葉に、どう答えてよいものかと固まっていたルキアン。彼女は飄々とした様子で言った。
「強くなど、なりとうなかったわ」
 しばらく二人の間で沈黙があった。
 続いて海皇ソラは改まった調子で告げる。その口ぶりが、なんともぎこちなく、ぶっきらぼうな感じがしたものの、ルキアンはそれを悪くは思わなかった。むしろ快く受け止めた。
「のう、闇の御子よ。おりいって、その……水の御子のことを頼む。あれには、弱さを打ち明け、支え合える仲間が必要じゃ。我らの世界には、残念なことに闇の御子はおらなんだがの」
「はい。イアラさんのことは、僕たちで、何とか頑張ってみます。それで……」
「分かっておる。我の嘆きを汝に託そうぞ」
 ソラはルキアンの手を取った。最初に会った時よりも、血の通ったぬくもりを感じられたような、ルキアンにはそんな気がした。彼は黙礼し、海皇のもとを去った。
「良いひとときであった。若き御子よ」
 彼の去り際、霞の向こうに消えゆく姿とともに、ソラの声が遅れて届いた。
 
 ◆ ◇
 
 なおも様々な時代の、様々な世界の、人々の想いがルキアンめがけて渦を巻く。
 東の果て、古の時代の気高き伝説の戦士《サムライ》、その姿はナパーニア人のことを、たとえばギルドのサモン・シドーのことを思い起こさせるような――そんな一人の若武者が、焼け落ちる城を前にして、彼らが人前で見せることを避けたという、それでも今はとめどなく流れる涙を、敢えてそのままにしていた。
「何故(なにゆえ)か。こんなことであれば、最初から大切な者たちのために、拙者は……」
 大小二振りの刀を腰に帯び、ルキアンには見慣れぬ異国の鎧、しかし細部まで見事な縅(おどし)によって堅牢かつ美しく仕上げられた甲冑をまとい、侍は何かに詫びるように、両手を地面につき、深くうなだれてしめやかに落涙するのだった。
 その姿は哀しくも、ある種の極限的な美しさをたたえており、ルキアンは、不謹慎だと言われようとも、もっと彼の姿を見ていたいという心持ちになった。だが、そんなとき、目の前に揺れる幻の風景が変わった。
 
「わたし、どうしようもなく、愚かだった……」
 
 青い髪の少女、まだうら若い娘が、その身を鋼の鎧に包み、手に余るような長剣を振りかざして軍勢の先頭に立ち、突撃してゆく。
 
「私のしたことって、一体、何だったの? 何だったの!?」
 
 彼女は絶望に引きずられた目で、狂戦士のように剣をふるい、敵の返り血にまみれ、それでも獣のように雄たけびを上げつつ、さらに多くの敵軍の中に分け入っていった。その壮絶な姿は、神々しくも異様であった。敵はもちろんのこと、味方の兵すらも彼女の殺気に押され、本能的に退き、戦う姿を遠巻きに見ているしかなかった。
 ルキアンは彼女に声をかけようとしたが、彼女の狂気の度合い、他者を拒否する心の壁があまりに大きすぎて、今のルキアンでは青い髪の騎士の乙女に言葉が響かなかった。
 先ほどからの短い経験の中でも、嘆きが深すぎて想いの声の届かない相手がいることを、ルキアンは理解しつつあった。彼女の場合もそうなのだろう。自身にそう言い聞かせ、彼女の思念からひとまず離れたルキアン。だがその後も、数え切れないほどの嘆きが、負の情念に満ちた強い想いが、ルキアンに集まってくることをやめない。
 
 未来の星の海で、昆虫のような姿をした異形の宇宙怪獣と戦う人類の艦隊、敵のあまりの規模と強さに絶望する彼ら。残った旗艦が、最後の意地のために無謀な特攻を仕掛けてゆく。
 
 そして今度は、過酷な戦いに支配されたこれまでの世界とは別に、一見、平和を満喫しているような近未来風の壮大な都市が現れた。ただ、満ち足りた環境の中で、ひとたび道から外れた人々の心の闇が深まっていく様子は、《旧世界》の天上界の社会情勢をルキアンに想起させた。あの《パラミシオン》の旧世界の塔における一連の経験と同様に。
 電子機器の端末を目の前にして、薄暗く狭い部屋にひとり、とてもではないが健康的とは言いづらいジャンクフードの包装の山や高カロリーの飲料の空きボトルに埋もれつつ、無心にキーボードを叩く男の姿が、いくつか、ルキアンの目に焼き付いた。彼らの中には、いまの自分の置かれた世界に憎しみを募らせ、すべてを犠牲にしてでも爪痕を残したいという恐るべき心情が感じられ、何が彼らをそこまで追い詰めたのか、ルキアンはここでも闇の深さに言葉を失うのだった。
 
 彼は目を閉じ、静かに息を吸い込んだ。
 それが何かの決意の表れだったのか、ルキアンの心はそこで元の世界に戻ってきた。エレオノーアに支えられ、隣に立つルキアンの身体がゆっくりと息を吐き、再び動き出す。
「おにいさん、やりましたね! お帰りなさい、なのです」
 エレオノーアが声を弾ませ、ルキアンに微笑んだ。彼女たち、こちらにいた者にとっては一瞬の間だったが、その間にルキアン自身の魂はどれだけ多くの世界を渡り、時を超え、いったいどれほどの嘆きの声を聞き届けたのかを、エレオノーアは理解していた。
 重々しい動作で、辺りを支配する静謐の中で、ルキアンは脚に力を込め、しっかりと大地を踏みしめ、両手を掲げた。
「もういいよ。もう、繰り返してはいけない。あんな想いを永遠に繰り返させることは、やめさせなければ。この世界を《リセット》させることなど、決して認めない」
 かけがえのない我が子をその手にかけなければならなかったアマトの、絶望の叫びが。心を凍らせ、ほほえみを捨て、王として、御子としての使命に殉じた海皇ソラの、表情を失った瞳が。あまりにも深い断絶をこの世界との間に感じていた孤独な天才職人の、底知れない諦念を浮かべた笑顔が。御子たちの想い、そしてルキアンに気持ちを託した数え切れない人々の嘆きが。あらゆる時間と空間を超えて、このか細い背中の、銀髪の年若い御子のところに集まり、ひとつになり、巨大な霊気の柱となって天を突き、さらに大きく広がり、強い輝きを放つ。
 無数の嘆きの向こう側、彼らが本当に望んだ優しい世界の姿を理解しつつも、その上でルキアンは、夥しく集まる嘆きの念を敢えてそのままに受け取り、怨念に満ちた力の言葉を、短く口にした。
 
  暗黒よ、呪いよ、滅ぼせ。
  現世(うつしよ)にいでよ、憎しみに満ちよ。
 
  嘆きよ、我に集え。
 
 闇の御子に集い、この世界に熱量をもって具現化された《嘆き》の力が、御使いの竜をまさに葬り去ろうとしたそのとき。
 
「止めよ、ルキアン・ディ・シーマー!」
 突然、緊迫したアマリアの声が響く。ほぼ同時に、視界が不自然に揺らぎ、身体はもとより意識すらも無理やりに震わされたような、強大な霊的振動波がルキアンたち全員に伝わった。
「何だこれは、頭が……。立っていられない」
 グレイルが苦痛に顔をしかめ、よろめくように片膝を突いた。
 エレオノーアは慌ててルキアンを抱きかかえる。
「おにいさん!」
 何が起こったのか、よく分からないまま、再び皆が正常な状態を取り戻した時には、すべてが終わっていた。
 
「引いたか……」
 アマリアが杖を宙空に向け、何かを放とうとしていたようだったが、彼女は杖を下ろした。
「今の強烈な時空振動。御使いの本体が、あの似姿を取り戻すために転移魔法を用いた際の影響だろう。御子の結界を超えて影響を及ぼすとは、さすがに《時の司》というところか。しかし、これでよい」
「アマリアさん!?」
 不安げに近寄ってきたルキアンとエレオノーアに、アマリアは一瞬言葉を呑み込み、わずかな黙視の後、表情を和らげた。この戦いを通じて、ルキアンが初めて見たアマリアの笑顔だった。 
「よくやったな。二人の闇の御子よ」
「え、あの。竜はどこに……。はい?」
 よく事情が分からず、顔を見合わせている銀髪の少年少女に、地の御子アマリアに代わってフォリオムが告げる。先程までは、老いてなお手強い大魔道士のような、近寄り難いオーラをまとっていた地のパラディーヴァも、今では好々爺のようにうなずいている。
「闇の御子よ、おそらく、お前さんの最後の魔法に集められた力が予想外に強すぎて、仮に正面からくらえば《化身》ひとつを完全に喪失すると、御使いどもが考えたからかもしれん。普通なら、たとえ倒されても、あの類の手駒は何度でも蘇るから、御使いにとっては捨て置けばよいものにすぎない。ところが、今の魔法を受ければ、あの化身は存在の根源すら喪失するところだったのじゃろう」
 フォリオムの言っていることが十分には理解できなかったルキアンも、ともかく四頭竜の化身が、その本体である《時の司》によって無理に引き戻されたことは理解できた。彼らの周囲で不思議そうな顔をしている他の御子たちにも分かるよう、次いでアマリアが説明する。
「御使いというのは、《人の子》に対して自ら手を下すことは基本的にできない。それが奴らの《法》の定めらしい。奴らは自分たちの《法》に絶対的に忠実だ。だから、もし、我々と戦っていたあの竜の似姿を完全に失った場合、奴らにとってそれは人間世界で動くための手足を永久にひとつ奪われたことを意味し、大変に面倒なことになる。だから、あの《時の司》が、敢えて逃げを選択したのだろうな」
 いつもの厳格で感情表現の薄い口調に戻ってそう告げると、アマリアは、ルキアンの方を見つめる。
「君に集った嘆きの力は、それほどまでに大きかった。闇属性魔法の秘奥義、《嘆きよ我に集え》、見せてもらったぞ。四頭竜の化身は取り逃したが、これで因果の糸はつなぎ直され、固定された。つまり、エレオノーアを取り戻したということだ」
 彼女の言葉を待っていたかのように、エレオノーアが有頂天になり、ルキアンめがけて飛び込んだ。
「おにいさん! もう、絶対に離さないでくださいね!!」
 勢いのあまりルキアンを押し倒し、彼ごと地面に横たわるエレオノーア。彼女はなおもルキアンに頬ずりしようとしている。まわりの目を気にして、そんな彼女を両手で押し返そうと慌てているルキアン。
 
 二人の姿を微笑ましそうに見つめる者、大笑いする者、呆れて溜息を付く者――この場にいるそれぞれの御子とパラディーヴァたちが、自分たちの勝利をようやく実感した瞬間だった。
 
【第57話 完】
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