館山は川連町古館にあって川連城(別名黒滝城とも云う)のあったところである。
昔、岩崎城の殿様には、能恵姫という娘がいた。姫は十六才になり、川連城の若殿(小野寺桂之助)へ嫁ぐことが決まっていたが、婚礼の日に城下にある皆瀬川の淵に呑まれ、そのまま帰らぬ人となってしまった。姫は幼い日の約束を果たすため、サカリ淵の大蛇の妻となり、竜神と化したのだった…。
岩崎城址千歳公園には、姫を祭る水神社があり、姫の命日には「初丑祭り」が行われる。公園の広場には、姫を忍ぶ能恵姫像も設置されている。岩崎の人にとって能恵姫は、はるか古(いにしえ)の精神の源流を紡ぐ人のような存在にみえる。
竜神夫婦はその後、サカリ淵へ上流の鉱山から流れ来る鉱毒を嫌って、いつしか成瀬川をさかのぼり、赤滝に落ち着いたと言われ、これが赤滝神社の縁起である---と。
川連城 遠景 中央から右側 杉林付近
姫の死(失踪)をきっかけに、川連に龍泉寺(現在は野村)が建立された。能恵姫の婚約者であった川連城主の若殿が建てたといわれ、今も寺には姫の位牌が祭られている。川連の寺跡には、当時植えたといわれる榧の老木が歴史を物語っている。根元に姫のお墓も残されていて、失った人の悲しみを今に残している。川連城主小野寺氏、岩崎城主岩崎氏ともその後の戦乱に巻き込まれ滅亡した。能恵姫の話だけが老人から子供へと語り継がれ、420年の年月が過ぎようとしている。
岩崎地区では今でも能恵姫に因んだ祭りや行事が盛んだが、若殿地元ではなにも行事らしいものはない。
お城のあった館山は古館の地名で城跡に稲荷神社がある。いかにもキツネの棲みそうな地形でもある。
現在稲荷神社になっている
川連城が築かれたのは源義家東征の「後三年の役」(1083年(永保3年)の頃と言われている。
築城したのは清原武衡、家衡の一党の野武士団で首領は梶美作守と伝えられている。
その後雄勝郡に入部した小野寺氏が更に築城し居城したとされる。
貞和五年「陸奥国先達檀那系図注文」に「出羽国山北山本郡いなにハ殿、かわつら殿、此人々ハ大弐殿先達申し候、常陸法眼房弟子の大弐房にて候、」とある。
小野寺正系図は十六世紀中葉に小野寺晴道四男道俊が川連氏を名乗ったと伝えられている。
川連城は別名、黒滝城とも云う。城郭は上方南北の稜線に展開し、まとまりを持つ三つの郭郡よりなる連郭式で北端の郭群は五段の帯郭を成し、その南に比高5mで四段の帯郭群がある。この間は上幅5m基底幅2mの空堀で遮断される。東に犬走り・腰郭が認められる。主郭はこれに隣接する東西30m南北60mの平坦地で南東隅に高台を持ち、明神社を祭る。南端は上幅10m深さ5mの薬研堀で遮断される。
この山城に東側の「ウナリ沢」の中腹、約300㍍位離れた所から水を引いていた。つい数十年前まで雪消頃になるとその水路らしい物が見えた。今でも注意してみれば確認されると思うが、山の木を伐る習慣がなくなってからは鬱蒼とした雑木で見ることが難しくなった。
慶長五年に最上義光は雄勝郡の小野寺一族の三城(川連・稲庭・三梨)の攻略に着手する。
川連城には楯岡満茂を大将に2500余人で攻め寄せてきた。高田右馬之助や城主小野寺道基の防戦むなしく落城してしまう。
平城は現在、市役所稲川支所が立っている。国道398号線沿いに「古城址」の古い石碑がある。
金沢の柵にいた清原家衛、武衛が八幡太郎源義家の軍に征められて落城したのが有名な御三年の役(1087年)。平城は、当時清原の家臣、梶美作守の居城だった言われている。
近くに烏帽子橋(えぼがみさま)があり、旧小安街道(十文字から仙台領間)は現在の消防署前から東方向へ左折し、300m程進んで南方向へ右折して烏帽子橋を通って現在のスーパーのところで下宿へ通じ、蛇行していた。
現在の道路になったのは昭和になってからだという。1965年9月県道になり、1981年4月に湯沢市と宮城県石巻を結ぶ国道へ昇格し398号線となった。(現在は由利本荘市まで)
平城の面積は約1.2㌶、ほ場整備で現在はその面影を想像できそうもないが、ほぼ真四角で役場庁舎や体育館が立つ前は水田で周りは1mほど高く10 m幅の畑になっていた。その周りに幅10mほどの堀があった。
その堀は周囲よりも2m、周りの水田より1mも低くいかにも「古城址」らしさを保っていた。田んぼになってどのくらいたったのかはわからない。
想像するに田んぼになる前には当然木々が生い茂っていただろうと思われる。この場所は川連、大館、野村、下宿の四つの集落のほぼ真ん中にあり、歩くとちょうど休み場所になる交通の目安になったところだ。地図の中心四角にはっきりと記載されている。
だから、平城の「ヒラコ」が語られてきたのだと思う。
この昔話で平城の「ヒラコ」だけキツネのメスで館の「太助」、切崖の「季え門」、森コの「茂エ門」はオスということになるのだろうか。
昔、岩崎城の殿様には、能恵姫という娘がいた。姫は十六才になり、川連城の若殿(小野寺桂之助)へ嫁ぐことが決まっていたが、婚礼の日に城下にある皆瀬川の淵に呑まれ、そのまま帰らぬ人となってしまった。姫は幼い日の約束を果たすため、サカリ淵の大蛇の妻となり、竜神と化したのだった…。
岩崎城址千歳公園には、姫を祭る水神社があり、姫の命日には「初丑祭り」が行われる。公園の広場には、姫を忍ぶ能恵姫像も設置されている。岩崎の人にとって能恵姫は、はるか古(いにしえ)の精神の源流を紡ぐ人のような存在にみえる。
竜神夫婦はその後、サカリ淵へ上流の鉱山から流れ来る鉱毒を嫌って、いつしか成瀬川をさかのぼり、赤滝に落ち着いたと言われ、これが赤滝神社の縁起である---と。
川連城 遠景 中央から右側 杉林付近
姫の死(失踪)をきっかけに、川連に龍泉寺(現在は野村)が建立された。能恵姫の婚約者であった川連城主の若殿が建てたといわれ、今も寺には姫の位牌が祭られている。川連の寺跡には、当時植えたといわれる榧の老木が歴史を物語っている。根元に姫のお墓も残されていて、失った人の悲しみを今に残している。川連城主小野寺氏、岩崎城主岩崎氏ともその後の戦乱に巻き込まれ滅亡した。能恵姫の話だけが老人から子供へと語り継がれ、420年の年月が過ぎようとしている。
岩崎地区では今でも能恵姫に因んだ祭りや行事が盛んだが、若殿地元ではなにも行事らしいものはない。
お城のあった館山は古館の地名で城跡に稲荷神社がある。いかにもキツネの棲みそうな地形でもある。
現在稲荷神社になっている
川連城が築かれたのは源義家東征の「後三年の役」(1083年(永保3年)の頃と言われている。
築城したのは清原武衡、家衡の一党の野武士団で首領は梶美作守と伝えられている。
その後雄勝郡に入部した小野寺氏が更に築城し居城したとされる。
貞和五年「陸奥国先達檀那系図注文」に「出羽国山北山本郡いなにハ殿、かわつら殿、此人々ハ大弐殿先達申し候、常陸法眼房弟子の大弐房にて候、」とある。
小野寺正系図は十六世紀中葉に小野寺晴道四男道俊が川連氏を名乗ったと伝えられている。
川連城は別名、黒滝城とも云う。城郭は上方南北の稜線に展開し、まとまりを持つ三つの郭郡よりなる連郭式で北端の郭群は五段の帯郭を成し、その南に比高5mで四段の帯郭群がある。この間は上幅5m基底幅2mの空堀で遮断される。東に犬走り・腰郭が認められる。主郭はこれに隣接する東西30m南北60mの平坦地で南東隅に高台を持ち、明神社を祭る。南端は上幅10m深さ5mの薬研堀で遮断される。
この山城に東側の「ウナリ沢」の中腹、約300㍍位離れた所から水を引いていた。つい数十年前まで雪消頃になるとその水路らしい物が見えた。今でも注意してみれば確認されると思うが、山の木を伐る習慣がなくなってからは鬱蒼とした雑木で見ることが難しくなった。
慶長五年に最上義光は雄勝郡の小野寺一族の三城(川連・稲庭・三梨)の攻略に着手する。
川連城には楯岡満茂を大将に2500余人で攻め寄せてきた。高田右馬之助や城主小野寺道基の防戦むなしく落城してしまう。
平城は現在、市役所稲川支所が立っている。国道398号線沿いに「古城址」の古い石碑がある。
金沢の柵にいた清原家衛、武衛が八幡太郎源義家の軍に征められて落城したのが有名な御三年の役(1087年)。平城は、当時清原の家臣、梶美作守の居城だった言われている。
近くに烏帽子橋(えぼがみさま)があり、旧小安街道(十文字から仙台領間)は現在の消防署前から東方向へ左折し、300m程進んで南方向へ右折して烏帽子橋を通って現在のスーパーのところで下宿へ通じ、蛇行していた。
慶安元年(1647)書抜帳面通境、絵図表相違無しの肝煎老百姓印判享保16年(1731)絵図
現在の道路になったのは昭和になってからだという。1965年9月県道になり、1981年4月に湯沢市と宮城県石巻を結ぶ国道へ昇格し398号線となった。(現在は由利本荘市まで)
平城の面積は約1.2㌶、ほ場整備で現在はその面影を想像できそうもないが、ほぼ真四角で役場庁舎や体育館が立つ前は水田で周りは1mほど高く10 m幅の畑になっていた。その周りに幅10mほどの堀があった。
その堀は周囲よりも2m、周りの水田より1mも低くいかにも「古城址」らしさを保っていた。田んぼになってどのくらいたったのかはわからない。
想像するに田んぼになる前には当然木々が生い茂っていただろうと思われる。この場所は川連、大館、野村、下宿の四つの集落のほぼ真ん中にあり、歩くとちょうど休み場所になる交通の目安になったところだ。地図の中心四角にはっきりと記載されている。
だから、平城の「ヒラコ」が語られてきたのだと思う。
この昔話で平城の「ヒラコ」だけキツネのメスで館の「太助」、切崖の「季え門」、森コの「茂エ門」はオスということになるのだろうか。