新河鹿沢通信   

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化けくらべ背景 (2)館と平城

2010年01月05日 | 民話
館山は川連町古館にあって川連城(別名黒滝城とも云う)のあったところである。
昔、岩崎城の殿様には、能恵姫という娘がいた。姫は十六才になり、川連城の若殿(小野寺桂之助)へ嫁ぐことが決まっていたが、婚礼の日に城下にある皆瀬川の淵に呑まれ、そのまま帰らぬ人となってしまった。姫は幼い日の約束を果たすため、サカリ淵の大蛇の妻となり、竜神と化したのだった…。
岩崎城址千歳公園には、姫を祭る水神社があり、姫の命日には「初丑祭り」が行われる。公園の広場には、姫を忍ぶ能恵姫像も設置されている。岩崎の人にとって能恵姫は、はるか古(いにしえ)の精神の源流を紡ぐ人のような存在にみえる。
竜神夫婦はその後、サカリ淵へ上流の鉱山から流れ来る鉱毒を嫌って、いつしか成瀬川をさかのぼり、赤滝に落ち着いたと言われ、これが赤滝神社の縁起である---と。
     川連城 遠景 中央から右側 杉林付近
姫の死(失踪)をきっかけに、川連に龍泉寺(現在は野村)が建立された。能恵姫の婚約者であった川連城主の若殿が建てたといわれ、今も寺には姫の位牌が祭られている。川連の寺跡には、当時植えたといわれる榧の老木が歴史を物語っている。根元に姫のお墓も残されていて、失った人の悲しみを今に残している。川連城主小野寺氏、岩崎城主岩崎氏ともその後の戦乱に巻き込まれ滅亡した。能恵姫の話だけが老人から子供へと語り継がれ、420年の年月が過ぎようとしている。
岩崎地区では今でも能恵姫に因んだ祭りや行事が盛んだが、若殿地元ではなにも行事らしいものはない。
お城のあった館山は古館の地名で城跡に稲荷神社がある。いかにもキツネの棲みそうな地形でもある。

     現在稲荷神社になっている

川連城が築かれたのは源義家東征の「後三年の役」(1083年(永保3年)の頃と言われている。
築城したのは清原武衡、家衡の一党の野武士団で首領は梶美作守と伝えられている。
その後雄勝郡に入部した小野寺氏が更に築城し居城したとされる。
貞和五年「陸奥国先達檀那系図注文」に「出羽国山北山本郡いなにハ殿、かわつら殿、此人々ハ大弐殿先達申し候、常陸法眼房弟子の大弐房にて候、」とある。

小野寺正系図は十六世紀中葉に小野寺晴道四男道俊が川連氏を名乗ったと伝えられている。
川連城は別名、黒滝城とも云う。城郭は上方南北の稜線に展開し、まとまりを持つ三つの郭郡よりなる連郭式で北端の郭群は五段の帯郭を成し、その南に比高5mで四段の帯郭群がある。この間は上幅5m基底幅2mの空堀で遮断される。東に犬走り・腰郭が認められる。主郭はこれに隣接する東西30m南北60mの平坦地で南東隅に高台を持ち、明神社を祭る。南端は上幅10m深さ5mの薬研堀で遮断される。

この山城に東側の「ウナリ沢」の中腹、約300㍍位離れた所から水を引いていた。つい数十年前まで雪消頃になるとその水路らしい物が見えた。今でも注意してみれば確認されると思うが、山の木を伐る習慣がなくなってからは鬱蒼とした雑木で見ることが難しくなった。

慶長五年に最上義光は雄勝郡の小野寺一族の三城(川連・稲庭・三梨)の攻略に着手する。
川連城には楯岡満茂を大将に2500余人で攻め寄せてきた。高田右馬之助や城主小野寺道基の防戦むなしく落城してしまう。

平城は現在、市役所稲川支所が立っている。国道398号線沿いに「古城址」の古い石碑がある。
金沢の柵にいた清原家衛、武衛が八幡太郎源義家の軍に征められて落城したのが有名な御三年の役(1087年)。平城は、当時清原の家臣、梶美作守の居城だった言われている。

近くに烏帽子橋(えぼがみさま)があり、旧小安街道(十文字から仙台領間)は現在の消防署前から東方向へ左折し、300m程進んで南方向へ右折して烏帽子橋を通って現在のスーパーのところで下宿へ通じ、蛇行していた。
慶安元年(1647)書抜帳面通境、絵図表相違無しの肝煎老百姓印判享保16年(1731)絵図

現在の道路になったのは昭和になってからだという。1965年9月県道になり、1981年4月に湯沢市と宮城県石巻を結ぶ国道へ昇格し398号線となった。(現在は由利本荘市まで)

平城の面積は約1.2㌶、ほ場整備で現在はその面影を想像できそうもないが、ほぼ真四角で役場庁舎や体育館が立つ前は水田で周りは1mほど高く10 m幅の畑になっていた。その周りに幅10mほどの堀があった。
その堀は周囲よりも2m、周りの水田より1mも低くいかにも「古城址」らしさを保っていた。田んぼになってどのくらいたったのかはわからない。
想像するに田んぼになる前には当然木々が生い茂っていただろうと思われる。この場所は川連、大館、野村、下宿の四つの集落のほぼ真ん中にあり、歩くとちょうど休み場所になる交通の目安になったところだ。地図の中心四角にはっきりと記載されている。

だから、平城の「ヒラコ」が語られてきたのだと思う。

この昔話で平城の「ヒラコ」だけキツネのメスで館の「太助」、切崖の「季え門」、森コの「茂エ門」はオスということになるのだろうか。


化けくらべの背景 (1)森コと切崖

2010年01月03日 | 民話
集落の中央にこんもりとした小山がある。高さはせいぜい15㍍ほど、面積30㌃ほどだ。頂上に稲荷神社がある。東側半分は杉と広葉樹、西側はかつて開墾地で大豆など栽培されていたが今では一部が杉、あとは荒れている。かつてはうっすらとした杉林でいかにもキツネの棲みからしい処だった。

集落では通称「森コ」。集落の中央通りから見れば「森コ」超えた家並は「ものぐし」と呼ぶが「森越」(もりこし)が訛った呼び方になったと思われる。森コのすそ野を通って畑を横断し「ものぐし」に入り八坂神社へ行く通称「神社道」と言った。

      森コ すそ野に神社道付近 
切崖は隣村の下宿へ行く山沿いの300㍍ほどに曲がりくねった道。
五ヶ村堰(川連堰)の支流「和堰」が三梨村の上宿で始まり、さらに下宿でその和堰から{新堰}が別れて流れる。五ヶ村堰(川連堰)の開削工事の歴史は古く稲庭城主小野寺道俊が大永5年(1525年)に稲庭三熊野神社に掛仏を奉納したのは川連堰の竣工を記念したのもだと言われている。

切崖の曲がりくねった道はこの二本の堰が並んで流れていた。特に「新堰」は下流地域に水田を拡大するために山裾を切り取った難工事だったことが想像される。
山裾を切りとったことから「切崖」の地名になったという。

この堰について稲川土地改良区の沿革史に次のような記述がある。

「川連堰は水源を皆瀬川の上流に求め、河岸段丘沿いに稲庭村、鍛冶屋布より三梨村熊野堂、間明田を過ぎ下宿北端より根岸川連へ通じ、内沢川に合流する用水堰で古来より川連が堰親郷となって稲庭、三梨、川連、大舘、八面の五ヶ村で管理してきたのである。
元禄2年(1689年)八面、三又の肝煎2年続きの不作のため両郷の者乞食になったと窮状を訴え出たと湯沢佐竹南家御日記にある。三又村の肝煎七右ェ門はこの窮状を救うため藩庁に五ケ村堰の延長を願出て、元禄8年(1695年)許可を得て堰の改修工事に着手し、五ケ村堰を三又村まで延長した。これは三梨村間明田より北に進み川連平城、八面村村尻を経て鼠舘において内沢川の古川を築留め三又村に入り字前田面、高村に分流する延長一里半、幅二間のかんがい用水路である。
 三又村も元禄9年の割丁場普請申合書に名を連ね人足割等の会合に参画していることから以後「六ヶ村堰」と称すべきであるが、以前慣行に従って五ケ村堰と呼んでいる」。

上記にある内沢川は川連集落を縦断し、集落下流で五ケ村堰からの支流「和堰」からまた分れれた「新堰」と合流している。切崖の流れは山を切り開いての堰で広葉樹や杉林を喘ぐような流れ、それに無理に上部へ導いたためか漏水も激しく春の集落一斉での堰普請での清掃は難所だったが1974年のは圃場整備事業で三面舗装の水路が同じ場所に完成した。今では昔の面影を想像するのはむずかしい。

切崖はさみしい道だった。八坂神社から平城で県道を横断し内川(五ケ村堰)の手前で左折し橋を渡り大館浜へと続く道。切崖への道は八坂神社から300㍍程の所にある新堰の橋を渡って間もなく左折し切崖にはいる。

   国見嶽のすそ野が切崖付近
新堰の橋の下は上記の記したように、先人がなるべく多くの水田に皆瀬川の水が行き渡るように掘削した水路のため常に水が張られた状態。水は上流から流れの押し出し状態でやっと下流に水が流される。だから流れを意識しないような水路は、薄暗い夜はかすかな月明かりでは「風呂」と見間違えることがあっても不思議ではなかったかもしない。まして隣からの来ることになると、曲りくねった道に山際の木が覆いかぶさり足元も見えないくらいの暗さとわずかな風で流れる木々の葉音、それに「新堰」の漏水が並行して流れる「和堰」に流れ落ちる水音。いかにも「きつね」がでそうな場所だった。
やっと通り越して「新堰」を通過する橋にたどりつくことになる。

現在は圃場整備事業業で広域農道に変わり、近くに統合中学校もあって街灯もある。バイパス的になった「旧切崖道」は大型トラックも走る。かつて語り継がれてきた「切崖の季エ門」はまだひっそりと暮らしているのだろうか。


化けくらべ (5)和尚の説教

2009年12月27日 | 民話
かわづら(かわつら)の寺のおっさまぁ(和尚)、大館の法事さ  えて戻りぁ しかみじ(近道)して、平城まで来たば、なえが話し声ぁしるけど、なえだべ ど思て どで(土手)コ陰がら見たば 四人(四匹)のぬしだちのあぢばり(集まり)だけでを

「ははあ、こねぇだ(この間)がら わりごど(悪いこと)起ぎるど、心べぇ(心配) してだば やはり このやがら(輩) でぁたが、この儘(まま)えしておげば しょげん(世間)の為ぇならねぇ」

て、この日ぁ寺さぁ戻たけど して ちぎ(次)の日、四人どご呼ばりぢげだ(よびつけ)でを、四人な こねぇだ(この間) 花まぢりぁおわたばり(花祭り終わったばかり)だえ、なえが余りおの ける(あげる)なだべど、とで はね(飛んで)で来たおだけど、して、えっちも(いつも)庫裏のほさ えてらなだおで そちゃえぎがげだば(そっちほうさ行きかけたば)本堂のほがら 和尚の大声だけでを 

「こりぁ そごの四人、こごさこえ(こっちへ来い)」

て、本堂のめぇ(前)さ、ねま(座)らされだでを、

「しかごろ(近頃)、えぐねぇ(良くない)ごどぁ おぎでるな、度々耳えしてえたが、そなだ達のしわざ(仕業)でぁた。んでねぁ(そうではない)どは言わしぇね、きんにゃ(昨日)平城のごどぁ、ちゃんと調べぇちでる。
 
このぼんぢぁ(和尚)ちね日ごろ、きがしぇでえだごど(話してた約束事)破て、この悪行ぁ なぢした(何とした)ごどだ。
あちこちの人さめやぐかげで、このちぐねぇ(償い)なぢしる(何とする)(謝って)。えま迄のごどぁ(今までのこと)その しとだぢ(人達)どさこの和尚ど しとぢえ(一緒)いわげであげるして、今後こえだだごどぁあたぢぎぁ(こういうことがあれば) こちにを了見ある、返答しでぇで、今日にをマタギだぢえ 来てもらて 皆ぶて(撃ち殺す)しまうが、
 
えゝがっ 俺の言うごど えぐえぐ(よくよく)聞げよ。只止めろて言うなでねっ 村村の人だぢを、んがだどこ(お前たちを)見れば なえ (何)をしねぇだて ぼたぐて(叩く)しまうどごぁある。そえだごどぁ(そんなこと) さしぇねぇ (やらせない)し、やらしぇねぇ たまにゃアブラゲを、喰でぐなるきもぢぁ(気持)えぐわがる。
だえで(だから)、人のおの(物)騙して取て、えゝ法ぁねぇ その代わり 月えにんど(二度)  にんみゃ(二枚)のアブラゲ各々さける、それででげるが どうだっ 若し断わり言えば、んが(お前たち)だばかりでねぇ、
 
一家郎党 皆、ぶだれるごどえなる それでを、ええがっ、性根しえで、返答しろっ。

て、こどわげ(事訳)での しえっきょ(説教)だけでを、連中ぁ寺がらなば、たえした ふたまえなて(迷惑をかけて)で、わらしぁだ けば(来ると)、しとぢえ あし(遊ぶ)でけだり、ものけだり、此の親だたて、マダギえ ぼわれ(追われて)で寺さねげで(逃げて)来て、おっさ(和尚)の衣の袖で かぐして貰て、たしかた(助かった)ごどぁ何遍を あぁあた(あった)おの、法・理・情のしえっきょえ震え上がてしまて、ちぢ(土)さ頭こして・

「おっさまあおらだわりがた(和尚さん俺らが悪かった)、これがらぁ決してしねえがら、何とが御免してけろ」て、涙ぼろぼろ こぼして、いわげだけど…。

それがらあ、まえちぎ(毎月)の はぢめ(始め)ど、ぢゆうごんち(十五日)にやぁ、アブラゲコ にんめえ(二枚)ぢじ(づつ)・森コにやあ おどコ(お堂)のめえさ、切崖にやぁ新堰の橋さ、平城にやあ エボ橋さ、舘にぁあ上がり口のえし(石)さ 誰が置えだでをねえぐ(誰ともなく)、置えであるをだけど…:

それがらあ、えま迄えな、わりごどあ起ぎねえぐなたおだけどせえ。

おめえだ(お前たち)をそのあだり あれぐぢ(歩く時)ぎ、アブラゲコにんめえ置えでるな、ぢんぢょ(きっと)見でるべぉん、して、えぢのまえ(いつの間にか)が、ねえぐなて(無くなって)るなを なあ……。

化けくらべ (4)舘の太助の自慢コ

2009年12月26日 | 民話
隣村のしぇんど(仙道)へ しから(力)のちぇ(強い) わかじぇ(若勢)ぁ えだけでぉの かわぢら(川連)の みまぎ〔親戚〕の田植えさ しけええて(手伝い)、早ぐおわて、遅昼のヨデコ(田植え祝い)ごっそう(ご馳走)えなて、山田のさが(坂)まで来たぢぎぁ(時)、晩方へなたけでお 魚コなのしぁげこ(酒)なの たっさえ(たくさん)貰て来たおで しこし えしょ〔急ぐ〕えだけでお。

「この分だば、明りうぢ えさえげる(家さ着く)」

て、さが(沢川)の上まで来たけでを、そのじぎ、林の木の陰え、なえが 動くおのぁ えるけでを、

「なえだべ?このあだりぁ えぐギヂネぁ出はるて言てらきゃ 
それだべがな、よしっ、んだば(そういう事)とて(捕る)えて キヂネ汁こしゃで(作って)く(食べる)べ」。

て、腹さ決め手、こそっと(こっそり)見でだば やっぱりキヂネだけでを、して、みらっでるな(見られている)気ぁちがねどめで(気がつかないと見えて)、ホンノ木の葉コ さんみゃ(三枚) たげぇ(持って)で、頭の上さかぶて ぐるぐるどまわたり でんぐりげぇ(回転)たり きてぁ(奇態)なごと しるおだけを

「このチキショぁ、俺え見らっでるな しらねで、なえがえ 化ける ちもり(つもり)だぁ」
て、見でだば、そのぢぎ じょえっ(直立)と たたど(立つた)思たば、えぇアネコ(良い娘)え ばげ(化)だけでを

「あっ チキショあ、おなごえばけやがた、どさがえて(どこかえ行って) わりごと(悪いこと) しななべゃ(すること)?、、よしっ あどぼて(後ろ追って)だましドごみで(騙すところを見て)としかめぇる(捕まえる)べ」

て、キチネアネコのあど ち(着いて)でえたでを、したば、ながねみぢ(長根道)西さ おれでえて、八幡様(八幡神社)さえたけでを

そこそごであ、なえが祈祷ごどぁ あた(あった)どめで、村のしとだぢァ(人たち)ろくしぢにん(六、七人)えで、たげぇ(持って)で来た、ジュッコ(重箱) あげで、酒コ飲み はぢめだどこだでを して、キヂネアネコあ、おかねがり(怖がらない)を しねぇで じょえじょえ(遠慮なく)ど 上さてえて、

「晩えなたんし、そご迄来たば、こっちぁ あまりげぇえ(あまりにも)
面白せぇそだおで、上がて見たば、皆ええしとだぢ(良い人達)の あぢばり(集まり)でたをな おらどこを かでで(加えて) けねぇべが(くれないか)」

て、ばなれ(場馴れ)だ てちき(手付き)で、酒コなの ち(注ぐ)でまわるおで「こおりゃ ええどさ来てけだ、やあっぱり酒コぁおなごの しゃぐでねばでげねぇ なあっしょ」

て、ちでもらて、だんだんにぎゃがえ なてきたけでを、、そのぢぎキヂネアネコぁ、周りのしとだぢえわがらねよえ(周りの人たちがわからないように)、わぁ(自分) 持て来た、からヂュッコ(空の重箱)さ アブラゲなの、ニシンの煮メなの かぐしはねぁだ(隠し始めた)でを、しぇぢ(それ)見でわがじぇあ(若勢)、

「えま(今)だっ」でをで、
「みんなぁ そのおなごあキヂネだぞ きしけろっ(気をつけろ) だまされんなっ」

て、キヂネめがげで とびぢだ(飛びついた)けでを、したば此の声でどでん(動転)して、たたしとど(そこそこと) ぶしかて(ぶつかって)、てぁはぢれ(体外れ)で しまて、えまべぁこ(もう少し) のどごで、ねがしてしまたけ(逃がしてしまった
でを、したば(そうすると)村のしとだぢぁ(人たち)、

「まんぢ(まず)こりゃ、おめぇえ(お前様) 来てもらわねぱ、キヂネえ
こばがえ(小馬鹿)されっどこでぇた、ほんとえ たしかた(助かった)なや」

て、てえね-え(ていねい) れえ(礼)言われで、神様さあげでだ、三宝さ山盛りの饅頭、皆けだ(くれた)おだけど、

「こりゃありがでおだ、人だしけ(人助け)したの、ひまだれ(道草)して、おそぐなた」

て、えしょ(急い)えでえさもどた(家に戻る)けど、して、えのしとだぢえ(家の人たち)、もうべえこで キヂネ汁 くえるどごでぁたごど 聞かぇで(出来事を聞かせて) もらて来たぁ饅頭 あげ(空け)て見だば、マクソ(馬糞)だけど、かわぢら(川連)がらの もれぇおの(もらいもの)、しぇだ(入れた)、テコダシのながみぁ、空えなてらけど、、、、。


舘の太助の話しコぁ 終わて、

「やあや、さしが(さすが)え 太しけしゅだ、裏の裏けぇだべたよ、あっはっはっはっはあ、、、」

て、大われえ(大笑い)して、それぞれのえ(家)さもどたでを したの、むらのしとだぢさ、おごどしたごど わし(わすれて)で、じまんかだり(自慢語り)え、むじゅう(夢中)え なてらどご、川連のおっさん(和尚)えかて、でらり(全部)きがれだでを(聞かれた)、
で、この後、なぢえなた(どうなったか)が、きぎ(聞く)でべのあした(明日)だ。
   
    つづく


化けくらべ (3)平城のヒラコの自慢コ

2009年12月24日 | 民話
三梨のあるえ(家)でぁ、正がぢ(正月)を 近けえぐなて、ししはぎ(大掃除)を でげだし(終わって)、もぢ(モチ) を ち(つき)だし、きんにぁ(昨日)迄荒れでえだ、ふぎ(吹雪)を晴れで、天気をえぐなたし どて、ドドぁ(お父)増田さ、魚コ買いにへ、えたげでを(行った)、みぢをえぐ(道もよく) ちでで、あれぐ(歩く)え はが(能率)えた.増田の町の日、今日ぁ二七日で、仲町の番で、出店を・たっさえ(沢山)出はてえで、欲しいのぁ なえでを買えで、カシべ・ボダコ.エガ.ハタハダなの、あれこれ買て戻り、野村しぎだ(過ぎた)ぢぎぁ ひらん(午後)からの、一時半んころだけでを、

「ああ、はがえた、こご迄けぱ、あどぁしとえ(ちょっと)こだ、まぢ 一服してえぐが」

て、雪道歩てきて、ほこほこど、ぬぐぐ(暖かく)んなた ごでえ、ゆぎの上さぁちげで、ワラシ(子供)ぁだどさ ける(あげる)どて、買て来た、メノ玉(飴玉)ひとっつ、口さしぇ(入れ)で、やし(休)だでを、かじぇ(風)をねぇ ええ天気だをで
其のうぢ ねふて(眠く)えぐなてしまたけどー。

「んーん?春えなたべが、さぐらを せえ(咲く)だは」

て、春え うがれで、どごがの さぐら えっぺえある(いっぱいある所)どご あれ(歩)てだけでを、しだば こだ(今度)。

「んーん?こごぁ なぢだ、ほほーっ、こごのぇでぁ田植え だでぁ」

そごでぁ、アネコだぢ すぢにん(七人)ばりで、揃いのカシリのキロノど、デダチコで、さぐらのもよコのテノゲで、アネコかぶりして、ええ声で唄コなの うだ(唄)で、まぢにぎぁがな 田植えだけでを、

♬「唄 あーああーえ-えええ おらだぢぁ
植えだ しと(一)株はそだぢそだって
しぇん万株へ ふえ増して
たんぼぁ いなほで山でげる
「ハヤシ そうーりゃ 豊年 万作だー」

なてかて にぎゃが(賑やか)で じょだ(上手)おで、三梨のドドぁ立て、見でらけど、したば アネコだぢぁ めけ(見つける)で、

「あらぁ 三梨のドドぉ ええどさ きてけだごどぉ、あどえぢめぇはん(一枚半)ばりでおわる(終わる)なだの、三人な よでコ(田植え祝い)の ざめえ(仕度)で上がらねばでげねふて、何とが たしけ(助け)るど思て しけ(手伝)でけろ」

どて、頼まれでしまたけでを、みんなえ あだま(頭)さげられで ねが(願)われだをで、

「んだば しけ(手伝う)でえごが」

て、わあ(自分)も 田植えなば 自慢の腕コ なをで、田さへぇ(入って)て 唄コえちらっで しとえこのうぢ(またたくまに)ぇ でげでしまたでを、して、

「さあ出げだ、おれぁ 上がるは」

て、あだり見だぱ、だーれを えねぇ(いない)ぐなて、わあ腰迄ぬがて はて(雪野)漕ぎ、やてらけど、して・サガナコなのぁ どごさ やたおだがわがらねえけど、、、、、。


「ヒラしゅあ 昼聞やたてがや、さし(さす)が えぇ 年の甲だ、さで、ちぎ(次)ぁ たしけ(太助)しゅだ」

て、言だば たで(舘)のたしけ(太助)ぁ、

「おら えぢばん(一番) あど(後)えなた、おれの やたな(やった)ごど みな(皆)やてらをで、かたる(語)な ねぇぐなてしまた。
んだ、去年のさぢぎぢぶん(田植え時季)だを そのぢぎ、こえたご(こんなこと)どぁ あてぁたけや」

始めたなぁ。ながまだぢ(仲間達)より、うんと、変た話コ であたど。

                            つづく

化けくらべ (2)切崖の㐂エ門の自慢コ

2009年12月23日 | 民話
根岸の.或るえのじさまぁ(ある家の爺さん)、みぢなし(三梨)の親戚のふるめえさ(祝い事)呼ばれで、えぺぇ(一杯)機嫌で きりがげ(切崖)迄戻たぢぎあ 真っ暗へなてしまたでを。

「くれえ(暗)ぐ なてしまた、えしょ(急ぐ)がねば でげねえ」

て ひとりごと言って わらじ締め直して したした したしたと。
 年取たて ぢまんの足コで あれた(歩)けど んだけど なぼあれたて(いくら歩いても)村尻のオデンノ様(八坂神社)のどさ 来ねぇ えおだけでを(着かない)。

「おがし(おかしい)おだな、、、えっぼんみち(一本道)だえで、間違うはぢぇねぇべし」て 肩で大汗けぇで 歩れたでを、したば 向こうさぽちっと 灯りコめだけど。
「あぁ 来たえたなぁ あれじんじょ(きっと) 平えんの灯りだべを おでのん様の鳥居 えぢしぎだがわあがらねぇがたな、としぁとでぇぐねえおだ(年はとりたくない(良く見れば)、 その灯りコぁ こちゃ(こちら)来るおだけど して其れぁ 提灯コ たげぇ(持った)だ、わあえ(我が家の)の上の孫だけでを。

「暗ぇふて 歩るげね ど思て、迎えぇ 来た」
「ほう 来てけだがや、こりゃ 大だしかりだ」

て、喜ごで、、しとぢえ(一緒に) え(家)さもどたけど、えの人達ぁ あしこと(心配)して、皆寝ねえで、まぢでだ(待っていた) けでを、

「ぢさ大なぎ(爺さん大難儀)したべ、 湯コさへぇて 休めばえ」
「湯コ沸いでだが、 ありがでなや んだばそうしるべ」て、着る物 脱ぇで 湯コさ だんぶり へぇて、

「あ、、あ 湯コぁ えぢばんだ」て、きもぢぁえぐ へえた(入った)けでを………。

根岸のぢさえでぁ、よなが(夜中)えなるたて戻らねおだがら、なえしたべ、ど あしこと(心配)して、アバぁ「ドドぉ(父さん) ぢさもどらねぇ おら あしことだ、むげえぇ(迎え) えがねぇ(行かなく)て えべが」

「んん、んだ、んだば(そういうこと)えてみる んが(お前)も 来え」

て、上のワラシど提灯たげぇで むげえぇ ではたけど、して、キリガゲの 新堰迄来たば 橋の下デ 誰が えで、

「ああ 湯コ えぢばんだ」

て、ぱしゃぱしゃ 音ぁ しるおで 提灯かざして えぐ見だば わえのぢさ(家の爺)だけでを、ドドぁごしえ(怒って)で

「こただごど(こんなこと) しるなあ キヂネのキエモンだなっ 出はてこえぇっ、キヂネ汁ぇして、くらて(食らう)やる」

て、さがだ(叫ぶ)ば、どで(土手)コの陰がら、黒えおのぁ 山のほさ、ねげ(逃げ)でえぐ(行く)けど、して(そして)、ぢさふるめえ(爺さんが振舞)でもらて来た、口取りコなの とくべちぇ(特別)もらたさがなコなの なんにをねえ(無く)ぐなてらけど。

話コぁ 終わて 切崖のキエモンぁ


「あのじぎぁ(時)危ねがたなや、もうべあっこ(もう少し) ぐぢぐぢ してればあの親父ぇ しまがれ(捕まる)どごでぁた んだのを あのじぎの口取りコのんめえがた、あの味ぁ わしらんねえ、あはははあ」

したば、平城のヒラコぁ 

「切崖を やるをだなや、んだの あぶながたぞぉ あこの親父ぁ村で、一、二のしから(力)もぢだ、めけ(見つかる)らっだら命コぁ なぼあたて(いくらあっても)足れねべ、なあっしょ(なあ、みんな)」

一同、

「んだんだ」て、言たけど、、したば、

「さあ こだ おらだ」

て、平城のヒラコぁ、語だり出したけでを。

                               つづく






はじめに 化けくらべ (1)森コの茂エ門の自慢コ

2009年12月22日 | 民話
昔から地域には「昔語り」(民話)があった。

市場原理社会を標榜し、格差の拡大が目に余る状態に達した8月、総選挙の「政権交代」は構造改革路線への拒否の現れだった。
しかし、旧勢力は依然として現実の状況を容認できず、旧政、官、民は既得権益死守のために「マスゴミ」を動員してネガテブキャンペーンに余念がない。50数年間の常識 ? を変えるのに3ケ月や半年では変わらない。

ブーメラン効果はことかかない。
当分この状況は続くに違いがない。逃避するわけではないが、こんな時代だから、ここに地域に伝わる民話を取り上げてみたい。

民話はその時代に生きる大衆の哀しみや喜びを伝えるメッセージとも言える。

以下は当集落出身で今は亡き高橋○○翁の記録に一部に加筆にした。無形文化財的秋田弁での昔語りは読むこと、理解することは難しいかも知れない。

化けくらべ   

昔あったけでをな、じっとむがしの川連にやぁ、森コ、平城、切崖、舘ど、このよっち(四)にやぁ、ぬしぁ(主)えで、森コの茂エ門、平城のヒラコ、切崖の季エ門、舘の太助て言て、各々の持ち場コ かだめでぇ、村の人だぢ、昔からおかね(怖い)場所だと、言ってえだどころだった。
  
あるぢぎ(時期)、この、よっちのぬしだぢぁ、平城さあじばて(集まって)、自慢ばなしコ 始めだけど。して(そして)、
四人皆しとじぇ(一緒に) さべり(喋)だしたおで、
なぇ(何)がなんだかわがらなぐなて、しとりぢち(一人)
さべる(話す)ごとぇ決めて、まじ(まず)、森コの茂エ門がら、はじめるごどぇしたけど。

 (1)森コの茂エ門の自慢コ

あるじき(ある時)、野村のあるえの(家)の、わけぇおんコぁ(若者)、明日わあえで(自分の家)、人寄しぇあて、トフコ(豆腐)どアブラゲコ(油揚げ)買いに出はたなぁ、ひらんから(午後)遅ぐえなてがらだけど。

野村のトフ屋でぁ、皆売れぎれでえで しかだねぇぐ、根岸のトフ屋さ えて見だば、「あした早ぇぐ 届げんねば でげねぇ(できない)どごぁあて、えま(今)、でげだどこだ。んだらまじ、さぎえ(先) これ持ってぇえげばええ、明日なぁ 夜なべしてこしゃるえて」て、

しんせぇぢえ(親切に)欲しだげ売ってけだけど、わげぇ(若い)おんコぁ喜ごで、アグビコダシさぁ 買たおのしぇ(入れて)で、出はたぢぎぁ、ちぎ(月)をなぇ 真っ暗な晩えなてしまたでおん。
仕方ねぇぐ、トフ屋がら、提灯コ 借りで えしょぎ(急ぎ)足で、あれぎ(歩ぎ)だしたけでおん。

して(そして)、武エ門のあだりまで来たば、たげ(竹)にしぢめ(雀)の紋ちだ提灯コ たげぇ(持つ)だ 立派なえ(家)の メラシコ みでぇな、おなごぁ 立てえだでを、して、そのおなごぁ、

「あらぁ おめぁどご さぎだ(さっきから)がら 待ぢでえだどごだんし、おらえの ひめさまぁ おめぇどこ おじれしるよえ(連れ)てといぢげ(言いつけられ)だから、どうかしとぢぇ(一緒)きてたんしぇ しぐ(すぐ)そごだんし」て、言うげでを。

わげぇおんコぁ、えぐ(行く)どもえがねぇども 言わねうぢ、手ぇ引ぱて ちで(連れて)えがれたけど、して、そごぁ 立派な門あて、どこがの御殿さ来たけでを。
 
門へぇて(入って)暫く(しばらく)えたば玄関あて、中さへぇたば、廊下の両側さ、着飾た女中だぢぁ ぢらっと ならで むげぇるおだけど。
そご(そこを)しぎで(過ぎて)奥の座敷さ ちでえがれだけど(連れて) その座敷にぁまぢ(とっても) ええ 姫様 ねまて(座って)---- だけど。

「はて? 根岸え こえたどごぁ あてぁたべが、、、、」て 不思議えおもえて、 言われだとうりぇ 姫さまのめぇさ(前) ねまたでを、(すわる) したば姫さまぁ 金のシジコ(鈴)転がしたえな声で 言たけど。

「まぢ えぐ おざたん(良く来てくれました)し あんコ どごぁ じっとめぇ(前)がらよばてける(呼んでくれるように)よえ いぢげ(言いつけて)で えだなだんし。 しぇっかぐ(せっかく)の お運びだんしがら、ゆっくり おぐぢろぎいえ(くちろぎ)なて たんしぇ」

て言われで わげぇおんコぁ、極楽でをな こえだどこ(このような) だべがど思たけど、 して姫さまぁ、「みんなぁ 用意したおの こちゃもてきてけれぇ」
て、言て、やれ酒だ肴だ なのて、山のよえ持てこらしぇで、 大ふるめぇ(振舞)えなたけど。

えっぽう(一方)、野村のわげぇおんコぁえでぁ(家)、トフコ 買いい えたきり(行ったきり) 夜中えなるたて、 戻らねおだから、むげ(迎) え ではたけど。して、根岸の武エ門のどごまで来たば、森コのほがら唄コなの歌て、おっかね(たいへん)ぇ にぎぁやが(賑やか) な 音ぁしる おだけど。

「なぇだべ? は あの声ぁ おれえの兄みでぇだ。なえしてるべ 兄いっ なえしてるけな(何をしている)、、、」て、 よばて(呼ぶ)を返事しねぇおで 森コ さえてみたけど。
したば、稲荷堂のめぇで、裸え なて歌たり踊たり してるな わえの兄だけど。して、トフコ なのアブラゲなのぁ なんにを のごて(残って)ねけど。

語り終わた、森コの茂エ門なぁ、しとえぎ(一息)ちで(ついて)、

「あはっはっはっはあ、、あのぢぎぁ(あの時) 出げだで(作りだて)のアブラゲたらふぐ(腹いっぱい)くた(食う)なや、十日ばり 寝でで くて だけなぁ」

「森しゅ(衆)あ んめぇぐ(上手く) やたなや、こだ俺だ」
て 二番手の切崖の季エ門なぁ 語りだしたど。 

つづく
(カットは拝借 以降同じ)