新河鹿沢通信   

暮らしの中から 村の歴史 足跡 集落 跳躍  麓風小舎     

米概算金暴落の狭間

2014年10月30日 | 農業
河北新報オンラインニュースは9月21日以下の記事を配信した。

14年産米概算金、暴落 東北まとめ 東北の全農各県本部が、農家から販売委託を受けた際に支払う2014年産米の概算金が出そろった。各県の主要銘柄は前年比1200~4200円の大幅下落となり、おしなべて過去最低を記録した。コメの需要減と過剰在庫、東日本の豊作予想が重なり、一気に価格破壊を招いた形だ。
 
河北新報 引用

稲を収穫する機械にコンバインがある。コンバイン作業とは稲を刈り取ると同時に脱穀できる農機具、新品で600万から最新式の高性能コンバインだと1300万円は超える、30aの面積を1時間弱で作業を終える。収穫を終えた田んぼに人はいない。収穫を委託した農家は作業代金の支払いを迎えた。

コンバイン稲刈り作業 川連町田屋面 2014.10.5

湯沢市標準農作業料金が、平成26年4月15日発行の市の広報で紹介されている。ほとんど農家はこの標準農作業料金で作業代金等を計算している。



今年のあきたこまち米概算価格60K当たり、8500円は昨年比26%、平成24年産比では37%安い価格になっている。(25年11500円、24年13500円)この短期間の暴落に農家は対応できない。国が進める規模拡大農家ほど直撃、破産は現実のものになった。各地の悲惨な状況は週刊誌でも取り上げるようになった。

一般農家は今年の概算価格8500円の内、3000円は7月に前渡し金として受け取っている。JAへ出荷で残りの5500円が口座に振り込まれる。平均収量540kとして計算すると10a当たり76500円の内27000円は入金済みで、春作業代金10a当たり耕起・代掻き、田植、苗代等計34500円、コンバインによる収穫作業代金、生乾燥、もみすり調整代金31800円、合わせて66300円の支払額となる。委託農家はこの代金の支払いが優先される。

さらに11月に入るとJA等へ肥料、農薬、資材代金に、土地改良区費、固定資産税等約25000円~30000円がプラスされ、春秋の作業代金等合計額は91300円~96300円となる。今年の米概算金額76500円では支払いができない。10a当たり20000円は足りない。さらに管理した労働費はどこからも産出されない。兼業農家の多くは田んぼにを植えてしまえば、田んぼ作付に農業以外からの収入をプラスしなければならなくなった。当然自分が食べる米もない。これでは高い年貢に翻弄された江戸時代並か、それ以下かも知れない。以上が作業委託農家の実態。

一方農機具を所有している農家はコンバイン平均800万、田植え機250万、トラクター500万、乾燥調製施設1000万の償却費算出は困難。機械更新期になれば廃業せざるを得ないと話している。

JA組織は平成13年産等の過剰在庫を理由に、14年産米の概算金を大幅に切り下げた。コメ余りの発端は2011年3月に発生した大震災だ。収穫量の多い東北地方が被災し、品薄への危機感から価格が上昇。翌12年産も「念のためにコメを確保する動きが続いた」(市場関係者)ため、高値が続いたといわれているが、今回の在庫過剰説は高値の在庫処理の口実になってはいないか。卸業者にとっては価格が安いことは大歓迎になる。

平成26年産相対取引価格低下から小売価格が大幅に下がったとしても、米の消費量が増えるとことにはならない。生産者が危惧するのは安過ぎる米の値段がそのまま定着しまうことにある。今回のJA組織の対応は取り返しの難しい局面を作り出し、組合員農家に計り知れない衝撃を与えた。早晩破産が現実になるドアホノミクスの中で、平成26年産暴落概算価格は地方経済の崩壊を加速させた。

公益社団法人「米穀安定供給確保支援機構」では、米の消費状況を把握するため、全国の消費世帯を対象とした「米の消費動向調査」を毎月行っている。最近の調査によれば一ケ月、一人当たりの米の消費量平成18年4877g、大震災の平成23年4841g、平成24年4909g、平成25年4466g、平成26年8月までは平均4670gとなっている。これによれば平成25年度は前年より0.9ポイント下がったが今年になって逆に前年対比1.05まで伸びている。この数字に12ケ月を乗ずると今年の場合、一人あたりの米の消費量は計算上一年で約56Kとなる。平成25年調査、日本の人口1.272億人で計算上712万トンの消費量が出てくる。ちなみに平成25年産の生産量は860万トンといわれている。

しかし、統計調査の生産量の計算は網目1.7ミリでくず米も含まれている。現在農家は網目は1.85~1.90で調整している。一説には収量差が30~40万トンともいわれている。特に平成26年産はもみ数が多く登熟が悪い傾向にあることから、ふるい下米が多くなり、主食用米の供給が減少する可能性もあると農水省は見ている。


農業情報研究所 10月9日 引用

この調査結果からみても、在庫が増えたのは消費が減ったからと宣伝されているが、必ずしも消費は大幅には減少していない。少し減少したのは外食だ。庶民のふところがさえない状況下では当然の帰結と思える。だから消費が減ったとの論は、外食産業と攻めの農業を推進する現政権の恣意的現象とも見える。家庭内消費は多少の変移があるが、近年の消費量の変動はそれほど大きくない。むしろ消費税増税の中では大きく減少するとは思えない。


米穀機構 平成26年8月分 引用 

この消費動向調査からみて、全国組織の全農と販売組織が作り出した過剰在庫説、ここまで概算金暴落が必要だったのか疑いさえ出てくる。増税ですべての価格が上昇傾向の中で下がっているのは唯一米だけ、その結果耕作放棄は拡大されることは確実になった。農家から遠くなるJA組織はいずれ、存続の危機を迎える。TPPを推進し「戦後レジームからの脱却」等という現政権にとって都合のよい結果にしか過ぎない。

今年は国連が定めた「国際家族農業年」(略称IYFF2014)だ。TPPに象徴される自由化の行きつく先には、規模拡大農業推進策で既存農家を駆逐し、すべての農産物が価格のみを評価、これでは環境や地域社会を支えてきた家族農業が消えてしまう。家族農業の崩壊で地域社会は成り立たない。今回の価格暴落に現政権は今のところ対応策はなにも示していない。具体的なものの無い「地方創生」、「農業・農村所得倍増計画」は取ってつけたようなスローガンだけだ。

「国際家族農業年」が日本では「農業廃業」、「地方崩壊」の序曲の年になってしまうのか。






無音の叫び声

2014年10月22日 | 足跡
10月18日、山形長井市の友人宅を訪問した。43年間の牛飼いを止めた年から田植、収穫の農作業が終わると温泉一泊のドライブを続けている。今年は10月17~18日、新潟県村上市の瀬波温泉泊となった。ランクルプラドで自宅から瀬波温泉まで約210kの距離。

山形の鶴岡から村上までの海岸線を走った。波が荒かった。波の花というのだろうか荒波が岩にぶつかり道路を覆う、プラドは雨がないのにワイパーが欠かせなかった。海辺のホテルで仲居さんが「海は台風の影響で波が荒い」と話したが、「穏やかな海より少し波が高い方がらしくて良い」等と言ってしまった。初めての荒波の景色はある種の美しさがあった。止むこともない荒波に慣れないせいか夜半に目が覚め、2011年東日本大震災の大津波がひらめいてなかなか寝つかれなかった。

翌朝寝不足でホテルを発ち、国道113線経由で長井市に向かう。瀬波温泉から長井の友人宅までは約85kのドライブ。初めての長井市の友人宅訪問は、先輩の木村迪夫氏の足跡をたどる長編ドキュメンタリー映画、「無音の叫び声」の製作「市民プロデューサー」の一員に加えてもらうためだった。


無音の叫び声 ポスター

木村氏とは、かつて「やまびこ学校」佐藤藤三郎氏の著「25歳になりました」出版社 百合出版 (1960/02)で知り、1972年全国から15人で訪中した時からつきあい。1977年NHKあすの村づくり「土くれのうた」で一緒だった。(ブログ、2013.12.7「追想 土くれのうた」で詳細)長編ドキュメンタリー映画「無音の叫び声」の監督原村政樹氏、製作にあたって次のように書かれているので全文掲載する。(http://www.eiga-muon.net/)


長井市の友人と「無音の叫び声」や米の概算金暴落等の意見交換し、長井から白鷹、寒河江経由で帰途についた。途中「無音の叫び声」の製作市民プロデューサー募集が気になり帰宅を変更、ランクルプラドを上山市牧野の木村迪夫宅へ向けた。白鷹から上山まで約35k。偶然かもしれないが多忙な木村氏は在宅、「無音の叫び声」の原村監督が来ていた。原村政樹氏とは初対面。3年前程前から企画を知っていたので話がはずんだ。製作市民プロデューサー募集と映画の普及活動で以下の集会を企画していた。



会場の上山市山元地区公民館は旧山元小中学校。かつての「やまびこ学校」の舞台、閉校後山元地区公民館となっている。「山びこ学校」は、山形県山元村(現在は、上山市)の中学校教師、無着成恭氏が、教え子の中学生たちの学級文集、内容的には生活記録をまとめて、1951年(昭和26年)に青銅社から刊行したもの。正式名称は、「山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録」である。2008年1月現在、岩波書店(岩波文庫)から刊行。舞台となった上山市立山元中学校は2009年3月廃校となった。

10年ほど前佐藤藤三郎氏宅を訪問している。狸森の地名が懐かしい。団塊の世代以降の人には当時一世風靡した「やまびこ学校」はわからないかもしれない。上山市木村迪夫氏、佐藤藤三郎氏、佐賀県唐津市山下惣一氏、さらに製作委員会会長は日本の有機農業の先駆者で南陽市高畠の星寛治氏は同年代。まもなく80歳になろうとしている。社会情勢が後戻りしていく時代の中でも、前に進もうとするエネルギーのしたたかさには脱帽してしまう。映画製作に多くの市民プロデューサーが生まれ、一日も早く「無音の叫び声」の上映ができることを期待している。 「無音の叫び声」製作委員会TEL070-695-3517

「フジバカマ」と故高橋克衛公民館長 120号

2014年10月15日 | 足跡

秋の花の代表的な「フジバカマ」にほとんど関心などはなかったが、「フジバカマ」と結びつけたのは訪中だった。昭和47年11月(1972)国交回復後の中国を訪問することなった。日本の普通の農民と交流案は中国政府と日本のある機関とで結ばれ、訪中農村活動家連絡会議が主催した。全国から15名で約一ケ月間中国農民、労働者等と交流することになった。この交流事業は国交回復前から進行していて、私たちは第三次の訪中団として中国訪問となった。国交回復直後なので航空協定も結ばれてはなくて、香港経由での訪中が決まっていた。

当時の佐藤町長が壮行会を開いてくれた。当時の稲川町に飲食店は少なかった。同年の沓澤君が農協のそばに食堂を開設して間もなくの頃で、町の関係者が10数人、町長の呼びかけで集まってくれた。ほとんど会って話をしたこともない町の有力者が集まるという壮行会、おそれ多くて佐藤町長の申し出にお断りしたのだったが、秋田県から国交回復直後の訪中なのだからとの熱意に甘えることになった。当時町の青年会の活動が停滞、各地域に様々な分野の青年団体が生まれていた。町の音頭で各青年団体が連絡協議会をつくることにことになり、途中参加の自分がどういう風の吹き回しか、初代の連絡協議会の代表を務めることになってしまった。秋田県は青年の翼で、ソ連等外国へ青年の派遣事業が盛んで稲川町でも該当者が多くなり、海外へ研修に行く人が増えてきていた。

壮行会で各所属の代表者から訪中のへの身に余る激励の言葉をいただいた。壮行会の席で公民館長の高橋克衛氏がそばに寄ってきて、「中国へいったら是非「フジバカマ」を見てきてほしい」という。「フジバカマ」は初めて聞く野草の名でとまどった。当時、国交回復2ケ月後の訪中で期待と不安の中で、他の人と一味違う公民館長のいう「フジバカマ」に失礼ながら特に関心などなかった。11月末から約一ケ月間、南は広州から北は北京、天津までの行程。「フジバカマ」のことなどはすっかり忘れていた。

フジバカマ 紫紅色 自宅 2014.10.13

それが平成に入った頃だったろうか、あるホームセンターの園芸を扱うコーナーに「フジバカマ」を見つけた。さっそく購入して坪庭に植えた。「フジバカマ」に、かつて訪中送行会での高橋公民館長の話を思い出したのだ。「フジバカマ」」は比較的地味な野草と思う。近年「雄勝野草の会」入会後調べてみたら、園芸店で販売されているのは園芸用の「フジバカマ」で実際のものとは違うということがわかった。かつては日本各地の河原などに群生していたが、今は数を減らし、環境省のレッドリストでは準絶滅危惧(NT)種に指定されている。 

「フジバカマ」は、源氏物語や古今和歌集など、1000年以上前の文献や物語にも登場し、平安時代の女性が、十二単のなかに香料として忍ばせていたとも言われています。薬として使われていた歴史もあるようで、 日本人とのおつき合いはかなり長い。

「フジバカマ」(藤袴、Eupatorium japonicum)とはキク科ヒヨドリバナ属の多年生植物。秋の七草の1つ。本州・四国・九州、朝鮮、中国に分布している。原産は中国ともいわれるが、万葉の昔から日本人に親しまれてきた。8-10月、散房状に淡い紫紅色の小さな花をつける。


白花のフジバカマ 自宅 2014.10.13  

生草のままでは無香のフジバカマであるが、乾燥するとその茎や葉に含有されている、クマリン配糖体が加水分解されて、オルト・クマリン酸が生じるため、桜餅の葉のような芳香を放つ。中国では乾かした葉を湯につけて洗髪に利用した。中国名:蘭草、香草英名:Joe-Pye weed;Thoroughwort;Boneset;Agueweed(ヒヨドリバナ属の花)植物学者の湯浅浩史著「植物ごよみ」に『フジバカマの語源は江戸時代、谷川士清が「花の色をもて藤と称し、其弁の筒なるをもて袴とす」と解釈して以来、異論がほとんどなかったが、上野博士はフジバカマは不時佩(ふじばかま)ではないかとと説く。香をはかまにたきこめて不時の災いにそなえたというのである』との記述がある。

高橋克衛氏はあきた(通巻116号) 1972年(昭和47年) 1月1日発行に以下の記事があった。

元気はつらつ稲川明治大学
 
高齢者教育は、生涯教育の到達点、いわば終点であり有終である。本県における高齢者教育は、生涯教育が叫ばれる以前、老人福祉の問題とからめて推進されてきた。老人クラブを母体としそれに地域の公民館が積極的に入り込んで行なった高齢者学級―老人大学がそれである。
、、、。

雄勝郡稲川町の明治大学も、県内では活発に活動しているユニークな存在として知られている。NHKテレビの電波にのって全国に紹介されたこともあり、雑誌『家の光』43年11月号のグラビアにはというタイトルで、町民運動会に参加した稲川明治大学生の、ほがらかで元気あふれる老人パワーが登場する。なにしろ佐藤東一町長が、県婦人児童課長時代の"家庭の日運動"の生み親だけに福柾優先を町政のモットーにかかげ、そのうえ結婚六十三年、文字どおり偕老(かいろう)同穴のご両親が健在とあって、ことさら老人問題には関心が深いのだ。したがってここの特色は、単なる高齢者教育といった孤立した作業ではなく、の一環として老人福祉と生涯教育とが、町政のもっと高次元の場所で手を結びあっている点にあるのだ。
、、、。

死に花を咲かせる  老人学級に関する悩みは、各地とも学習プログラムにあるようだ。なにしろ、それぞれに長い人生の甲羅を経た人たちの集合である。そこには当然、教養の差、趣味の違い、地位や財産の差が生じてくる。狭い地域だと家対家、人対人の感情問題がからまる時もある。こうした人たちを一堂に集めて、いったい共通する何を教えたらいいのか…昨年夏の全県公民館研究大会の高齢者教育分科会でも、このことがいちばんの問題となった。これについて、県老人クラブ連合会長の佐藤欣一郎氏は「老人には別に何も知識を教える必要がないではないか。ただ家の中に籠って閉鎖的になりがちな老人を、地域のみんなで暖く外へ連れ出し、そこで同じ年配の仲間のだれかれと語り、笑い合い、からだを動かしてさっばりした気分になって家に帰る、それだけでいいと思う。私は生涯教育は、老人の場合生涯(いきがい=生甲斐)教育だと思う。あゝ生きていてよかったと思うこと、そして自分に残された力をわずかでも、家庭なり社会に役立てられれば、それか生きがいであろう。そして生きがいの積み重ねが"死にがい"である」と語る。死に花を咲かせてやるために老人教育の場がある、それだけで有用なのかもしれない。
、、、。

明治大学の大好評に、町民から要望がたかまった。私たちにも大学を!と。そこで来年度からは「大正大学」と「昭和大学」をも開設します、と佐藤町長の言明。大デモンストレーションのため八月三十日の町の記念日の前後に、社会福祉と生涯教育を合せた町民大会を開く計画が、もう着々と練りあげられていた。
 あきた(通巻116号) 1972年(昭和47年) 1月1日 引用

振り返ってみれば、稲川の明治大学の活動は格調の高いものだった。高橋克衛公民館長の情熱が抜きんでていたことにもあったのかもしれない。その後の世代はあきた(通巻116号)にあった「大正大学」と「昭和大学」等の開設はほとんどできないことかもしれない。当時の老人クラブへの入学学齢は65歳とあった。現在の団塊の世代以降の世代が対象となる。時代背景があまりにも違ってきてはいるが、昭和の「稲川の明治大学」のようなパワーはあるとは思えない。
現在川連集落に老人クラブの組織はない。数年前に加入者も少なく解散された。今年の川連地区の敬老会に参加したのは、麓集落では対象者三八名中タッタ一人だったという。

フジバカマの咲く季節になって、ネットで故高橋克衛氏の「あきた(通巻116号) 1972年(昭和47年) 1月1日号」を引用し振り返ってみた。故高橋克衛氏の義兄にはあの農民文学の重鎮、伊藤永之介氏がいた。高橋克衛氏の文章の深みは伊藤永之介氏とのつながりにもありそうだ。ネット上にすでに廃刊になった「あきた」の通巻号で故高橋克衛氏の文章に出合える。

それにしても1972年、故高橋公民館長はなぜ「フジバカマ」を是非見てこいと言われたのか、園芸用でも「フジバカマ」の咲く頃になると思いだされる。戦地の中国大陸でほんものの「フジバカマ」との強烈な出合いがあったと推察できる。それがどういうことだったのかはすでに故人となられて今では知ることができない。1972年当時、山野草への意識や関心はほとんどなかったことがある意味では悔やまれる。


喜べない秋の夕暮れ

2014年10月07日 | 農業
米の概算価格が暴落の中、収穫に喜びの無い「あきたこまち」の収穫が始まった。当地方で自然乾燥は9月17日頃から、コンバイン作業は彼岸の中日の9月23日頃から本格的になってきた。

10月6日は台風18号の影響で朝から大雨、ほとんど降りやまず状態。田んぼの稲は9割方作業が終わった。自然乾燥分は残っている。今年の稲刈りに息子、脱穀作業に友人が手伝いに来てくれて26年分の作業は雨が降る前の4日に終えることが出来た。耕作面積の半分は2011年度から始まった「定住自立圏構想事業」で始めた作業を有機米研究会に委託している。研究会では湯沢市人材センターから派遣の作業員を中心に約7haの稲刈り、脱穀作業を行い特栽米として首都圏に出荷される。
「定住自立圏構想事業」の稲刈りはブログ「コメ天日干し」2013.10.2で詳細。

委託の稲刈り 稲川有機米研究会 2014.9.24

我家の稲刈りは自然乾燥なので9月17日から作業開始。バインダーで稲刈りをする。一枚30aの田んぼを刈り終われば、ハサ架けのための支柱、稲杭を突く作業に入る。稲杭の本数は30a分で約120~130本。この作業が一番時間がかかる。多くの人が自然乾燥を止めたのはこの作業が困難なことと、米の価格が公務員や他産業従事者の給与所得や他の物価と比較して安すぎるからだ。

稲杭の突く間隔は約1.8m程。30aの田んぼには約100mの長さのハサは2列、200mなる。杭つきが終われば3段にテープを張る。このテープに刈り取った稲束を二つに開いて架ける。梱包用のPPテープを使っている。テープを張リ終れば、杭3本間隔に支柱を立てる。強風対策だ。この作業が終わればバインダーで刈った稲束を下はテープに沿って立てる。2番、3番のテープに稲束を2分してテープに架ける。いつも2人での作業だったが、今年は休みを利用して息子が手伝いに来たので予想以上に能率があがった。


 息子のバインダー作業 9.21  川連町清水屋敷

自然乾燥での米の収穫作業は、機械化が極度に進んだ秋田では無形文化財級になっている。特に平成になってから激減。川連集落農家戸数約120戸で米の自然乾燥農家は4戸になった。多くの人はコンバイン所有農家に全作業委託か田植、収穫作業を委託。収穫の秋は田んぼの所有主はいない中でコンバインの収穫作業は続いている。


 ハサ架け作業 川連町清水屋敷 2014.9.21

西の山に日の傾いた頃、手伝いの息子が帰った。この日の夕焼けは格別の美しさがあった。稲杭つきで汗だらけだったが思わずデジカメでこの夕日を記録した。ハセ架けの稲杭のてっぺんで夕日を惜しむような赤トンボは近づいても微動もしない。


夕暮れと赤トンボ 川連町田屋面   2014.9.21

シャッター押しながら、ミレーの「晩鐘」が閃いた。少し強引だが「晩鐘」の絵画の遠くにある教会の鐘堂がある。撮影したばかりの西の山に隠れる夕日、稲杭の右側の塔は、「ドコモ」のアンテナとどういうわけかコラボした。強引なこじつけかも知れない。心地よい作業の中で印象的な光景を撮っておきたいと思った。

私の部屋に農民運動家の高橋良蔵氏からいただいたミレーの「晩鐘」の絵がある。当時、何故ミレーの「晩鐘」のだったのかわからないでいた。高橋良蔵氏は地元では通称「高良」と呼ばれていて、私は「タカリョウ」の門下生と言われていたが、氏の期待に応えられない劣等生にしか過ぎなかった。一時農業問題の考え方に食い違いが生まれ、交流が途絶えたことがあったが、晩年氏が若いころ山形の松田甚次郎の活動に共鳴していることを知った。

有名な「宮澤賢治」と深いつながりのある「松田甚次郎」の活動は、「青年会」や「稲川農研」の時代に大きく影響をもらっていた。松田甚次郎著「土に叫ぶ」は昭和13年に発行。昭和53年に復刊された。「土に叫ぶ」の発売と同時に買い求めていた。「土に叫ぶ」の中に「最上共働村塾」の活動が詳しく書かれて、塾生の修了證書が、ミレーの「晩鐘」の絵画だったことが記されている。「晩鐘」の絵の裏面に山形の明治の文豪、「吾人は須く現代を超越せざるべからず」と喝破した「高山樗牛」のミレーの書作に題して書かれた「晩鐘」の文を書いて贈った。そして「この絵を額にして自分の部屋に掲げ、常に反省し、祈祷せよ、と送別の言葉を贈った」とある。

「一日の業を了りたる若き農夫とその妻と、今方(まさ)に家路に就かむとする時、エンヂェラスの祈祷を告ぐる夕べの鐘はひびきわたりぬ。二人は頭(かうべ)を垂れて、無言のいのりを捧げぬ。地には平和あり、天には光あり、人には愛情あり。而して天国の響きに応(こた)ふることの祈だにあらば、吾等この世に於て何の求むる所ぞや。あゝ若き農夫と其妻とが、今方に無言の祈を捧げつゝあるを見ずや」。
、、、、。 以下略

その目指すことは「我々ならびに、我々の先輩が、超越しなくても、せめて現代を洞察するだけの能力があったならば、大東亜戦争は抑止できたのではないか」との解釈が込められていたという説もある。私の部屋のミレーの「晩鐘」にはそのような意味があったことを知ったのは、いただいて10数年後、再刊松田甚次郎著「土に叫ぶ」を手にしてからだった。

ミレーの晩鐘 引用

一日の仕事の終わりに西の山に隠れる太陽と、稲杭に一日の終わりの赤とんぼを記録した。赤とんぼの右手の塔は「ドコモ」のアンテナ。「晩鐘」の絵の向こうには教会の尖塔が見える。「晩鐘」は近代フランス農村光景を投影し、あえて言えば日本の農村との共通点が見える。

ほとんどの農家は今年の米の概算価格では、収穫作業代、肥料、農薬、資材代、土地改良区の賦課金等に支払う金額が足りない。春作業からの労働代はゼロ。来年の作業をどうしたらいいのか思案にくれている。

最上共働塾の修了證書、ミレーの「晩鐘」に込められた「現代を洞察するだけの能力」、現代にあてはめて見ると、秘密保護法、解釈改憲、ドアホノミクス、消費税増税等の狙いが透けて見える。政権よりのマスコミは現実に進行している実態を正しく報道しているとは思えない。ネット社会になってつじつまの合わない報道強制は通らなくなっている。傲慢なNHK会長への辞任要求に、8月の時点でNHK退職者1527人が賛同者が署名したニュースは近年なかったことだ。この国の行く末に暗雲が漂っている現実を見逃してはならない。2000年施行の大店法で市街地を空洞化し、円安、増税はコメ概算価格の下落の生み出し、その結果として地方の経済をズタズタにした。そのような状況下で「地方創生」等と云いだした。かつては「ふるさと創生」等という政策もあったが、、、、。一時のパフォーマンスの域を超えることが出来るのか。

「夕日と赤とんぼと」、何も変わらない一日にしか過ぎないだろうか。重い秋だ。