今再び真下章詩集「豚語」を読み返した。ハガキの「河鹿沢通信」、「豚語」2001.1.15発行の通信52号を思いだし、改めて農業政策の怪しさを検証してみた。浜矩子同志社大学教授のいうドアホノミクスを垂れ流す、安部内閣の「農業の大型化で、生産性が高く、競争力が上がる」の規模拡大論が提唱されている。「農業・農村所得倍増計画」というものらしい、かつてどこかで聞いたことのある政策だ。
農基法制定50年以来、伝説のごとく規模拡大論に惑わされて多くが挑戦し、破滅していった事例を正しく検証されてはこなかった。検証されていないのだから繰り返し似たような政策が続く。いたるところに残骸として残っている廃畜舎や、廃園し雑草の多い茂る果樹畑を見るにつけ、憤りと悲しさがわいてくる。かろうじて存在している規模拡大した基礎体力のない農家は、周りの中小農家の存在で成り立ってきた一面がある。周りの多くの中小農家がいないのだから、いくらか規模の大きい農家の存立基盤も脆弱なのだ。株式会社の農業参入も優勝劣敗の法則の社会で結論が見える。彼らの食料の生産は転売の可能性が大きい土地の裏付けがあってのこと。企業の畜産業へは侵入は数がすくない。侵入も既存農家への畜産小作の形で存在してきた。この形が永続的に継続する保証はない。
適正規模の家族農業の定着では取り巻く外部資本、農機、肥料農薬、流通関係に利益が少ない。関連産業を第一として農業政策は、規模拡大策を推奨する。中小の農家等よりも数倍の取引できる規模拡大農家の存在こそ関連産業の利益拡大につながる。しかし、地域の永続的な繁栄は、地域に多くの農家が存在することにある。近年集落営農、法人等と何か目新しいような位置づけに見えるがほとんど実質は変わってはいない。一握りの規模の大きい農家や、法人等という形を変えた農家が存在してもその地域が豊かとは言えない。もしかしたら世界一高い生産資材で海外と同等の農産物は生産できないのは当然なことだ。規模拡大等などとはものの一面でしかありえない。
繰り返される農業政策で耕作放棄地が増大している。今の政策でも放棄地増大は止まらない。お友達で「産業競争力会議」等という得体のしれない会議の提言で、地域の崩壊が進むことがあっても活性化はしない。「産業競争力会議」を、経済評論家の佐高信氏はそのものズバリ「経済格差拡大会議」が実態だと云っている。
13年前、詩集「豚語」をかつて古本屋で見つけて以下のハガキ「河鹿沢通信」を出した。
詩集「豚語」とハガキ「河鹿沢通信52号」2001.1.15 52号
ハガキ通信「豚語」
名もないものは殺されてもいいのか
豚のように
ひと言の挨拶もなく
いのちは引き裂かれてもいいのか ・・・・ (のように)
生き返るな
生き返って
再びその目に憎しみを入れるな ・・・・ (再び)
この詩集は群馬県の赤城山麓で豚を飼う、「真下 章」氏の詩集「豚 語」の中からの引用である。豚ではなく牛を飼う自分は、この「豚語」の詩集がどうしても読みたいと思った。昭和60年の頃だったと思う。この詩集を初めて知ったのが雑誌だったのか新聞の書評だったのか今は思い出せない。
しかし、今回偶然立ち寄った古本屋で見つけた。読みふるしでも、作者の贈呈本でもなさそうだ。見つけた感激は大きい、「まさかこんなところで」とも思った。売価100円。 再版1988.9.20 紙鳶社 発行定価1200円、見つかった喜びの反面、価格100円はなぜか痛々しく、つらさもあった。1979年初版、「愛情 などという煮ても焼いても食えない代もので、豚飼いなど一生できるものではない。まして社会的責任だとか誇りだとかいう煽てにのるほど、お天気な風景でもない」・・のあとがきも新鮮で真新しく思えた。
農業での自立、規模拡大、複合経営など等。この数十年間で多くの農民は、為政者と能無し官僚の甘言に乗せられ、多くの人は敗北、挫折をした。挑戦した者の労苦は筆舌しがたい。彼らのいう「市場原理」とやらに翻弄されながら。
さらにその政策はエスカレート。そのため挑戦者の中には田んぼを失い、さらにこの世にサヨナラした者もいる。挑戦しないことが農業として生きる道ではないかと、繰り返して叫んでもきた。養豚ではなく「豚飼い」、酪農ではなく「牛飼い」の方が豚や牛と語りあえた。暮改の行政下での火傷はあまりにも大きい。だから、他の人の「田んぼ」までなどと欲張ると、田んぼとの語りもダメになる。
あんたに借りはひとつもねえ ・・・・ (負債について)
と、この作者はあくまで「豚」の目線で、その屈辱を人間どもに問いかける。
ハガキ「河鹿沢通信52号」2001.1.15 52号
農政に呼応し確率した規模拡大農家の多くに、基礎体力の脆弱さは大きい。昭和40年代農業構造改善事業等で生まれた、協業経営や規模拡大した経営の多くはすでに廃業してしまった。農政の掛け声としての6次化が存在しても、基礎体力の弱い農家に不可能なことに過ぎない。結局は関連産業の収益増に結びつく。さらに規模の大きい農家の忙しさは普通の農家の数倍。知人のH氏は10haの田んぼに野菜や花を栽培し直売所等で販売しているが経費と臨時作業の労賃等で100万円の売上に、90%以上の経費がかかってしまい手取りがほとんどないと嘆いた。過酷な労働時間と経費の増大、簡単には縮小できない現実がある。そのよう状況で仮に規模拡大で周辺農家よりも10数倍の売り上げがあったとしても、差引収入はほとんど大きな差はない。
超多忙と収益性のさほど上がらない経営は早晩消滅する。
売り上げの増大はイコール経費の増大へと比例する。経費のほとんど関連産業等への移行だったことに気がついても、規模拡大してしまった農家の退却は即破産を意味する。特に畜産は年中無休。飼料の自給をメーンに農政は進めてきたが定着できなかった。畜産と耕種と循環農業が確立できない大型畜産の継続は難しい。形を変えて耕種農家もあまり変わりがない。やみくもに拡大しても必ずしもコストの低下には結びつかない。激多忙での経営にはおのずから限度があり、現在の米の価格では投資した機械設備等が回収は難しい。単作の経営ではアルブレヒト・テーヤの云う合理的農業にはならない。安定しないから持続しない。
私的機関の「産業競争力会議」は米の値段を60k9,000円を目標とする案を今春発表した。現実に10,000円米価到来でこの数年で生まれた拡大農家の存立基盤が揺れ動いている。多くは継続困難が目の前に来ている。今から十数年前になるが某テレビ局が調査した、20ha規模と1.5ha規模の集約農家との所得はほぼ同じだった経過もある。
真下 章 詩集「豚語」から
豚 語
さあ
これで一対一だ
お天とうさましか
みちゃあいねえ
いいから
帽子をとれ
そしたら靴を脱ぐんだ
はだしになったら
上衣
上衣をとったらネクタイ
バンドの次は
シャツ
下着を脱いだら
パンツもだ
みんなだ
そうだそれでいい
そしたら四つん這いになって
ブウー
と ひと声云ってみろ
俺とおんなじじゃねえか
この詩集「豚語」のなかから「豚語」、「怒りは」、「再び」、「のように」、「負債について」、「天の川」等当時食い入るように読み共鳴した自分がいた。再び手にして時代が変わっても新鮮な認識は輝いて見える。
あとがきに以下のようにかかれている。
真下さんは生業として、業として豚を飼った。米からの脱却の一端として養豚業に向かった人も大勢いる。真下さんは豚と人間とを区別しなかった目線がこの「豚語」の詩集にあふれ出ている。牛を飼う人も又、コメもリンゴも、ハウスのトマトであったりキュウリでも、「、、語」と真下さんと同じように、作物と人間とを同列の目線で見ることができれば、この時代の軽薄な政策のいかがわしさが透けて見えてくる。
あとがきにある「豚」を「農業」に変えてみれば以下の文章になる。
「愛情 などという煮ても焼いても食えぬ代物で、農業(豚飼い)など一生できるものではない。まして社会的責任だとか誇りだとかいう煽てにのるほど、お天気な風景でもない」。
アベノミクスは失敗に終わる。4月から強引に3%引き上げ8%の消費税は便乗値上げを誘発し、重くのしかかっている。個人消費は大きく減少し物が売れない時代に入った。円安経済の中で実質賃金の低下、年金額の減少で個人消費が低迷は当然。大企業の利益の内部留保が空前の伸びが報道される中、働く者への還元は限定的。多くの中小企業で働く者の実質賃金は低下傾向。聞こえてくるのは勤め先の倒産、非正規雇用の身分の不安定からくるものばかり。町中心部の閉ざされたシャッターは錆びついてしまった。
先に政府は4-6月期のGDP(国内総生産)は年率6.8%のマイナスと発表した。この中に売れ残りを在庫を景気にプラスの要素としていたことが指摘され、実際のマイナスは発表の倍以上の16%との説がある。数字操作を駆使してまで増税する魂胆が透けて見える。
消費税8%の情勢分析が不明瞭にして、消費税10%説は60k10,000円以下の米価と連動し個人消費は停滞、地方の経済は一層先行きが見えなくなる可能性が大きい。1%と人の成長に99%が犠牲になる市場原理主義から地域の豊かさは生まれない。
農基法制定50年以来、伝説のごとく規模拡大論に惑わされて多くが挑戦し、破滅していった事例を正しく検証されてはこなかった。検証されていないのだから繰り返し似たような政策が続く。いたるところに残骸として残っている廃畜舎や、廃園し雑草の多い茂る果樹畑を見るにつけ、憤りと悲しさがわいてくる。かろうじて存在している規模拡大した基礎体力のない農家は、周りの中小農家の存在で成り立ってきた一面がある。周りの多くの中小農家がいないのだから、いくらか規模の大きい農家の存立基盤も脆弱なのだ。株式会社の農業参入も優勝劣敗の法則の社会で結論が見える。彼らの食料の生産は転売の可能性が大きい土地の裏付けがあってのこと。企業の畜産業へは侵入は数がすくない。侵入も既存農家への畜産小作の形で存在してきた。この形が永続的に継続する保証はない。
適正規模の家族農業の定着では取り巻く外部資本、農機、肥料農薬、流通関係に利益が少ない。関連産業を第一として農業政策は、規模拡大策を推奨する。中小の農家等よりも数倍の取引できる規模拡大農家の存在こそ関連産業の利益拡大につながる。しかし、地域の永続的な繁栄は、地域に多くの農家が存在することにある。近年集落営農、法人等と何か目新しいような位置づけに見えるがほとんど実質は変わってはいない。一握りの規模の大きい農家や、法人等という形を変えた農家が存在してもその地域が豊かとは言えない。もしかしたら世界一高い生産資材で海外と同等の農産物は生産できないのは当然なことだ。規模拡大等などとはものの一面でしかありえない。
繰り返される農業政策で耕作放棄地が増大している。今の政策でも放棄地増大は止まらない。お友達で「産業競争力会議」等という得体のしれない会議の提言で、地域の崩壊が進むことがあっても活性化はしない。「産業競争力会議」を、経済評論家の佐高信氏はそのものズバリ「経済格差拡大会議」が実態だと云っている。
13年前、詩集「豚語」をかつて古本屋で見つけて以下のハガキ「河鹿沢通信」を出した。
詩集「豚語」とハガキ「河鹿沢通信52号」2001.1.15 52号
ハガキ通信「豚語」
名もないものは殺されてもいいのか
豚のように
ひと言の挨拶もなく
いのちは引き裂かれてもいいのか ・・・・ (のように)
生き返るな
生き返って
再びその目に憎しみを入れるな ・・・・ (再び)
この詩集は群馬県の赤城山麓で豚を飼う、「真下 章」氏の詩集「豚 語」の中からの引用である。豚ではなく牛を飼う自分は、この「豚語」の詩集がどうしても読みたいと思った。昭和60年の頃だったと思う。この詩集を初めて知ったのが雑誌だったのか新聞の書評だったのか今は思い出せない。
しかし、今回偶然立ち寄った古本屋で見つけた。読みふるしでも、作者の贈呈本でもなさそうだ。見つけた感激は大きい、「まさかこんなところで」とも思った。売価100円。 再版1988.9.20 紙鳶社 発行定価1200円、見つかった喜びの反面、価格100円はなぜか痛々しく、つらさもあった。1979年初版、「愛情 などという煮ても焼いても食えない代もので、豚飼いなど一生できるものではない。まして社会的責任だとか誇りだとかいう煽てにのるほど、お天気な風景でもない」・・のあとがきも新鮮で真新しく思えた。
農業での自立、規模拡大、複合経営など等。この数十年間で多くの農民は、為政者と能無し官僚の甘言に乗せられ、多くの人は敗北、挫折をした。挑戦した者の労苦は筆舌しがたい。彼らのいう「市場原理」とやらに翻弄されながら。
さらにその政策はエスカレート。そのため挑戦者の中には田んぼを失い、さらにこの世にサヨナラした者もいる。挑戦しないことが農業として生きる道ではないかと、繰り返して叫んでもきた。養豚ではなく「豚飼い」、酪農ではなく「牛飼い」の方が豚や牛と語りあえた。暮改の行政下での火傷はあまりにも大きい。だから、他の人の「田んぼ」までなどと欲張ると、田んぼとの語りもダメになる。
あんたに借りはひとつもねえ ・・・・ (負債について)
と、この作者はあくまで「豚」の目線で、その屈辱を人間どもに問いかける。
ハガキ「河鹿沢通信52号」2001.1.15 52号
農政に呼応し確率した規模拡大農家の多くに、基礎体力の脆弱さは大きい。昭和40年代農業構造改善事業等で生まれた、協業経営や規模拡大した経営の多くはすでに廃業してしまった。農政の掛け声としての6次化が存在しても、基礎体力の弱い農家に不可能なことに過ぎない。結局は関連産業の収益増に結びつく。さらに規模の大きい農家の忙しさは普通の農家の数倍。知人のH氏は10haの田んぼに野菜や花を栽培し直売所等で販売しているが経費と臨時作業の労賃等で100万円の売上に、90%以上の経費がかかってしまい手取りがほとんどないと嘆いた。過酷な労働時間と経費の増大、簡単には縮小できない現実がある。そのよう状況で仮に規模拡大で周辺農家よりも10数倍の売り上げがあったとしても、差引収入はほとんど大きな差はない。
超多忙と収益性のさほど上がらない経営は早晩消滅する。
売り上げの増大はイコール経費の増大へと比例する。経費のほとんど関連産業等への移行だったことに気がついても、規模拡大してしまった農家の退却は即破産を意味する。特に畜産は年中無休。飼料の自給をメーンに農政は進めてきたが定着できなかった。畜産と耕種と循環農業が確立できない大型畜産の継続は難しい。形を変えて耕種農家もあまり変わりがない。やみくもに拡大しても必ずしもコストの低下には結びつかない。激多忙での経営にはおのずから限度があり、現在の米の価格では投資した機械設備等が回収は難しい。単作の経営ではアルブレヒト・テーヤの云う合理的農業にはならない。安定しないから持続しない。
私的機関の「産業競争力会議」は米の値段を60k9,000円を目標とする案を今春発表した。現実に10,000円米価到来でこの数年で生まれた拡大農家の存立基盤が揺れ動いている。多くは継続困難が目の前に来ている。今から十数年前になるが某テレビ局が調査した、20ha規模と1.5ha規模の集約農家との所得はほぼ同じだった経過もある。
真下 章 詩集「豚語」から
豚 語
さあ
これで一対一だ
お天とうさましか
みちゃあいねえ
いいから
帽子をとれ
そしたら靴を脱ぐんだ
はだしになったら
上衣
上衣をとったらネクタイ
バンドの次は
シャツ
下着を脱いだら
パンツもだ
みんなだ
そうだそれでいい
そしたら四つん這いになって
ブウー
と ひと声云ってみろ
俺とおんなじじゃねえか
この詩集「豚語」のなかから「豚語」、「怒りは」、「再び」、「のように」、「負債について」、「天の川」等当時食い入るように読み共鳴した自分がいた。再び手にして時代が変わっても新鮮な認識は輝いて見える。
あとがきに以下のようにかかれている。
真下さんは生業として、業として豚を飼った。米からの脱却の一端として養豚業に向かった人も大勢いる。真下さんは豚と人間とを区別しなかった目線がこの「豚語」の詩集にあふれ出ている。牛を飼う人も又、コメもリンゴも、ハウスのトマトであったりキュウリでも、「、、語」と真下さんと同じように、作物と人間とを同列の目線で見ることができれば、この時代の軽薄な政策のいかがわしさが透けて見えてくる。
あとがきにある「豚」を「農業」に変えてみれば以下の文章になる。
「愛情 などという煮ても焼いても食えぬ代物で、農業(豚飼い)など一生できるものではない。まして社会的責任だとか誇りだとかいう煽てにのるほど、お天気な風景でもない」。
アベノミクスは失敗に終わる。4月から強引に3%引き上げ8%の消費税は便乗値上げを誘発し、重くのしかかっている。個人消費は大きく減少し物が売れない時代に入った。円安経済の中で実質賃金の低下、年金額の減少で個人消費が低迷は当然。大企業の利益の内部留保が空前の伸びが報道される中、働く者への還元は限定的。多くの中小企業で働く者の実質賃金は低下傾向。聞こえてくるのは勤め先の倒産、非正規雇用の身分の不安定からくるものばかり。町中心部の閉ざされたシャッターは錆びついてしまった。
先に政府は4-6月期のGDP(国内総生産)は年率6.8%のマイナスと発表した。この中に売れ残りを在庫を景気にプラスの要素としていたことが指摘され、実際のマイナスは発表の倍以上の16%との説がある。数字操作を駆使してまで増税する魂胆が透けて見える。
消費税8%の情勢分析が不明瞭にして、消費税10%説は60k10,000円以下の米価と連動し個人消費は停滞、地方の経済は一層先行きが見えなくなる可能性が大きい。1%と人の成長に99%が犠牲になる市場原理主義から地域の豊かさは生まれない。