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詩集「豚語」と「農業・農村所得倍増計画」

2014年08月31日 | 足跡
今再び真下章詩集「豚語」を読み返した。ハガキの「河鹿沢通信」、「豚語」2001.1.15発行の通信52号を思いだし、改めて農業政策の怪しさを検証してみた。浜矩子同志社大学教授のいうドアホノミクスを垂れ流す、安部内閣の「農業の大型化で、生産性が高く、競争力が上がる」の規模拡大論が提唱されている。「農業・農村所得倍増計画」というものらしい、かつてどこかで聞いたことのある政策だ。

農基法制定50年以来、伝説のごとく規模拡大論に惑わされて多くが挑戦し、破滅していった事例を正しく検証されてはこなかった。検証されていないのだから繰り返し似たような政策が続く。いたるところに残骸として残っている廃畜舎や、廃園し雑草の多い茂る果樹畑を見るにつけ、憤りと悲しさがわいてくる。かろうじて存在している規模拡大した基礎体力のない農家は、周りの中小農家の存在で成り立ってきた一面がある。周りの多くの中小農家がいないのだから、いくらか規模の大きい農家の存立基盤も脆弱なのだ。株式会社の農業参入も優勝劣敗の法則の社会で結論が見える。彼らの食料の生産は転売の可能性が大きい土地の裏付けがあってのこと。企業の畜産業へは侵入は数がすくない。侵入も既存農家への畜産小作の形で存在してきた。この形が永続的に継続する保証はない。

適正規模の家族農業の定着では取り巻く外部資本、農機、肥料農薬、流通関係に利益が少ない。関連産業を第一として農業政策は、規模拡大策を推奨する。中小の農家等よりも数倍の取引できる規模拡大農家の存在こそ関連産業の利益拡大につながる。しかし、地域の永続的な繁栄は、地域に多くの農家が存在することにある。近年集落営農、法人等と何か目新しいような位置づけに見えるがほとんど実質は変わってはいない。一握りの規模の大きい農家や、法人等という形を変えた農家が存在してもその地域が豊かとは言えない。もしかしたら世界一高い生産資材で海外と同等の農産物は生産できないのは当然なことだ。規模拡大等などとはものの一面でしかありえない。

繰り返される農業政策で耕作放棄地が増大している。今の政策でも放棄地増大は止まらない。お友達で「産業競争力会議」等という得体のしれない会議の提言で、地域の崩壊が進むことがあっても活性化はしない。「産業競争力会議」を、経済評論家の佐高信氏はそのものズバリ「経済格差拡大会議」が実態だと云っている。

13年前、詩集「豚語」をかつて古本屋で見つけて以下のハガキ「河鹿沢通信」を出した。


詩集「豚語」とハガキ「河鹿沢通信52号」2001.1.15 52号

ハガキ通信「豚語」

名もないものは殺されてもいいのか
豚のように
ひと言の挨拶もなく
いのちは引き裂かれてもいいのか ・・・・ (のように)

生き返るな
生き返って
再びその目に憎しみを入れるな ・・・・ (再び)


この詩集は群馬県の赤城山麓で豚を飼う、「真下 章」氏の詩集「豚 語」の中からの引用である。豚ではなく牛を飼う自分は、この「豚語」の詩集がどうしても読みたいと思った。昭和60年の頃だったと思う。この詩集を初めて知ったのが雑誌だったのか新聞の書評だったのか今は思い出せない。
しかし、今回偶然立ち寄った古本屋で見つけた。読みふるしでも、作者の贈呈本でもなさそうだ。見つけた感激は大きい、「まさかこんなところで」とも思った。売価100円。 再版1988.9.20 紙鳶社 発行定価1200円、見つかった喜びの反面、価格100円はなぜか痛々しく、つらさもあった。1979年初版、「愛情 などという煮ても焼いても食えない代もので、豚飼いなど一生できるものではない。まして社会的責任だとか誇りだとかいう煽てにのるほど、お天気な風景でもない」・・のあとがきも新鮮で真新しく思えた。

農業での自立、規模拡大、複合経営など等。この数十年間で多くの農民は、為政者と能無し官僚の甘言に乗せられ、多くの人は敗北、挫折をした。挑戦した者の労苦は筆舌しがたい。彼らのいう「市場原理」とやらに翻弄されながら。
さらにその政策はエスカレート。そのため挑戦者の中には田んぼを失い、さらにこの世にサヨナラした者もいる。挑戦しないことが農業として生きる道ではないかと、繰り返して叫んでもきた。養豚ではなく「豚飼い」、酪農ではなく「牛飼い」の方が豚や牛と語りあえた。暮改の行政下での火傷はあまりにも大きい。だから、他の人の「田んぼ」までなどと欲張ると、田んぼとの語りもダメになる。

あんたに借りはひとつもねえ ・・・・ (負債について)

と、この作者はあくまで「豚」の目線で、その屈辱を人間どもに問いかける。
   ハガキ「河鹿沢通信52号」2001.1.15 52号

農政に呼応し確率した規模拡大農家の多くに、基礎体力の脆弱さは大きい。昭和40年代農業構造改善事業等で生まれた、協業経営や規模拡大した経営の多くはすでに廃業してしまった。農政の掛け声としての6次化が存在しても、基礎体力の弱い農家に不可能なことに過ぎない。結局は関連産業の収益増に結びつく。さらに規模の大きい農家の忙しさは普通の農家の数倍。知人のH氏は10haの田んぼに野菜や花を栽培し直売所等で販売しているが経費と臨時作業の労賃等で100万円の売上に、90%以上の経費がかかってしまい手取りがほとんどないと嘆いた。過酷な労働時間と経費の増大、簡単には縮小できない現実がある。そのよう状況で仮に規模拡大で周辺農家よりも10数倍の売り上げがあったとしても、差引収入はほとんど大きな差はない。
超多忙と収益性のさほど上がらない経営は早晩消滅する。

売り上げの増大はイコール経費の増大へと比例する。経費のほとんど関連産業等への移行だったことに気がついても、規模拡大してしまった農家の退却は即破産を意味する。特に畜産は年中無休。飼料の自給をメーンに農政は進めてきたが定着できなかった。畜産と耕種と循環農業が確立できない大型畜産の継続は難しい。形を変えて耕種農家もあまり変わりがない。やみくもに拡大しても必ずしもコストの低下には結びつかない。激多忙での経営にはおのずから限度があり、現在の米の価格では投資した機械設備等が回収は難しい。単作の経営ではアルブレヒト・テーヤの云う合理的農業にはならない。安定しないから持続しない。

私的機関の「産業競争力会議」は米の値段を60k9,000円を目標とする案を今春発表した。現実に10,000円米価到来でこの数年で生まれた拡大農家の存立基盤が揺れ動いている。多くは継続困難が目の前に来ている。今から十数年前になるが某テレビ局が調査した、20ha規模と1.5ha規模の集約農家との所得はほぼ同じだった経過もある。

真下 章 詩集「豚語」から

   豚 語

  さあ
  これで一対一だ
  お天とうさましか
  みちゃあいねえ

  いいから
  帽子をとれ
  そしたら靴を脱ぐんだ
  はだしになったら
  上衣
  上衣をとったらネクタイ
  バンドの次は
  シャツ
  下着を脱いだら
  パンツもだ

  みんなだ
  そうだそれでいい
  そしたら四つん這いになって
  ブウー
  と ひと声云ってみろ

  俺とおんなじじゃねえか
 

この詩集「豚語」のなかから「豚語」、「怒りは」、「再び」、「のように」、「負債について」、「天の川」等当時食い入るように読み共鳴した自分がいた。再び手にして時代が変わっても新鮮な認識は輝いて見える。


あとがきに以下のようにかかれている。



真下さんは生業として、業として豚を飼った。米からの脱却の一端として養豚業に向かった人も大勢いる。真下さんは豚と人間とを区別しなかった目線がこの「豚語」の詩集にあふれ出ている。牛を飼う人も又、コメもリンゴも、ハウスのトマトであったりキュウリでも、「、、語」と真下さんと同じように、作物と人間とを同列の目線で見ることができれば、この時代の軽薄な政策のいかがわしさが透けて見えてくる。

あとがきにある「豚」を「農業」に変えてみれば以下の文章になる。

「愛情 などという煮ても焼いても食えぬ代物で、農業(豚飼い)など一生できるものではない。まして社会的責任だとか誇りだとかいう煽てにのるほど、お天気な風景でもない」。

アベノミクスは失敗に終わる。4月から強引に3%引き上げ8%の消費税は便乗値上げを誘発し、重くのしかかっている。個人消費は大きく減少し物が売れない時代に入った。円安経済の中で実質賃金の低下、年金額の減少で個人消費が低迷は当然。大企業の利益の内部留保が空前の伸びが報道される中、働く者への還元は限定的。多くの中小企業で働く者の実質賃金は低下傾向。聞こえてくるのは勤め先の倒産、非正規雇用の身分の不安定からくるものばかり。町中心部の閉ざされたシャッターは錆びついてしまった。

先に政府は4-6月期のGDP(国内総生産)は年率6.8%のマイナスと発表した。この中に売れ残りを在庫を景気にプラスの要素としていたことが指摘され、実際のマイナスは発表の倍以上の16%との説がある。数字操作を駆使してまで増税する魂胆が透けて見える。

消費税8%の情勢分析が不明瞭にして、消費税10%説は60k10,000円以下の米価と連動し個人消費は停滞、地方の経済は一層先行きが見えなくなる可能性が大きい。1%と人の成長に99%が犠牲になる市場原理主義から地域の豊かさは生まれない。

「あきたこまち」に異変

2014年08月22日 | 農業
「あきたこまち」の異変に気がついたのは8月12日だった。所要で出かけた帰りに湯沢市役所稲川庁舎の脇を車で通過中、畦畔際の出たばかりの穂が白くなっていた。一瞬不思議に思い車をバックし確認。一見穂イモチ病にかかったような姿、田んぼに入り稲穂を抜いてみたがイモチ病ではなかった。考えてみれば前の夜(8月11日)台風11号の影響で、午後9時頃突風が吹いた。さらに深夜も強い雨風があった。12日夕方集落の周辺の田んぼを回ってみると出穂前後の「あきたこまち」に田んぼでなびいている稲や、穂が白くなっているのは経験したことはなかった。8月13日の朝の見回りで、出穂直後のモミ部分が褐色になったのをいつもの年より多いのが気になっていた。ブログ「鬼雨とあきたこまち」(2014.8.14)で危惧した「鬼雨」の『台風11号」のしわざだと直感した。

8月20日、21日に異変から約一週間経過して秋田魁新報、朝日新聞秋田版は以下の記事を掲載した。

「稲が白や褐色に変色、台風原因か にかほの水田など」

  
にかほ市象潟町の上郷、上浜両地区の多くの水田で、白や褐色に変色した稲穂が19日までに見つかった。県やJA秋田しんせいによると、11日未明に県内に最接近した台風11号による高温の強風で、出穂したばかりの柔らかい穂が乾燥したり、激しくこすれたりしたためとみられる。


白や褐色の稲が広がる水田 にかほ市象潟町の上郷地区 引用

由利本荘市や男鹿市、潟上市などでも被害の情報があり、県は19日、全県規模の調査を始めた。県水田総合利用課によると、にかほ市で確認された被害は、穂が白くなる「白穂(しらほ)」ともみが黒っぽく変色する「褐変(かっぺん)」。白穂は風当たりの強い田んぼのあぜ沿いで多く発生し、褐変は場所を問わず点在していた。にかほ市以外では褐変だけが確認されている。
  秋田魁新報2014/08/20

「にかほで稲が変色 台風11号の影響か」朝日新聞秋田版

、、、、、、、、、、、。

県水田総合利用課によると、変色は「白穂(しらほ)」と「褐変(かっぺん)」という現象。白穂は田の周辺部で多く、褐変は全体に点在していた。白穂は熱で稲が枯れるもので、今後の成長の見込みはない。褐変は強風でもみ同士がこすれて、雑菌がカビになったもので、水の管理と防除でカビがもみの中に入り込まなければ、品質や収量に影響はないという。同課は「褐変は例年あるが、白穂はあまりない。最終的な被害は収穫してみなければわからない」という。

秋田地方気象台によると、台風11号の影響で10日のにかほ(にかほ市)の最大瞬間風速は19・7メートル。上空に暖かく湿った空気が入り込み、午後11時25分にこの日の最高気温となる32度を記録した。「山越えの風が吹き、気温が高くなるフェーン現象と同じ原理だ」とみている。
  朝日新聞秋田版 2014.8.21

当地方ではさいわい短時間で通過したのか、8月12日の夕方には乱れた稲の姿は解消されていた。ただ、南東の風が吹き荒れ、そのため畦畔沿いの南端の稲だけに部分的に白穂が出た。それに比較して、秋田魁新報報道のにかほ市象潟町の上郷地区の白穂はすごい被害としか言いようがない。収穫量にどれほど影響するのか。


白い穂の「あきあこまち」2014.8.17 湯沢市川連町田屋面

写真で見られるように我が家の「あきたこまち」は大きな被害にはならなかった。8月13日、畦畔の草刈りをしていた井上君は「イモチだすぐ消毒しなければ」と云う。一穂を抜いてイモチの兆候がないことを説明したら納得。極少ない穂数なので影響が少ないだろう、と二人で話した。台風の仕業で褐変色したモミは気になっていた。


褐変の穂「あきたこまち」2014.8.17 湯沢市川連町田屋面

白穂は出穂の遅れた田んぼや、農道より下がった田んぼは直接突風を免れた分ほとんど出なかったが、褐変のモミは随所に見られる。県水田総合利用課はそれほど収穫量に影響はなさそうとの判断だが、褐変の穂をよく観察してみるとカラの状態のも見受けられる。被害から一週間後の褐変色の穂を抜き取り調べてみた。褐変色モミに実は入っていないか、入っていても小さいからクズ米になる確率が高いものと思われる。ただ例年より茎数、モミ数がやや多く大きな減収は避けられそうだが、最終収穫量は出来秋にならなければわからない。


褐変の穂 2014.8.21

出穂後の天候は異常。カラ梅雨で経過した後の天気は台風12号、11号が去った後は低温と雨続きに日照不足気味。不順な天候はまだまだ続きそうだ。エルニーニョが回避されたとの報道で安心したが、先に報道された7月末の作況指数103は怪しくなってきた。

台風一過と「ナガコガネグモ」

2014年08月14日 | 農業
台風12号、11号の鬼雨は日本列島をほぼ暴れまわって熱帯低気圧となって消えた。一時突風に見舞われた出穂の「あきたこまち」の一部に、かき回された跡が見えたがすでに回復。湯沢の川連地区は大きな雨の被害もなく経過した。昨日12日まで曇天が続いたが13日は快晴。早朝の田んぼは霧がかかっていた。「あきたこもち」は出穂期になって幾分丈が伸長した。「鬼雨」から逃れた今朝の田んぼは格別美しい。


あきたこまちの出穂とクモの巣 2014.8.13 

この地区の出穂期の朝日は鍋釣山の上から昇る。霧に覆われている集落も今朝の朝日はまばゆい。霧も徐々に上がり始めたが、視界はまだせいぜい150m程しかない。台風が去った田んぼ一面のクモの巣、朝露に濡れるのを嫌ったのかクモは見渡らない。「アシナガグモ」の巣だろうか。「ナガコガネグモ」もいた。「ナガコガネグモ」(長黄金蜘蛛、学名: Argiope bruennichi)と呼ばられている。台風の影響で巣を作ることもできず、じっとこらえて昨夜待ちわびて巣をつくったらしい。風と雨の12号、11号台風の期間クモの糸も張れず、エサにありつけずハラペコだったのかもしれない。台風が去った今朝のクモの巣は見事なくらい多かった。「ナガコガネグモ」の名前の由来には諸説があるが、体の形状が小判に見える事から「黄金のフリをした蜘蛛」と言う意味でコガネグモ(黄金蜘蛛)と言い、胴体が長細くなる傾向にあることから、「ナガコガネグモ」と呼ばれている。


田んぼ一面のクモの巣 2014.8.13 

田圃一面のクモの糸、赤トンボが朝日が登るのをジッと待っていた。稲の葉の陰で朝露を避けているのか主のクモの姿は見えない。


赤トンボとクモの巣 2014.8.13 

鍋釣山の上の朝日は、霧の雄長子内岳を照らしている。よく見ると急峻で三角の形の稜線が浮き出ている。なにか山裾も濃い霧で見えず、突如浮き出たような幻想の世界にも見える。


霞む稲川のマッターホルン(雄長子内岳)2014.8.13 

すっかり霧の消えた田んぼに行ってみると、今朝あれほどあった「クモの巣」がほとんどなかった。台風あとの晴天、小気味のよいそよ風で稲穂が揺れる。ゆれるからあのクモの糸は消えていた。昼近くになってペアのアカトンボがいた。今朝の「ナガコガネグモ」の巣の近くのアカトンボもいよいよ山から戻ってきたに違いがない。

 ナガコガネグモ 2014.8.13 

「ナガコガネグモ」は刺激を受けると、網を強く揺さぶる行動をとる。クモは常に網の中央に頭を下に陣取る。腹部の黄色と黒の細かいしま模様が13本ある。田んぼの周りを見まわってやっと一匹、「ナガコガネグモ」をみつけた。「ナガコガネグモ」は夏に発生し、大きな網を張りめぐらしイナゴ、カメムシ等をよく捕まえる。クモは田んぼの害虫を食べる益虫。カメムシ大発生の報の中、「ナガコガネグモ」にもっと多く、クモの網で「あきたこまち」を包み込めと声をかけた。

鬼雨と「あきたこまち」

2014年08月10日 | 農業
鬼雨はきうと読む。一般的にきうは喜雨、祈雨等がある。日本語大辞典、大辞泉に鬼雨の項目はなかった。鬼雨は今でいうゲリラ豪雨。ゲリラ豪雨は2008年の流行語大賞の一つになっている。それにしても今年の豪雨はゲリラを超えている。中国の中唐期(791~817)の詩人李賀は、鬼雨を「亡者のうめくように降りしきる雨」と表現した。積乱雲の波状攻撃を「バックビルディング現象」と呼ぶそうだが、すぐさま現象が想像されにくい。むしろ「鬼雨」の呼び名の方が言いえていると思う。台風12号、11号による雨は亡者、幽霊、怪物のごとく「鬼の雨」となって日本列島を襲っている。

そのような気象条件の中で、「あきたこまち」は出穂を迎えた。今年の梅雨の時期はほとんど雨がなかった。雨が少ないので転作大豆の生育はすばらしい。カラ梅雨の「あきたこまち」は出穂期に入りいつもの年より少し遅れ気味で7月の30日ごろから始まった。


走り穂のあきたこまち 2014.8.1

8月1日の状況は上の写真だが下の写真は6日の状況。左が坪当たり50株植えのもの、右側が坪当たり70株植えの他家のあきたこまち。出穂は苗の状態と植え株数、田植の時期で差がでる。出穂前の田んぼの田植は左の田んぼよりも3日も早かった。かつては苗代半作の言葉があった。苗質の違いは出穂期に現れる。数日違いの出穂でも収穫期はそれほどの違いはない。


あきたこまち ① 2014.8.6

秋田魁新報は8月7日以下の記事を掲載した。
本県コメ作況、103の「やや良」 調査会社7月末時点予想。コメ市況調査会社の米穀データバンクは6日、2014年産のコメ(水稲)の作況指数(平年=100)が全国で「やや良」の102になるとの7月末時点の予想を発表した。本県の作況指数は103の「やや良」。沖縄、佐賀の両県を除いて「やや良」か「平年並み」を見込み、同社は全国的な生育はおおむね順調とみている。

本県の作況について同社は「田植え後、日照がやや少ない時期もあったが、その後は気温、日照ともに平年を上回り、生育は順調」としている。国の作況指数が秋の収穫後に「やや良」で確定すれば3年連続となる。豊作によって生産が消費に比べて過剰気味となり、コメが値下がりする可能性が指摘されている。
秋田魁新報 2014.8.7 引用

秋田の冬まつりに大仙市刈和野の大綱引きがある。2014.2.10に開かれた。この綱引きは町を二分して上町と下町に分かれて長さ200m、重さ20トンの大綱を引く行事。上町と下町の分かれての綱引き。御利益は勝つた方の結果によって決められている。「豊作」と「米価が上がる」の判定になるが、今年の大綱引きでは下町が勝ち、「豊作」が予測されていた。

台風12号は4日に熱帯低気圧に変わったが、台風12号(NAKRI)による大雨、さらにそれに引き続く各地の大雨で被害が拡大した。消防庁の取りまとめによると、高知県や徳島県を中心に、全国で563棟の床上浸水、1127棟の床下浸水が生じています。青森や北海道での大雨は台風12号から変わった低気圧によるものです。高知県のアメダス繁藤の72時間雨量1184mmは、72時間雨量の歴代ランキングで11位に相当する雨量に達したと報道した。

8月に入って東北の青森や秋田でも激しい雨が降った。秋田県八峰町八森では172.5ミリと観測史上最大を記録。青森市では川が氾濫し、濁流が町に流れ込んだ。青森県五所川原市と鰺ヶ沢町では、一時1803世帯に避難指示が出された。

全国的に異常気象だ。台風11号は暴風域に入っている四国、近畿を中心に激しい雨、鬼雨が暴れている。時速20キロの比較的おそい台風は遅い分、各地に大雨の被害が心配される。東日本、北日本まで雨の拡大されている。


あきたこまち 穂揃い①と同じ場所 2012.8.10


日本気象協会 台風11号 2014年08月10日09:50発表 引用

先に発生した台風11号の速度はあまりにも遅く、各地で12号の大雨の後、11号による大雨、今年の「あきたこまち」には申し訳ない気分だ。せっかくの出穂時が台風がらみの曇天で日照不足気味。秋田は湯沢地方を除いて12号の影響の鬼雨に見舞われた。今度は台風11号による鬼雨の予測がある。今年は台風の当たり年か、すでに13号も発生。さいわい13号は日本列島から離れているので影響はなさそうだ。しかし、今年の日本列島は「収穫の秋」までまだいくつかの台風が心配される。

今年の暴れる「鬼の雨」は、「驕る政治」への警鐘の意味合いが大きいのかもしれない。

八坂神社のお祭り 

2014年08月05日 | 村の歴史
川連集落には二つの大きな神社があり、かつて村社の社格をもっていた。町道を挟んで南側が八坂神社の氏子。麓、大館集落(旧大館村)で約570戸、北側の八幡神社の氏子は上野、川連、野村、久保集落(旧川連村)合わせて約550戸となっている。八坂神社の例大祭は田植が終わって7月14、15日。八幡神社は9月14、15日となって例大祭が終わると稲刈りシーズンに突入する。村社の社格であったため、かつては例祭には小学校の全生徒が参拝したと云われている。

麓集落に鎮座する八坂神社の例大祭は7月14、15日だ。かつては旧暦の6月14、15日だった。今年の例大祭は好天の中で執り行われた。

神社鳥居2014.7.15

約樹齢300年の杉木立に囲まれた、鎮守の森の名にふさわしさの中に八坂神社は鎮座している。八坂神社の祭神は「素戔嗚尊」(スサノオノミコト)で御神体は「祇園牛頭天王」の木像になっている。「素戔嗚尊」と「牛頭天王」は神仏習合時代は同体だった。
祇園とは、京都の八坂神社の旧称ともいわれ、「牛頭天王」はさまざまな説があるが歴史的にはインド、中国、朝鮮、日本と伝わってくる中でその土地の神々と習合して、明治の神仏分離令までは祇園社と称していた。八坂神社神殿には「祇園宮」の額が掲げられている。昭和58年に川連漆器の蒔絵師に修復してもらった。一説には「新羅国牛頭山に祭られている「素戔嗚尊」を山城国愛宕郡八坂郷(現在は京都府東山区祇園、八坂神社一帯)に遷し祀ったと云われている。疫神(厄病をはやらせる悪神)として性格が強く、病気払いのの夏祭りをしたことで人気を博したと云われている、「牛頭天王」はの神格は防疫神、鎮守神として定着してきたといわれている。 

現在の社殿は寛成12年(1800)の造営で、秋田佐竹藩主の臣で横手の岡本代官が来村の際「自分の家の氏神と同じで、もっとりっぱな社をつくるよう」と命じられ、現在地に造営したと云われている。300年ともいわれる杉木立、低地にはめずらしいブナの古木から推定してみると寛成12年以前にこの地に社殿があったのではないかと思われる。現在の社殿が214年経過、鎮守の森に相応しい古木が約300年と云われている。現在の社殿約85年前からこの森は形成されていたことになる。先のブログ「二つの古絵図」に約366年前の絵図に現在地の場所に神社の記述が見られる。「いなかわ広報」平成9年7月10日号の「いなかわのむかしっこ」八坂神社・八幡神社由緒沿革概要に、「社殿は寛成12年(1800)の創建」の記述がある。創建の意味は「初めて創る」と云うことなので何かの間違いではないのかと思われる。言い伝えでは、近くの平地から現在地の移ったと云われ、移った時期は現在の社殿以前と推定される。

旧長床の場所からの手水舎と本殿 2014.7.15

かつてこの場所に長床があった。子供の頃のこの建物の側はすでになく、茅葺の建物はよい遊び場になっていたが、昭和30年頃荒れが甚だしくなり解体された。解体された材料は一か所に集められ無くなるまで十数年あったと記憶している。神社等の解体されたものの焼却は固く禁じられていたとも云われている。「長床」(ながとこ)は神社建築の一つ。本殿の前方にたつ細長い建物、修験者、行人、長床衆に一時の宿泊・参籠の場であったり、宮座や氏子の集合場所にあてられてたという。八坂神社の長床は比較的大きく建物の真ん中が神社へ向かう参道になっていた。この参道を挟んで左右に分かれていた長床は一つの建物だった。

明治以前は集落ごとに大小さまざまな神社があり、それぞれに鎮守の森があった。これが大いに減少させられたのが、いわゆる神社合祀令。この結果、多くの神社が廃止されると同時に、そこにあった鎮守の森は伐採された。神社合祀は神社を行政村1つにつき1つだけに整理することにより、土着の信仰を国家神道に組み込むために行われたものとの説もある。八坂神社は村格の神社で見事な森が残された。面積は1ha程、樹齢300年の杉100本近く、海抜150mに自生するブナも樹齢300年はあるものと想われる。

八坂神社 例大祭の祭壇 2014.7.15

今年の例大祭に大館の川連漆器の木地師「小野寺」さんから、立派な「獅子頭」が奉納された。大きな口を開いてみると下顎と舌があった。鼻が黒いので「雄獅子」と云う。「獅子頭」(ししがしら)古くは〈師子〉と書くことが多く、伎楽面や行道面の一種と考えられる。獅子は本来的には中国で成立した破邪の霊獣で、その起源がより西方の猛獣といわれいる。獅子はやがて社殿を守護する獅子狛犬(狛犬)の彫刻ともなり、一方で楽舞用の伎頭となったのである。伎頭としての師子は多く木製で、眼をいからし、耳を立て鼻孔を開いたすさまじい表情で、一材の頭部に別製の下顎と舌,耳を取り付け、それぞれが動くように工夫されている。獅子舞は幸せを招くと共に厄病退治や悪魔払いとして 古くより伝えられ、 獅子に頭をかまれると、その年は無病息災で元気で過ごせるという言い伝えがある。そして五穀豊穣祈願した。

奉納された獅子頭 2014.7.15

八坂神社の例大祭の神事は午前11時に始まる。今年の神事には神社総代三名と麓総代、大館総代と神社係が各地区の氏子の代表として列席した。いつの時代からか当家は八坂神社の責任総代の役を務めている。祭典には昭和30年代から麓の氏子の寄付で奉納花火が打ち上げられる。氏子の栗林君は二代に渡って花火師だ。前日の宵宮に連続花火が打ち上げられた。昨夜の花火は18連発だった。かつては各地でそうだったように祭りに余興等が昭和30年代まであったが、今は祭花火だけになっている。例大祭が終わると一年の半分経過したことの重さを実感する。かつて例大祭は旧暦の6月14、15日は田植が終わってホットした時期だったが、近年の田植作業は機械化され田植時期も手植え時代よりも約20日程早くなった。

八坂神社の例大祭が終わると田んぼの稲は出穂期を迎える。春先にエルニーニョ現象で冷夏が心配されたが予報がはずれ、田植期から順調な天候で出穂を迎えた。米つくり50年以上になるが今年の稲の姿は惚れ惚れするくらい見事だ。田んぼは穂揃い寸前。田んぼの一番晴れやかな季節になった。稲の出穂のころ秋田は夏まつりを迎える。秋田の「竿燈」3日から6日まで、今年は過去最多の270本の稲穂を象徴する「竿燈」が登場。能代市の七夕行事「シャチながし」は6、7日、今年の城郭型大型灯籠「天空の不夜城」は高さは青森県五所川原市で運行される「立佞武多(たちねぷた)」の23mを上回る23.5mで、「日本一」という触れ込み。湯沢市の七夕行事「絵どうろうまつり」は5日から7日まで行われる。秋田の夏は熱い。