新年恒例の火まつりが終わった。
火まつりについて昨年もブログで紹介した。「麓の火まつり」2013.02.27。10ケ所の集落の境界や辻に雪消え時に祭りが終わると、藁つとに包まれた消炭、御幣、杉の葉を結んだミズナラの杭が付かれ集落の一年の安全が祈願される。今年のミズナラの木は、総代の荒木さんが大雪の中を「かんじき」で雪を漕ぎ調達した極めて立派なものだった。
「奉祭鎮火三柱大神 火災消徐攸」の文字はいつもより太目なミズナラの杭に映える。
お祓いを待つミズナラの杭等 川連集会所 2014.02.23
2013.02.27で詳細を記事にしたが明治43年(1910)開始以来この行事は一回も欠かさず継続されている。近年生活習慣が変わってきたせいか、年によって参加人数に差はあるがほとんど変わりがない。ただ集会所でのお祓いの行事への参加者は年によってばらつきはある。多くが勤めに出るようになりせっかくの日曜日が貴重になったせいかもしれない。下記の写真は第一回からの「火祭宿人名帳」の表紙だ。明治43年2月27日とある。この時代の2月27日は旧暦で開催に決まっていた。だから新暦でいえば春の彼岸過ぎにあたっていた。旧暦から新暦の2月の開催は昭和40年頃。その後日にちの固定ではなく、2月27日前後の日曜日開催は平成に入って、開催会場を集落の集会所で行われるようになって23年ほどになる。集会所開催まで開始当初から、「火祭宿人名帳」に実施宿、参加者、経費の詳細の記載がある。集会所開催以降は集落総会資料に集会日、参加人数、経費の詳細が報告されるようになった。
火祭宿人名帳 明治43年旧2月27日 梺(梺は麓ふもと、「梺」は国字「麓」は漢字)
今年は近年にはなかった緊迫感のなかでの開催になった。恒例の火まつり開催準備がほぼできた5日前に集落内で火災が発生した。作業場だけで住宅の類焼が防がれたのは不幸中のさいわいだった。火災当日は雪降りで低温、大雪のため集落内の主要道路の排雪ができておらず、車一台が通るのがやっとの状態だった。だから近くからの応援の態勢が遅れ気味。さらに大雪で防火水槽、消火栓等の設置場所、連携が万全だったとは言えない状態。
夕方の火事で多くの消防団員は勤務先から帰宅していない状況下の火災だった。そんな中で消防車がいち早く現場に駆けつけ消火に当たってくれたので、幸い住宅への延焼がくいとめられたことは大きかった。
火事遠景 2014.02.18
麓、川連、上野の三で構成する川連では近年10数年で一回の割合で火災が発生している。茅葺屋根が新しくトタン屋根になり火元だけで類焼はこの50年間ほどない。集落に火事があるたびに消火体制が議論されてきた。川連の上部にかつて田んぼへの水供給の堤(つつみ)が防火水槽の役目になったいた。災害時にはこの堤(つつみ)から、水は集落の幹線道路脇のU字溝を通って、いち早く集落の下部へ到達することになっていた。集落のすぐ下に五ケ村堰が通り水は豊富だ。堤(つつみ)は川連、麓集落の所有だったが昭和50年代に町へ譲渡し大きな防火水槽として整備された。さらに集落内には小型の防火水槽が昭和50年代4ケ所に造られた。そして平成10年頃集落内に上水道が整備され、消火栓が2ケ所造られ飛躍的に消火機能が整備されていた。
しかし、今回この機能がうまく作用しなかった。その原因が大雪のため道路が狭く、消防車や消防団の消化ポンプ車の到着が火災現場に遅れたことと、防火水槽、消火栓、堤からの水の誘導が遅れたことにある。火災が夕方4時30頃で勤めの消防団員が帰宅していない時間帯であった。防火用水の機能が想定されたように働いていなかったと思われる。今回の反省として、集落内の防火水の誘導経路は少なくとも消防団員だけではなく、地域住民が熟知していなければならない。
更に真冬の集落内道路への車の誘導、制限等の計画が必要だった。大雨等の災害マニアルは各地で作成されてはいるが、地域住民が熟知していなければ災害の予防や対策にはならない。かつて集落内の多くの世帯にはため池があり、もしもの時の初期消火に機能した。このため池は集落内の堰からの流れで保たれ、堤の防火水槽とも連動する。集落内ため池の配置図も必要なことになる。しかし大雪でため池やU字溝を止める40キロもある蓋は取り外すことは難しかった。大雪とマイナス以下の低温では仮に作ったマニアルもすべて機能を失ってしまう。今後真冬のマニアルは細心の想定をプラスし、徹底していく必要がある。
今回明治43年から続いている「火まつり」直前の災害。寸での所で大事にならなかったことは限られた条件の中で消火作業が最低機能したからと云える。集落の災害防止のための行事、「火まつり」開催継続の意義は大きい。
火まつりについて昨年もブログで紹介した。「麓の火まつり」2013.02.27。10ケ所の集落の境界や辻に雪消え時に祭りが終わると、藁つとに包まれた消炭、御幣、杉の葉を結んだミズナラの杭が付かれ集落の一年の安全が祈願される。今年のミズナラの木は、総代の荒木さんが大雪の中を「かんじき」で雪を漕ぎ調達した極めて立派なものだった。
「奉祭鎮火三柱大神 火災消徐攸」の文字はいつもより太目なミズナラの杭に映える。
お祓いを待つミズナラの杭等 川連集会所 2014.02.23
2013.02.27で詳細を記事にしたが明治43年(1910)開始以来この行事は一回も欠かさず継続されている。近年生活習慣が変わってきたせいか、年によって参加人数に差はあるがほとんど変わりがない。ただ集会所でのお祓いの行事への参加者は年によってばらつきはある。多くが勤めに出るようになりせっかくの日曜日が貴重になったせいかもしれない。下記の写真は第一回からの「火祭宿人名帳」の表紙だ。明治43年2月27日とある。この時代の2月27日は旧暦で開催に決まっていた。だから新暦でいえば春の彼岸過ぎにあたっていた。旧暦から新暦の2月の開催は昭和40年頃。その後日にちの固定ではなく、2月27日前後の日曜日開催は平成に入って、開催会場を集落の集会所で行われるようになって23年ほどになる。集会所開催まで開始当初から、「火祭宿人名帳」に実施宿、参加者、経費の詳細の記載がある。集会所開催以降は集落総会資料に集会日、参加人数、経費の詳細が報告されるようになった。
火祭宿人名帳 明治43年旧2月27日 梺(梺は麓ふもと、「梺」は国字「麓」は漢字)
今年は近年にはなかった緊迫感のなかでの開催になった。恒例の火まつり開催準備がほぼできた5日前に集落内で火災が発生した。作業場だけで住宅の類焼が防がれたのは不幸中のさいわいだった。火災当日は雪降りで低温、大雪のため集落内の主要道路の排雪ができておらず、車一台が通るのがやっとの状態だった。だから近くからの応援の態勢が遅れ気味。さらに大雪で防火水槽、消火栓等の設置場所、連携が万全だったとは言えない状態。
夕方の火事で多くの消防団員は勤務先から帰宅していない状況下の火災だった。そんな中で消防車がいち早く現場に駆けつけ消火に当たってくれたので、幸い住宅への延焼がくいとめられたことは大きかった。
火事遠景 2014.02.18
麓、川連、上野の三で構成する川連では近年10数年で一回の割合で火災が発生している。茅葺屋根が新しくトタン屋根になり火元だけで類焼はこの50年間ほどない。集落に火事があるたびに消火体制が議論されてきた。川連の上部にかつて田んぼへの水供給の堤(つつみ)が防火水槽の役目になったいた。災害時にはこの堤(つつみ)から、水は集落の幹線道路脇のU字溝を通って、いち早く集落の下部へ到達することになっていた。集落のすぐ下に五ケ村堰が通り水は豊富だ。堤(つつみ)は川連、麓集落の所有だったが昭和50年代に町へ譲渡し大きな防火水槽として整備された。さらに集落内には小型の防火水槽が昭和50年代4ケ所に造られた。そして平成10年頃集落内に上水道が整備され、消火栓が2ケ所造られ飛躍的に消火機能が整備されていた。
しかし、今回この機能がうまく作用しなかった。その原因が大雪のため道路が狭く、消防車や消防団の消化ポンプ車の到着が火災現場に遅れたことと、防火水槽、消火栓、堤からの水の誘導が遅れたことにある。火災が夕方4時30頃で勤めの消防団員が帰宅していない時間帯であった。防火用水の機能が想定されたように働いていなかったと思われる。今回の反省として、集落内の防火水の誘導経路は少なくとも消防団員だけではなく、地域住民が熟知していなければならない。
更に真冬の集落内道路への車の誘導、制限等の計画が必要だった。大雨等の災害マニアルは各地で作成されてはいるが、地域住民が熟知していなければ災害の予防や対策にはならない。かつて集落内の多くの世帯にはため池があり、もしもの時の初期消火に機能した。このため池は集落内の堰からの流れで保たれ、堤の防火水槽とも連動する。集落内ため池の配置図も必要なことになる。しかし大雪でため池やU字溝を止める40キロもある蓋は取り外すことは難しかった。大雪とマイナス以下の低温では仮に作ったマニアルもすべて機能を失ってしまう。今後真冬のマニアルは細心の想定をプラスし、徹底していく必要がある。
今回明治43年から続いている「火まつり」直前の災害。寸での所で大事にならなかったことは限られた条件の中で消火作業が最低機能したからと云える。集落の災害防止のための行事、「火まつり」開催継続の意義は大きい。