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新河鹿沢通信   

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雪降りと鳥海山

2010年01月15日 | 地域
各地で大雪情報が賑やかなのだが、当地は例年と比べても驚くほどのことはない。夕べ10㌢の雪がプラスされても積雪が60㌢ぐらいか。晴れれば屋根の雪下ろしの人がいるかもしれないが、予報に暖気の報があるからたいしたことはないかもしれない。窓のそとの隣家「カキの実」に、2、3日前からムク鳥の集団がきてにぎやかだ。

カキは「平種無し柿」隣家では必要分以外は収穫しない。我が家のカキは通称「蜂谷ガキ」甘みは抜群だ。近辺の地域ではカキを収穫して「干しガキ」にして販売などと言うことはしない。だからこの時期は小鳥はどこからともなくやってくる。ときたまカラスが参入し、さらににぎやかとなる。昔は「干しガキ」が貴重だった。秋の収穫もちゃんと小鳥たちへの分を残していた。それが時代がかわって90~100%が小鳥たちの持ち分となった。

国会の開会が近くなって年賀でも予測したネガキャンがエスカレート。権力の主導権争いはなかなかにぎやかだ。マスコミは本当に正しいこと伝えているだろうか。あいかわらずの「関係者によると」の報道ばかり。毎日の報道の関係者とは誰なのかはすぐわかることだ。守秘義務違反のやからが見え隠れるこの頃。すべてのマスコミは既得権益擁護派の軍門の支配下に取り込まれているとは思いたくないものだが。

2010年、年明け後個人的によくない出来事が重なりブログ更新がうまくいかない。まだしばらくの時間がかかりそうだ。ヘタな記事だが。もう一つのブログ「麓左衛門日記」http://blog.goo.ne.jp/kajikazawa_1942にも訪問してください。重複記事だらけですが、こちらも更新がおぼつかないでいる。

姉は山谷峠を越えて鳥海山の見える村に嫁いだ。昭和31年のことだ。嫁ぎ先から東の山を見れば生れ在所の鍋釣山が見え、西の山に秋田富士の鳥海山を毎日のように眺めていたと言う、、、、、、、、。

昭和5年、倉田政嗣作詞、高野辰之修正、成田為三作曲 「秋田県民歌」。毎年夏、大曲の花火大会で大会提供花火の轟音と一緒に流れる秋田県民歌一番。

♫ 秀麗無比なる鳥海山よ
 狂瀾吠え立つ男鹿半島よ
  神秘の十和田は田沢と共に
  世界に名を得し誇の湖水
   山水皆これ詩の国秋田

姉の好きだった鳥海山が高らかに唄われている秋田県民歌、♫ 秀麗無比なる鳥海山よ~、、、、、とずうと一人でつぶやいている。
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化けくらべ背景 (2)館と平城

2010年01月05日 | 民話
館山は川連町古館にあって川連城(別名黒滝城とも云う)のあったところである。
昔、岩崎城の殿様には、能恵姫という娘がいた。姫は十六才になり、川連城の若殿(小野寺桂之助)へ嫁ぐことが決まっていたが、婚礼の日に城下にある皆瀬川の淵に呑まれ、そのまま帰らぬ人となってしまった。姫は幼い日の約束を果たすため、サカリ淵の大蛇の妻となり、竜神と化したのだった…。
岩崎城址千歳公園には、姫を祭る水神社があり、姫の命日には「初丑祭り」が行われる。公園の広場には、姫を忍ぶ能恵姫像も設置されている。岩崎の人にとって能恵姫は、はるか古(いにしえ)の精神の源流を紡ぐ人のような存在にみえる。
竜神夫婦はその後、サカリ淵へ上流の鉱山から流れ来る鉱毒を嫌って、いつしか成瀬川をさかのぼり、赤滝に落ち着いたと言われ、これが赤滝神社の縁起である---と。
     川連城 遠景 中央から右側 杉林付近
姫の死(失踪)をきっかけに、川連に龍泉寺(現在は野村)が建立された。能恵姫の婚約者であった川連城主の若殿が建てたといわれ、今も寺には姫の位牌が祭られている。川連の寺跡には、当時植えたといわれる榧の老木が歴史を物語っている。根元に姫のお墓も残されていて、失った人の悲しみを今に残している。川連城主小野寺氏、岩崎城主岩崎氏ともその後の戦乱に巻き込まれ滅亡した。能恵姫の話だけが老人から子供へと語り継がれ、420年の年月が過ぎようとしている。
岩崎地区では今でも能恵姫に因んだ祭りや行事が盛んだが、若殿地元ではなにも行事らしいものはない。
お城のあった館山は古館の地名で城跡に稲荷神社がある。いかにもキツネの棲みそうな地形でもある。

     現在稲荷神社になっている

川連城が築かれたのは源義家東征の「後三年の役」(1083年(永保3年)の頃と言われている。
築城したのは清原武衡、家衡の一党の野武士団で首領は梶美作守と伝えられている。
その後雄勝郡に入部した小野寺氏が更に築城し居城したとされる。
貞和五年「陸奥国先達檀那系図注文」に「出羽国山北山本郡いなにハ殿、かわつら殿、此人々ハ大弐殿先達申し候、常陸法眼房弟子の大弐房にて候、」とある。

小野寺正系図は十六世紀中葉に小野寺晴道四男道俊が川連氏を名乗ったと伝えられている。
川連城は別名、黒滝城とも云う。城郭は上方南北の稜線に展開し、まとまりを持つ三つの郭郡よりなる連郭式で北端の郭群は五段の帯郭を成し、その南に比高5mで四段の帯郭群がある。この間は上幅5m基底幅2mの空堀で遮断される。東に犬走り・腰郭が認められる。主郭はこれに隣接する東西30m南北60mの平坦地で南東隅に高台を持ち、明神社を祭る。南端は上幅10m深さ5mの薬研堀で遮断される。

この山城に東側の「ウナリ沢」の中腹、約300㍍位離れた所から水を引いていた。つい数十年前まで雪消頃になるとその水路らしい物が見えた。今でも注意してみれば確認されると思うが、山の木を伐る習慣がなくなってからは鬱蒼とした雑木で見ることが難しくなった。

慶長五年に最上義光は雄勝郡の小野寺一族の三城(川連・稲庭・三梨)の攻略に着手する。
川連城には楯岡満茂を大将に2500余人で攻め寄せてきた。高田右馬之助や城主小野寺道基の防戦むなしく落城してしまう。

平城は現在、市役所稲川支所が立っている。国道398号線沿いに「古城址」の古い石碑がある。
金沢の柵にいた清原家衛、武衛が八幡太郎源義家の軍に征められて落城したのが有名な御三年の役(1087年)。平城は、当時清原の家臣、梶美作守の居城だった言われている。

近くに烏帽子橋(えぼがみさま)があり、旧小安街道(十文字から仙台領間)は現在の消防署前から東方向へ左折し、300m程進んで南方向へ右折して烏帽子橋を通って現在のスーパーのところで下宿へ通じ、蛇行していた。
慶安元年(1647)書抜帳面通境、絵図表相違無しの肝煎老百姓印判享保16年(1731)絵図

現在の道路になったのは昭和になってからだという。1965年9月県道になり、1981年4月に湯沢市と宮城県石巻を結ぶ国道へ昇格し398号線となった。(現在は由利本荘市まで)

平城の面積は約1.2㌶、ほ場整備で現在はその面影を想像できそうもないが、ほぼ真四角で役場庁舎や体育館が立つ前は水田で周りは1mほど高く10 m幅の畑になっていた。その周りに幅10mほどの堀があった。
その堀は周囲よりも2m、周りの水田より1mも低くいかにも「古城址」らしさを保っていた。田んぼになってどのくらいたったのかはわからない。
想像するに田んぼになる前には当然木々が生い茂っていただろうと思われる。この場所は川連、大館、野村、下宿の四つの集落のほぼ真ん中にあり、歩くとちょうど休み場所になる交通の目安になったところだ。地図の中心四角にはっきりと記載されている。

だから、平城の「ヒラコ」が語られてきたのだと思う。

この昔話で平城の「ヒラコ」だけキツネのメスで館の「太助」、切崖の「季え門」、森コの「茂エ門」はオスということになるのだろうか。

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化けくらべの背景 (1)森コと切崖

2010年01月03日 | 民話
集落の中央にこんもりとした小山がある。高さはせいぜい15㍍ほど、面積30㌃ほどだ。頂上に稲荷神社がある。東側半分は杉と広葉樹、西側はかつて開墾地で大豆など栽培されていたが今では一部が杉、あとは荒れている。かつてはうっすらとした杉林でいかにもキツネの棲みからしい処だった。

集落では通称「森コ」。集落の中央通りから見れば「森コ」超えた家並は「ものぐし」と呼ぶが「森越」(もりこし)が訛った呼び方になったと思われる。森コのすそ野を通って畑を横断し「ものぐし」に入り八坂神社へ行く通称「神社道」と言った。

      森コ すそ野に神社道付近 
切崖は隣村の下宿へ行く山沿いの300㍍ほどに曲がりくねった道。
五ヶ村堰(川連堰)の支流「和堰」が三梨村の上宿で始まり、さらに下宿でその和堰から{新堰}が別れて流れる。五ヶ村堰(川連堰)の開削工事の歴史は古く稲庭城主小野寺道俊が大永5年(1525年)に稲庭三熊野神社に掛仏を奉納したのは川連堰の竣工を記念したのもだと言われている。

切崖の曲がりくねった道はこの二本の堰が並んで流れていた。特に「新堰」は下流地域に水田を拡大するために山裾を切り取った難工事だったことが想像される。
山裾を切りとったことから「切崖」の地名になったという。

この堰について稲川土地改良区の沿革史に次のような記述がある。

「川連堰は水源を皆瀬川の上流に求め、河岸段丘沿いに稲庭村、鍛冶屋布より三梨村熊野堂、間明田を過ぎ下宿北端より根岸川連へ通じ、内沢川に合流する用水堰で古来より川連が堰親郷となって稲庭、三梨、川連、大舘、八面の五ヶ村で管理してきたのである。
元禄2年(1689年)八面、三又の肝煎2年続きの不作のため両郷の者乞食になったと窮状を訴え出たと湯沢佐竹南家御日記にある。三又村の肝煎七右ェ門はこの窮状を救うため藩庁に五ケ村堰の延長を願出て、元禄8年(1695年)許可を得て堰の改修工事に着手し、五ケ村堰を三又村まで延長した。これは三梨村間明田より北に進み川連平城、八面村村尻を経て鼠舘において内沢川の古川を築留め三又村に入り字前田面、高村に分流する延長一里半、幅二間のかんがい用水路である。
 三又村も元禄9年の割丁場普請申合書に名を連ね人足割等の会合に参画していることから以後「六ヶ村堰」と称すべきであるが、以前慣行に従って五ケ村堰と呼んでいる」。

上記にある内沢川は川連集落を縦断し、集落下流で五ケ村堰からの支流「和堰」からまた分れれた「新堰」と合流している。切崖の流れは山を切り開いての堰で広葉樹や杉林を喘ぐような流れ、それに無理に上部へ導いたためか漏水も激しく春の集落一斉での堰普請での清掃は難所だったが1974年のは圃場整備事業で三面舗装の水路が同じ場所に完成した。今では昔の面影を想像するのはむずかしい。

切崖はさみしい道だった。八坂神社から平城で県道を横断し内川(五ケ村堰)の手前で左折し橋を渡り大館浜へと続く道。切崖への道は八坂神社から300㍍程の所にある新堰の橋を渡って間もなく左折し切崖にはいる。

   国見嶽のすそ野が切崖付近
新堰の橋の下は上記の記したように、先人がなるべく多くの水田に皆瀬川の水が行き渡るように掘削した水路のため常に水が張られた状態。水は上流から流れの押し出し状態でやっと下流に水が流される。だから流れを意識しないような水路は、薄暗い夜はかすかな月明かりでは「風呂」と見間違えることがあっても不思議ではなかったかもしない。まして隣からの来ることになると、曲りくねった道に山際の木が覆いかぶさり足元も見えないくらいの暗さとわずかな風で流れる木々の葉音、それに「新堰」の漏水が並行して流れる「和堰」に流れ落ちる水音。いかにも「きつね」がでそうな場所だった。
やっと通り越して「新堰」を通過する橋にたどりつくことになる。

現在は圃場整備事業業で広域農道に変わり、近くに統合中学校もあって街灯もある。バイパス的になった「旧切崖道」は大型トラックも走る。かつて語り継がれてきた「切崖の季エ門」はまだひっそりと暮らしているのだろうか。

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2010 年賀状

2010年01月01日 | 地域
あまり出来栄えの良いものとは思えないが、勝手に毎年元日配達はパスしてせめて3日まで届くように年末恒例となった。なぜなのかその時期にならないと年賀の雰囲気がわかない。
今年は写真を昨年同様稲の乾燥 ハサを中心とした。秋田県内ではめっきり少なくなった自然乾燥。乾燥に灯油を使わないエコ重視の姿勢は、かれこれ米つくり50数年変わらない。約95アールの田んぼを夫婦二人での稲刈り、脱穀作業は最低15日間はつづく。途中雨があれば自然乾燥ゆえさらに長くなる。他では自然乾燥、天日乾燥、ハサかけ乾燥などと呼んでいるようだが、私は「赤とんぼ乾燥米あきたこまち」とあえて呼んでいる。

7月に田んぼで誕生する赤とんぼはしばらく田んぼを飛び回り、その後山地へ移動する。収穫の秋再び誕生した田んぼに産卵するため戻ってくる。
産卵を終えた赤とんぼはコンバインなどで稲が刈られてしもうと休むところがない。ハサは赤とんぼの大好きな休み場所となる。♂と♀の出会いの場になる。

既得権益擁護勢力の抵抗は日に日に増すばかりだ。過去半世紀にも及ぶ権益が少しづつ明らかにされつつある社会、政権交代から3ケ月でこの状況。新年度予算、参議院選等のハードルはこれからが本番。これらの状況をマスコミは正しく報道されているとはとても思えない。ネガキャン報道花盛りの感ありだ。
ネット社会は恣意的ネガキャンの暴露は瞬時に世界を駆け巡る。立脚の視点しだいで解釈もそれぞれになる。


           迎  春

   あけましておめでとうございます
   政権交代
   半世紀も独り占めしてきた権益を守りたい人
   たちのネガキャンは日増しに激しい いつも
   より少し賑やかな年明けですが、皆さんのご
   家族のご多幸を心からお祈りいたすと共に、
   今年もよろしくお願い申し上げます。

           2010.1.1
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