新河鹿沢通信   

暮らしの中から 村の歴史 足跡 集落 跳躍  麓風小舎     

650億円の総選挙

2014年12月21日 | 地域
「自民党の圧勝に終わった今回の衆院選」との報道がある。650億もかけて、「大義なき総選挙」等といわれながら強行した。終わってみれば議席数295から291に減らし、公明党が議席を31から35として、与党の議席数は選挙前と同じだった。一部に「ネット保守」の実勢を読み違えたとの説もある、次世代の党は19から17も議席を減らし2議席。次世代の減らした分を民主と共産が増やした。選挙前より確実に後退したと見えるのに「圧勝」などとマスコミは宣伝している。

安倍首相は、総選挙中莫大な資金を広告費用に費やして国内のマスメディアを押さえ込むのに成功したといわれている。マスメディアは世論調査の結果と称して告示直後に、自民党当選者が「300超~320~340」などと報道した。しかし、総選挙が終わり圧勝予想の議席数が300以下という数字が出て、開票当日テレビの安倍首相の不機嫌な態度にはあきれるしかなかった。選挙の結果はマスコミの過剰な報道の中で有権者は最低の良識を守ったともいえる。しかし、懐柔対策外の海外の調査会社では、早くから「300」には届かないという結果は予測していた。

振り返ってみると自民党は衆院解散の前日、在京のテレビ局各社に対し、選挙報道の公平中立などを求める文書を送っていた。毎日、朝日、東京新聞が11月28日朝刊でそれぞれ社会面に大きく伝えた。東京新聞は11月29日の社説で「賛否を足して二で割るのが『公平、中立、公正』というわけではない。政権や政策の問題点を批判し、議論の材料を提供するのは報道の重要な役割で、公正さの判断は視聴者である有権者に委ねられている」と常識的な報道をした。             

今回告示後12月4日、朝日新聞は首都圏では「自民、300議席超す勢い、民主伸び悩み、維新不振」。同じ朝日新聞で秋田の一面は「自民、300議席うかがう 民主上積み、共産勢い」。記事内容は同じで見出しの「民主伸び悩み、民主上積み」の違いはどこから来たのか。在京の各紙は示し合わせたようにほとんど同じ報道した。各自の調査といえばそれまでかもしれないが、見出しも右ならえとばかり同じになると不気味な感じさえ漂ってくる。さらにテレビも与党圧勝を報道。偶然の一致とは考えづらい。公示3日でこの報道によって確実に投票率の低下を招いた。

 引用

更に総選挙の翌々日12月16日に、主要マスコミとの食事会を開いた。政権とマスコミの癒着ぶりをさらけ出した。告示早々の「圧勝報道」の謝礼にも見える。

朝日新聞は12月17日の朝刊首相動静の欄に後6時59分、東京・西新橋のすし店「しまだ鮨」。意識的なのか出席者の名は抜けているが、朝日新聞デジタルの首相動静一覧では『6時59分、東京・西新橋のすし店「しまだ鮨」。時事通信の田崎史郎解説委員、朝日新聞の曽我豪編集委員、毎日新聞の山田孝男特別編集委員、読売新聞の小田尚論説主幹、日本経済新聞の石川一郎常務、NHKの島田敏男解説委員、日本テレビの粕谷賢之解説委員長と食事』。とある。

 引用

「国境なき記者団」という、1985年設立の言論の自由(または報道の自由)の擁護を目的とした、ジャーナリストによる非政府組織がある。毎年各国の報道の自由度を公表している。日本は2010年までは世界の中でトップクラスの順位だったが、福島第一原子力発電所事故に関する情報開示、記者クラブ制度の閉鎖性、2013年の政府情報の隠ぺいを可能にしたとも受け取られる特定秘密保護法の制定などで信頼を失った。その結果2010年11位から2013年は59位となっている。

アジアで日本より上位は韓国57位、台湾50位等で日本の前後はチリ58位、モーリタニア60位となっている。先進国の中で特に悪い状態でG7の中では最下位に転落、アフリカの多くの国と一緒に「問題な状態」に指定されている。

メディアは、本来の役割が権力の監視機能なはず。政権との癒着で日本の劣化はますます進行していく。政権は圧勝の名のもとに傲慢な政策の強行を予感される。2014年衆院選は政権とマスコミの癒着をより明確にさらけだした。


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

枯れたオオウバユリ

2014年12月09日 | 地域の山野草
晩秋から雪の季節になると山野草の話題がほとんどなくなる。この時期になると、鶴田知也氏の「秩父路の野草冬春編」を思い出す。この書の冒頭に次のような記述がある。『かつて私はさる高名な植物学者に「冬の植物にもっと関心を示すべきではあるまいか」ということで、お褒めにあずかったことがあります。、、、、、、若いころ読んだアメリカの哲人の「死骸にも独特の美が存する」との卓見にいたく感服したから、、、、』が思い出される。


枯れたオオウバユリ 2014.11.30 川連町古舘

いつでもデジカメをポケットに出歩いて山野草等収めているが、この時期になると鶴田知也氏のいう冬の植物の姿、枯れた植物に関心が離れない。植物は枯れても又春になればその鮮やかな姿をみせてくれる。枯れたのであって死ではない。枯れるのは子孫繁栄の法則かもしれない。

冬の山野草の中で「ウバユリ」、「オオウバユリ」はその代表と思える。枯れた姿は見事。ある種の華やかさと悲しさが漂う。オオウバユリ(大姥百合、学名:Cardiocrinum cordatum var. glehnii )はユリ科ウバユリ属の多年草。ウバユリの変種として扱われる。本州の中部以北、北海道に分布し、やや湿り気のある林内、林縁に自生する。高さは1.5~2.0mくらいになり、花期は7~8月で、10~20個の黄緑色~緑白色の花をつける。花をつけた株は一生を終えるが、元株の脇に子株が育っている。鱗茎はデンプンを含み、食用にできる。北海道では、アイヌによりトゥレプの名で食用にされ、アイヌ民族が用いる植物質の食品の中では穀物以上に重要な位置を占めていた。(一部引用)


オオウバユリ群生 2014.6.14 川連町小坂

今年はいつもの年より多くのオオウバユリが見られた。この場所は沢工事で瓦礫と沢石だらけの荒れ地だが数えてみたら15本も生えていた。花が咲く7月下旬に訪れたら、旺盛なつる性の野草に覆われて姿が見えなくなっていた。

オオウバユリは一度花を咲かせると鱗茎ごと枯れてしまう一回繁殖型植物といわれている。種から芽を出し、始めは一枚葉で1年を過ごし2年目、3年目と葉を増やし大きくなる。6~8年が過ぎた頃、150-200cmにも茎を伸ばし、蕾を作り一生に一度だけ開花し、一つの実に600個弱の種を作り枯れて一生を終える。この時、地上部だけでなく百合根(鱗茎)も姿を消す。子孫を残すため、7年ほどもかけて鱗茎に蓄えた栄養を花茎・花・果実に使い一生を終える。この地に来春も姿を見せてくれるのかはわからない。花が咲けないでしまったから、まだ一生が終わっていないことになりはしないか。来年も芽が出てきたら廻りの草を取り除き、いくらか手助けしてみたいものだ。


オオウバユリ 開花直前 2014.7.28 川連町黒森

漆の木の下に一本のオオウバユリ、廻りはつる性の野草に倒れてしまうが今年はミヨガの密生の中に出てきた。この場所付近には毎年その名に相応しい株に出合える。
 

オオウバユリ 開花 2014.8.3 川連町黒森

7月の集落の林道の草刈りで、何気なく草刈り機に刈られそうにそうになったのを想いとどめさせたら今回見事に咲いた。面白いのは花が横向きに咲くことにある。花はつぶれた筒状で開かない。花が満開になる頃には葉が枯れてくることが多いため、歯(葉)のない「姥」にたとえて姥ユリと名がつけられたといわれている。鶴田知也氏はこの説に満足できないと次のように書いている。『お家騒動の渦中にある幼君を守りぬいた「伽羅千代萩」の正岡のような乳母です。並はずれて背が高い茎の頂上に咲くその花も、思いなしか、忠義一徹で威厳ををそなえ、お色気なしの女丈夫といった身構えです。冬に入って、茎も果実もすべて黄土色になった姿には、為すべき一切を終わったという、りりしさを誇示しているように見えますものですから、私には「姥」ではなく、「乳母」が適切なのです』。

雪降りの中で毅然として個を主張しているように見える。鶴田氏のいう「伽羅千代萩」は「伽羅先代萩」の字違いだろうか。「伽蘿先代萩」(めいぼくせんだいはぎ)は、伊達騒動を題材とした人形浄瑠璃および歌舞伎の演目。通称「先代萩」といわれ、鶴田知也氏の「秩父路の野草冬春編」から人形浄瑠璃に足を踏み入れてしまったが、門外漢にはほとんど知ることのできない世界。


雪のオオウバユリ 2014.12.3 自宅

ウバユリの果実の中は何段にも棚になっていて少しでも触るとおびただしい種子が飛び散る。花は横向きに咲いて、果実は上向きとなる時期は何時なのだろうか。興味がつきない。枯れたオオウバユリ、間もなく雪の下に埋められてしまうので持ち帰った。周囲に多量の種子を土産にミニサンクチャアリの仲間となった。

今年の雪は降り始めから異常、当地方初雪は11月15日だったがすぐ消えた。12月2日に降り始めた雪、連日根雪ペースで降っている。明日の朝自宅前の枯れた「オオウバユリ」は、雪の中に隠れてしまいそうだ。


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西山散策と菅江真澄

2014年12月05日 | 地域
12月1日好天に誘われて、今年最後の西山散策に出かけた。いつもだと温泉の緑風荘を通過し旧山谷峠付近の児童公園、生活環境保全林整備事業で整備された散策道が中心だ。いつも鍋釣山の麓から湯沢方面の西山を見ていると、反対の西の山谷峠付近から東を眺望して見たい衝動にかられる。季節ごと何回か回るのが習慣になっている。どこの地域にもそれぞれの歴史があるのは当然のことだが、直線距離でせいぜい4kほどしかない鍋釣山の麓を眺めていると、日常と違う感慨に耽けてしまう。今回は10数年ぶりに山谷トンネルの一つ向こうの峰から稲川盆地を眺めてみようと想いたった。

川連から湯沢市街に向かう国道398号線の山谷トンネルを抜けるとダリヤ園がある。左にカーブし旧道に入り、林道山院線に入って300mほど走って車を止める。正しい山の名は定かではないが「峠沢山」といわれれているかもしれない。湯沢市が合併前からダリヤ園から散策道を作っていて、この度荒れていた散策道に手を加えられていた。

市民の森 2014.12.1

整備して間もない散策道はすこぶる歩きやすい。小高い峰に沿って南に向かう。田んぼと遠く稲庭方面が見える。この場所は旧児童公園の西側に位置している。林道から10m位上ると398号線の国道が見える。道路はさんで東側は山谷トンネルのある稲川方面から見て西の山。旧山谷峠から北の稲川スキーまで15.67haの生活環境保全林整備事業で散策道等が整備されている。菅江真澄の描いた図は今回歩いている峰と、旧稲川町で整備した散策路との中間に位置する。その距離は直線で200m程と思われる。現在はダリヤ園の側から新しいトンネルができて昔の峠道は歩くことは出来ない。

菅江真澄全集第五巻雪の出羽路 雄勝郡 ニ 勝地臨毫

上は菅江真澄文化11年(1814)がこの地に来て描いた図絵で、この図に書かれている奥、石堂の鳥居のある山と思われる右側の峰を今回歩いてみた。この図の説明によれば、この峠を湯沢峠、またの名を梨の木峠とある。又阿麻陀弖とは何をさすのだろう。調べてみたら古事記に『阿麻陀牟(アマダム)の文字があり、雁等にかかわる枕詞の「天飛ぶ」を阿麻陀牟と書くことから飛ぶをタムと云った、雁、鶴か?』との説にぶつかった。しかし、阿麻陀弖(アマダテ?)とは別の意と思われるが確かなことはわからない。菅江真澄はこの地を「烏舎森山より見わたしたいとおもしろき処也」と書いている。現在の地図にはこの地に湯沢市観光クリ園があって地図上では広沢山となっている。広沢山の西北に取上石山がある。菅江真澄のいう烏舎森山はもっと湯沢市街寄りと思われるが、地図探索では烏舎森山の位置はわからない。見渡したらおもしろき処というこの図絵は、この山からの想像した鳥瞰なのだろうか。

しばらく進むと山側の左から駒形町八面仙道集落、中間は川連町野村、その奥山側に川連集落が見える。手前は久保集落の一部。児童公園より少し高い位置からの眺望で菅江真澄が通った峠から約50m程高い位置となる。中心部右側の少し大きな建物が川連小学校、山際は中心部は鍋釣山で、遠く雪の焼石連邦が望まれる。

駒形町、川連町一部 2014.12.1

この散策道で小高い峰を少し下がると雌長子内岳、雄長子内岳が見えた。この位置からだと雄、雌の名の山が反対に見える。いつも麓から見える雌長子内岳は丸くなだらかに見えるが、ここからの眺望では急峻で別の山に見える。

左が雄長子内岳、右が雌長子内岳 2014.12.1

下の図は菅江真澄がこの峠を下り、現在の皆瀬川の久保橋を渡らないで、右側の山裾を飯田方面に向かっての雄長子内岳、雌長子内岳の図絵と思われる。


菅江真澄全集 第五巻 雪の出羽路 雄勝郡二

菅江真澄 雪の出羽路 雄勝郡 二 飯田村 伊比多「稲川町」に「三梨子の羽竜なる雄銚子山、また大館の雌銚子山とて其形刺名倍に似たる二ツのやまあり」とある。刺名倍はさし鍋(なべ) のことで、弦(つる)と注ぎ口のある鍋のことです。お酒などを温めるのに使った。現在、雄長子内岳の長子内を当時は銚子内の字を使っていた。長子内に変わったのは何時のことからだろうか。


左雄長子内岳 右雌長子内岳 皆瀬川久保橋付近から

好天の12月1日西山散策。比較的恵まれていた晩秋の一日だった。

散策を終えた翌日、大義なき総選挙公示と同時に雪となった。30cm近く積もった。選挙戦も今日で4日目。候補者のポスターは張られているが、選挙戦恒例のスピーカーからの声は聞こえない。選挙が終わっても混乱は続く政局が予想される。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする