今回「鶴田知也氏とコナギ」は1970年代始めの話だ。
ある会合が終わった後、「鶴田先生」が自分のそばに来て、田んぼの草とり話をしてきた。
「コナギ」が田んぼにないだろうかと云うことだっだ。
「新潟の稲村君の所に聞いても、除草剤が使用されるようになって見ることがなくなったというのだ。ところで秋田の君の所ではどうか」と云うのである。その頃は除草剤が入り、使用基準どおり使用でノビエ、オモダカ、ヒルムシロ、コナギ等はすべて退治できていた。それまでは除草機、手で草を採る草取りから解放されていたころで、米どころの新潟や秋田ばかりでなく、全国的に除草剤使用で日本の米つくりが革命的変化したころで、自分の所でも「コナギ」の姿を見ることはなかった。
鶴田先生が野草の絵を描いていたことは知っていたが、「コナギ」を水田雑草の横綱みたいに思っていた当時、自分にはどうして先生が「コナギ」がほしいと云ったかわからなかった。農家の最大の敵でもあった田んぼの草「コナギ」。
コナギの花 引用
鶴田知也氏は語り始めた。「コナギの花は良い。農家にとっては邪魔の草だろうがコナギのあの可憐な花を見るとジックリと描きたい、もしコナギを見つけたら是非送ってはくれないか」と話した。しかし、その後も除草剤なしの稲作は考えることもできず、「コナギ」を田んぼで見つけることもなく、いつの間にか忘れてしまっていた。
「コナギ」(和名小水葱)は水田雑草の中でノビエの次に嫌われる草。この草はなかなか厄介な草だった。1960年代に除草剤が出回り、「コナギ」は見事に駆逐された。除草剤の登場で農家は「草取り作業」の重労働は解放された。それまでの「田の草とり作業」は田植後、まず手押の「除草機」で株間を縦、横を行い。その後素手の10本の指先に「草取り爪」をつけ、稲の株元の草を取る作業が延々と続く。草の発生が多いと同じ田んぼを3回も草取りをしなければならなかった。3回目ともなると稲の出穂が始まる頃まで続いた。この作業は稲の花粉を背にする「花かぶり」等とも云われた。6月後半から7月いっぱい草取り作業は続いた。
「コナギ」は成長が早いため、すぐに影をつくりイネを遮光し成長を阻害する。また成長に際し過分な窒素分を要求するので、水田に生えた場合イネの窒素吸収を阻害する。そのままににしておけばイネは貧弱な姿で減収間違いなしだった。そもそも発芽に際して酸素を嫌うという変わった性質から、地表を水で覆う水田は結果として本種に絶好の環境を提供している。ただし除草剤に対する耐性がないため、除草剤を撒いている田にはあまり生えない。今では有機栽培や無農薬農法によるコメ作りをしている田に執拗に生え、こうした農法にする農家の悩みのタネになっている。
日本人とのつき合いは古いといわれ、同属のミズアオイと共に万葉集に本種を読んだ歌が収録されている。また江戸時代頃までは食用にされていたと云う。東南アジア、特にベトナムでは今でも食用にされているそうだ。
「コナギ」の件で今振り返ると、鶴田先生との会話の中で「水田の雑草」と云った発言にすかさず、「雑草という言い方はよくない。草にはそれぞれ立派な名がある」と云われてしまった。
「雑草という草はない」の言葉は一般的に昭和天皇の発言となっている。侍従長の入江相政氏が「宮中侍従物語」(角川書店 1980)で終戦の頃の出来事として紹介し、多くの人たちに認知されてきた。
杉浦明平編、日本の名随筆「草」(作品社 1990)の中で、哲学者梅本克己氏の「雑草という草はない」がある。誰が先に発言したかなどとは格別問題にすることではないが、私と鶴田知也氏の会話は1970年初めの頃だった。
鶴田知也氏は「農業は草との戦いだ」ということは充分知りつつも「十把一絡げ」に雑草と言う呼び方をたしなめたように思う。「雑草という草はない」の言葉が私の体内に焼き付いて離れないでいた。それが今日、「雄勝野草の会」入会の動機となっている。入会5年目だが、なかなか野草の名前がわからないでいる。「雄勝野草の会」の歴史は古い。会長の三好功一さんが教職にあった1960年代から、同好の士が集まっていた。鶴田知也氏は「雄勝野草の会」会長の三好功一氏とも交流があったことを入会して知った。当時鶴田知也氏とは農業問題等での交流が主で、若かった自分たちには鶴田知也氏の広い交際範囲までは知る由もなかった。
そして「雄勝野草の会」は今年、2013年は設立40周年を迎えた。
減農薬栽培のコメつくりの我が家で、数年前1枚の田んぼが「コナギ」の猛威にさらされた苦い経験がある。田植後の植えた稲が見事に害虫に襲われた。有機栽培や減農薬栽培をしているから農薬散布はしなかった。そしたらそこに「コナギ」が大繁殖。手取りや草取り下駄などで対抗したがどうにもならずに惨敗。米つくり50年の中で忘れられない出来事だった。
「コナギ」は近年は除草剤に対して耐性を有する個体も出現しているという。そのためだろうか。このごろ田んぼに「コナギ」がみられるようになった。7月のこの時期「コナギ」をみつけると、かつて「鶴田知也」氏の要望に応えられなかったことと、「コナギ」の大繁殖で大惨敗の「あきたこまち」が思い出されてならない。
コナギ 花は8月末 湯沢市川連町上平城 07.29
鶴田知也氏は「コシャマイン記」で第3回芥川賞受賞。晩年、山野草の「草木図誌」、「画文草木帖」、「百草百木誌」など優れた多くの著作を出版され、多く人に親しまれている。それらの著作本で「コナギ」を描いたのを拝見していない。
参考
※ 02.11ブログ「鶴田知也氏の話」
※ 鶴田知也生誕100年(http://www12.ocn.ne.jp/~sayaka/turuta_hayama_sakai/turudatomoya-seitan100nen.htm)
ある会合が終わった後、「鶴田先生」が自分のそばに来て、田んぼの草とり話をしてきた。
「コナギ」が田んぼにないだろうかと云うことだっだ。
「新潟の稲村君の所に聞いても、除草剤が使用されるようになって見ることがなくなったというのだ。ところで秋田の君の所ではどうか」と云うのである。その頃は除草剤が入り、使用基準どおり使用でノビエ、オモダカ、ヒルムシロ、コナギ等はすべて退治できていた。それまでは除草機、手で草を採る草取りから解放されていたころで、米どころの新潟や秋田ばかりでなく、全国的に除草剤使用で日本の米つくりが革命的変化したころで、自分の所でも「コナギ」の姿を見ることはなかった。
鶴田先生が野草の絵を描いていたことは知っていたが、「コナギ」を水田雑草の横綱みたいに思っていた当時、自分にはどうして先生が「コナギ」がほしいと云ったかわからなかった。農家の最大の敵でもあった田んぼの草「コナギ」。
コナギの花 引用
鶴田知也氏は語り始めた。「コナギの花は良い。農家にとっては邪魔の草だろうがコナギのあの可憐な花を見るとジックリと描きたい、もしコナギを見つけたら是非送ってはくれないか」と話した。しかし、その後も除草剤なしの稲作は考えることもできず、「コナギ」を田んぼで見つけることもなく、いつの間にか忘れてしまっていた。
「コナギ」(和名小水葱)は水田雑草の中でノビエの次に嫌われる草。この草はなかなか厄介な草だった。1960年代に除草剤が出回り、「コナギ」は見事に駆逐された。除草剤の登場で農家は「草取り作業」の重労働は解放された。それまでの「田の草とり作業」は田植後、まず手押の「除草機」で株間を縦、横を行い。その後素手の10本の指先に「草取り爪」をつけ、稲の株元の草を取る作業が延々と続く。草の発生が多いと同じ田んぼを3回も草取りをしなければならなかった。3回目ともなると稲の出穂が始まる頃まで続いた。この作業は稲の花粉を背にする「花かぶり」等とも云われた。6月後半から7月いっぱい草取り作業は続いた。
「コナギ」は成長が早いため、すぐに影をつくりイネを遮光し成長を阻害する。また成長に際し過分な窒素分を要求するので、水田に生えた場合イネの窒素吸収を阻害する。そのままににしておけばイネは貧弱な姿で減収間違いなしだった。そもそも発芽に際して酸素を嫌うという変わった性質から、地表を水で覆う水田は結果として本種に絶好の環境を提供している。ただし除草剤に対する耐性がないため、除草剤を撒いている田にはあまり生えない。今では有機栽培や無農薬農法によるコメ作りをしている田に執拗に生え、こうした農法にする農家の悩みのタネになっている。
日本人とのつき合いは古いといわれ、同属のミズアオイと共に万葉集に本種を読んだ歌が収録されている。また江戸時代頃までは食用にされていたと云う。東南アジア、特にベトナムでは今でも食用にされているそうだ。
「コナギ」の件で今振り返ると、鶴田先生との会話の中で「水田の雑草」と云った発言にすかさず、「雑草という言い方はよくない。草にはそれぞれ立派な名がある」と云われてしまった。
「雑草という草はない」の言葉は一般的に昭和天皇の発言となっている。侍従長の入江相政氏が「宮中侍従物語」(角川書店 1980)で終戦の頃の出来事として紹介し、多くの人たちに認知されてきた。
杉浦明平編、日本の名随筆「草」(作品社 1990)の中で、哲学者梅本克己氏の「雑草という草はない」がある。誰が先に発言したかなどとは格別問題にすることではないが、私と鶴田知也氏の会話は1970年初めの頃だった。
鶴田知也氏は「農業は草との戦いだ」ということは充分知りつつも「十把一絡げ」に雑草と言う呼び方をたしなめたように思う。「雑草という草はない」の言葉が私の体内に焼き付いて離れないでいた。それが今日、「雄勝野草の会」入会の動機となっている。入会5年目だが、なかなか野草の名前がわからないでいる。「雄勝野草の会」の歴史は古い。会長の三好功一さんが教職にあった1960年代から、同好の士が集まっていた。鶴田知也氏は「雄勝野草の会」会長の三好功一氏とも交流があったことを入会して知った。当時鶴田知也氏とは農業問題等での交流が主で、若かった自分たちには鶴田知也氏の広い交際範囲までは知る由もなかった。
そして「雄勝野草の会」は今年、2013年は設立40周年を迎えた。
減農薬栽培のコメつくりの我が家で、数年前1枚の田んぼが「コナギ」の猛威にさらされた苦い経験がある。田植後の植えた稲が見事に害虫に襲われた。有機栽培や減農薬栽培をしているから農薬散布はしなかった。そしたらそこに「コナギ」が大繁殖。手取りや草取り下駄などで対抗したがどうにもならずに惨敗。米つくり50年の中で忘れられない出来事だった。
「コナギ」は近年は除草剤に対して耐性を有する個体も出現しているという。そのためだろうか。このごろ田んぼに「コナギ」がみられるようになった。7月のこの時期「コナギ」をみつけると、かつて「鶴田知也」氏の要望に応えられなかったことと、「コナギ」の大繁殖で大惨敗の「あきたこまち」が思い出されてならない。
コナギ 花は8月末 湯沢市川連町上平城 07.29
鶴田知也氏は「コシャマイン記」で第3回芥川賞受賞。晩年、山野草の「草木図誌」、「画文草木帖」、「百草百木誌」など優れた多くの著作を出版され、多く人に親しまれている。それらの著作本で「コナギ」を描いたのを拝見していない。
参考
※ 02.11ブログ「鶴田知也氏の話」
※ 鶴田知也生誕100年(http://www12.ocn.ne.jp/~sayaka/turuta_hayama_sakai/turudatomoya-seitan100nen.htm)