新河鹿沢通信   

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薪伐り 漆の大木

2016年04月29日 | 地域

今日は雨。連日1.5k離れた里山での薪伐り作業は休み。多くの人たちは雪が消える前に薪伐りを終え、すでに薪割も済ませて積んでいる。私の場合は例年の如く雪が無くなり、軽トラを横付しての作業となる。今年の薪伐りで大失敗をしてしまった。樹齢100年程の「漆」の木が枯れ、この冬の雪で倒れてしまったので雪消え早々、薪用に細断した。当地方は800年の伝統を誇る「漆器」の町、屋敷や山際等に「漆」の木が多かった。叔父が「漆」搔きをするのをよく見ていたし、地元に漆搔きをする人がいなくなると、岩手県の浄法寺から漆搔き職人がきて案内したこともあった。「うるしかぶれ」等は他人事に思っていた。

倒れた漆の木もかつて漆掻き職人が手をかけた木だった。枯れたと云っても漆の老木にも「ウルシオール」が残っていたらしい。見事にかぶれてしまった。「アレルギー性接触皮膚炎」と言うそうだ。「あきたこまち」の種まきは季節の仕事、うるしかぶれの状態での作業。約2週間でかぶれが引いたので残っていた薪伐り作業を再開し昨日まで終わる。今年の作業は100年ものの「漆の木」、80年のミズナラ3本、雪折れ杉3本となった。暖房用の薪は常に3年分の在庫を目途としている。伐った漆の木を運ぶのを少しためらっている。

枯れて倒れた漆の木 2016.4.10

「漆の木」の伐り口は黄色できれいな木だ。何かに活用できないか等と思ってみる。ウルシオールは乾いても無くならないのかはよくわからない。漆器の町では多くの人はウルシには負けない。免疫になっている。乾いた漆器で「うるしかぶれ」等はほとんどない。

2016.4.24 樹齢100年 ミズナラ 

ミズナラ 当地方にもナラ枯れが進んできた。昨年からこの木は生気が無かった。直径50㎝はある。ナラ枯れは樹齢40年過ぎの木がやられるという。我が家のミズナラは樹齢80~100年とみられる。約10アールの所に40本ほどある。ナラ枯れの浸食はすぐ目の前。すべて被害にあうとえらいことになってしまう。侵される前に倒した。100年近くこの林を見守ってきた木を切り倒すことに済まない気がした。ミズナラの実のドングリから二世を期待している。数本幼木が生えてきている。

ミズナラも老木になるとなかなか固い。チェンソーが唸った。重いので薪の長さに伐って金矢を使いオオハンマーでたたき割る。軽くして軽トラに積みこむ。周りでは心地よい野鳥の鳴き声。少し離れた場所で葉が開いたのはブナの木、他にヤマモミジ、ホウノキが立っている。低木はユキツバキ、ヤマツツジ、ヨウラク等。集落から直線距はせいぜい500ⅿ弱。この場所に来るとホットする。隣地の杉林は間伐作業が行き届いたので山野草が復活してきた。ホウチャクソウも出てきた。近くでトンビが死んでいた。キツネの仕業だろうか羽毛が散乱している。鳥インフルエンザと関係があるのだろうか。

2016.4.26 樹齢60年 杉

3年前の豪雪の被害木。樹齢60年にもなる。平成4年から2回の間伐で残っていた杉の木だった。

2016.4.28 自宅に集積

自宅に運んだ杉、ミズナラの木の一部。山にまだミズナラと漆の木が残っている。木割作業は田植作業が終わっても続く。使用は3年後の予定だから気が向いた時やればいい。気ままな作業、時間はタップリある。



妙音寺を偲ぶ 2

2016年04月07日 | 村の歴史

広報いなかわNa682の「いなかわのむかしっこ」、「川連山妙音寺廃寺のむかしをしのぶ」に、羽後町飯沢の鈴木杢之助氏に妙音寺が出した古文書が残っている云われている。これは「秋田県史 第二巻 近世編、キリシタン禁制」で紹介された。

   寺出し之事

一、拙寺院内の、まつよと申す女一人、外に専太郎と申す男一人、貴殿ご支配の正左エ門  方へさしつかわし候間、当御調より貴殿お帳へお引き入れお帳合わせなされるべく    候、 此の方において出入しさい御座なく候、よって、寺出しの一筆、件の如し
       嘉永五年四月
                            川連村  妙音寺
      飯沢村   肝煎殿

この寺出し証文は、川連村から現在の羽後町飯沢村に下人奉公した者の送り状で、住居を変える場合、切支丹宗徒でないことの証明する証文といわれている。寺請証文は寺請制度において、自己の檀家証明は人々が奉公や結婚等他の土地に移る場合には身分証明書が必要であった。

上記の寺出し証文は嘉永5年は明治維新の16年前で、年号から推定して妙音寺13世智覧一曄和尚が出した証文と思われる。不思議なことに、前回も触れたように妙音寺は回向寺ではなく祈祷寺。川連の回向寺は神応寺が出した「寺出証文」ではなかった。江戸の後期になると回向寺、祈祷寺への出入りは比較的自由だったといわれている。

秋田のキリシタン事情は佐竹義宣が常陸から国替えした慶長7年(1602)前の天正18年(1590)、織田信長の第二子「織田信雄」が北条方に内通したとして所領を没収され、出羽秋田に流されたことが慶長5年(1600)に書かれた「三河風土記」に記載されている。信雄は失脚以前の天正5年(1577)に、バードレのジョアン・フランシスコの会堂を訪れ、「自分はキリシタンになりたいのだが、今戦争に行く途中であるから後日帰依する」と約束した。その翌日秋田に流された。信長は永禄12年(1569)に伺候したバードレ・ルイス・フロイスを非常な好意を見せ接待し贈り物をしていたという。「秋田切支丹研究」武藤鉄城著 翠楊社にある。

そして佐竹義宣が国替えの時、九州の大名大友宗麟の子「大友義統」が預け入りで秋田に来ている。さらに佐竹義宣の側室である西の丸がキリシタン信者であったことなどから、キリシタン禁教政策を厳しく行わなかったとの説がある。初期の佐竹秋田藩は藩財政の確立のため金、銀、銅などの減産と鉱山の衰退を嫌った。このことは秋田の鉱山に多くのキリシタン信者が潜伏していたといわれる所以だ。

江戸時代の始め、幕府は切支丹教徒を根絶するため檀家制度を作った。百姓、町人すべて家族単位で、どこかの寺院に所属する「檀徒」であることを義務づけた。檀徒一人一人は、寺が作る「宗門人別帳」に記載され、勝手に宗派を変えることは認められなかった。寺にとっては利益のことだった。檀家が所属する寺を「檀那寺(菩提寺)と呼ぶようになった。檀那の語源は旦那といわれ、古くは、梵語の「ダーナ」(お布施の意味)からきている。

元和8年(1622)仙台から「巌中」という人が稲庭にきて、大眼宗という宗教を広めているという風聞があったといわれる。稲庭の「源兵衛」というものが「巌中」の門弟として活躍し、稲庭、三梨、川連の者がそれに服した。驚いた横手城須田美濃が場外の安田原で数十人の門徒を召捕り、磔刑や斬罪に処したという宗教一揆があった。

須田美濃が詳しく取調べもなく、徒党を処刑したことに佐竹義宣がいたく機嫌を損ねたといわれてる。大眼宗は南部地方に多い秘事門徒の一つであったらしく、他の神仏を崇拝しないで、ただ日、月ばかり拝むものだった。当時この事件は西洋にも伝えられ、記録では60余人の斬罪に処された中でキリシタンは2人で、藩では両者を混同して全員をキリシタンとみてしまったと伝えられている。妙音寺は大眼宗事件のあった元和8年の9年前、慶長19年に創立されている。この騒動に大きく影響されたことが想像されるが確かなことはわからない。

寛永元年(1624)の秋田佐竹藩の弾圧で処刑された人数はきわめて多い。6月3日久保田城外三里ヤナイで男21人、女11人併せて32人、6月11日、久保田城外で50名、内25名は藩士。25名は院内で逮捕したもの。6月20日雄勝寺沢の信徒を15名を久保田場外で斬罪。7月3日仙北善知鳥の信徒13名を横手で成敗。8月6日平鹿郡臼井の信徒4名を居村にて斬首等計114人が斬首になっている。(引用 秋田切支丹研究、武藤鉄城著 翠楊社 昭和55年発行) 

この事件のから90年後の正徳2辰年(1712)、願主仙北雄勝郡宮 吉祥院住快傕門 寺号川連村相模寺で「十一面観世音」が創建されている。特定ができないが妙音寺のあったと場所に建つ「子安観音」(マリア観音)を言うのではないかと考えられる。この場所から500ⅿ程離れた場所にある石清水神社、かつてはキリシタン信仰の対象だったとの説もある。

広報「いなかわ」昭和51年6月10日号

この「マリア観音像」について「妙音寺を偲ぶ 1」に下記のように記録した。妙音寺の近くには黒滝の子安観音のお堂がある。キリシタン禁制の江戸時代に建てられた石造りのマリア像がご本尊。このマリア像のレプリカは旧稲庭城跡にある今昔館に展示されている。祈祷寺の妙音寺は、庶民の願い事を叶えることで信者を増やしてきた。住職はキリシタンとの関わりが強かったと云われ、訪れる信者は地元ばかりではなく山を越えた湯沢・雄勝、横手地方まで広まり、信者の通う道を「キリシタン通り」と呼んだと伝えられている。現在はほとんど知られていない

この「マリア観音像」は、駒形町東福寺の雲岩寺にある「マリア観音像」と同じと広報「いなかわ」昭和51年6月10日号、「町の歴史と文化、キリシタン物語(二)」にある。この観音像について、「ゆざわジオパーク」のジオサイト案内書に「白っぽい細粒の花崗岩~花崗閃緑岩を加工した石像で、湯沢市神室山や役内川に分布する花崗岩類とは岩石が異なる。観音像の花崗岩は、帯磁率8以上と比較的高い値を示している。これは、湯沢市付近にある帯磁率の低い阿武隈帯の花崗岩ではなく、むしろ北上山地の磁鉄鉱をしっかり含む花崗岩類の特徴です。雲岩寺のマリア観音像は、藩政時代にキリシタンが坑夫として潜伏(大倉、白沢鉱山)していたこと、および南部藩水沢地方と交流していたことを示唆している」とある。

大倉鉱山は延享年間(1744~1747年、白沢鉱山は宝永6年(1709年)開坑。ちなみの院内銀山は慶長元年(1596)発見されている。江戸時代、幕府はキリスト教を禁じ信者を弾圧した。弾圧を逃れるため、多くの信者が日本各地の鉱山に潜伏したといわれている。雲岩寺は白沢鉱山の経営の推移(直利)と関係していた考えられ、「マリア観音像」はそのことと強く結びついていると思われる。いつの時代かは特定できないが当時肝煎りだった高橋家によれば、ご神体が盗難にあったとの言い伝えがあるといわれている。鉱山の隆盛と潜伏信者のよりどころとして、妙音寺が寺境内に建立し、神体の「十一面観世音」を「マリア観音像」に変えたと仮説が成り立つような思えてならない。

月刊アンドナウ(引用)

この記事は、昨秋横手市のある喫茶店で読んだタウン誌「月刊アンドナウ」「ズームアップ地元!第51回 隠れキリシタン由来の像(湯沢市)を引用した。デジカメでの写真なので不鮮明で発行月日は見落としてしまった。湯沢市下院内の誓願寺、湯沢市小野の向野寺等にあるマリア観音像等が紹介されている。湯沢市には院内銀山を始め大小9ケ所に鉱山があり、キリシタンが坑夫となって潜伏していたといわれている。弾圧の中でひたすら信仰を守り続けたキリシタンの足跡がこれらの寺に残されてる。

冒頭の寺出し証文を書いた妙音寺が、キリシタンだったとう説の確かな証拠は見いだせなかった。当時の肝煎り高橋家では分家筋の妙音寺がキリシタン説を覆い隠すために大きな犠牲を払ったといわれている。各地でキリタン信者の弾圧が強まる中でこの地から殉教者を出さなかったと語りつがれている。

幕末となってかなり緩やかになったといわれているが、江戸時代、各地の肝煎りは毎年「切支丹御調帳」を提出しなければならなかった。広報いなかわ昭和51年7月10日号、町の歴史と文化 キリシタン物語(三)に安政6年(1859)「東福寺の切支丹御調帳」が掲載されている。

東福寺 切支丹御調帳 昭和51年7月10日号

「切支丹調御調帳」の書き出し起請文はほとんど同じだ。当時各地にいまでいう例文があったと思われる。角館、佐竹家蔵にある「起請文の事」があり、肝煎、庄屋等の書き出し分は次のようになっている。

「此度切支丹宗旨御調ニ付五人組引替色々御穿鑿被成候得共御法度宗旨之者男女共一人無御座候、、、、、、」となっている。各地の庄屋、肝煎にこれらの「起請文の事」が送られていたものと思われる。下記の文は久七郎が子、久治に伝えた書にあった。起請文を書き写したものらしい。

 切支丹御調條の一部

この文章は明治5年(1872)に書かれた。高祖父久七郎が10歳の子供の久治に書いたものだ。私にとって久治は4代前の曾祖父にあたる。書の形式からみて高祖父35歳の頃。体が弱かった高祖父は明治10年40歳で亡くなっている。書は往来文形式で1年の出来事、法事や祭り親戚とのつき合い方の他に田地調、年貢、切支丹御調條など多様な文を書きとめられている。切支丹御調條の起請文がどうして含まれているのはわからないでいる。前年の明治4年に9歳久治に人としての生き方を記した「太閤状」を書き残している。

明治の初期、戊申戦争等の混乱、256年続いた妙音寺は「廃仏毀釈」で廃寺となった。隣家は肝煎りの高橋家、わが家はこの頃農業の他に染物業もしていて、近隣の地域と交流が結構あったようだ。しかし、肝煎りを補佐する「長百姓」でもなかった。この地を去る妙音寺との関わりも窺い知るが裏付ける資料はまだ見つかっていない。

今回妙音寺とキリシタンの関わりに、もう少し近づけると思ったが遠かった。さらに時間をかけて調べてみたいと思っている。