









第44回雄勝野草の会山野草写真展は11月19日(木)から27日(金)まで湯沢生涯学習センターで開かれた。会員7人が山野草の写真66点を展示。昭和49年(1974)に設立された「雄勝野草の会」の現在の会員は38名。 湯沢生涯学習センター 玄関
今回の写真展に合わせて、「コロナ」禍で先送りしていた総会と写真展会場で出展会員のそれぞれの写真について説明が行なわれた。 出展会員の解説
私はこの写真展に7点出展した。①オクモミジハグマ(山谷 西山公園)、②キツリフネソウ(川連 黒森)、③ヒメシャガ(増田 真人山)、④エゾニュー(川連 黒森)、⑤オオバナノエンレイソウ(仙北 抱返り)⑥ムラサキサキゴケ(川連 田屋面)⑦ヒメハギ(山谷 西山公園
オクモミジハグマ(奥紅葉白熊)(山谷 西山公園)
オクモミジハグマと葉
「オクモミジハグマ」は山谷 西山公園で数年前、見つけたが名は知らないでいた。昨年秋、「雄勝野草の会」会長の鈴木氏を案内で「オクモミジハグマ」の名を初めて知る。遊歩道の一角に株立ちになっていた。種が落ちたのか少し離れて所に別の株もあった。今年になって付近をさらに捜してみると10数メートル離れて数株見つかった。山谷にはまだ他の場所にもありそうだ。
「オクモミジハグマ」の葉は「モミジ」に似ている。ハグマ(白熊)とは中国産の「ヤク」という動物の白いの尾。毛を染めて、武将の采配、仏具の払子(ほっす)や槍、兜などの飾りにつかわれた。花の形が似ていることからこの名がついたとされる。筒状花冠の裂片はよじれたり巻く形にあって特長がある。木陰に生え高さが70㎝ほどあった。
キツリフネソウ(黄釣舟草)川連 黒森
キツリフネソウ
「キツリフネソウ」は自家の畑で撮った。山際の畑は何も作付けしないでいたので荒れ放題。数年前まで年に数回トラクターで耕起していたが近年それもやめた。「キツリフネソウ」は急激に増えてきた。花の姿が帆掛け舟を吊り下げたような形に見えることから名がついた。「ホウセンカ」と同じ仲間といわれ、熟した果実に触れるだけで種を勢いよく弾き飛ばす。「ツリフネソウ」の花は葉の上に咲き、花の後ろに伸びる距の先が巻くと垂れる。「キツリフネソウ」の花は葉の下に咲き、距が巻かれていない。鹿児島では絶滅危惧種だそうだが私のところでは群生している。荒れ放題の畑の「キツリフネソウ」、一輪だけ強調してみると何とも言われない親しみが増してくる。
ヒメシャガ(姫射干)増田 真人山
ヒメシャガ
「ヒメシャガ」はアヤメ科アヤメ属の多年草。過去のブログに「真人山のヒメシャガ」(2015.9.5)を書いた、増田の真人山には麓の公園から山の頂上付近まで「ヒメシャガ」群生してる。
「ヒメシャガ」は秋田県で環境庁のレッドリスクに準絶滅危惧(NT)となっている。準絶滅危惧(NT)とは「現時点では絶滅危険度は小さいが、生育条件の変化によっては絶滅危惧集種に移行する可能性のある種」となっている。地域の人にとっては極めて日常的な光景かもしれないが、真人山の「ヒメシャガ」の群落は地域の財産と思える。保護、育成を重視して草刈機での刈り取りは控えることも必要なことかも知れない。「ヒメシャガ」(姫射干)の花期は普通5月から6月、遊歩道側が「ヒメシャガ」で覆いつくされる姿を想像する。
我家には古くから坪庭にあった。花言葉は「反抗・友人が多い」。綺麗な見た目からはちょっとイメージしにくい花言葉。反抗という花言葉は葉の形が剣のように鋭いこと、友人が多いという花言葉は、どんどん横に広がっていく性質が由来となっている。
このヒメシャガは5月の小雨の中で撮った。少々ピンボケだが濡れて花びらが美しくヒメシャガの特徴が良く表れているように見える。
エゾニュウ(蝦夷丹生)川連 黒森
エゾニュウ
「シシウド」、「ハナウド」等名が混乱していた。雄勝野草の会事務局の佐々木さんは「エゾニュウ」といわれたのでその名を使わせてもらっている。秋田では「エゾニュウ」を「サク」と言って塩漬けにして食用にしている。
写真展が終わって私の撮ったのを地元では食用とはしないことに気づいた。「エゾニュウ」ではなく「オオハナウド」に近いものかもしれない。今後も注意していきたい植物。「オオハナウド」はアイヌ文化では若芽を食用・薬用とし「神の野草」として重要視された地域もあるそうだ。茎の高さが1.5~2mにもなる。茎は太く中空。
オオバナノエンレイソウ(大花延齢草)仙北市 抱返り
オオバナノエンレイソウ
「オオバナノエンレイソウ」は仙北市「渓風小舎」さんの案内で撮った。北海道と北日本の一部に分布している。北日本の青森が南限とされていたが近年秋田でも多くみられるが限られているという。仙北市の刺巻湿原では群生しているが草丈が小さめだ。
「オオバナノエンレイソウ」は草丈が30~70㎝もあり、5~7センチの白い花弁をつける。この写真は少し小ぶりだが雨つゆで濡れた葉もすばらしい。北海道では各地に群生し、北海道大学の校章にも採用されている。近くの山に普通の「エンレイソウ」は花が濃紫色、葉の形状は丸みを3枚の菱形。湯沢市役所前の中央公園には葉が5~10枚の「エンレイソウ」がみられる。近年車道を整備で少なくなったが少しづつ車道整備前に戻りつつある。
ムラサキサギゴケ(紫鷺苔) 川連 田屋面
ムラサキサギゴケ
「ムラサキサギゴケ」は花が鷺に似ていることからこの名がついたといわれる。コケの名がついても、苔の仲間ではなく地面を這うように横枝を出して増えることが苔のようであることからが由来。
近年我家の田んぼにも増えてきた。白い花はただ「サギゴケ」とよばれる。5年ほど前まで皆瀬川堤防筋の田んぼ10アールの田んぼに紫花の「ムラサキサギゴケ」と、白花の「サギゴケ」の群生は見事なものだった。現在は田んぼが復活して見られない。5月田んぼの耕起ごろから田植え期まで咲き誇る。稲作作業で田んぼに通うのが愉しみになる。
ヒメハギ(姫萩)山谷 西山公園
ヒメハギ
「ヒメハギ」は山谷 西山公園の一角にある。遊歩道の日当たりの良い場所に生える常緑の多年草。長さがせいぜい15~20センチ前後の小さい。花が紫色でハギの花に似ている。5月から6月にかけて咲く、12月のこの時期にもよく見られるが全体が小さく見落としてしまいやすい。
オゼコウホネ(尾瀬河骨)は昭和12年、尾瀬で新種のコウホネ(浮葉植物)として見つかったのでオゼコウホネの名がついたといわれている。尾瀬、山形月山、北海道空知、宗谷等限られた場所にしか生えていないとされてきた。そのオゼコウホネが湯沢の細沼に群生している。尾瀬より早く発見されていたらホソヌマコウホネの名がついていたのかもしれない。
数年前、福島県の桧枝岐村から始まる尾瀬を散策した。オゼコウホネは地塘(高層湿原にできる池)の主役などと言われているが生育場所は尾瀬でも限られ木道散策等では見ることはできない。山形県の月山のオゼコウホネは八合目、駐車場からすぐの阿弥陀ヶ原湿原。無数の地塘のある中で、広さがせいぜい100㎡に満たない地塘に生育している。湿原の木道を数分歩いてたどり着く。地塘なので立ち入りはできない。6月中旬に散策したときは地塘の中心部に一本オゼコウホネが咲いていた。山形野草園にはかなりの本数が植えられていた。
一般的に池塘には「ミツガシワ」、「ヒツジグサ」、「オゼコウホネ」の3種類の植物が混生している。この3種類の植物は池塘の水深により棲み分けをしている。水深75㎝がミツガシワ、125㎝ヒツジグサ、150㎝オゼコウホネといわれている。
池塘ではない細沼にオゼコウホネが群生していることを数年前から聞いていた。今年9月末、「雄勝野草の会」秋の観察会で初めて細沼のオゼコウホネを観察できた。
細沼のオゼコウホネ (2019.9.28)
細沼の標高は307ⅿの地点にある。水深約4m。貝沼は細沼の北側で水深約10m、鯉、ヘラブナ、ワカサギ釣りの名所として全国の釣り人によく知られた沼。30数年前、私も子供たちを連れてワカサギ釣りに通った。当時は細沼のワカサギの方が貝沼より少し大きく良く釣れた。
この写真では右側の大きい方が貝沼、左の小さい方が細沼。上方の山は奥宮岳。皆瀬ダムの入り口の反対側に道路がある。国道398号線から600ⅿ程で沼に着く。
貝沼と細沼 (引用)
細沼は、その名の通り細い形をした沼。上空からの風景は貝沼と細沼の間の陸地が島のような形になって見える。水の流入口は見えない。周辺の山から自然の流れと湧き水で沼面が保たれているのだろうか。貝沼にはカラス貝が生息していることから貝沼の名がついた。カラス貝は30cmを超える個体も見られる大型の淡水貝で、湖や池、沼などに主に生息しているといわれているがそれほど大きな貝を私は見たことはない。細沼にもカラス貝は生息している。
細沼にオゼコウホネの群生がある。オゼコウホネの漢字表記は尾瀬河骨。スイレン科コウホネ属。
細沼のオゼコウホネ(2019.9.28)
細沼は水深4ⅿともいわれ、オゼコウホネは細沼の両突端にまとまって生育していた。今年は梅雨に極端に雨の量が少なく、細沼の沼面は例年より1ⅿ以上も低くなっていた。例年だと水の量が大きく、オゼコウホネの生育場所に近づくことができない。今年は水量が極端といえるほど少なく、一部の生え際近くまで近寄ることができた。
水中に生える多年草で根茎は深く泥の中、長い葉柄を伸ばし水の上に葉を広げる。葉は円心形で長さが10㎝前後。裏面に細い毛が密生している。花は黄色、直径が2~3㎝、花弁状の萼片は5枚。中心にある柱頭盤は深紅色。
拡大の花弁(2019.9.28)
多くのオゼコウホネ愛好者も真上からの写真を撮りたいと願っているようだがなかなか機会がないらしい。こんな見事な写真は雨の少なかった今年の天候のおかげだ。そして、水際で撮れたのは偶然な出来事だった。
細沼のオゼコウホネは「昭和46年(1971)8月、湯沢高校の教師、望月陸夫氏が生育を確認している。6月に木地山高原の谷地沼、7月に五才沼で確認と「植物研究雑誌 第47巻第3号 昭和47年(1972)3月」で発表している。その記事によれば「「山形県月山のものと比較し検討 したところ、全体がやや大型であること、 葉裏の毛が少ないこと以外は特に差異はない。オゼコウホネと同定される植物であった」とある。
さらに、「植物研究雑誌 第 80 巻第1 号 平成17 年2月」に 「短報 オゼコウホネ(スイレン科)の 新品種(高橋英樹、山崎真実、佐々木純) 日本固有とされる現在まで に、尾瀬(三木 1937)、山形県月山(佐藤 1964)、秋田県谷地沼(望月1972) 、北海道 雨竜沼(伊藤・梅沢 1973)、キモマ沼(伊藤 1967 、 1967) などから報告されており、角 野 (1994) では尾瀬、月山、雨竜沼の 3ヶ所 が確かな産地」とある。
コウホネ属は北半球の温帯を中心に20種、日本では4種およびいくつかの変種が知られる。しかし変異の幅も広く、その区別はなかなか難しいとされれる。
オゼコウホネは昭和12年(1937)にネムロコウホネの変種として発見されてから92年になる。植物は進化と退化の途上にある。さらに変種の位置づけはどう推移していくのだろう。
第43回雄勝野草の会山野草写真展は12日(火)から21日(木)まで湯沢生涯学習センターで開かれています。会員7人が山野草の写真66点を展示しています。昭和49年(1974)に設立された「雄勝野草の会」の現在の会員は38名。主に今年自然観察会や深山、里山等で撮った写真。66点の中には同じ名の山野草もみられる。各会員の感性による表現に触れるとより山野草の奥深い豊さ発見してしまう。一枚一枚の写真に感謝を込めたい。
私は今回次の写真、サンカヨウ(湯沢市つぶ沼)、オオヤマオダマキ(川連町黒森)、オゼコウホネ(皆瀬細沼)、アケボノソウ(仙北市抱返り)、ツリガネニンジン(皆瀬ダム)、キンエノコロ(川連町田屋面)、ムラサキセンブリ(湯沢市山谷)の7点を出展しました。
サンカヨウ(湯沢市 つぶ沼)
サンカヨウの漢字表記は「山荷葉」。花言葉は「親愛の情」という。花期は5月から7月。茎の先に直径2㎝ほどの白い花を数個つける。大小2枚の葉は成長するとフキに似ている。花は小さい葉の上に乗っているように見える。花びらが雨に濡れると透明になる。花びらが水分に触れるとその水分を吸い込み、光を吸収してしまうからと言われているが科学的に証明されてはいない。花びらが乾燥すると白い色に戻る。山荷とは蓮の葉のこと、5月の柔らかい陽を浴びて葉っぱがより美しかった。
オオヤマオダマキ(川連 黒森)
漢字表記は「大山芋環」。岩手県岩泉町の早坂高原にオオヤマオダマキの群生地があった。ビジターセンターの広場は「牛追の道」の碑があり「南部牛追歌発祥地」の標柱がある。6月下旬周辺を散策するとオオヤマオダマキに出合える。我家の坪庭にも昔から居座っている。開花後種が落ちて増えている。あまりにも多く増えて持て余している。
この写真は自家の杉林の林道で撮った。6月9日午前9時頃、ナラ枯れ被害にあったミズナラの伐採作業をしていた。薪ストーブの材料でこの作業は欠かせない。この林道にでオオヤマオダマキがみられるようになったのはつい2,3年前からだ。もともとこの場所にあったのか、それとも他から人や車で種が運ばれてきたかのかよくわからない。
杉林の隙間から陽の光で、鮮やかな姿に思わずシャターをきった。花びらの表面が独特な高級感を漂っている。写真を拡大してより印象を強くした。花の径は3㎝ほどで紫褐色の花、花弁は黄色。
オゼコウホネ(皆瀬 細沼)
オゼコウホネの漢字表記は「尾瀬河骨」。尾瀬ケ原に生えるコウホネで夏の尾瀬を象徴する水草といわれている。尾瀬の他に月山にも生えているが数が減ってきているといわれる。コウホネの柱頭は黄色。尾瀬、月山に自生しているのは赤いのが特徴。数年前月山のオゼコウホネに合ってきた。月山八合目、駐車場からすぐの阿弥陀ヶ原湿原。広さがせいぜい100㎡に満たない地塘にあった。氷河時代からの遺物とされるが季節が6月下旬だったので花は一輪だけ。地塘なので立ち入り禁止。カメラは望遠でやっと一枚。
細沼のオゼコウホネの群生。沼の水際付近でオゼコウホネの生えている場所に近づくことができた。花の真上から写真を撮れる等とは今まで想像すらできなかった。今年は例年になく雨が少なく、沼の水量は比較にならないくらい少ない。そのためにオゼコウホネに近づくことができた。マクロ機能のデジカメ、花の姿に魅了された。
アケボノソウ(仙北市 抱返り)
アケボノソウの漢字表記は「曙草」。花冠の斑点を夜明けの星空に見立てたことに由来する。リンドウ科センブリ属の分類されて花はセンブリと似ている。和賀山塊の仙人、渓風小舎さんの案内でたどりついた。アケボノソウは抱返りの杉の伐採地に固まって咲いていた。草丈が80㎝ほどの2年草。長さ1~5㎝の花柄。裂片に直径1.5mmの黄緑色の蜜腺溝が2個あって、裂片に濃緑色の斑点が多数ある。斑点の数は花弁それぞれ違うようだ。密腺にアリなどがエサとして群がり受粉の役に立っている。
多数のアケボノソウの中に花冠に斑点のないフナシアケボノソウ(班無し曙草)が混じっていた。この場所は平坦な杉伐採2年後の場所。杉林の中では花も草丈も弱々しかったが伐採後、十分な陽の光でアケボノソウ は旺盛な姿になっていた。
ツリガネニンジン(皆瀬ダム)
ツリガネニンジンの漢字表記は(釣鐘人参)。花期は8月から9月。10月下旬の写真でほとんど花は終わっていた。一株残っていたツリガネニンジン数段に分かれて咲く。この写真はあえて一輪の花にした。
キンエノコロ(川連 田屋面)
キンエノコロの漢字表記は「金狗尾」。イネ科エノコログサ属の一種で、一年生植物の草。穂の形がエノコログサとよく似ているが、穂にびっしり生える毛が、黄緑色のエノコログサと異なり、黄色である。その黄色が光を受けるさまを金色と見たのが名の由来である。
稲刈り直前のキンエノコロ。朝日を浴びて映える。排水路の土手にこの姿が50ⅿ近くも続くと壮観な眺めになる。「あきたこまち」の登熟を後押しているような気がする。
ムラサキセンブリ (稲川 山谷)
ムラサキセンブリの漢字表記は「紫千振」。千回振っても苦いといわれるセンブリ、ゲンノショウコ、ドクダミは日本の三大薬草といわれる。
ムラサキセンブリの生息地は日本列島に関東以西とされる。私の撮ったセンブリをムラサキセンブリとしたのに、単なる色変わり説等異論もある。
ネット検索で秋田からの記事はない。岩手に生育場所が確認されているという。環境省のレッドデータブックでは準絶滅危惧種に指定されている。茎も葉もムラサキ、写真展に出展したの開花後の姿。この写真は話題提供としてムラサキセンブリの出展した。花の終わったムラサキセンブリから少量の種子が採れた。来春蒔いてみる予定だ。
「陽の当たらない春蘭」は自家の雑木林から移植したものだ。この場所は集落のすぐ傍で毎年9月の第二日曜日に「麓ぼんぼら大会」の会場になっている。我が家の持地になった記録として「山分け証文」がある。持ち主麓村 掃部、武右衛門、立会川連村、兵左衛門 宝暦3年(1753)8月8日とある。
現在の字名は「東天王」になっているが古文書には「天王社外杦雑木立」川上治衛、黒沢治右衛門の「御先分」となっている。天王社は八坂神社のこと、神社の境内、社地以外の山林をいう。現在は天王山といい、ほとんどが杉林、一部にミズナラ、クリ等の雑木林になっている。地目、東天王は神社社地の東部に当たる。
当時から我が家の持地になっていて、文政5年(1822)に「極立杦」等300本植栽の「書上覚」を肝煎当てに出している。「極立杦」とあるのは普通の植樹と違って意味合いのある特別な杦の植樹と思われるが仔細はわからない。
ここの面積は山林として約3200㎡。300本の杦植樹の他はミズナラ、クリ、ブナ等の林だった。我が家は大正初期(1912)火災にあいこの場所から材木を切り出し住宅を新しくしたと伝えられている。現在の住宅の主要な柱にはクリ材が多く使われている。文政5年の「書上覚」から90年、「極立杦」の一部は現在の住宅に使われているものと思っている。
昭和48年この場所の雑木、主にミズナラ、クリ、ブナ等をすべて伐採した。一部は親類の住宅の土台や大黒柱に使われている。そして林の中央上部に樹齢100年以上の直径80㎝もある大きな杉の木があった。当時伐採し牛舎拡大に活用した。巨木だったが比較的伸びの少ない杉の木だった。用木としての価値は低く大正の始めの伐採時から免れたと思われる。現在ふり返って、あの杉の木は文政5年(1822)の「極立杦」と関係があったのかもしれないなどと思えてならない。
私は昭和52年この雑木林を採草地に造成した。雑木林の下方は畑と田圃。併せて65aの草地造成。国の助成事業を活用した。総事業費が320万円。面積の半分以上は傾斜が30度近かった。大型のブルトーザーはスリップしてバックで上る作業ができなかった。上部の切り下げは約5ⅿもあった。その結果隣地との間に2ⅿから5ⅿの段差ができた。昭和45年から始まった「減反政策」で、田んぼで米を作ることができない状態は年々減反面積が拡大されてきた。著名な農民運動家は私の草地造成に「水田転作」が有効だとから無駄(?)との助言らしきものがあった。当時私にはこの助言にどうしても同意できなかった。補助事業で採択され、補助残は近代化資金を活用。返済期間は確か3年据え置き18年償還だった。
造成された草地の段差斜面は年月を経過するごとに少しづつ崩れた、斜面にも雑木が生えるようになってその崩れもいつの間にか収まった。大型トラクターで草地の草刈りは年2回、乾燥しタイトベールで梱包作業。当時は現在のようなロールベールの作業体系ではなかった。
草地の周囲は年数回草刈り作業して全体を管理していた。写真の側面に「春蘭」の大株があることに気づいていた。当時「春蘭」は格別珍しいものではなかった。私が「春蘭」に興味を持ったのは昭和60年前後、函館に住む叔父が来宅するたびに「春蘭」を欲しがり、自宅の山に案内してからだった。函館近くにはほとんどないといい、持ち帰った。その結果我が家の雑木林に「春蘭」は絶滅してしまった。絶滅と思っていた「春蘭」が5.6年前からみられるようになったきた。このことを「いとこ」に話したら一部函館から送られ里帰りの「春蘭」の株が育っている。
約40年続いた牛飼いから撤退し、草地の管理をやめてから15年も経過してしまうと「春蘭」の大株のことはすっかり忘れていた。写真のように雑木が段差を覆い春蘭が見えなくなって長い年月が経過した。「春蘭」と再会したのは4年前。段差にあるミズナラ、クリ等の雑木が大雪で枝が欠け、一部根元から倒れた。この雪折れ雑木を整理した時「春蘭」の大株に再会した。この株は直径25㎝程。「春蘭」は多く見てきたがこんなに大きい株は見たことがなかった。
段差の場所に雑木が被さり、さらに笹竹が忍び寄っていた。この「春蘭」に晩秋の雑木の落葉期、春先の雑木の新葉時も笹竹が覆いかぶさり陽が当たらることがなかった。さらに大株の下部の1/3は斜面の土が崩れて根がむき出し状態。株の直径が25㎝もある大株に花芽がなかった。陽の当たらなかったこの「春蘭」は数年なのか数十年の間花が咲かなかったと思われる。
この状態に再会して「春蘭」の大株をこの場所から移植をすることにした。大株を自宅に持ち帰り、空の木桶に植えて置いた。「春蘭」異変に気付いたのは梅雨の時期。木の桶の底に穴を開けていなかったので根腐れが起きてきた。慌てて地植えにした。
地植2年ほどで回復。昨年鉢植えにし、この冬居間に飾っておいたら見事な花が咲いた。花の数20本ほどの見事な「春蘭」の大株。根腐れで当初の大きさから大分小さくなった。この「春蘭」春になったらまた地植えし、より自然な状態に返そうと思っている。
宝暦3年から我が家の持地になった場所。草地造成前は直径60㎝のブナ、ミズナラ、クリ等の雑木林。ヤマツバキやササダケが密生。3200㎡ほどの面積を隈なく回ることは少なかった。それほど山野草に関心もなかったし「春蘭」の大株が生えたいたことも知らないできた。どれほどの時間が経過して、直径が25㎝もある「春蘭」になったのか想像できない。
生えていた場所が自宅のすぐ近く、宝暦3年(1754)から我が家の持地になった歴史ある山林。草地造成で山の形を大きく変えてから40数年になる。もしかしたら草地造成当時から生えていたのではないかと思っている。山野草に興味を持ち、雄勝野草の会に入って10数年。各地の散策をくり返してきたがこんな大株の「春蘭」にあったことはまだない。
今年の湯沢市雄勝野草の会主催、第42回山野草写真展は11月13日から22日まで湯沢市生涯学習センターロビーで開かれています。雄勝野草の会の会員は40名。今年は自然観察の中で7名の会員が撮った66点の写真が展示されます。私の写真展参加は第39回からで4回目になります。
第42回山野草写真展に以下の7点、クルマユリ(川連町坪漆)、オオミスミソウ(美郷町真昼岳)、スカシユリ(鶴岡市白山島)、フジバカマ(京都府龍安寺)、ミズバショウとエゾリュウキンカ(奥小安三本杉湿原)、タニワタリノキ(川連町麓)、ヤブカンゾウ(川連町麓)の写真を出展することにしました。以下はその詳細です。
クルマユリ (川連町外坪漆)
外坪漆の杉林の林道に咲いていた。この林道は国見岳の山麓で登っていくとかつて三梨城から川連城への古道があった場所に通じていた。現在古道は荒れて道の形はわからなくなっている。地名の外坪漆の語源はわからない。珍しい地名と思える。わが家でこの場所に1㏊ほどの杉林を所有している。昭和30年代に植林をした杉林を平成4年、17年に雄勝地方森林組合に委託して間伐作業を行った。杉林に陽が当たるようになって間伐2.3年後から山野草が多く見られるようになった。ヤマユリ、ホウチャクソウ、マムシグサ等の他にクルマユリが4.5年前からみられるようになってきた。写真のクルマユリには花被片に斑点がないフナシクルマユリ(斑無車百合)ではと思われる。斑点のあるクルマユリもある。7月八幡平を散策したが圧倒的に斑点のあるクルマユリでフナシクルマユリ(斑無)に出会うことはなかった。 外坪漆には両方のクルマユリがある。このフナシクルマユリは木立の陽の当たる場所に一株だけ咲いていた。周りが杉林で少し暗さの中でひときわ輝いて見えた。
オオミスミソウ (真昼岳)
4月初め真昼岳山麓の沢は、残雪が多くクルマで林道に入ることはできなかった。日当たりの南斜面にオオミスミソウが咲きだしたことを「渓風小舎」さんから聞いていた。オオミスミソウは園芸店では雪割草の名前で店頭に並んでいる、自然のものは見たことがなかった。「渓風小舎」さんへムリに頼み込んでクルマで出かけた。雪の林道を小一時間も歩いて咲いている場所へ辿りついた。その場所は比較的陽のあたる急斜面。小枝を探り寄せながら観察。ピンク、シロ花等無数に咲き乱れていた。少し早いのかムラサキ花はなかった。二か所を案内してもらった。当日は好天で早春のさわやかな一日となった。ブログ2018年4月18日に「オオミスミソウ(雪割草)」を書いている。
スカシユリ (鶴岡市 白山島)
スカシユリといえば5年ほど前、初めて行った八戸市種差海岸のスカシユリは見事なものだった。大小の岩礁帯に散りばめたオレンジの花に圧倒された。鶴岡市の白山島のスカシユリは種差海岸と比べれは控えめだった。白山島は周囲436ⅿ、高さが72ⅿの 小さな島。砂浜から島まで177ⅿ赤い橋がかかっている。中央の白山神社は急傾斜の石段は263段の上に鎮座している。白山島へは今回で3回目の訪問となるが白山神社まで登ったことはない。小さな島は一周できる。ナミキソウ、センニンソウ、ハマボッス等があった。島を反時計周りで出発点近くでスカシユリが揃って咲いていた。岩屏風をバックに撮ってきた。
フジバカマ (京都 龍安寺)
今年当地区は、秋田県で平成30年度「新嘗祭御献穀田」に指定された。5月17日の御田植祭、9月22日の抜穂祭を終え新米「あきたこまち」をもって10月15日伊勢神宮の初穂曳に参加してきた。帰途京都の龍安寺に足を延ばした。このフジバカマは方丈の入り口で撮った。フジバカマはキク科ヒヨドリバナ属、秋の七草のひとつで万葉集や源氏物語にも描かれている古くからの花。園芸種のフジバカマはサワヒヨドリとの雑種といわれている。中国原産といわれ京都府でも絶滅寸前種に指定されている。ブログ2014年10月15日「フジバカマと故高橋克衛公民館長」を書いている。30歳の時国交回復直後の訪問の機会があった。当時町長さんが送別会を開いてくれた。その時高橋公民館長は中国を訪問したら必ず「フジバカマを見て報告してくれ」と話した。当時11月の訪中で、広州から天津まで約一月間の訪問、熱烈歓迎の中でフジバカマについて記憶に出てこなかった。当時山野草に精通していた「鶴田知也」氏と交流が続いていたがフジバカマについて語ってこなかったことが悔やまれる。
忘れかけていたフジバカマを思い出したのは約10年前、「雄勝野草の会」入会後ホームセンターで苗を見つけた時からある。早速自家に植えた。園芸店で売られているものは改良種で、紫紅色や白色などがあるが本来のフジバカマは淡紫紅色で、花としては格別なものとは思えない。フジバカマは別名香草ともいわれ生乾きの茎葉にクマリンの香り(桜餅の葉の香り)があり、中国では芳香剤として利用されてきた。山上憶良は『万葉集』でフジバカマを秋の野の7種の花の一つにあげている。当時すでに野に逸出していたことがわかる。名は藤袴の意で筒状の花を袴に見立て、藤色とあわせてつけられたという。鶴田知也「わが植物画帖」第一集 市民新聞社刊 昭和49年7月に面白い記述がある。「ふじばかま 秋の七種(くさ)の員数をそろえる必要上、その末席に抜擢されたのがふじばかまではなかろうか?それほどつまらぬ花というのではない。とくにこれがなくてはならぬ理由が薄弱だからである。それにしても、酸度の強い火山灰地だろうと意にかいせぬその猛々しさは、あっぱれだと思う。」とある。京都御所や金閣寺でも見受けられたが龍安寺のフジバカマはとくに印象深いものとなった。
ミズバショウとエゾノリュウキンカ (奥小安 三本杉湿地)
冬季間通行止めの国道398号線は5月の始めになると開通となる。この道を通ると湯沢から仙台迄約3時間で結ばれる。宮城県との県境近くの奥小安の三本杉周辺は雪に覆われているが春の日差しで湿地周辺から雪が徐々に消えていく。かつて仙台領の文字、温湯に通じる峠超えの要所。雪消えになると三本杉側の湿地と近くの田代沼にミズバショウが咲く。そして黄色の花、エゾノリュウキンカも同時に咲き出す。白いミズバショウと黄色のエゾノリュウキンカのコラボはすばらしい。エゾノリュウキンカは食用で、おひたしなどで食べられる。葉の形がふきに似るいるので「ヤチブキ」とも呼ばれる。似た花にエンコウソウがある。山形県の鮭川村米湿原に群落がある。
タニワタリノキ (川連町 麓)
タニワタリノキは数年前ホームセンターから求めてきていた。別名、人工衛星の木等いわれ玉状の花冠は独得。九州南部は中国やベトナムの分布され、谷間に好んで生えることから名がついたという。球形の花の先端につ突きだしている雌しべ。少々厄介なのは株が猛烈に増えるので毎年の切り詰めている。葉がアザミに似た球形の花、色は青から瑠璃色に近いヒゴタイが庭の一角にある。
。
ヤブカンゾウ (川連町 麓)
自宅の屋敷に古くから山からの水路、堰が住宅を貫通している。ヤブカンゾウはこの堰沿いに古くから居座っている。カンゾウ(萱草)の意味はこの美しい花を見ていると物も忘れると言う故事からの漢名で、忘れ草とも言うニッコウキスゲの仲間とされる。日本に中国から渡来、ヤブカンゾウは、三倍体のため結実しないとされ根茎(匍匐茎)の移植でふえる。一日花ともいわれているが翌日まで咲いているものもある。わが家のヤブカンゾウは堰沿いの石組み間から生えているのが一番花も大きく豪華に見える。