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雪崩と雪の模様

2015年01月29日 | 地域
一月も末でまだまだ寒さは続くだろうが、4年続きの豪雪も今年は一変した。雄長子内岳、雌長子内岳は正月前から雪崩が見られる。立春まで少しだが暦の上ではまだ大寒寒さの最も厳しい時期だが雄、雌長子内岳の雪崩現象はひっきりなしに続く。雄長子内岳から三本鎗山を含む一帯は火砕岩(流紋岩質)と呼ばれ滑りやすく雪崩が頻発する。全層雪崩というのだろう。雪崩の後は土が黒々と遠くから見える。雪崩の後降った雪が積もり暖気が来ると同じ場所に又、雪崩が発生する。繰り返される雪崩と急峻な地形には灌木しか育たない。街部のすぐ側に雪崩現象が見える風景は珍しい。

2015.1.27 雄長子内岳の雪崩  奥の山も雪崩直前の亀裂が多い

雄長子内岳は町部のすぐ目の前の山で標高470mとそれほど高くはない。近年秋田のピラミットと言われ登頂を目指す人が多くなった。山全体が岩肌で急傾斜、登山道は整備されてはいない。雪崩が頻繁にある冬山への登山は進められない。30年ほど前にキノコ採りに出かけ滑落の事故があった。

「高橋喜平」氏は岩手県出身の雪崩研究家でエッセイストだ。氏の随筆「雪崩夜話」は次のような書き出しで始まる。「雪崩は雪の葬送である。その誕生の荘厳にして華麗なる較べ、その葬送はあまりにも悲惨で残酷である、、、」と雪山の遭難を悲惨なものとして書かれている。更に随筆には「私の住んでいる村に <百間ビラ> と呼ばれている雪崩地がある。当地方では底雪崩や急斜地をヒラと呼んで、ヒラが地名を指す場合にはピラまたはビラたなることが多い、、、、、、アイヌ語でピラといえば急斜地を指す」とある。

当地方でも山の急斜面を「ヒラ」と云い、高齢者はヒラの雪崩を「ヒラ突き」と言っていた。高橋氏のいうアイヌ語のピラのなまった言い方だろうか。「秋田の言葉」秋田県教育委員会編 無明舎によれば、県内ほとんどで「ひらちぎ」と呼び、『雪崩。「ひら突き」か。「ひら」は急斜面を意味するが、そこの雪を突いたら雪崩が生じる』とある。昭和30年代の当地区の鍋釣山には毎年のように雪崩が発生した。当時暖房用の薪伐りが村のあげての行事だった。急峻な山の立ち木が伐られるので、雪崩が当然のように山裾の沢まで流されてくる。そのため下部にある持ち山に植林はできなかった。燃料革命が浸透し薪伐りをしなくなった40年代になって親父は我家の持ち山に杉を植えた。今では鍋釣山の樹木も5、60年も経過した雑木林となっている。内沢では雪崩が起きるヒラは極少なくなった。

当地方のこの冬の初雪は11月15日だった。山々や住宅の屋根が白くなったが朝方から小雨になり、雪はすぐ消えてしまった。その後好天が続き12月2日になり翌3日にかけて降雪、除雪機始動するくらい積もった。この雪は消えず根雪になってしまった。初雪同然の積雪がそのまま消えることなく根雪になったのは近年記憶がない。誰しも5年連続の大雪になるのか等と心配し、早々の屋根の雪下ろしを済ませた。しかしその後は降ったり、止んだりの小康状態が続いている。当地方の雪質はいつもの年より水分が多く過去4年と比べて雪は少ない。今のところ積雪はせいぜい1mぐらい。下の写真は昨年の育苗ハウスの積雪の状態。約230㎝はあった。

 2014.1.25 ハウスの積雪

例年より水分の雪質はいつもと違う景色を作り出している。傾斜の強い土蔵のトタン屋根にはきれいな雪の模様があった。自然は不思議な造形を見せてくれる。

2015.1.17 土蔵の屋根雪 1

拡大すると下のようになる。屋根のトタンは横長尺という葺き方になる。平面的なトタンにどうしてこの幾何学的ともいえる模様はできるのだろう。乾いた雪には見られないが、湿った雪には水蒸気が多く補給され、雪の結晶形も発達し粘着力と粘性があるためにこのような造形が生まれるといわれている。

2015.1.17 土蔵の屋根雪 2

例年だと湿った雪になるのは春近くになってからだが、この冬はいつもと違う。日本海の海水温がいつもより高いといわれているのが影響しているのだろうか。これも異常気象というべきかもしれない。

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地域の人の本

2015年01月23日 | 地域
若い頃から本屋に行くのは大きな楽しみだった。当時湯沢に本屋が三軒、十文字、増田に一軒の計五軒。夏は自転車で始まりバイクへ、冬はバスで約往復30kを一日がかりで回った。当時岩波新書が150~180円のころ本を買うのに金も少なく、ラーメン代50円より安い一つのパンで昼食かわりにした。冬湯沢から10kの冬道、吹雪でバスが時々不通になり2時間半もかかって山谷峠を超えたことが何回かあった。その後上京する機会が出てくると、夜行で湯沢駅を発ち早朝上野駅に着くと、早々に山手線で神田の古本屋街を回るのが唯一の楽しみだった。

現在は一時より本屋に行くことが少なくなった。欲しい本はネットで求められるようになった。湯沢の町に古くからあった本屋は閉店して何年になるだろうか。近年大きな新しい本屋が誕生し時々でかけるが圧倒的に古本屋に行く機会が多い。近くのブックオフへは月に2、3回訪れる。時には貴重な本にめぐり合う。特にジャンルには無頓着だが、いつのころからか秋田県内出身者の著書に出合うとつい求めてしまう。昨年暮れから一ケ月程で求めたのは以下の本になる。

平田篤胤       伊藤永之介         無明舎
鷹匠         伊藤繁治          イズミヤ出版
千刈狸の呟き     社団法人本荘市由利郡医師会 北星印刷
正義と思いやり    小助川清蔵         無明舎
お化けの出る田んぼ  奥規一           イズミヤ出版
詩集 北の盆地    石塚昌男          無明舎
詩集 リバティの自由 小松和久          秋田文化出版
詩集 海色のセーター 藤原祐子          秋田文化出版
詩集 さぎ草に    藤原藻都          秋田文化出版

あるとき古本店から帰ろうとして車に戻ったら、憤然とした顔つきの人が出てきた。あまりにも印象的だったので初対面ながら「なにかあったのか」と聞いてしまった。そしてら、「本を整理しようと持ってきた本が全部で150円だというので、バカにするなと言って怒って出てきた。この本だってそれぞれに思い出がある。自宅の本棚に戻すことに決めた」という。文庫本や箱入りの本など紙袋の冊数は結構あった。顔を紅潮させて怒顔で出て行った。蔵書にはそれなりの思いがあるのは当然のことだ。カウンターにはひっきりなしに本が持ち込まれる。比較的若い世代が持ち主のいなくなった本を整理に来るのだろうか。ダンボールで持ち込むこともある。そんな中から時々謹呈のしおりの入っているのもある。今回の9冊は価格100円プラス税の108円。それぞれの著者の本が、売価108円となると複雑な思いになってしまう。仕入れ価格は1/10程度と聞いたことがあるが実態はわからない。



秋田の特に県南の著者の本に出合うと宝物にあったように気分になる。面識はないが同地域の人が書いたと知れば無性に親近感がわくのはなぜだろう。さらに農業駆け出しの頃「秋田農村文化懇談会」を知り、会合があればなるべく参加していた。この会合で小坂太郎氏等詩の集団「第三群」や「むのたけじ」氏と同席できるのは格別なことだった。「農への挑戦」を心に決め、農に向かう覚悟、叫び等に飢えていた20代前後「農民詩」の分野に足を踏み込んでいた。「秋田農村文化懇談会」での懇談は当時の唯一心の解放につながっていた。ただ、自ら詩を書くことは出来なかったが農民詩の分野に足を踏み込んでいた。その感覚が残っていてブックオフ等で秋田県出身者の書いた詩集等に出合うと迷わず求めてしまう。

以下は今回約一ケ月の間に出合った本の読後の一言。

「平田篤胤」伊藤永之介著 無明舎 2009年この書は昭和17年(1942)偕成社版を底本として書かれている。平田篤胤は安永5年(1776)生まれ、天保14年(1483)68歳で亡くなっている。明治維新の26年前だった。江戸時代の国学者4大人の一人、伊藤永之介の執筆動機は同郷、同地域の人間的な関心だったという。巻末に佐々木久春秋田大学・秋田県立大学名誉教授の『解説-神道「平田篤胤」を描いた永之介』がある。

「鷹匠」 伊藤繁治 イズミヤ出版。平成12年 伊藤氏は十文字出身。長らく増田農協の参事だった。「鷹匠」は山形県真室川町の鷹匠、沓沢朝治氏との出会いから交流を記している。その他句集や随筆、小説等幅広い。357ページの豪華本。庭師加藤東吉伝は興味深かった。十文字梨の木の庭師のルーツを知る。伊藤氏はこの本で増田町の地主佐藤清十郎邸の庭園が庭師加藤東吉作であることを記録している。その中で庭石として私の地域の沢から庭石を運んだことが書かれている。この石を「川連石」と紹介している。地元では「内沢石」といい、「内沢石」も沢の最奥の「オヤシキ石」が最高のものと言い伝えられてきた。今回この書で「川連石」と呼ばれていることを始めて知った。増田の地主清十郎宅へ小作人が冬そりで運んだと語られてきた。この地域で庭石の最高は「川連石」と伊藤氏は紹介している。今から20年ほど前、内沢治山工事で所有の山林が計画に入った。当時工事の際重機でストックしていたのを知った伊藤氏が来宅。庭石談義したのが思い出される。農の恩師、平鹿町の加賀谷宅の庭石はその時運ばれた。

「千刈狸の呟き」 社団法人本荘市由利医師会編 北星印刷 平成9年は本荘市・由利郡医師会報である。昭和57年から平成9年までの15年間の毎月のエッセイ集で45のペンネームが見られる。このエッセイ「千刈狸の呟き」はなかなか面白い。この本は 謹呈 のしおり付きで真新しい。

「正義と思いやり」小助川清蔵著 無明舎 1998年 この本は「長谷部七郎、誠の政治家と共に歩んだ半生を、その父子の活動史と重ねながら語るユニークな自分史」とオビにある。長谷部七郎氏の衆議院選挙昭和44年、昭和47年に関わった一人として懐かしい本だった。

「お化けの出る田んぼ」奥規一 イズミヤ出版 平成9年刊 横手市醍醐 平成4年刊「回想60年」につづいて第二集がこの本という。農業あれこれ 変わりゆく社会 甘酸これ人生の三つの柱になっている。農民は稲を作るとは言わず田を作ると言った。「お化けのでる田んぼ」とは田んぼの水ひきの時の逸話。各地に水引の話が多い。田んぼが整理された現在ではこの種の話題はほとんど聞くことがなくなった。

「詩集 北の盆地」 石塚昌男 無明舎刊 1929年生まれ 秋田県現代詩人協会は1991年発足。会員数平成21年現在で74名。昭和詩年表によれば昭和47年(1952)に横手市で詩誌「三叉路」を創刊している。

  はざま邑の秋

 冷夏がくしゃみしながら
 はざま邑の季節は
 葉がくれに小さな朱い実を
 のぞかせている

 反当り一俵弱
 猫のひたいほどの田んぼ
 議員先生方の作業服姿に
 不稔田に立つ百姓は寡黙
 、、、、、、

 呆然としているだけですか
 問いかけのむなしさ
 、、、、、、

冷害を子供たちの目を通して見つめる教師、「イネの花」でヤマセを「ままかせね風」(ごはんをたべさせない風)と呼ぶ子供たちの確かな視点を通して邑を見つめる。平成5年の大冷害が目の前に浮かぶ。

「詩集 リバティの自由」 小松和久 秋田文化出版 2005年刊 面識はない。唯一の接点はこの方の父親が小学校の教頭先生だったこと。校長不在で教頭先生があいさつすることになれば決まって雨。生徒と父兄から「雨降り教頭」のあだ名があった。そして同じ町出身。詩集に収められているのは難解。農民詩の分野とは違う。

詩編ではなく前書きに次の語句がある。「自由とは自己にあって現存の存在に一体何を値わしむるを人間としての値とする、、、父を不義、不幸で亡くした私にとって自己との闘いと葛藤、、、、時間の空間の時の中で父と語る様にして「リバティの自由」という題目をつけて三十八編、、、とある。

「海色のセーター」藤原祐子 秋田文化出版 1999刊 詩集「海色のセーター」の題字は秋田県北の農民詩人、畠山義郎氏。海の詩が多い。最後のページの次の詩が秀逸、しばし沈黙。

   女
 
 

ときどきはくらげ
 いのちをつむぐ
 海を抱き
 いのちを放つ
 海をまとう

 抱いた海と
 まとった海とに
 いくばくかの
 ちがいがあるのか

 海の呑まれもせず
 とけもせず
 泣いたり
 笑ったり

 透けたからだで
 海を抱き
 海をもとう

「さぎ草に」高橋藻都詩集 秋田文化出版1996年刊 湯沢市 「鬼籍」で始まり亡くなった夫への語りの詩であふれている。詩集名のさぎ草は夫の好きだった花で詩集を「さぎ草に」としたという。  

   莫妄想

 雨が止んで
 夏椿のてっぺんが紅葉した
 枝に再びかることがないのに
 モスグリーンの小さな芽を
 しっかりしのばせて
 散る支度をはじめている

 、、、、、、
 、、、、、、
 生きていこうとという心の旅券を
 ひそかに 握りしめる

 、、、、、、  
 、、、、、、
 孤独の獲得への意欲を点火し
 私の胸の斧は音もなく燃えている

「莫妄想」は1990.10に「あきたの文芸」に初出とある。生への決意と強さがみなぎっている。

 

               
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下落する農業秋田と六次化

2015年01月16日 | 農業
秋田の地方紙、秋田魁新報は12月18日以下の記事を掲載した。

13年農業産出額、本県8.6%減 東北最下位、米価下落が影響

「農林水産省がまとめた秋田県の2013年農業産出額は1716億円で、前年に比べて8.6%(161億円)減少した。米価の下落が主な要因。産出額は東北6県で最下位だった。本県の産出額のうちコメは1012億円で、前年に比べて15.8%(192億円)下がった。全国的な供給過剰と消費低迷を受け、JA全農あきたの13年産米の概算金(あきたこまち1等、60キロ)が前年比2000円ダウンの1万1500円になるなど、価格が大幅に低下したことが響いた。14年産米の概算金(同)は8500円まで下がっており、14年の産出額にも大きく影響するとみられる」


「13年の本県の産出額に占めるコメの比率は59.0%。東北で最も高かった。コメに次いで多いのが野菜で2億円増の241億円(構成比14.0%)。3位の豚は14億円増の171億円(10.7%)。果実69億円(4.0%)、鶏卵60億円(3.5%)、肉用牛46億円(2.7%)と続いた」 2014/12/18 08:41 引用

2014年産米の概算価格は、60Kで前年比で3000円安となった。平成13年度が12年度より8.6%減(161億円)となれば平成14年度はさらに対前年比10%以上の激減が予想される。さらに前政権が創設した農家者戸別所得保障制度、全国一律の定額補償10アール当たり15,000円だったが現政権は半額の7,500円に減額した。2年間の概算価格暴落で60キロ当たり5,000円の減、農家者戸別所得保障の減と合わせれば、10アール当たりで約50,000円も少ない。1ha規模で30~40万円減、短期間にこの暴落価格に対応できなかったのは当然の帰結。円安、消費税増、便乗値上げはそのまま地方の衰退に向かっている。

秋田魁新報紙によれば2003年の農業産出額2,208億円から2013年は1,716億円、492億円の減。2014年度は前年比200億円以上の減が予想される。この額は2003年比で約700億円の減となる。農業産出額が10年前から1/3も減ってしまった。

地方の経済は農業所得と密接な関係にあり、農業の衰退は地方の経済を左右するのは当然なことだ。年に200億円前後の産出額低下は即消費支出の反映される。市街のシャッター通りはますます大きくなる。

傲慢な政権はさらに加速している。先の沖縄知事選挙で当選した知事に対するシカト作戦は露骨と見える。官房長官はTV番組で面会と挨拶を打診していた沖縄県知事に、「会う必要がない」等と突っぱねたという。1月11日の佐賀県知事選挙でも現政権はオゴリを前面にした選挙戦を展開し敗れた。実質的に農協解体を狙う政権はJAグループ佐賀に敗退とも見える。

この選挙は玄海原発の再稼働をネラう政権が、先の総選挙に現職知事を回したために知事選挙になった。農協解体へ向かう政権が地方の実情を正しく把握せずに強引な選挙、戦術に佐賀県民が拒否したことにある。この選挙結果は佐賀一地方にとどまらないだろう。テレビは連日官邸から閣僚や党幹部を相次いで投入し勝利を目指した。オゴリが強化されてきた官房長官は、地方創生を前面に展開し「農業の六次化と規模拡大政策」のスローガンを、さも地方再生の特効薬かのような発言をテレビは報道していた。

農業の六次化は今から約30年前、今村奈良臣現東大名誉教授が提唱した造語だ。昭和63年6月(1988)稲川町(現湯沢市)を「自然にやさしい、豊かな暮らし」にするために「いなかわ地域・農業振興推進会議」が発足した。3年間にわたる調査、セミナー、交流会等開催され、多くの農業者も参画して貴重な提言等が行われた。今村教授は「農業振興推進会議」にも関係し「農業の六次化」を提唱した。「六次化産業」とは「一次産業」の農業、「二次産業」の鉱業、建設、製造業、三次産業」の卸小売、金融、運輸通信、サービス業を足して「六次産業」とした。これまで農業は生産過程だけだったが、二次産業的加工や三次産業部分の情報、流通部分を農業分野に可能な限り取り戻そうという提案は、当時は新鮮な響きがあった。

あれから30年近く経過してどのように「六次産業化」が進展してきたのかは一目瞭然とも云える。現政権は先の佐賀県知事選挙でも農業の振興策の一つとして、街頭から「六次化」を訴えていたがどれほどの人が共鳴しただろうか。アメとムチの政権は「六次化」を提唱しながら農協解体、株式会社の農業参入を可能とし、土地ごと一括りに支配しようとする姿が予見される。

「安倍首相が推し進める「所得倍増計画」とは、農業の競争力を強化しながら10年間で農業所得を倍増させるものだ。主な計画としては、これまで農作物の生産のみに携わってきた農家を1次産業から脱却させ、生産・加工・販売まですべてを担う6次産業化を目指す。これによって農産品のブランド化や付加価値が高まり、現在1兆円の市場規模を10年後には10兆円にまで押し上げることができるとしている」。 引用

「下落の農業秋田」の最大の要因は、究極の市場原理政策で他の物価と比較して安すぎる米価格にある。現在消費される米の価格は茶碗一杯25~28円ほどにしか当たらない。120円の缶コーヒー一本の価格で茶わん4,5杯分が食べられることになる。この茶碗一杯の25円前後から生産者に渡る米の値段は15円以下にしかならない。生産者はこの価格から肥料、農薬、資材、労賃等が差し引くことになるが、現在の米価格では作るほど赤字になる。

この国の政府はこの値段でも高いから下げろというのが農業政策になっている。多くの農民は「六次化」や、隣を追い出さなければ達成できない規模拡大政策からの距離を置いたのは健全な姿ともいえる。特に平成25,26年産の米概算価格では他人の田んぼを引き受け規模拡大した農家はコスト低減に追いつかない。かつて規模拡大策を実践してきた畜産農家の多くはすでにリタイヤしている。各地に無残な廃畜舎が痛々しい姿で残っている。米だけの水田単作では成り立たないのは当然なことだ。他の作物と複合的に結びつけてこそ農業の真価が発揮されるのだが、いつのまにか複合経営が駆逐されてしまった。市場原理の市場ではコスト低減だけが叫ばれ、規模拡大が重視された結果、農業・農村の姿が激変してしまった。高い資材と労賃で安い農産物は生産できない。

30年前に提唱された「六次化」の行きつく先は、他の企業の参入を可能にする政策で、農業・農村の活性とは違う方向をめざしている。驕る政権は地方、農業の実情を把握もせずスローガン政策で地方が創生されるかの幻想をふりまいている。

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雪の足跡とスズメ

2015年01月08日 | 地域

各地で大雪が報道されているが、当地方は4年続いた豪雪から一転、比較的静かな年の瀬を迎え、新年になっている。昨年は大雪で、正月早々菩提寺神応寺の雪下ろしが行われてた。この冬は暮の12月3日から連日雪降りとなり、とうとう消えることもなく根雪となった。5年連続の大雪にを予感される雪にほとんどの家で正月前に屋根の雪下ろしを終えた。

しかし、例年より気温が高く推移し屋根の雪下ろしも穏やかな天候だった。好天の日一日がかりで車庫、作業舎を終え二日目には住宅の雪下ろしをした。各地で雪下ろしで転落事故が報道されている。天気が良いと屋根の凍りが解けすべりやすいので必要以上の注意が要求される。やっとのことで屋根の上部へたどりつく。下を見たら隣の畑にキツネらしい足跡。朝の太陽の光できれいに見える。数年前までは500mほど離れた草地にキツネの一家が棲みついていたが、家の周りで足跡を見るのはしばらくぶりだ。エサを探して家々を回っているらしい。昨年にぎやかだった家の下のアナグマは今年の冬は他の場所へ移ったらしい。この冬初めての動物の足跡。


キツネの足跡 2014.12.29

いつもの年より暖冬気味の正月、昨年は柿の当たり年のせいか隣家の柿はまだゆっさりと枝から落ちないでいる。カラスやカケスの他にヤマガラ、シジュウガラも時々やってくる。いつもの冷え込みが緩いせいか当分落ちそうにない。


柿の実 2015.1.4

ブログで一昨年2013.12.21「野鳥もスズメも消えた庭」、2014.7.29「帰ってきたスズメとサンクチュアリモドキ」を書いた。この秋雪囲いの際、野鳥のエサ台を屋根の軒元によせておいたらこの冬も来るようになった。朝玄関前の除雪に出ると屋根や電線に数羽で待っている。作業後のクズ米を待っているのだ。雪が降らず除雪作業の無い日は、屋根越しの居間の窓際に催促にくるようになった。


スズメ 2015.1.5

スズメは屋根や電線に止まり視ている。エサ台から少し離れると待っていたように群れでやってくる。まだ警戒心が強く視線が合うと飛び立ってしまう。下の写真は約5m離れたところからやっと撮れた。それも車庫のシャッターを少し上げ、下から望遠レンズでも微かなシャッターの音が気になるらしくすぐに飛び立った。人の気配が無くなるとすぐにやってくる。それでも雪のない時期から約一ケ月、日増しにスズメとの距離は近くなってきた。



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年賀と初詣

2015年01月01日 | 地域

2015年の年賀ハガキ

2015年元日は穏やかな朝を迎えた。朝9時半八坂神社へ恒例の初詣。近年の元日には珍しく太陽が見える。初日を仰ぎながらの初詣は何年ぶりか。12月3日から降り続いた雪は約1m積っている。正月前の屋根の雪下ろしも近年記憶にはない。いつもより水分を含んだ雪だ。 


国見嶽の初日

早朝降った雪が杉や雑木に収まり、朝日に照らされまぶしいくらいだ。


八坂神社鳥居


八坂神社本殿

昨日は夕方から雪となったが比較的穏やかな大晦日、除夜の鐘後の参拝がいつもの年より多かったそうだ。「この道しかない」等と自賛の政局。不安の時代の反映だろうか。途中一人と一家族に新年のあいさつをする。参拝後神社でお神酒をいただき、帰りに庚申塔の側の大黒様も参拝する。この大黒天がいつのころから八坂神社境内にあったのかはよくわからない。庚申塔「青面金剛童子」の三体は寛政4年(1792)建立で、この大黒様も同じ時代から鎮座されているのかもしれない。いずれ調べてみたい。

八坂神社 大黒天

フリー百科事典ウィキペデアに大黒天の解説がある。「日本においては、大黒の「だいこく」が大国に通じるため、古くから神道の神である大国主と混同され、習合して、当初は破壊と豊穣の神として信仰される。後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる食物・財福を司る神となった。室町時代以降は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となった。現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で表される」(引用)とある。いつの時代も豊穣を願い参拝してきた歴史を想う。


帰りの石段から鳥居

すべりやすい石段を一足、一足確かめながら下りた。鬱蒼とした杉木立の石段から見る鳥居もいつもより神々しく見える。
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