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野鳥もスズメも消えた庭

2013年12月21日 | 地域
11月中頃まで庭木、ヒバの茂みにやってきていたスズメが、いつの間にか来なくなった。
冬囲いしやすいようにと枝を切り過ぎたからからかもしれない。家の東側には野鳥が来るのを楽しみに、11月半ば野鳥のエサ台を設置した。昨年来たスズメを始め、ヤマガラ、シジュウカラ、メジロを今年もと欲張ってエサ台に コゴメ、ヒマワリの実、リンゴ、ミカン等手を変え、品を変えても今のところ反応は全然ない。エサ台を嫌ってではなくて庭木にもほとんど鳥が寄り付かない。昨年とは全く様変わりしてしまった。雪降りの毎日で惨敗かとの思いが強いがもう少し粘ってみることにした。


雪の野鳥のエサ台 2013.12.20

今年の5月の始め、坪庭に初めての鳥が来た。きれいな小鳥に感激し愛用の一眼レフで待ち構え、3日がかりでシャッターに収まったのはなんと「オオルリ」だったことが図鑑でわかった。ど素人のオオルリの写真はボケ気味だったので下記は引用した。5月8日に雄勝野草の会で散策した「女滝沢国有林」では路案内してくれたのは比較的大きめで鮮やかなオオルリだった。山野草よりも一行を楽しませてくれた。
(引用)

オオルリは調べてみると「全長が約16cm位、翼を開くと約27cmほど。雄の背中は尾も含め光沢のある青で、尾の基部には左右に白斑がある。喉、顔は黒で腹は白い。雌は頭から尾にかけて背面が茶褐色で、喉と腹は白い。胸と脇が褐色。 また、雄が美しい色彩になるには2 - 3年を要すると考えられ、若鳥時代の雄の羽色は雌の羽色と似た茶褐色で、背面の一部と風切羽及び尾羽に青色が表れているだけである。
中国東北部、ウスリー、朝鮮半島や日本で繁殖し、インドシナ半島から大スンダ列島、フィリピンなどに渡って越冬する。日本には夏鳥として4月下旬ごろに渡来し、南西諸島を除く北海道から九州までの全国各地で繁殖する。10月ごろまで見られる」(引用)

国際自然保護連合(IUCN)により、レッドリストの軽度懸念(LC)の指定を受けている。日本では重要保護生物(B)千葉県、 絶滅危惧II類 山形県等があるが秋田は入ってはいない。
かつては姿かたちと鳴き声から飼い鳥として人気がありオオルリ、キビタキ、コマドリ、ミヤマホオジロの4種は、「和鳥四品」とされている。現在は鳥獣保護法により愛玩飼養は禁止されているが、毎年違法な飼養が確認されているそうだ。

昨年12月26日柿の木に来たのは「ツグミ」だろうか。大雪になり餌を求めてまだ数個残されていた柿の実をめがけてきた。ツグミはシベリアから12月頃になるとやってくるという。臆病なのか争いを好まぬのか、他の鳥がいると姿を消すという。柿の木に数分ほどいたが一度きりしか姿を見せなかった。枝が雪に埋まりやっと姿が見えた一瞬の一枚だった。ツグミと思ったがもしかしたら違う名かも知れない。

カキの実をついばむツグミ 自宅 2012.12.26 

今年も雪は大降りだ。まだ柿の実は結構残っている。今日ムクドリ一羽が近くに来たが昨年見えたツグミらしき鳥は見えない。昨年まで毎年この時期に雪囲いした「オンコ」に来ていたミソサザイも今年はこなかった。
ミソサザイという名前の由来はミソはミゾ、溝の事であるらしい。サザイはササイ、些細。
つまり溝些細。谷筋の溝に現れる小さい者と言う、ミソサザイとなるのだそうだ。体長11センチ程の鳥。体が小さいから動きもすばやい。日本の野鳥の中で一番小さいと言われている。

ミソサザイは、日本では古くから知られており、古事記や日本書紀にも登場する由緒ある鳥ですが、西洋においても数々の民話の中に登場します。ある有名なスコットランド民話によると、ある日、鳥たちが集まり、一番高く飛べた鳥を自分たちの王とすることにしました。ワシは得意げに飛び立ち、誰よりも高く昇っていきました。ところが、いよいよ最高点に達しようとしたその時、ワシの首につかまっていたミソサザイが飛び上がり、見事ワシに勝利しました。ミソサザイは王として認められ、それ以来「鳥の王様」と呼ばれるようになったとのことです。(http://www.buyo-gas.co.jp/exchange/public/yatyou/yatyou23.html)(引用)

そして、スズメ。冒頭のように11月中ごろからぷっつり消えた。少なくはなったといっても雪で地面が覆われてしまうと決まってモミジに飛んできた。雪でエサ採りが難しくなるとわずかに残ったモミジの実を食べに来ていた。スズメが減ってきたと各地で報告されてきたのはつい十年ほど前からで、住宅が新しくなって営巣がしにくくなった。減反で水田が減ってきたからだ。等の諸説があるが決定的な原因は解明されてはいない。 
スズメが減ってきたのは日本だけではなく、イギリスを始めヨーロッパ諸国でも確認されている。

詳細は農業情報研究所06.4.21「ヨーロッパからスズメが消える?人間は何を失いつつあるのだろうか?」に詳しい。それによると

「イギリスからイエスズメの姿が消えつつあることは早くから知られていたが、フランスの鳥類学者の研究でパリやその他のフランスの都市でもその数が急減していることが分かった。さらに、ドイツ、チェコ、ベルギー、オランダ、イタリア、フィンランドの都市ではもっと急速な減少が見られるという。しかし、原因は分からない。英国のインディペンデント紙が伝えた。 First they disappeared from Britain. Now Europe's house sparrows have vanished,Independent,4.19
 http://news.independent.co.uk/environment/article358584.ece

イギリスのイエスズメの数はこの15年で90%減ったと信じられている。その理由については、多くの説があるがはっきりしていない。この17年で20万ー多分、10分の1ーのイエスズメが消えたパリの謎は特に深い。ここでは、様々なエキゾチックな鳥が増えているという。

自然史博物館の研究者は、何らかの病気のためなのか、生息地が減ったためなのかなどと答えを探している。 鳥類学者は、他の鳥の数と種の増加が営巣の場所と餌を食べる機会を減らし、また建築規制の強化が巣作りに利用する割れ目を閉じてしまったのではないかと言う。さらに、パリにおける猫が増加しており、その餌食になる鳥が増えている可能性もある、また移動電話からの電波とか、車による汚染のせいではないかと言う人もいる。しかし、それでは何故スズメだけが影響を受け、他の鳥に影響がないのか説明できない。

同様なパターンはヨーロッパ全体でも見られ、ハンブルグでは過去30年に50%のイエスズメが消えた、プラハでは60%も減ったという。
イギリスでは、他の鳥による駆逐、農薬、気候変動、家屋の改善など、原因をめぐる多くの説がある。デュ・モンフォート大学の研究は、昆虫の減少がスズメの飢えにつながっていることを示唆している。この影響はパリやヨーロッパ中で見られるという。

いずれにせよ、人々の住居近くで長年にわたり人間と共存してきたスズメのこのような減少は、我々の住居環境に馴染みのない、あるいは不気味な雰囲気をもたらす。数年前にフランスの山間地を訪れたとき、鳥の姿が滅多に見えず(目立つのは教会広場の鳩ばかり)、その囀りも ほとんど聞こえない(気づいたのは非常に辺鄙な山奥の1ヵ所=コンクにおいてだけだった)のに異様な感じを覚えた。こころなしか、東京郊外のわが家の周辺のスズメも大きく減っているように思われる。大樹の葉陰のスズメの大集団のうるさいほどの大合唱も、近頃聞いたことがない。

フランスの鳥類保護団体会長は、スズメ(moineau)が英国のスズメ(sparrow)と同じ運命を辿るのではないかと恐れている。「すべてのシグナルは赤だ。イエスズメは1万年ものあいだ人間と共生してきた大変に象徴的な鳥だ。アオガラのように魅力的ではないが、生物多様性のために生き残る権利がある」と言う。しかし、スズメの減少が持つ意味はこれだけでは説明できそうにない。人間とスズメの共生にはどんな意味があったのだろうか。原因は分からないが、人間はかけがえのない何かを失いつつあるようだ」 
農業情報研究所06.4.21(引用)

現在日本に生息するスズメの個体数は1800万羽ほどで、1960年代に比べ10分の1ほどに激減してると環境省が発表しました。(2010.4)スズメは大きく二つに分けられている。

「ニュウナイスズメ(入内雀)は、スズメ科の鳥類。民家近くに生息するスズメとは対照的に、林や森などを好む。全長約14cm。雄はスズメに似ているが頬に黒点がなく、頭部と背面はスズメよりもあざやかな栗色をしている。雌は薄茶色で、太い黄土色の眉斑が目立つ。日本では主に北海道の平地の林や本州中部以北の山地で5月から7月にかけて繁殖し、関東地方以南の暖地で越冬する。繁殖期以外はニュウナイスズメ単独種で群れをつくるが、少数の場合はスズメの群れに混じる」(引用)

50年数前のスズメ、今日の10倍の1億8000万羽とはすごい数だったが、あの当時はいたる所にスズメはいた。茅葺の屋根や桑の木の祠にと初夏、新たに誕生した子スズメの巣立ちは足元に回りつくほどだった。遠い昔のことになってしまった。現在1800万羽はあの頃から比較して90%減とはいうが、実際はもっと少ないのではないのか。環境省発表の1800万羽も推測数でしかない。

この時期の野鳥は5日ほど前、南に向かうガンの群れを見送った。伊豆沼の方面に向かうのだろうか。10月の初め伊豆沼周辺をドライブしたら多くのガンの集団に遭遇した。まだこの周辺は稲刈りが始まったばかりだった。ガンの群れは稲刈りを早くと催促しているようにも見えた。


 伊豆沼近く 田んぼのガン 2013.10.3

自宅周辺の野鳥は今のところカラスは元気だ。静けさの中に思い出しように飛び回るカラス、他の野鳥のいない土壇場なはずだがあまり生彩がないようにも見える。なんとも微妙な風景。人間の驕りが自然体系を崩してしまったのだろうか。
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現代の「稲作御法度令」廃止の波紋

2013年12月15日 | 農業
昭和45年から始まった減反政策を今度は廃止する案が出ている。平成13年に私はハガキの「河鹿沢通信」59号を発行した。
河鹿沢通信59号の「稲作御法度令」は藩政時代のオフレ(御触れ)をまねて作ったものだ。当時町から各農家に配布された通知書の内容を皮肉ったのが初めのオフレで、町を「稲川米取締方」としてこの通知を解釈した。一度は割りあてた減反33.16%を作況指数調査時点で100を超えた場合にはさらに、各農家は稲の青刈り等で対処せよとのことだった。豊作になれば33.16%以上の減反を申し渡すとのバカげた通知書で、当然集落で混乱がおきた。町は通知を出すだけで子細は集落で対処せよというのだから傲慢な通達だった。そのことをハガキ通信で藩政時代の「御法度令」並みとして発信した。結果的にはこの年の作況は100に至らなかったので、収穫前の稲の青刈りはせずに終わった。しかし、この通達は多くの農家の尊厳を傷つけたことを行政関係者は理解していない。


ハガキ「河鹿沢通信」59号2001.4.20 コピー

このたび発表された5年後に「減反廃止」の報道に展望が見いだせない。13年前の前記の「河鹿沢通信」59号の内容とほとんど情勢が変わってきたとも思えない。今回の政策転換に各新聞は以下のように報道した。

コメ政策転換/5年後の農の姿が見えない
政策転換というからには、現状否定にとどまらず、新たな政策で目指す目標を明示し、それに至る手だてを体系立てて整えてしかるべきだ。それでこそ、国民の理解と納得が得られるというものだろう。政府が決めた新しいコメ政策はどうか。40年にも及ぶ生産調整(減反)を、5年後をメドに廃止することを掲げた。現行の補助金を大きく見直すという。
 、、、、、、、。
減反廃止までの新政策の目標は、大規模化の推進と主食用米偏重からの脱却にあるらしい。
減反参加を条件に水田10アール当たり1万5千円を支給する定額補助金を来年度から半分にする。メリットを半減させ高齢・兼業農家らの離農を促し、担い手に農地集積を図る狙いだ。
 、、、、、、、。
政府は6月決定の成長戦略で10年後に主に大規模経営体が全農地の8割を担うとの目標を掲げたが、5年後の目標はないからだ。
、、、、、、、、。
稲作は他の農業と違い、大規模農家独りでは立ち行かない。水田農業を維持するのに不可欠な水路やあぜの管理は兼業・零細農家らの協力が要る。
(河北新報 2013年11月28日)

「減反と高い関税で米価を下支えしてきたことが、消費者のコメ離れに拍車をかけた。じり貧に歯止めをかけるには、減反廃止、関税引き下げへとかじを切り、中核的な農家に絞って所得補償をする仕組みに改めていくしかない。(社説)減反「廃止」 これで改革が進むのか (朝日新聞 13.11.29)

「日本農業の基本政策として40年以上も続いてきた減反だが、兼業・小規模農家の保護が、結果的に農村の疲弊を早め、耕作放棄地を増やしてきたのも事実だ。廃止は時代の要請でもあり、実施に移す中で再び農家の横並び保護策になるようでは本末転倒だ」(減反廃止と補助金新たなバラマキとするな MSN産経ニュース 13.12.1)

「農地の大きさがコストを左右するコメ」だ。「競争を避けて、小規模の兼業農家まで守る・・・護送船団方式を見直せば、競争で行き詰まるコメ生産者が出てくるはずだ」。「農地の規模拡大や集約を後押しするために、農地法は、企業による農地所有の解禁を含めて抜本的に見直す必要がある」という。(日本経済新聞) 13年3月4日

地方紙の河北新報がより農業、農村を分析しているように見える。それにしても中央紙大手紙報道は相変わらずだ。農村、地方の衰退はこれらの報道姿勢が作り出した側面が大きい。不遜な姿勢はむしろ激しく大げさになってきた。「減反廃止」によって自由競走が促され、小規模農家が駆逐されて農地が「やる気」のある農家(企業)に集積され、稲作の競争力強化が進むというのだ。面積の小さな農家を「やる気のない農家」と言い、農地を手ばさないから規模拡大ができない。小規模農家の存在が日本農業の展望をなくしているというのだ。中央大手紙の「バラマキ農政」批判はいつもと変わらない。

この指摘は50数年前制定された「農業基本法」以降ほとんど同じ路線だ。
2010年農業センサスによれば、日本の総農家戸数は252万8000戸、89万6700戸が耕地面積30アール以下。農業所得より農外所得が多い農家は95万5000戸と云われている。計1,852,000戸総農家数の73%にあたる。地方の社会、経済はこれらの農家なしに成立しない。大店法以来、郊外型のショッピングセンターで今まであった市街地中心はさびれ、どこもかしこもシャッター通りに変わってしまった。活力の低下した各地での雇用先は、最低賃金以下の勤め先もなかなか見つからない。

索漠とした社会環境の中で多くの兼業農家は作物を作ることが一つのいきがいにもなっている。ここからの生産物は販売目的ではなく、ほとんど自家用で一部親戚縁者への縁故米となる。かつてからあった「八百屋」さんには打撃だったが、「農産物の直売所」が各地に生まれ活性化している。直売所に出す人も出てきた。地産地消で新たな交流も生まれてきている。だから日本の総農家の73%の多くは、極端な米価格にならない限り米つくりからは離れない。現実を直視しない中央のマスコミの報道はまさに「マスゴミ」に値する。

規模拡大を阻んでいるのは「やる気」のない零細農家のせいではない。諸外国と比べて高いという米の値段は規模が小さいからではなくて、生産資材、燃料、農機がそれらの国と比べて倍から3倍もする価格だ。現在の「米の価格」は今から39年前(オイルショック前)と同価格だ。そのことを多くの人は考えたことがあるでしょうか。今日の資材等の価格で39年前の価格(農家手取り価格)で販売しているのだ。当時の大卒初任給が70,000円だったことは以前のブログでも指摘している。この米の値段が、国際価格より高すぎるから規模拡大してもっと安くせよ等と言われても、挑戦する新規就農が増えないのはむしろ健全なことだかもしれない。

平成25年12月12日公表の農水省の平成24年度米生産費を見ると米60キロ当たり物財費9672円、労働費4108円で計13,780円。その他資本利子、地代等参入で合計15,957円と公表している。多くの農家は農水省公表の生産費調査よりはるか安い価格で販売していることになる。(平成25年産あきたこまちは11,737円)現在の価格では正当な労働費は得られていない。農家は労賃を犠牲にして成り立っているともいえる。

私の手元にある資料でもう少し詳しく検証して見ると次のようになっている。平成25年産の米値段は秋田県では昨年産より玄米60キロ当たり2000円安11,500円(私の場合JAカントリ搬入なので11,737円、一キロ当たり195.63円が仮価格として支払われた、以下はこの価格での試算)。この価格の後、平成26年産が出回る来年の秋までに市場価格の動向によって最終価格が決まる。ちなみに平成23年の仮渡価格は一キロ195.63円で最終価格は217.30円だった。60キロ13,038円。

現在米の小売価格は店頭で10㌔4000円前後が主流だ。仮に4000円で試算にみると次のようになる。白米10キロは約11キロの玄米(精米歩合90%)平成25年産の玄米価格キロ195.63円だから
白米10㌔は玄米で11キロの価格は約2152円となる。この価格にJA、全農の手数料、運送料、卸業者手数料、精米代、包装等小売店の諸経費に手数料などが加わって小売価格10㌔4000円となって一般の店頭にでる。消費者の皆さんが店頭で払う4,000円の中から農家にわたるのは約2,152円。小売価格の50.4%が生産者へ残りの49.6が業者等へ渡る仕組みになっている。10キロの白米換算で農家はこの価格の中から肥料、農薬等購入費用1,454円、農機等償却909円等となっている。農水省の生産費調査と比較しても赤字。1~2haの経営でも物財費はほとんど変わらない。10haの規模の経営になれば、生産費がいくらか安くなるのは労働費や償却費等で、この経営も60キロ当たり10,000円の値段に耐えられる経営はほとんどいないだろう。

10㌔4,000円の白米の農家に入る米代金は平成25年秋で2,152円。毎日食べるごはん一杯は約70グラムと云われているから、米の値段は28円、生産者にわたる価格は15円にしかならない。「鮨」のシャリ一個平均22グラムと言われてる。「米が高いので」いずれ18グラムまで落とさなければ等と業界関係者がささやかれ、農家は規模拡大してもっと米の値段を下げてほしいとの要望が強い。と先日の講習会で話す講師がいた。先ほどのごはん一杯の計算をそのままあてははめれば「鮨」のシャリ平均20グラムとして8.5円。農家の手取りはは4.6円、仮に「鮨」の米が一般米より高級で倍したとても農家に入る価格は、「鮨」一握りあたり米代9.2円。この価格が国際価格よりベラボウに高いから規模拡大して価格を下げよ、などといわれて米を作る人は極限られた人しかいないだろう。一人前の「鮨」の価格は地域のよってまちまちだとしても、現在「鮨」一握の米代が10円にも満たない価格だ。一人前分(10握り)でも100円以下だ。「丼」の米代は茶碗2杯としてもせいぜい56円生産者手取りが約30円、仮に高級品質の米だとしても1.5倍としても85円で、農家手取り価格が50円にもいかないことを意識して「寿司屋」、「レストラン」等で食事はしないだろう。

自動販売機の缶コーヒーが120円もしている時に一握りの鮨の米代8.5円、生産者手取り分米代金が4.6円という現実の中で、まだ国際価格と比較して高すぎる米の値段だから、規模拡大して米価を下げろ等と言うのは生産者に対しては暴論でしかない。新規就農に青年がいないのはある意味では当然な感覚だ。「うまくて、安全で、さらに安い」食べ物の神話はなかなか誰でも手の届くところにはないはずだ。少なくても生産者の地位が現状よりも評価されない限り、神話に近い農産物は生まれない。そのうちに多くの食卓は安全で(?)安い遠い国からの食糧で溢れることかもしれない。もし仮にそうなったとしてもほとんどの農家は困らない。なぜなら自分と親族と、もし余裕があれば欲しい人のための食べ物は最低確保できる。

肥料、農薬、農機具等の価格は国際価格の数倍。官僚を始め公務員の給料は国際標準の何倍だろう。都市と地方の労賃単価もへたすれば半分の地方から見ればあきれてしまう。別の言い方をすれば世界一の給料のこの国で国際価格並みの「米」を平気でいう輩に国産の米は遠慮してもらいたい気分さえある。1%の幸福のために99%が犠牲、奉仕される市場原理とやらはいつまで続くことか。99%中でも序列争いと優越感の地位確保に躍起となってしまった社会はいびつだ。2001年4月20日発行の「稲作御法度令」ではないがこんなバカげた政策の中で家族と親族と、そして欲しい人のためしか作らない米つくりはこれからも続く。

不遜な政権は先の選挙でも一言もなかった原発推進、TPP加盟も大手を振って叫んでいる。
今の減反廃止は、TPP加盟による関税廃止を農業関係者に飲んでもらうための交換条件作りがネライが明白。減反廃止をエサに新たな補助金制度を作ると言って、農家を分断する。5年後の減反廃止は、関税廃止に10年までの時間を条件整備の期間となる。農業従事者の高齢化が叫ばれ新規参入のアドバルーンのどれほど効果があったのだろう。これからも農業従事者の高齢化は変わらない。毎年退職者が新規就労をされているからだ。学卒の新規就農でも奇跡に近い条件でしか展望など見つけることは不可能に近い。6次化等と叫ぶが実態は自立にはほど遠い。まさに市場原理に基づけば倒産の危機は常態化する。農業基本法農政以来50数年、規模拡大農家の犠牲者は数限りない。各地を回ってみるとアカサビの牛舎に豚舎、倒れかかった農舎、不釣合いなサイロ、雑草に覆われた農機具、廃園の果樹畑には思わず目を背けたくなる位の無残な姿が、各地に広がっている。近代化の甘い政策誘導で自立を追い続け、その先に破産、倒産のはてにこの世からリターンした挑戦者は各地に数えられる。廃墟となった施設は振り返ればひとつ、一つに朝な夕なにそれぞれの営みがあったのだ。

国際価格より高いといわれる中で、先の事例の農水省の生産費調査価格以下で挑戦するものが多くなることは考えられない。海外との競争に耐えられるような強い農業にするなら肥料、農薬、ガソリン等物財費も海外並みならもっと別な方向が探れるかもしれない。現在の状況の中で米価が下がり続け、今のわずかな補助金が減れば、競争力強化どころか規模拡大の農家がいち早くリタイヤする。稲作農村の疲弊と耕作放棄地の増加に拍車がかかるだけである。中山間地の多い土地条件の中で、現在よりも生産費を大きく引き下げられるような規模拡大はかつての地主、小作の関係が生まれれば例外的に可能かもしれないが、現実的とは思えない。

朝令暮改の政策は耕作放棄地を山間部から平坦部へと拡大し、加速させようとしている。

農業補助金は日本に限ったことでもない。EUは主要作物の関税や価格支持政策を維持した上に、時に農家所得の100%にも達すると直接支払補助も続けている。アメリカも穀物農家を主な対象に、毎年100億ドル(1兆円)を超える連邦直接支払を行っている。EUでも、アメリカでも、いまどき「補助金に頼らず、自立できる」農家などほとんどない。このような意味でも、我が国の中央各紙の主張は、実態を歪曲した報道になっている。(一部引用)

フランスでは規模拡大路線を見直し別の道を歩みだしたことは先のブログで紹介した。フランス「農業未来法」(2013.5.23)フランスのフォール農相が11月13日、かねて予告していた「農業・食料・森林未来法案」を閣議に提出した。この法案は2014年1月に国民議会(下院)に上程されるという。







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追想 土くれのうた(NHK あすの村づくり)

2013年12月07日 | 足跡
「土くれのうた」は、1977年(昭和52年)10月9日朝6.00から7.00NHK総合テレビ「あすの村づくり」で放映された番組である。収録はNHKで、10月6日午前10.00から昼をはさんで午後2.00頃までだった。出演者は私の他、山形県上山市の木村迪夫氏、岩手県花巻市の瀬川富雄氏の三人 他にギタリストの萩津節男氏にアナウンサーの塩川さん。

山形の「農民詩人」木村さんとは1972年11月、国交回復直後に全国から15人の仲間と一緒に中国へ約一ケ月訪問した。中国訪問前から「やまびこ学校」で有名な佐藤藤三郎氏と一緒に私を「農に生きていく」ことを決意させた恩人でもあった。この尊敬する二人が訪中団員であることを知った時の歓びは、言葉で言い表せないくらいの感動だった。木村迪夫氏は高卒の頃から詩作活動に入り、山形の真壁仁氏が中心の農民の文学運動誌『地下水』の中核だった。しかし、瀬川富男さんとは初対面だった。番組での意見交換で、自分が求めていた農の姿勢と共感できることが多いことを知らされた。

この企画、NHK秋田局から東京に戻ったPD(ディレクター)の橋詰晴男さんから連絡のあったとき、すかさず断わった経過があった。素人真似事のつぶやきの自分と、地域で長年詩作活動している大先輩との同席等は足がすくわれるような出来事で、NHKの橋詰さんからの要請には断り続けた。他の二人が快く同意の中での断りは企画が没になる寸前だったと云う。橋詰さんとは氏がNHK秋田局に在籍してるころからの知り合い。とうとう根負けして湯沢駅から夜行で渋谷のNHKまで来ることになってしまった。

1973年11月19日「減反詩集」放送、その前が原田鮎彦氏がNHK秋田でラジオで語る「むらの詩--詩を通して透視する秋田農村の課題」、1973年9月に秋田文化出版社から「むらの詩」が出版され、同時期、朝日新聞秋田支局の清水弟記者が「出稼ぎを拒む」問題をシリーズで連載。その中で出稼ぎしない青年として「農民詩人」の名で紹介されてしまった。(朝日新聞秋田版「出稼ぎを拒む」4(1974.1.10)朝日新聞秋田支局の清水弟記者からみれば原田鮎彦著の
「むらの詩 --詩を通して透視する秋田農村の課題」出版、NHKの「明るい農村」で放送された「減反詩集」後の企画の「出稼ぎを拒む」シリーズだったから、もしかしたら「農民詩人」との紹介は当然だったかもしれない。

しかし、朝日新聞秋田版で「農民詩人」との記事に驚きで硬直してしまった自分がいた。20歳の頃農民運動と生産活動の両立は過酷で、両立できそうもない先輩たちの諸活動に反発した。その時一人の農民として生きてくことを決意した。決意したが周囲ははたして認知してくれるまでひたすらに日常を暮らすことを考えた。ただ日常の生活に流されるばかりでは現実より良くならない。当時衝撃的な岩波新書、大牟村良著「ものいわぬ農民」に刺激されていた自分は、もしかしたら何かを発言しながらただひたすらに「農民」でありたいと考えていた。その決意から約10年後「農民詩人」の名がついたことは衝撃的なことだった。「農民詩人」の名がついて、地域から「農民」としての認知が遠のくのではないかとの不安な日々だった。掲載後清水氏に抗議した覚えがある。振り返ってみてもなぜそういう感覚に陥ったのか不思議な感覚だった。あの記事掲載以降、元朝日新聞清水弟氏との交流は友人として40数年も続いている。詳細は2013年1月19日ブログ「NHKテレビ放送開始60周年関連」で紹介。


「むらの詩-詩を通して透視する秋田農村の課題」秋田文化出版社 1973.9.1 (クリックで大)

「農民詩人」の名は重かった。湯沢、雄勝中心にむのたけじ氏、西成辰雄氏も名を連ねる「秋田県農村文化懇談会」があって末席を汚していた。この会の中核に詩人グループ「第三群」があって刺激をうけていたが、私の日常のつぶやきは詩人集団に加入できるレベルにほど遠い存在。「第三群」メンバーの作品は「文学の村」誌等で多くが見ることができた。そのような経過はあったが、私のハガキやつぶやきに「農民詩人」の名は重いというより呼ばれた衝撃の方が大きかった。

当時の経営、「米と酪農」は圧倒的な出稼ぎ最盛期の中で、私の一冬の収入は出稼ぎ者が得る収入の一割にもならかった。コメの値段はこの年60k9,030円。乳価安の中で1967年8月から始めた酪農も搾乳牛がやっ5頭となり仔牛と育成牛の8頭の飼育。収入は無の状態。参考に酪農組合からの1977年10月の牛乳代金は32,033円、購買未収金32,405円だった。購買代金が多いのは牛乳量が少なく、搾乳牛になるまで育成牛や仔牛のエサ代が大きかったからだ。

米と酪農を柱にして出稼ぎはしないと言いながら収支はゼロ状態。いくらか余裕が出ると施設、設備の増設、牛の増頭へ等の繰り返し。「米と酪農」で自立を等と方向見出すまで高卒(定)後5年も遠周りで決意、一頭の乳牛導入から10年経過しても自立にほど遠い状態。

「出かせぎ拒否」と云ってもぐらついてる自分がいた。
当時の出稼ぎの人たちは多い人で月150,000円を超えてた人もいた。中には請負で作業、一日二人分の仕事をした人もいたそうだ。使う方では長時間労働を求める出かせぎ農民は重宝だったろうが、反面だから事故も絶えることはなかった。冬の村は多くの出かせぎ者でカラッポ状態。出かせぎ拒否で自立を考えても現実は過酷だった。牛をやめて出かせぎにの誘惑が棲みついていた頃だった。そんなときの「農民詩人」の名は極めて重いもになっていた。

渋谷のNHKセンターでのテレビの収録は過去にもあった。「減反詩集」放映前の昭和48年だったろうか。当時村から出稼ぎに行った青年が就労初日に事故で死亡。このニュースが流れてびっくりした。出稼ぎに発つ夜行列車に遅れると自宅前で別れたばかりだったからだ。そして出稼ぎ先で事故死の取り扱いは、あまりにもひどいものだった。わずかな弔慰金ですまそうとした。

若さの勢いで「秋田県出稼組合」の指導で東京地裁で裁判に持ち込んだ。裁判闘争の直前に「村の女は眠れない」で有名な詩人、草野比佐男氏と大学教授で、NHK教養特集での一時間番組「出稼拒否への道」の収録にNHKに来ていた。
福島県の阿武隈山地で農業をしながら詩作やエッセーを発表する草野比佐男氏に会える楽しみがあったし、「出稼ぎ」問題での討論で裁判最中の身にとっては草野氏と語らえるのは大きなチャンスでもあった。当時農民詩人草野比佐男氏の発表した「村の女は眠れない」は大反響だった。
農民詩人などと云われる前で「農民詩」の枠外の自分には、ほんものの農民詩人で農業評論家の草野比佐男氏と同席できる喜びが大きかった。

それしてもこの「土くれのうた」へ呼びかけられて決断までの経過は重たかった。木村氏は面識があるにしても、瀬川富男さんを始め、東北で農民詩人と呼ばれている人たちを、松永伍一著「日本農民詩史」全三巻五分冊 法政大学出版局 1967.10.15~1970.7.10で知っていたに過ぎない。

「土くれのうた」の冒頭は木村迪夫氏の代表作「おはんのうた」の朗読から始まり、木村迪夫氏の紹介。続いて自分の番になった。代表作は「のぼるよ泣け」をあえて変えて「ババひとりの冬」を読み上げた。瀬川富雄氏は「種モミ」を朗読紹介。それぞれの詩の朗読のバックにギタリスト萩津節男氏の音楽が流れ、3人の日常と立ち位置のビデオがながれるようになっていた。

3人の詩と地域での立ち位置の紹介が終わると、それぞれの詩作の底辺にひそむものを探る、という進み方で木村氏は「20年間、詩を書き続けてきた。百姓の傍ら、自分の生活史、精神史を言語に託すことによって生の証を立証することに努めてきた。だから、「迪夫さんはいい趣味をもっているね」とのお世辞を投げかけてくる人に対し、いい知れぬ怒りを覚える。私にとっての詩は苦渋に充ちた「生の証」に他ならない」と語った。
瀬川氏と私もこの発言に共鳴した。私の場合農民詩などとという分野の末席で恐縮している立場ながらも、圧倒的な時代の荒波でモンドリ打ちながら、抵抗し生き続けている多くの民衆の記録は書き留めておかねばならないとの想いが詩みたいな形にあった。

では何を書くのかで瀬川氏は語った「自分は農業の専門家であることの自覚と決意。農業には人間の生きる原型がある。だから、生き方が問題だ。機械化農業を拒み、猫の目農政に抵抗し、村で反乱を起こし土に生きている。この怒りをノートにたたきつけている」と力強い。
書くことに木村氏、瀬川氏とほとんど共通点があった。私の場合は詩を書き続けるなどというものでもなく一年で2回ほど年賀状、暑中見舞いの形で知人、友人に送っていたのを「ハガキの弾丸」などと一人で位置づけしていたことを話した。

もうビャッコ我慢してけれ

暑ぐて 暑ぐてひでぇのも
もうビャッコ我慢してけれ
稲の穂っこ出て 花っこ満開になったから
米の歴史 それぁ何百年何千年も前から
増産するごとだったべぇさ
それが 今年さなったば減反しろどォ
「健康な稲つくり運動だ」
「750キロどり稲作だ」
いうもんだから
皆してスピードだして頑張ってたなだぞォ
それがしゃ 行先も教えなえで
曲がれだの 止まれだのという
そんたわけののわがらなぇ話なぇべと
お天道様にさ訴えただば
今年の天気 まがせておげと言った
それで多分 こんたに暑ぇなべと思う
んだがら不調法な話だべども
もうビャッコ我慢してけれ
悪りなぁ

    1970年 盛夏

ハガキの弾丸の内容にはふれなかった。それぞれの地域で農への取り組みは多くの共通点を再確認でき、テレビ出演拒否し続けたことから解放されたさわやかな気分は、忘れられない想い出になっている。番組の最後は3人の作品の朗読。また萩津節男氏のギターをバックに私は「出稼ぎをやめてけれ」、瀬川富男氏は「農による拒否」、木村迪夫氏は「雪」を語りかけるように読み上げた。

「出稼ぎをやめてけれ」は、地元青年の事故死の裁判中に、同じ町の先輩が出稼ぎ作業中に事故死した。いたたまれない思いから訪問。息子の事故死で疲れ切っていた家族にとっていきなりの訪問にとまどいがあるように思えた。できればソッとして欲しいと訪問を拒絶されたが、数回目からはいろいろと話してくれるようになった。そのことを書き留めた悲しい怒りのつぶやきが「出かせぎはやめてけれ」になった。この年秋田県の出稼ぎ死は、その年の交通事故死よりも多く、99人にもなっていた。

出かせぎはやめてけれ

降る 降る
まいにち まいにちの雪
豪雪だと 六十年ぶりの大雪
わずか雪の晴れ間を
若者のいない行列がゆく
真新しい雪道を
年寄りの無言の足跡ができる
東に鍋釣山 国見岳 大森山
西に雄長子内岳 雌長子内岳 朝月山
かかえきれない雪を背負って
空白の重い 稲川盆地
疲れた黒い弔いの行列が過ぎて
新しい雪道がまた消えてしまうと
百五十三年ぶりに鳥海山が噴火した

出かせぎはやめてけれ
今年みだいな大雪だば
年寄りと子供だけだば
心配で 心配で
やめでけれ あどはやめてけれ

田圃一町三反歩 畑三反歩
これだけでなば暮らしていがれねぁどて
出かせぎ始めた息子 十三年目
人の話だば
今年限りで出かせぎやめる
そう言って出ていった

家など新しぐなくてもえ
雨漏らねばそれでえぇ
出かせぎやめでけれた
ああ その息子死んでしまた
埼玉さ行って死んでしまった
電話のケーブル工事で死でしまった
やっと保育所と一年生のわらし残して

昭和三六年 初めて東京 小松工務店に出かせぎ
同 三七年 米がダメだと 再び小松工務店
同 三八年 後継者難だと 埼玉町田建設へ
同 三九年 米不足だと 埼玉ホンダへ
同 四十年 冷たい夏 本田技研へ
同 四一年 稲作グループ誕生 埼玉木村屋へ 
同 四二年 10アール12俵達成 東京三協土木
同 四三年 今度は米はいらねぇという また三協へ
同 四四年 米価ストップ 東京清水工業へ
同 四五年 減反強制 千葉高元建設へ
同 四六年 ドルショック またまた清水工業へ
同 四七年 米不作10アール8俵 埼玉国際無線へ
同 四八年 農業見直しだと 国際無線へ

農業基本法 構造改善事業 選択的拡大
専業経営 規模拡大 農工一体 総合農政
減反政策 農振法 農業見直し論

幼い兄弟は無心に虹を追っかける
観音様の杉の上に虹を見つけて
雪原をどこまでも走り続ける

虹は追えない 追われない
追えば泥だらけ 傷だらけ
虹の根は追えない 追われない
虹の根に宝などはない
出かせぎ 出かせぎ十三年
十三年、、、、、、

読み上げて汗びっしょりだった。息子を亡くした父親の悲しみを柱に、その時の閃いたやるせない想いを素直な気持ちで表現した。13年間の出かせぎ先は創作。一人の壮絶ともいえる「生」の表現に消化不良の感は否めない想いが強かった。亡くなった一つ違いの先輩とは当時の青年会、農近ゼミの仲間だった。出かせぎに行きながらも「農での自立」語ってくれたあの時代が想いだされる。

自分の手元から発信したのは数枚の「暑中見舞い風ハガキ」と「年賀状」に「のぼるよ泣け」、「ババ一人の冬」、「出かせぎはやめてくれ」だけだ。20代の頃の未完成の走り書きは大学ノートに埋め尽くされてはいるが、「土くれのうた」収録放映後、私は「詩」のような日常の「つぶやき」を記録することができなくなってしまった。

未完の「減反詩集」はいつ、、、と云われ続けながらも。







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小南さんと「まんさくこけし」 

2013年12月01日 | 足跡

「木地山系こけし」工人小南三郎さんが、このほど30数年間の作品の中から選んだ写真集「まんさくこけしと達磨」を出版した。
私は小南さんのことは20代のころから知っていたが、本格的な交流は村議、村長等氏が公職から離れてからだから30年ほどになる。小南さんは先のブログにも取り上げた「鶴田知也」氏や「伊藤永之介」氏との交流があることも先輩たちからよく聞いていた。


まんさくこけし 写真集「まんさくこけしと達磨」から

昭和40年前後に皆瀬村に同人誌「ごとく」があった。友人を通じて拝見していた。ガリ版刷りの小冊子に溢れる皆瀬村の発展と、改革を呼びかける内容に隣村の住民として触発されていた。昭和36年、農業基本法制定以降農業、農村はそれまで経験したことのない変貌にあった。出稼ぎの増加、離農などで地域の崩壊傾向の中で「農業で農村での自立」を旗印に、「村づくり、町づくり」奔走するグループ各地に生まれた。そんな中で「ごとく」の発刊は皆瀬村内外で大きな反響の中にあった。その後、中核の構成員数人が大潟村の「八郎潟入植」と進み「ごとく」誌は廃刊となった。小南さんはこのぐるーぷの中心だったと記憶している。

小南さんは村議5期20年をつとめ、50歳で勇退。その後村長選への立候補した。立候補は今振り返ってみてもユニークだった。人づての話だったが氏は村長選へは立候補届を出しあと街頭からも叫ぶこともなかったと云う。村議選もそのスタイルだった。それでも温厚な氏は多くの支持を得ていた。確か三回目だったと思うが見事村長に当選し一期務めた。

当時出稼ぎの最盛期、1980年出稼ぎ先で「東京こけし友の会」を訪問、「こけし」つくりに入ったことが、写真集「まんさくこけしと達磨」のあとがきで記されている。
1981年4月、NHK朝の連続小説「まんさくの花」が始まった。「まんさくの木」は栗駒山麓の豊富にあり、山仕事をしていた小南さんはその木で胴模様にまんさくの花をあしらった「まんさくこけし」を発表した。NHK朝のテレビ小説「まんさくの花」でも紹介され、またたく間に人気を得た。私は里山の「まんさくの木」は知っていたが、「こけし」の素材になるくらい太い「まんさくの木」等想像することもできなった。深山には樹高が5mにもなる「まんさく」の大木があることを初めて知った。


写真集「まんさくこけしと達磨」から

「伝統こけし」は 師弟相伝の形でその製作技術や、形、模様等が一族や弟子に伝えられて外にない、その土地、その家系に定着した独特のものが伝統こけしと言われている。私の家系に「木地山こけし」に精通した叔父がいた。若いころ「こけし」の道を志していたという叔父との会話はいつもこけし談義。
叔父(1921-2013)は、晩年、木地山系川連こけしの代表だった阿部平四郎氏(1929-2013)と若いころ同時期、一緒に高橋兵次郎氏に弟子入り木地を学んだという。阿部平四郎氏は就業後、独立して木地業を始め1958頃から正式にこけし製作を始めた。一方、叔父は高橋兵次郎氏に弟子入り後、当時「こけし」つくりで生活の目途がたてられず「こけし」の道を断念したと語った。

師匠の初代・高橋兵次郎氏は明治31年に木地師・徳左衛門の二男として旧川連村に生まれ、大正元年から父について木地を習った。こけしは昭和7年ごろから始め、作品は昭和8年の橘文策氏の頒布品から知られるようになった。戦後は昭和30年ごろから本格的にこけし作りが復活し昭和49年に77歳で亡くなっている。「木地山系川連こけし」の重鎮だった。高橋兵次郎氏の長男は雄司氏、現在木地山系川連こけしの欠くことのできない代表の一人で、今日も活躍している。

叔父は高橋兵次郎氏に弟子入りで木地を学び、昭和30年代後半から川連地区で盛んになった「秋田仏壇」産業の中で、厳しい修業で学び刻まれた技術を生かし、仏壇に欠かせない「ろうそく立」等の分野に進んだ。私との「こけし」談義で必ず出てくるのが木地のことが主で、「こけし」や「ろうそく立」のくびれの部分は共通する。木地山系こけしは一本の木で造られ、首の部の仕上げが重要な要素だといった。形はもちろんのこと「ろくろ」で仕上げの際、ノミの絶妙な切れ味が命だと聞かされた。ノミの研ぎ一つで作品が決まる。「こけし」は木目を生かすのは当然としても微妙に違うその形を、何本かのこけしを題材に話してくれた。
叔父はこけし工人にはならなかったが、その後高橋兵次郎氏から続く技法を後輩に伝授した。教えを受け、木地山系こけし工人になって現在も活躍している人もいる。

「伝統こけし」は師弟相伝の形で、師匠に2年以上弟子入りして修業することが、伝統性を持つこけし工人として認定される条件ともなっている。小南さんは「こけし時代」誌によれば師匠は「見取り」とある。この度の写真集「まんさくこけしと達磨」の中で、東京こけし友の会会長西田峯吉氏の紹介で阿部平四郎氏の門をたたいたが、弟子をとらない氏に断わられていたことを初めて知った。「まんさくこけしと達磨」によれば「こけし」に取り組む小南さんの探究、向上心は当時木地山系工人の代表だった小椋久太郎氏、工人宮原泰治氏、鈴木幸太郎氏から木地の指導、描彩は「東京こけし友の会」会長西田峯吉氏から細かな指導を受けたことが記されている。


私の小南こけしの一部 上の写真の前左側のこけしは、「むのたけじ先生農民文化賞受賞記念」(2001.12.16)祝賀会で参加者全員に提供された

私は「こけし」の収集家でもない。持っている「こけし」はほとんど「小南こけし」だけだ。それもほとんど小南さんから貰い受けたものだ。
小南さんの「こけし」は温厚な性格同様その表情にすべて豊かさがこもっている。代表作の「まんさくこけし」は当然として、近年の「ヒナこけし」に新たな分野を見出すことができる。そして小南さんの人柄が染み出た「達磨こけし」はすばらしい。


ヒナこけし 写真集「まんさくこけしと達磨」から

襟元が右と左、深めと浅めの襟元に雪国の厳しさを想い、この「ヒナこけし」に接っするとなにかホッとする。


達磨こけし 写真集「まんさくこけしと達磨」から

これらの「達磨こけし」は、一つひとつの表情に微妙な違いを発見できる。小南氏の社会派として不正を許さない誠実な生き方を学びうける。
伊藤永之介氏、鶴田知也氏、むのたけじ氏との交流路線の延長を通して、これからも減反廃止とTPP、不穏な空気の政治情勢に「達磨こけし」でカツを入れて欲しいものだとつくづく思う。

コメント (2)
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