我が家には古い土蔵がある。各地で解放されているような立派なものではない。140戸ほどの集落には現在20ほどの土蔵が確認される。
日常の生活で物置代わりのような存在で我が家の土蔵は築200年位と言われている。特に考えることもなしに今回、ほとんど入ることのない土蔵に入り粗末な引き出しに中、雑然と封書と一緒に巻紙の中に書家の書いたものが発見された。
達筆というのか書に疎い自分は読み下すこともできず、広げてみると一番最後に解説文があり、一茶翁の勧農詞とわかった。
残念なことに上部の部分が切れていて、どこを探しても切れ端は見つからない。
一緒の入っていたものから推定して、105年ほど前の明治38年から大正にかけての時期らしい。祖父が秋田.歩兵第17連隊除隊前後の25歳前後、曽祖父が50歳前後の頃と推定される。一緒に入っていたのは秋田.歩兵第17連隊入隊後のおびただし量の親子の手紙、同僚への手紙と同じところにあった。
一茶翁の勧農詞は著名な書家の筆で家訓としているところもあると言う。
その書は下記に
下記はその解説文である。
風流(ふうりゅう)を楽しむ花園ならで、後の畑、前の田に志し、自ら鍬を採りて耕し、先祖の賜ひし物と命の親とに懇を盡し、吉野の櫻、更科(さらしな)の月より己が業こそ樂しけれ。朝夕心をとめて打向な。菜種の花は井手の山吹より好ましく。
麦の穂の色は牡丹(ぼたん)芍薬(しゃくやく)より腹こたひあるかと覚ゆ。朝顔より夕顔こそよけれ。萩(はぎ)桔梗(ききょう)より芋(いも)牛蒡(ごぼう)に味ひあり。花、紅葉(もみじ)より栗柿は寶の植木なり。稲の穂波の賑々(にぎにぎ)しく、刈らぬ先より腹満(はらみつる)る心地して粟穂に馴(な)る。
鶉野辺(うずらのべ)の虫の音を聞くか面白く遠き名所旧跡より、近き田圃の見廻(みまわ)りが飽(あ)かす。松島塩釜の美景より鍋釜(なべかま)の下が肝要なり。上作の名剣(めいけん)より、鍬(くわ)鎌(かま)に調法なり、書画の掛物(かけもの)よりかけて見る作物の肥を油断せす投入(なげいれ)、立花(りっか)の巧みより、茄子(なす)大角豆(ささげ)の正風か味ふ處(ところ)多く、茶の湯、蹴鞠(けまり)の遊びより渋茶(しぶちゃ)を煎じて昔語りこそ嬉しけれ。
玉の䑓(うてな)より茅葺(かやぶき)の家に居が心易(やす)し、高根におらねば浮雲気(あぶなげ)となし、實義(じつぎ)を盡し、仁者に做(なら)ふて山地に木を植、智者の心を汲むて田の水加減を専らにし、珍肴鮮肉(ちんかうせんにく)の料理より、銭いらず獨酌(どくしゃく)か後の腹を病む気遣なし。
総て世の中は飛鳥の川の流れ、昨日の淵は今日の瀬となる如し、唐の咸陽宮(かんようきゅう)、萬里(ばんり)の長城も終(つい)に亡び、平相国(へいそうこく)の驕りも一世のみ。鎌倉将軍も三代を過ぎず。
北条、足利の武威(ぶえ)盡(つ)き、織田、豊臣の栄も一代時過(ときす)。世替(よかわ)りて誠に夢の如し。世に稀(まれ)なる珍味と舌の上にあるを知る、加羅蘭麝(かららんじゃ)の薫(かお)りも嗅(か)くうちのみ。楽は苦の基(もとえ)、遊興(ゆうきょう)は暫時(ざんじ)の夢。
他の富るも羨まず、身の貧も嘆かず。唯慎(ただつつしむ)べきは貪慾(どんよく)。恐へきは奢(おごり)なり。田地は萬物(まんもつ)の根元(こんげん)にして、国家の重寶(じゅうほう)なれば、父母の如く敬ひ、主宭(しゅくん)の如く尊み、妻子の如く育(いつくし)み、寸地をも捨てず、何處(いずこ)にても拓き鍬先(くわさき)の天下泰平、五穀成就(じょうじゅ)を願ふより外(ほか)更(さら)になし。
今年(ことし)米(ごめ)親といふ字を拝みけり
一茶翁 勧農詞
あの宮沢賢治の門下生に山形の松田甚次郎がいた。昭和13年5月に「土に叫ぶ」を発表。昭和53年9月に復刊された。当時復刊を新聞で知って手に入れていた。昭和2年「最上共働塾」の誕生と塾生活が詳しく書かれている。その中に一茶翁の勧農詞が出てくる。
「赤貧な塾生はいつも勧農詞を一緒に朗読して、明るい心になって精進した」とあり、勧農詞は、「山形県第一の大地主本間家のために書かれたもの」とある。
勧農詞は近年になって小林一茶の作ではなく、信濃の上伊那の歌人宮下正岑(1774⁻1838 江戸後期の歌人)によるとの説もある。
20年程前バブル経済の反省から、中野孝次著「清貧の思想」がベストセラーになり光悦、西行、芭蕉、良寛、兼好等の生き方を等して「生活は簡素にし、心は風雅の世界に遊ぶことが人として最高の生き方だとする」という。日本の最も誇る文化だと言われたことはまだ記憶に新しい。
勧農の考えは、年貢を徴収する立場から見れば農民をはじめ庶民の質素倹約奨励は当然なことであった。貧しい一般の人間にとっては質素倹約は日常の生活実態だった。ただ風雅の世界とは多くの庶民は別だったかもしれない。
一茶のこの勧農詞を精読すると何か現代につながるものが感じられる。
日常の生活で物置代わりのような存在で我が家の土蔵は築200年位と言われている。特に考えることもなしに今回、ほとんど入ることのない土蔵に入り粗末な引き出しに中、雑然と封書と一緒に巻紙の中に書家の書いたものが発見された。
達筆というのか書に疎い自分は読み下すこともできず、広げてみると一番最後に解説文があり、一茶翁の勧農詞とわかった。
残念なことに上部の部分が切れていて、どこを探しても切れ端は見つからない。
一緒の入っていたものから推定して、105年ほど前の明治38年から大正にかけての時期らしい。祖父が秋田.歩兵第17連隊除隊前後の25歳前後、曽祖父が50歳前後の頃と推定される。一緒に入っていたのは秋田.歩兵第17連隊入隊後のおびただし量の親子の手紙、同僚への手紙と同じところにあった。
一茶翁の勧農詞は著名な書家の筆で家訓としているところもあると言う。
その書は下記に
下記はその解説文である。
風流(ふうりゅう)を楽しむ花園ならで、後の畑、前の田に志し、自ら鍬を採りて耕し、先祖の賜ひし物と命の親とに懇を盡し、吉野の櫻、更科(さらしな)の月より己が業こそ樂しけれ。朝夕心をとめて打向な。菜種の花は井手の山吹より好ましく。
麦の穂の色は牡丹(ぼたん)芍薬(しゃくやく)より腹こたひあるかと覚ゆ。朝顔より夕顔こそよけれ。萩(はぎ)桔梗(ききょう)より芋(いも)牛蒡(ごぼう)に味ひあり。花、紅葉(もみじ)より栗柿は寶の植木なり。稲の穂波の賑々(にぎにぎ)しく、刈らぬ先より腹満(はらみつる)る心地して粟穂に馴(な)る。
鶉野辺(うずらのべ)の虫の音を聞くか面白く遠き名所旧跡より、近き田圃の見廻(みまわ)りが飽(あ)かす。松島塩釜の美景より鍋釜(なべかま)の下が肝要なり。上作の名剣(めいけん)より、鍬(くわ)鎌(かま)に調法なり、書画の掛物(かけもの)よりかけて見る作物の肥を油断せす投入(なげいれ)、立花(りっか)の巧みより、茄子(なす)大角豆(ささげ)の正風か味ふ處(ところ)多く、茶の湯、蹴鞠(けまり)の遊びより渋茶(しぶちゃ)を煎じて昔語りこそ嬉しけれ。
玉の䑓(うてな)より茅葺(かやぶき)の家に居が心易(やす)し、高根におらねば浮雲気(あぶなげ)となし、實義(じつぎ)を盡し、仁者に做(なら)ふて山地に木を植、智者の心を汲むて田の水加減を専らにし、珍肴鮮肉(ちんかうせんにく)の料理より、銭いらず獨酌(どくしゃく)か後の腹を病む気遣なし。
総て世の中は飛鳥の川の流れ、昨日の淵は今日の瀬となる如し、唐の咸陽宮(かんようきゅう)、萬里(ばんり)の長城も終(つい)に亡び、平相国(へいそうこく)の驕りも一世のみ。鎌倉将軍も三代を過ぎず。
北条、足利の武威(ぶえ)盡(つ)き、織田、豊臣の栄も一代時過(ときす)。世替(よかわ)りて誠に夢の如し。世に稀(まれ)なる珍味と舌の上にあるを知る、加羅蘭麝(かららんじゃ)の薫(かお)りも嗅(か)くうちのみ。楽は苦の基(もとえ)、遊興(ゆうきょう)は暫時(ざんじ)の夢。
他の富るも羨まず、身の貧も嘆かず。唯慎(ただつつしむ)べきは貪慾(どんよく)。恐へきは奢(おごり)なり。田地は萬物(まんもつ)の根元(こんげん)にして、国家の重寶(じゅうほう)なれば、父母の如く敬ひ、主宭(しゅくん)の如く尊み、妻子の如く育(いつくし)み、寸地をも捨てず、何處(いずこ)にても拓き鍬先(くわさき)の天下泰平、五穀成就(じょうじゅ)を願ふより外(ほか)更(さら)になし。
今年(ことし)米(ごめ)親といふ字を拝みけり
一茶翁 勧農詞
あの宮沢賢治の門下生に山形の松田甚次郎がいた。昭和13年5月に「土に叫ぶ」を発表。昭和53年9月に復刊された。当時復刊を新聞で知って手に入れていた。昭和2年「最上共働塾」の誕生と塾生活が詳しく書かれている。その中に一茶翁の勧農詞が出てくる。
「赤貧な塾生はいつも勧農詞を一緒に朗読して、明るい心になって精進した」とあり、勧農詞は、「山形県第一の大地主本間家のために書かれたもの」とある。
勧農詞は近年になって小林一茶の作ではなく、信濃の上伊那の歌人宮下正岑(1774⁻1838 江戸後期の歌人)によるとの説もある。
20年程前バブル経済の反省から、中野孝次著「清貧の思想」がベストセラーになり光悦、西行、芭蕉、良寛、兼好等の生き方を等して「生活は簡素にし、心は風雅の世界に遊ぶことが人として最高の生き方だとする」という。日本の最も誇る文化だと言われたことはまだ記憶に新しい。
勧農の考えは、年貢を徴収する立場から見れば農民をはじめ庶民の質素倹約奨励は当然なことであった。貧しい一般の人間にとっては質素倹約は日常の生活実態だった。ただ風雅の世界とは多くの庶民は別だったかもしれない。
一茶のこの勧農詞を精読すると何か現代につながるものが感じられる。