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麓の火まつり

2013年02月27日 | 村の歴史
わが集落(麓、川連)で明治43年から続く「火まつり」が、この2月24日川連集会所で開催された。過去にハガキ通信「河鹿沢通信」57号、2001.3.10で紹介した。火まつり行事は近くの集落でもおこなわれてはいるが、近年途絶えてきたという。
古老の話だと、火まつりが始まった明治の後半は集落で火災が多かった言う。当時新築や、近年リホームした家中心に始まり、昭和60年前後まで続いてきたが、生活習慣の変遷で各家中心の「火まつり」は開催が困難となり平成に入って集会所で開くようになって20数年となる。

江戸後期嘉永五年(1852)川連村の村方一統から出された「村方引立相談定書」に火まつりのことも書かれており、火まつりの開催日は各集落でまちまちで一定ではなかったようだ。
明治43年前の記録はハッキリしないが、麓集落の「火まつり」に翌年(明治44年)川連集落の一部が加入し、現在も続いている。開催日は2月の「みずのえたつ」の日だったが集会所で行われるようになって2月の第4日曜日に定着してきた。今回の参加戸数は69戸。

隣の岩手県では今なお盛んなようで、防火を祈願する「火防祭」(ひぶせまつり・かぼうさい)と言われているようだ。
有名なのは、「日高火防祭」(奥州市水沢区日高 4/28~29)。華やかな囃子屋台が知られています。この近くでは、「金ヶ崎火防祭」(金ヶ崎町 4月第3日曜)、「羽田火防祭」(奥州市水沢区羽田 3月下旬)などもあります。 宮古市小国では小正月前後に「火まつり」がおこなわれます。集会所でご祈祷をしたあとで末角神楽が神楽を披露するというものだそうだ。

当地方のやり方は、始まりのころから当番宅で参加者のとりまとめ、参加者は汁碗一杯の白米に消炭(けしずみ)3、4個と決まっていた。その他神事の準備や初穂料、直会等の経費は当番宅持ちで負担も結構大きかった。終わりに次年度の当番宅を決めて毎年継続してきた。
近年、生活様式の変化は個人宅での開催が困難となり、集会所での開催は集落行事として定着。集落代表を中心に隣組中心で開催するようになった。参加料は1000円で20数年は経過した。
祭壇は当日、集会所に設置。祭壇の後ろの掛け軸は、「火伏の竜」で大正7年喜寿の年、常在寺機岳和尚の作とある。

一年の火災等の災難を防ぐため、集落の辻や村境に立てる10本の「ミズナラ」(写真は8本)に消炭入れた藁つと、杉の葉に御幣を一つに結ぶ。(ミズナラはことさらナラにミズがつくくらい火災に強い木と言われている)
この地域と参加者の安全を願い、結んだ「ミズナラ」の木は直径3~4㌢長さ4、50㌢ほど。片面を削り「奉祭鎮火三柱大神 火災消徐攸」と宮司が記し、参加者全戸に配る御幣、お札(ミズナラと同じ文字)、杉の葉を祭壇に奉り八坂神社の宮司さんに祝詞とご祈祷をしてもらう。参加者を代表して集落代表が参拝、参加者一同がこれに合わせて行う。

すべてのセレモニーは約40分ほどだ。終わると宮司から一人一人がお神酒をいただいて「直会」(なおらい)に入り一年の無事を祈る。

この行事が終わると雪国秋田もいよいよ春近いと思うのだが、今年はいささか趣(おもむき)が違う。
火まつり当日は吹雪、秋田のJRは運休。高速道路閉鎖の状態。今日は珍しく晴天。JAは早くも「種もみ」の配達を始めた。また特Aをめざして「あきたこまち」のスタートが始まる。

県南「あきたこまち」が特Aに復活

2013年02月17日 | 農業
日本穀物検定協会(穀検、東京)は14日、2012年産米の「食味ランキング」を発表した。県産延べ4銘柄のうち、県南のあきたこまちが最高評価の「特A」になった。県産米は2年連続で特Aを逃しており、特A獲得は3年ぶり。穀検は県南のこまちを「粒が大きく外観が優れていた。粘りが十分で軟らかく、全体のバランスが良かった」と評価した。県産の他の3銘柄は、県北、県央のこまちが特Aに次ぐ「A」。県央のひとめぼれはその下の「Aダッシュ」だった。11年産の県南のこまちはAダッシュで、全国で唯一、2段階アップした。東北6県では25銘柄が審査され、青森県を除く5県の7銘柄が特A。山形県は4銘柄のうち3銘柄が特Aだった。(2013/02/15 秋田魁新報)


早朝の穂揃い「あきたこまち」朝露がまぶしい。
拡大は次の写真 鍋釣山からの優しい朝日で朝露はまるで数えきれない宝石のように輝く。(2012.8.4)



秋田魁新報は2月15日に報道した。
県南の「あきたこまち」が「特A」から「A」に落ちて早くも10年以上となる。「あきたこまち」誕生から30年近くになる。秋田の農民にとっての「あきたこまち」は大きな期待と歓迎で迎えられた。
「あきたこまち」の前は冷害に強く多収の「アキヒカリ」だった。この品種で反収12俵とか750キロとかの収穫で話はもちきりだった。それが米作りの方向が多収の品種から食味重視のコシヒカリが主流となり、コシヒカリの血統を引き継ぐ「あきたこまち」が誕生、斬新なネーミイングとその食味は瞬く間に食卓を占領してきた。

しかし、私には脚光浴びるネーミングに多少の違和感があった。
米は増収の時代から1970年になってトーンダウン。減反の時代に突入した。
増収から減反の衝撃は大きかった。出稼ぎの増加は都会同様に鍵っ子を増加し、後継者不足は三ちゃん農業の増加となり、離農や離村は地方の商業、経済を確実に衰退へ向かわせた。

米生産に暗雲の漂っていた時代、美人を育てる秋田米「あきたこまち」の誕生は久しぶりに農家に前進への足掛かりとなった感が生まれたが、秋田県のイメージの強い「あきたこまち」は他県の農家には抵抗があったことだろうと思う。一つの地域をイメージする「あきたこまち」の名称は果たして適当かとの発言に耳を貸すものは少なかった。

心配を超えて、その後「あきたこまち」は瞬く間に全国に広まった。30数県は越えて栽培されたと云う。
秋田の農家は減反の強化で一部の農家に良食味と多収の栽培に向わせていた。しかし、「あきたこまち」多肥栽培では倒伏にとても弱い品種であった。一時期秋田県南、横手盆地の稲刈り前の国道沿いの田んぼの倒伏は、目の背けたくなる風景で情けなかった。「布団を敷いたような姿」に稲がつぶれたと地域では云う。とても収穫の秋、美味しそうな「あきたこまち」は連想されない。

そのような状況で業者は倒伏防止剤を販売しだした。倒伏防止剤は稲の成長期に散布することで生育をセーブし稲を短くする作用があった。植物成長抑制剤で稲の成育期に散布することで確実に米の食味を落とした。植物成長抑制剤で生育を抑制することによって稲の倒伏を防止することにあった。F1(遺伝子組み換え)の種はいち早く昭和50年代に飼料作物としてデントコーンが入って来ていた。F1の種子は自家採取ができない。この種子を導入してしまうと穀物メジャーの軍門に下り、しまいには栽培も管理状態になってしまう危険がはらんでいる。

食べ物の生産に植物成長抑制剤の使用は、世界の食物メジャーの種子独占や遺伝子組み換え操作を連想させた。植物成長抑制剤の成分は、植物の細胞を縦方向に伸長させる植物ホルモン(ジベレリン)の植物体内での合成を邪魔することにより、イネの背丈を5~10%程度低くして収穫期まで倒れにくくする。ホルモン操作することにある。「食べ物は植物や動物の命をいただいている」という原則からみれば植物成長抑制剤の使用は「植物に対する人間の驕り」とさえ感じていた。

地域には「あきたこまち」の倒伏防止に倒伏防止剤の使用が明らかにわかる稲が見られた。すべてとは断言はできないだろうが、県南の「あきたこまち」はその結果、日本穀物検定協会の「食味ランキング」が特Aから陥落。AになりAダッシュまで評価を落とすことになった。

私たちのグループは「あきたこまち」誕生直後に郡、市に「あきたこまち栽培研究会」、JAに有機米研究会を昭和63年に立ち上げて活動。「あきたこまち」の良質味の性質を生かした栽培を提唱してきた。
「栽培管理」という考えに違和感があった。管理するなどという考えに一種の人間の傲慢さえ感じていた。稲は栽培管理するのではなくて「生長を手助けすることのよって本来の味をもった米が生まれるのだ」。との考えは圧倒的な増収派にはかき消されるような活動だった。
反面、当時名古屋や東京の卸、米屋さんからは強い支持を得ていたが多くの消費者の要望に応えるための数量はほど遠い生産量しかなかった。増収派の考える栽培方法を「手助け」派に変えることはできなかった。当たり前のことだった。価格が同じなら収量の多いければ単位当たりの収入が多い。有機、減農薬栽培には冷ややかな状態が続いていた。

今振り返ってみて、秋田県南の食味ランキングの特Aから陥落は何年続いただろうか。
「あきたこまち」の特徴を生かす栽培、いい変えれば「お米」の旨さを引き出す栽培は生産者の義務かもしれない。そのように考えて田んぼに出勤してきた。自然を相手の作物は、必ずしもそんな思いを反映する姿に生育するとは限らない。だからは試行錯誤は当分続く。

近年低農薬米や有機栽培は一般語となってきた。さすが多肥栽培で稲の倒伏などは激減してきた。かつての多収からより良食味の栽培に代わってきたし、各地で誕生してきたうまい品種の米は九州から北海道まで浸透、産地間競争は以前よりも活発になってきていた。かつての低食味と言われた地域の米が極光浴びるようになったきた。

2012産県南「あきたこまち」が10年ぶりに特Aに復活。2011年産の「県南の「あきたこまち」はAダッシュで、全国で唯一、2段階アップした」と云う。こまち誕生後しばらく特AだったのがAに陥落、その後Aダッシュ。特A復活までずいぶん長い時間がかかったことになる。なにはともあれ喜ばしいことだ。これは秋田県南の農家が本来の稲の栽培に回帰してきた結果ではなかろうかとも思われる。

冒頭の記事は特Aを報じる地方紙「秋田魁新報」、下は「日本農業新聞」だ。報道の仕方に少し落差を思うは気のせいだろうか。

日本穀物検定協会(穀検)は14日、2012年産米の食味ランキングを発表した。対象の128産地銘柄のうち、過去最多の29産地銘柄が最高評価の「特A」だった。ただ高温耐性品種の導入が進む九州勢が評価を高める一方、米どころの東北産で特Aからの格下げが相次いだ。特AとAの東西の割合は、ランキング開始以来初めて西が上回った。

 地域別では、前年産に続き九州産地が躍進。長崎「にこまる」、熊本・城北「ヒノヒカリ」が5年連続、佐賀「さがびより」が3年連続、福岡「元気つくし」が2年連続で特A。新品種の熊本「くまさんの力」は初登場で特Aだった。北海道産も「ななつぼし」が3年連続、「ゆめぴりか」が2年連続で特Aと安定感を発揮。北陸では、新潟産の7銘柄中4銘柄が特Aで、福井「コシヒカリ」「ハナエチゼン」が初めて特Aになり、石川「コシヒカリ」も21年ぶりに特Aに返りざいた。

 一方で東北は、秋田・県南「あきたこまち」が10年ぶりに特Aになったが、宮城・県中「ひとめぼれ」、山形「ひとめぼれ」、福島・会津「コシヒカリ」、同・中通「ひとめぼれ」は特AからAにランクを落とした。穀検は「温暖化がマイナスに作用した」との見方を示した。

 三重以東の「東日本」と、滋賀以西の「西日本」で特AとAの合計の割合を比較すると、東日本が71%で、西日本が72%だった。(日農2013.2.15)

鶴田知也氏の話

2013年02月11日 | 足跡
鶴田知也(ツルタトモヤ)
(1902年2月19日~1988年4月1日)は日本の小説家。 
福岡県生まれ。東京神学社神学校中退。1922年、北海道の八雲を訪ね、農業指導員・太田正治、ユーラップコタンの首長イコトルらと親交を結ぶ。27年、同郷の葉山嘉樹の勧めで上京、労農芸術家連盟に加盟。「文芸戦線」を舞台に作家活動を開始。左翼文学運動解体後、36年、生涯の友・伊藤永之介と「小説」創刊。同誌発表の「コシャマイン記」で第3回芥川賞受賞。45年、伊藤の勧めで秋田県に疎開。同地に5年留まり、農業問題にかかわる。61年、「月刊農業共同経営」を創刊(後に農業・農民)25年間、同誌の編集・発行人を務める。農業改革者として秋田の農村に水田酪農を提唱した。


鶴田知也氏は秋田に疎開中5年間で1000回にも及ぶ講演活動を精力的に行ったという。
昭和25年秋田をはなれてからも晩年まで秋田に来られて労農大学の開催など啓蒙活動は続いた。下記の講演は私が20代に入り諸活動にはいっていた頃の1966年に湯沢・雄勝で新しく組織した会の記念講演である。当時はテープなどと気の利いたものもなくメモから書き起こしをしたものだ。心に響いたこの話を忘れてならないと集会の後、時間を作ってまとめたものをそのまま公開した。鶴田知也氏の当日の話はそのまま要約されていると思う。この講演は当時、農村定着にふらついていた自分に土着を促した大きな出来事だった。

鶴田知也氏の秋田において1000回にも及ぶ講演活動の一端は「鶴田知也作品集」(新時代社1970年)の秋田時代を題材にした「小柳村の陽気な農夫」や「田植えどき」など作品からうかがえる。これらの作品を読んでみると鶴田知也氏が農業改革運動にたづさわった意気込みが、私達に話した講演と見事に一致するようにも思える。

「青年と農村文化」 鶴田知也

文化ということは終戦後いろいろと問題とされたが、これからそう取り上げることはないだろう。
現在はいろいろな諸情勢からみて一時棚上げの状態である。しかし棚上げにしていることに問題がある。
「文化」というものに対する理解が間違っているのではないだろうか。「文化」というものの理解について統一されていない。
例えば経済学者は「文化とは価値の創造」であると言い、哲学者は「自然と人間の対決の仕方」であると言い、文学者は自然に反抗することであると言う。
しかし、文化的ということは一般に、「少し洒落」ているというような使い方をしている。本来「文化」ということは人間以外にはない。人間がある段階まで発展してこなければ生まれてこない。
文化とはその語源はカルチャーと言い、それは耕すという意味があって人間が耕すこと、農業ということを行うようになって生まれていた。

人間が農業開始以前の時代、採集経済の時代には文化ということはなかったと考えられる。農業というものが起こってからの変化には格段の相違がある。
それは住居とか、着物、食べ物とか自然のものをそのまま使うのではなく、いろいろと人間が手を加えて加工するようになってきたことでわかる。それ以前の人間はそのようなことをしないで自然の物をそのまま使っていた。こういう状態を経済学者は「価値の創造」といったのであると思う。天然、自然の猛威に逆らえなかった。自然に支配されていた状態だった。

それが農業時代になると、人間が自然物に手を加えて生活に役立て、仕組みを変えてきている。こういうことを文明、文化の時代と言っている。自然に支配されているものと違ってその根本は野生のものを野生のものとしてしてだけではなくて手を加えて条件を創ってきた。これを生産という。
生産というものが始まると、遊牧して食べるものを求める状態から一定期間、定着するようになる。そうすると自然物を利用して住居を造ることを考えてくる。また、人間生活にはいろいろな規律が必要であるから一定の約束事が出来てくる。それが発展して社会秩序ができ、法律が出来てくる。このようにみると、人間が生産するということによって初めて文化というものが生まれてきたと言える。人間生活を高めていくための土台が生産を通して生まれてきたのである。

農村は文化水準が低いと一般に言われている。しかしながら近代産業と農業には大きな違いがある。自然との対決という面で近代産業には自然に支配される面が非常に少ない。だが農業にはそれは非常に大きい。近代産業で自然の影響で生産が落ちるということはまずない。
先進国と日本の農業と比較してみると日本の農業が自然に支配されている面が大きい。このことは農業が他の国(先進国)と比べて遅れているということである。生産とは文化の基礎であり、社会の基礎の文化、生産という面を自然支配から取り除いて行くことがこれからの大きな課題と言える。

農村文化問題とは、農業経済問題である。文化の土台である生産というものを解決していかないでその上部ばかり枝葉末節的なことばかり強調してとりあげている。日本の農村文化を論ずる場合、従来のままではいけない。

文化闘争とよく言う。例えば稲作生産費調査などをみると労働力という面が大きなウェイトを占めている。このことは稲を作ることに人間が自然から支配されているということである。ここに自然の支配に抵抗する努力が出来てくる。生産ということはモノを作るということだけではなくて販売するということまで入っている段階である。

しかし、農業と比べて労働組合などには自然支配という面がすくない。だが生産された物を買うということができない資本、経済の問題ができてくる。賃金が安いとかいうように、自分の仕事に忠実に打ち込んでいっても幸福につながらないというような問題がでてくる。だから労働組合のストライキということはそれをやりとげようとする環境づくりの努力の姿であると思う。
そのように考えるとストライキとは生産というものを十分発揮させるための文化運動だと思う。そういう自覚をもって社会を見つめていくようになればもっともっとすばらしい社会なると思う。
「文化」という点に良いものと悪いものも多くある。若い農民が生産に十分打ち込んでいける面が少ないと云う大きな問題点を含んだ環境に現在はある。

現在は文学の退廃がひどい。遠い将来、1960年代には色キチガイが多かったと言われる時代になるだろう。それは映画や文学に見られる。テレビを観ても歌を聴いてもその本筋にはバクチ的な郷愁が潜んでいる。

農村の文化水準が低いということは農民に読書力が少なく時間を無駄にし、生活観念が薄いということにあると考えられる。その大きな原因に文化の基である生産ということを疎かにしているからであり、基礎文化が低いのだから、その枝に花をつけ実をつけている文化が低いのは当たり前である。文化とはそうみてくると非常に複雑な環境にある。生産にバクチ的な面が多いから農村の文化水準が低いということになるのではないかと思われる。

自然との闘い、自然を活用していくことが文化だと考える。技術的に解決できていてもいろいろな条件がある。価格、経済の影響で農業が左右されている。解決されていない面の対策がこれからの課題。バクチ的農業への対決、養豚の場合には三年周期と言われるビックサイクル、そういうのは個人の力ではどうにもならない。共同の力で対処していかなければならない問題も出てくる。

茨城県の玉川農協の例などはうまく解決している。これも一つの大きな文化的な所産だと言える。
農業の大事な点はいかにして合理的に継続的に利益を上げていくかということであると思う。単作地帯では冬期間も生産を上げる条件を創り出す必要がある。そのために新しいものを導入し、さらにそれを共同の力で伸ばしていく力を見につけていく必要がある。
技術上の改善と同時に、それ以外の発展を疎外している条件を取り除く活動も文化を高めるために大事な点である。

私たちは「農業の曲がり角」という言葉を使うことはやめよう。
出稼ぎやその他に見られる障害を曲がるのではなく、そういうものを取り除いていくのが民主主義の原理であり、現代は曲がるのではなくて直進の時代である。マスコミに惑わされない農業全体のためになると云う確信をもって農業に取り組んで行ってもらいたい。

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政府が「農業基本法」を制定し緑の法律などと騒がれたころのことだった。
今でもはっきりと振り返ることができる。あのやさしく、平易な語り口は現在の農業・農村の方向をも示唆しているようにも思える。

「清貧の思想」に見る新農政の展開 ②

2013年02月07日 | 足跡
「清貧の思想に見る新農政の展開」シリーズ ③と④ 



「新農政」、「新しい食料・農業・農村政策の方向」では「農村は人間性豊かな生活を享受し得る国民共有の財産」また「個性ある多様な地域社会」と並べたてている。
しかし、都市の過密と地方の過疎が進行している現実のなかで、どれだけ政治の恩恵を地域社会は受けてきたのだろうか。
30数年来政策の中心は、規模拡大路線だった。その政策のなかで土地を手放さない、貸さない農家を「やる気」ない農家とし、制度として規制できないかと話し合ったという。
「やる気」ない農家が多いので、やる気のある「規模拡大農家」が育たないという考えなのだ。そのため、意図的とも思える外圧を背景に農産物価格の引き下げに奔走した。農産物価格の引き下げ政策が多くの兼業農家の離農に結びつくと考えた。だが、その政策誘導もままならない。
高度経済成長政策のときは企業の人手不足の要員となり、バブル華やかしの景気のときは「安くて、美味しくて、安全」な食料の供給を、と急かせられた農村。
バブル崩壊の今、「新農政」は都会人のため「グリーンツーリズム」を唱え出した。バブル崩壊でリゾート開発、全国いたる所で山々を切り崩し、畑を埋め別荘、スキー場、ゴルフ場開発。その開発が頓挫しつつあるときに「都市住民の間では最近、田舎がちょっとしたブーム、自然と触れ合い、心の豊かさを取り戻したいとの欲求から」というのがグリーンツーリズムの考え方だ。
平成5年度から実施、と政策の目玉ともなっている。ヨーロッパ諸国では、すでに古くからの週末の過ごし方として定着している。スイスの「山岳民宿」や、ドイツの「クラインガルテン(市民農園)」などにみられる。
全国農業会議所発行の「つちとみどり」1993.2月発行によれば豪華なレジャーではなく「家族一緒にお金よりも時間を使って心豊かに過ごすニーズ」が高まってきた。
その背景が「グリーンツーリズム」だという。しかし、今の農村のなかで、なにかしら通り抜けていく「虚脱感」を感ずるのは自分だけなのか。


④  

今回の不況は、高慢な態度で勝手にバブルをふくらませ、破裂してしまった「自家中毒」型のものだともいう。だから不況の乗り切りは、時間がかかり企業倒産、解雇等がもっと進むのかもしれない。
なにもかも、経済的効率至上主義で物事をおしはかる考えが主流の世界には「人間らしさ」、などという考えがなかなか育たなかった。ただただ、物が豊富で頑張ればたいていのものが手に入る社会は反面さまざまな公害を撒き散らしてきた。
ゴミは産業や日常生活のなかからあふれ、全生産物の52パーセントは廃棄物といわれる。経済成長は反面、廃棄物成長となり環境の汚染につながりますます生活を制約することとなった。高度に進んだ今のくらしを「清貧の思想」の時代には戻せないとの考えもある。
しかし、今バブル崩壊の大型不況は何か高慢でやや傲慢さもあった社会への反省のチャンスにはならないものだろうか。
「新農政」の方向でとても新しい世界が開けるとは思えない。一部の組織体が、農業生産を
代替できたとしても圧倒的多数の農家、農業人口の吸収は地域の経済が背負いきれないし、か
といって過密な都市でも背負いきれない。どこまでも、こんな経済至上主義が発展すると、他
の国でと思っていた「経済難民」の急増は現実のものとなろう。始まっていると考えたほうが
いいのか。

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手前味噌に言えば、振り返ってみると約20年前と状況が変わったとはとても思えない。
今日の農村の実情を見るとむしろ政治は何をしてきたのかとさえ思う。農業の規模拡大とは圧倒的多数の離農者を生むことだ。限られた農地は一人や二人の成功者を得るために離農促進政策が当然かのようにすすめられきた。多くの農家は農地から離れた。離されたと云うべきかもしれない。規模拡大は多く農家を政治的に追い出して成り立ったものだ。

離れた農民がはたして良い暮らしに出会っただろうか。農地を手放したのは経済的にペイしないからだったし、農から離脱したとしてもその未来に展望があったわけではなかった。
地域一体でとか農業法人でとか農地を集約して一定の規模となっても極めて限られた少数の人間だ。さらに市場原理の考えでいけばそれらの限られた人たちの明日は必ずしも保障されない。多くの農家の離農は地方の崩壊をもたらした。地方小都市のシャター通りは確実に進行し、現在進行の「生活保護費の切り下げ」や「消費税導入」はさらに崩壊が加速されることだ。

地域の崩壊は政治的産物に他ならない。




スノーシューで里山散策

2013年02月05日 | 集落

今年は各地では大雪とは言うが当地方は昨年、一昨年と比較して積雪量は少ない。半分からせいぜい三分の二ぐらいだ。
今年も早くも立春、今日は時々太陽が顔を出す天気。
好天なので予てから楽しみにしていた里山へスノーシューで散策に出かけた。
自分が歩く範囲を考えれば、高価なものでなくても手軽なもので充分だ。
スノーシューとポールさえあれば格別な装備もいらず靴はホームセンターのもので違和感はない。


しばらく行くと無数の動物の足跡、一箇所に山うさぎの足跡は分かったが、下の写真の動物は自分には何なのかわからない。「きつね」だろうか。数匹まとまってにぎやかそうに歩き回った跡だ。杉林では四種類の足跡が見られた。今しがた通ったと思われるものもあったが、さすがその姿は見えなかった。


さらにしばらく歩くとこの通信「新河鹿沢通信」の名の由来のカジカ沢、水源から200m程下の沢にある土留工に積もった雪が目に入った。雪のない夏場からは想像できない姿。左右の雪が両脇から近づきスキンシップしているかにも見える。今にもなにか会話が聞こえてきそうな雰囲気で微笑ましくなった。


カジカ沢を過ぎ、初めてのスノーシューで歩く杉林は好天とも重なり好調だ。
一昨年、昨年と重い雪で折れたり、倒された杉は今年は少ない。それでも小一時間の散策で自家の杉に三本程の被害が確認できた。
写真手前の杉は樹齢約100年ほどのものだ。


下柴などの邪魔されず歩ける冬の里山は、夏にはとても気がつかないことを教えてくれる。
久しぶりの里山はなんと新鮮なことか。これからも行動半径を徐々に広めていきたいなどと考えて帰路についた。


ハガキで河鹿沢通信創刊 「清貧の思想」に見る新農政の展開 ①

2013年02月03日 | 足跡
ブログは2008年1月からOCN「麓の風」。「河鹿沢通信」は同年11月でココログで始め、このブログは2008年6月の岩手、宮城内陸地震をきっかけに「麓左衛門日記」で始まり2012年7月ココログの「河鹿沢通信」から移動「新河鹿沢通信」なったものだ。

ハガキで「河鹿沢通信」の発行を思い立ったのは1993年1月のことであった。
1989年にやっとのことでワープロを手に入れた。
富士通のデスクトップで当時の新しい型だった。21万ほどだで当時の自分にとっては高価な買い物だった。富士通にしたのは変換が親指も使いローマ字変換な苦手な自分にピッタリと思ったように思う。パソコンなどはとても高価でパソコンのパの字も話題にでることもなかった。
当時弟が秋葉原の電器店に勤めており、オーデオの販売担当でパソコンの販売はしていなかった。「近い将来パソコンの価格は20万以下になるだろう」と言ったら「とんでもないことだ」などと反論された時代だった。

字の汚い自分はほとほと何かを書くことに抵抗があって、「タイプライター」出現を心待ちしていた。当時警察署などの窓口で免許証の書き換え手続きにはやっと和製タイプライターが入り、珍しくもあり目にすることが楽しみでもあった。

それが1989年やっと手に入る価格でワープロが自分の物になった。その興奮は忘れられない。
マニアルを片手に悪戦苦闘の毎日。近くで持っている人も知らず聞くこともできない。
それでもなんとか使いこなせるようになると「通信」発信などという欲にかられて始まったのがハガキの発行「河鹿沢通信」であった。ハガキに見出しを抜いて8ポイントの活字は1000字ほど書く事が出来た。
発行者を 「奈珂 郷」とした。
創刊号は1993年2月1日だった。下の写真

3、4、5、6号は「清貧の思想」に見る「新農政」の展開。
当時中野孝治著「清貧の思想」(草思社)がベストセラーになり、農林水産省が発表した「新しい食料・農業・農村政策の方向」に絡めて私論を知人・友人に送った。

その年の夏は経験したことのない冷夏。大冷害となった。
通信19号から22号まで「夏のない夏 八月のうぐいす」。23号から27号まで「夏のない秋 実れあきたこまち」を発行した。20年程前の記録を随時「足跡」として振り返って見ることとした。
下記は93.3.3~「清貧の思想」に見る「新農政」3、4号 原文のまま

河鹿沢通信 3号 「清貧の思想」に見る新農政の展開 ① 1993.3.3

「清貧の思想」(草思社刊)中野孝次著が今ベストセラーになっている。
講談社「日本語大辞典」によれば「富貴であることより潔白であることをのぞんで、貧乏に安んじていること」とある。
光悦、西行、芭蕉、良寛、兼好等の生き方をとうして「生活は簡素にし、心は風雅の世界に遊ぶことが人として最高の生き方だとする。日本が外国に対して最も誇ることの文化だ」という考えが、今日の日本の隅々で、バブル経済への反省がうまれつつあるなかで共感をもって迎えられた。 振り返ってみれば、かなり思い当たることがこの「麓」の集落にみることができる。
平均耕作反別77アールで稲川町の集落のなかでも大きいほうではない。
1990 年 2月発刊の「農の息吹き」いなかわ地域・農業振興推進会議編によれば麓戸数59の内農家戸数44戸中、「麓」に居をかまえた時期が江戸時代、又はそれ以前というのが14戸、戦後が 6戸にしかすぎない。農地改革前の土地所有形態で「小作」という農家が14戸だった。
そんななかで現在まで農家戸数の大きな変動はない。もちろん水田が中心であり戦前は養蚕が盛んであった。稲川町史よれば、養蚕振興は1700年代からであり秋田藩で繭を作るよう藩に献言した最初の人が川連村の「関喜内」であった。
また800 年の伝統という川連漆器の「木地師」も麓の東の山並みを越えた「大滝沢」で作られていたという。
木地師はその後山を越え今の集落でも戦前まで作られていた。そして、その通り道を今でも通称「夏街道」と地元ではいう。 夏街道同様、地藉にも地図にも見当たらない地名がざっと列挙してもその他に「大屋敷」、「河鹿沢」、「柳沢」、「宿」、「森越」さらに「万華の小屋」という地名がある。他にも詩歌をたしなみ、絵を描き、学問に励み医者となった人など多くの偉人がうまれている。
我が集落にも多くの「風雅の世界に遊ぶ」考えがあったことを伝えている。そんなわけで筆者はそういう考えが集落を今日まで発展させてきた基盤のひとつであると考えるわけだ。

4号 1993.3.7

 
平成4年6月農林水産省は「新しい食料・農業・農村政策の方向」を発表した。
今後十年程で大規模稲作経営が広範に成立し、他産業並みの生涯所得が得られると政策はいう。だが農村現場でどれほどの評価があるというのだろうか。
かつて昭和36年に「農業基本法」が成立し基本法農政がスタートしてすでに30数年経過した。あのときもそのようなことがいわれた。しかし、多くの農民が選択したのは規模の拡大ではなく「兼業」という道だった。
この30数年、「規模拡大」を選択した農家や、基本法で示した「選択的拡大」といわれた方向に進んだ農家は、一体どうなったのか。確かに中にはそれなりの成功した事例もある。
振り返ってみればいち早く「離農」したのも彼らだったし、離農までとはいかなくとも「多額の借金」でその返済に追われているのも彼らに多い。そしてそれらの累積負債が所属する農協の経営をも圧迫し、合併構想のひとつのネックともなっている。
昭和63年岩手県の教育会館で、NHKテレビでのあるシンポジュームで「規模拡大こそこれからの農家の生き残る道」を説く大学教授に、「規模拡大でコスト低減と農家の残る道というのはある種の伝説だ」と質問したら、「高齢の昭和ひとけた生まれの人達が農業まもなく引退する。後に続くやる気のある担い手は少数だ。だから大規模農業はすぐの目の前だ」と説いた。
この考えはこの「新農政への展開」のシナリオとも見事に一致する。だが、基本法農政で示した方向は実現できなかった。今後も、家族構成は変わらないだろうし若い担い手は確かにすくない。
今後、今の政策が続くかぎり大幅に増えるとは思われない。農基法農政の十分な反省もなく「規模拡大、農地の流動化促進」を説く政策は多くの農民からは支持されていない。
現実に「農業を中核」として地域が成り立っているなかで、多くの兼業農家をどうするのか「政策」は示していない。だから「離農」を前提とした「新農政への展開」なら「地域の崩壊」は確実に進み、風雅などは育たない。