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新河鹿沢通信   

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「山下惣一」さんとの別れ

2023年01月11日 | 足跡

尊敬する佐賀県の山下惣一さんが7月10日に亡くなり、偲ぶ会が12月18日東京都千代田区の「日本教育会館」で開かれた。今回「山下惣一さんを偲ぶ会のご案内」をいただき、久しぶりの上京と思ったが、抜き差しできない所用と重なり出席を断念した。

下記は訃報を伝える7月14日の朝日新聞。

昭和32年中卒で農業に従事し、定時制高校を終えて本格的に家業の農業に入ったのは昭和36年。「農業の憲法」とまで言われた「農業基本法」が制定された年である。

大きな変化が生まれそうな情勢に翻弄されていた時代。農の定着のために各地の情報を集めた。現在のようにインターネット等はあろうはずもなく。情報収集はテレビ、ラジオを中心に書店に出向き関連する本、雑誌が中心だった。

そんな中で昭和41年、目に飛び込んできたのが佐賀県の「新佐賀段階」の米つくり運動に驚かされた。米どころを自賛する秋田の昭和40年、41年の反収は454㎏、441㎏。「新佐賀段階」運動の佐賀県は昭和40年、反収512㎏、41年、542㎏の驚異的な収量を上げていた。秋田で反収500㎏を超えたのは昭和42年からだった。

その佐賀に住む、「山下惣一」さんを朝のNHKテレビ「あすの村づくり」で知った。当時山形の「やまびこ学校」の「佐藤藤三郎」さん、その著「25歳になりました」で「木村廸夫」さんに出会い、後に有機米運動の先駆者の「星 寛治」さんも知ることになった。 

テレビで向き合う「山下惣一」さんはある種の強烈の思いで接してきた。「海鳴り」や「減反神社」等で農民作家の称号が定着し、書籍も60数点も発行、国内での講演数は軽く1000は越え、世界60か国も訪問したという。したたかなエネルギーはどこから生まれ、どんなところで暮らしてきたのだろうか等と想いながら接してきた。ネット社会に割と早めに接してきからgoogleのマップを通して、「唐津市湊」を意識してきた。

私の読書スタイルは著者の描きだした背景を近づくために、表現されている場所に立ってみること重要なスタイルになっている。山下さんの住む「唐津市湊」地区の山や畑、田圃風景をデスクトップに映し出し、ページをめくる。時には集落内やみかん山等道路をマウスで巡ってみる。「ああ、、」山下さんはこの道路を軽トラで走っていたのか等と想いをはせながら彼の書籍に入ってしまう。

             佐賀県唐津市湊地区全景

唐津市湊は農業集落の「岡」と漁業集落の「浜」が各300戸計600戸の大きな集落という。初めてこの風景に接したとき今までイメージしていた農村とは大きく違うと思った。唐津の湊は600世帯で農と漁が大きなつながりを持って形成されている。600世帯の集落は各地に存在するが多くは100世帯以下、50世帯以下が圧倒的なのが東北の農村の姿。

人間形成の中で多くの人は生まれた環境と、接してきた人間関係が大きく作用してくる。生い立ちが私と似通っていたからより親しみがあったのかもしれない。

家の光協会発行の月刊誌「地上」誌のエッセイ「農のダンディズム考」は、1994年から2021年まで、約30年にわたって連載してきた。このエッセイで山下さんの並外れた感覚と思考のしたたかさを毎号楽しみにしてきた。

山下惣一さんを知った1970年以来、直接会ったのは12年前の2010年になる。気さくな山下さんは書籍やエッセイで発信している姿そのまま、約40数年のブランク等なかったような感覚で話していた。不思議な出会いでもあった。

2022年7月10日、「山下惣一」さんは逝ってしまった。

偲ぶ会の追悼小冊子に特別寄稿の依頼があった。そうそうたるメンバーの中に自分が入っているのに驚かされた。この頃文章を書くなどということはほとんどない。ささやかなブログを時たま書いているが全く気ままなもの。テーマも期限もないある種のわがままさを自認しているものにとって、締め切り日やテーマ等を与えられると金縛りになってしまう。今回締め切りギリギリで1000字の文章を送った。

山下さんとのひと時

「ところで今も秋田でツツガムシ病はあるのか」と山下さんは言う。「あるよ」というと誰でも知っている童謡「つつがなしや友がき、、、」を口ずさみジィーっと北上川の川面を眺めて無言となった。

10年ほど前、岩手県北上市で「TPPに反対する人々の運動」の会合に首都圏や、置賜百姓交流会の仲間等20数名が集まった。

北上の展勝地にあるレストハウスで会食は賑やかなものだった。展勝地レストハウスは北上川の辺にあって、近くに「北上夜曲の碑」や「サトウハチロー記念館」がある。

しばし談笑の合間にレストハウスの外、小さな丘のようになっていた場所で「山下」さんと二人で北上川の緩やかな流れを見ていた。秋田ではツツガムシ病をケダニ病と呼び、県南の雄物川流域に発生が多い。昔から全国的に発生する風土病とされる。

私の農業従事は1960年前後。「農業基本法」が制定され「緑の法律」等などと言われ、多くの人が翻弄されていた時代。「青年会」に入り、仲間と「農業問題研究会」等を組織した。運動の過程で「やまびこ学校」の山形の佐藤藤三郎さん、木村迪夫さんを知る。同時に山下惣一さんを当時NHKテレビ「明日の村づくり」で知る。

1972年11月、国交回復直後中国政府の招待で中国訪問。15名の中に佐藤藤三郎さん木村迪夫さんがいた。私の「農に定着」のためには偉大な二人と親交のあった、「農の立場を主張」する山下惣一さんは大きな存在になっていた。

私が山下惣一氏と出会ったのは2010年12月、「反TPP集会IN東京」の集会からだから日は浅い。1960年代から多くのエッセイや書籍に共通する、洒脱で豊富な知識に裏打ちされた表現に多くの人が喝采し育てられてきた。初対面も長い空間の時を感じさせない親しさが山下さんにはあった。

「東北の人間は嫌いだ。まじめすぎる、、、」と。彼は会話の冒頭によく私に言った。その度に張り詰めた「ベルト」を思い浮かべながら、「うーん、、、」と言ってそれ以上の発言はしないできてしまった。

数分前までレストハウスにぎやか懇談会。二人で見つめた北上川の川面。山下さんは玄界灘の海面を思い出していたのだろうか。訃報を聞いた時からこの時間が脳裏から離れない。

激動の今、山下さんに「やすらか」には似つかわしくない。あの軽妙な語りはいつまでも、、、との想いは消えない。

山下さん、ありがとうございました。

「山下惣一さんを偲ぶ会」を終えた2022年暮れ、「百姓は越境する」No.41号誌が送られてきた。

                       

私の拙い追悼文も掲載されている。限られた1000字で印象深かった「山下惣一」さんとのひと時を振り返った。会話がほとんどないわけではなかったが合えて、「つつがなしや、、、、」を切り取ってみた。今までとは別の「山下惣一」さんに会えたこのひと時、私にとって極めて貴重な時間となった。

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「変容する都市のゆくえ 複眼の都市論」の「減反詩集」

2020年07月20日 | 足跡

このほど「文遊社」から「変容する都市のゆくえ 複眼の都市論」三浦倫平・竹岡暢 編著が出版された。帯に「あの街は変わった」ーーーそれは本当だろうか? 「沖縄の基地都市、東京の下町・歌舞伎町、下北沢、渋谷の大規模開発、さいたま、丸の内・東京駅、多摩ニュータウン、、、、目にみえる「変容」と「不変」を疑い、その背後に何が起きているかを問う。

この本に『「村の記録」のなかの都市ーーーテレビドキュメンタリーに描かれた農村の変容』が収録されている。

「序」で三浦・竹岡氏は「執筆者の選定に当たっては「日本のある特定の場所について 都市/街/風景の変容 というテーマで、事実を積み重ねた記述によって論じることが出来る」という基準を採用し多様な専門分野からの参加を得られるように心がけた。、、、必ずしも「都市」そのものを直接取り上げている論考ばかりではない。捉成保志ほか『「村の記録」のなかの都市』は農村から都市を相対化する視点を提供しており、都市を見る私たちの想像力を大いに刺激してくれるだろう。と記している。

総ページ数383の大作の中で『「村の記録」なかの都市』は349ページから378ページまでの29ページにある。

349ページ

そして『「減反詩集」はどのように作られたか』363ページから378ぺージの15ページの詳細な書かれている。

363ページ

約47年前のNHkの放送記録。その記録は私の20代頃からの小さな歴史の一端に踏み込んでいた。読ませてもらって猛烈に懐かしさが込み上げてきた。

375ページ

映像の「減反詩集」の背景をつぶさに追跡した姿に格別ともいえる共感を持った。特に「山脈の会」への記述は圧巻だった。20歳前後に「農業秋田」誌に出てくる「鈴木元彦」氏の発言に注目。秋田魁新報の詩壇、詩誌「密造者」に出てくる鈴木元彦の詩等にくぎ付けになっていた。

月刊「農業秋田」は、農業技術の普及雑誌で、国や県の農政の重点施策などを農家に伝えるとともに、農業技術などの情報提供にあたってきた。 
昭和二十三年、農業技術の普及と農村生活の改善の指導に当たる農業改良普及員制度が設けられた。約百六十余人にのぼる普及員は、農家のよりよい助言者となるため、相互の連絡を密にして研究錬磨に努めようと、秋田県改良普及員協会を二十五年に結成。同年七月に、会員の機関紙を兼ねて全県の農家を対象とする月刊誌『農業あきた』を創刊したのである。

翌二十六年四月号から現在の名称になり、三十六年八月号からは同協会が組織する「農業秋田友の会」が発行している。雑誌の内容は生産技術、経営技術や農家の生活改善など広い分野に及び、技術普及に力点が置かれていたが農業の取り巻く情勢に立ち向かう姿勢を暗示させる記事もあった。

私は20歳前からこの情報誌を知っていて、農業技術はもとより鈴木元彦氏の蘊蓄に富んだ投稿を常に心待ちして読んでいた。そして当時、伯父のところに「鶴田知也」氏が時々来ており、伯父は我家にも鶴田知也氏を連れてきた。

昭和20年5月、鶴田知也氏は伊藤永之介氏を頼って横手町に疎開。鶴田知也氏は昭和11年8月、「コシャマイン記」で第3回芥川賞を受賞。鶴田知也氏は伊藤永之介氏が上京(昭和23年)のあとも横手にとどまり、酪農指導などで農村文化活動をしていた。鶴田知也氏との出会いは私の立ち位置を明確にし、その後の生き方に大きな影響を与えた。

そして、農民文学や農民詩のつながりで鈴木元彦氏を知り、白鳥邦夫氏主宰の「山脈の会」、「無名の日本人」を知る。白鳥邦夫著「無名の日本人」(1961)を探しに約10キロの雪道を歩いて湯沢の本屋に出向き店主に頼み込んで求めたのは1963年ころだった。1964年仲間10人で「農業経営をよくする会」を設立。67年に「稲川農業問題研究会」の名称変更。1970年の「第7回稲川農業問題研究会」に初めて鈴木元彦氏に出席要請、県北能代から駆けつけてくれた。これが私と鈴木元彦氏との初めての出会い。その後鈴木元彦氏と晩年まで交流が続いた。この顛末記はいずれ振り返ってみたい。

この度、文遊社出版の「変容する都市のゆくえ 複眼の都市論」の中で、「村の中の都市」の項がどういう位置づけになるのか等は私的には少し複雑な想いもある。第三者の評価があれば今後の糧としたい。

捉成・船戸・武田・加藤の⒋氏が自宅を訪問調査は2015年。長期に分析調査し今回「変容する都市のゆくえ 複眼の都市論」に取り上げていただいたことに感謝したい。

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追想 「米を作る若者」と 皆川嘉左ヱ門

2018年09月30日 | 足跡

2018年4月4日の朝、秋田魁新報電子版で皆川嘉左ヱ門の逝去を知った。秋田魁新報は4月7日付「北斗星」で次のように追悼した。

「横手市十文字町の国道342号を東成瀬村方向に進むと、右側の休耕田に彫刻作品が並ぶ一角がある。今月3日、76歳で亡くなった皆川嘉左ヱ門さんが23年前に開設した「減反画廊」だ▼皆川さん自身も農家だった。立ち尽くす老農夫、吹雪の朝市に店を出すおばあさん、田植えの女性といったテーマの作品で知られる。減反に翻弄(ほんろう)される農民像を繰り返し彫った▼平成の初め、40代後半の皆川さんは東京・銀座のど真ん中で不動明王を彫るパフォーマンスを繰り広げた。羽後町の農家・高橋良蔵さん(故人)と共に、コメ市場開放反対を大都市の消費者に訴えたのだ▼4年前、皆川さんが横手市で個展を開いた折に再会し、そんな昔の話をした。皆川さんは地元寺院の仁王像、湯沢市岩崎の鹿島様の面、羽後町の猿倉人形芝居の頭(かしら)を作る仕事などもしていると穏やかに話していた。気さくで飾らない人柄はそのまま。彫刻にかける情熱は衰えていなかった▼夏目漱石の小説「夢十夜」に、仏師・運慶が仁王像を無造作に彫るのを「あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿(のみ)と槌(つち)の力で掘り出す」行為だと説明するくだりがある。これに倣えば、皆川さんは木の中から農民の怒りや悲しみ、誇りや気概を彫り出した彫刻家だったといえそうだ▼個展会場で皆川さんをカメラに収めるとき、彫刻より本人が絵になるなぁと思った。バンダナを巻いて作務衣(さむえ)をまとい、どっしり立っていた姿がありありと思い出される。

 2017.7.1秋田県美術展覧会 孫の県展 奨励賞を喜ぶ アトリエ前

皆川君は級友たちから通称「デガ」で通った。名前で呼ばれることは少なかった。「デガ」は小学校三年の担任が紙芝居の主人公、気がやさしくて力持ちの「デガ象君」からつけられたと彼の著、「嘉左ヱ門 その生きざま 写真記録集」2002年イズミヤ出版で語られている。彼とは出身校が違い、当時彼の級友から「デカ」の名を聞き不思議な感覚を持ったことが思い出される。昭和40年5月増田町の真人公園を会場にして「皆川デガ野外彫刻個展」を開いている。その中に昭和39年県展奨励賞「女神」も展示された。彼はその名を誇りにしていたことが偲ばれる。

2017年7月1日私は「黒部」から秋田新幹線「こまち」で帰途、大曲で乗り換えの秋田から新庄行きの列車で皆川夫婦と一緒になった。孫(大学生)が平成29年第59回県展で奨励賞になった。見学の帰りだという。本人は昭和39年第6回で「女神」、息子は昭和63年第30回で記念賞、そして今回の受賞。本人は県展で三代の県展奨励賞に事の他喜んでいた。列車の中で十文字駅まで語り、さらに皆川宅のアトリエにて談笑した。この日が私と皆川君との最後になってしまった。

皆川嘉左ヱ門氏と昭和37年1月、秋田県青年の家主催「農業経営コース」に15日間一緒に参加し交流したのが始まりであった。秋田県青年の家は昭和34年秋田市寺内将軍野の「まゆ検定所」を改修して設置された。秋田県は当時基幹産業の農業の後継者の養成、確保を主なねらいで発足していた。15日間合宿形式の研修はその他のコースも豊富だった。農業青年ばかりではなく当時、秋田県の青年活動の拠点だった。現在この場所は解体され秋田県立中央高校のグランドの一部になったいる。

昭和37年1月の「農業経営コース」には全県から25人程集まった。研修は朝から夜までビッシリと続いた。コース参加者で最も個性的なのが皆川君だった。当時彼は茶道、謡曲の道に入っておりさらに見事な能面を造り持参していた。彫刻家としての歩みが始まっていた。彼の家では田んぼと乳牛を飼っており、私も昭和42年から乳牛を飼い「雄平酪農業協同組合」の組合員となった。当時皆川君とは研修後も青年会活動等で交流が続いたが酪農協の会合に来るのは本人ではなく皆川君の親父さんだった。皆川嘉左ヱ門の親父さんは良く家畜商と一緒に私宅にも来た。玄関先から親しく息子と交流を知っていて、「木を彫る(彫刻)より牛の爪をけずれ」と息子の木彫り(彫刻)を批判し、「止めるように話して欲しい」が口癖だった。

当時の彼は、「親父にはこまったものだ」と愚痴をいいながら作風には「頑固じじい」(昭和49年11月)をはじめ「休耕田に佇う」等、百姓老人が主体になっていた。皆川君は「百姓を彫る 皆川嘉左ヱ門の信念と木彫集」(昭和51年7月)の中で次のように語っている。

「頑固じじい」                                                                                                                                                                                                                                

田植えの時「田の畦は、                                         かがとをつけねで、歩くもんだ」といった。                               頑固じじい。                                                                                                           かたくなに、時世にさからい、                                                         自分の殻にとじこっている。                                       頑固じじい。                                                俺は、その反骨精神に、                                         共鳴する。                                                  なにかと、人の顔色をうかがって、                                   生きている。                                                今の世の中に、                                              真っ向から対立し、                                            自分の信念を通す、                                            その反骨心に、俺は、共鳴する。                                              昭和49年12月

                     頑固じじい  「百姓を彫る 皆川嘉左ヱ門の信念と木彫集」(昭和51年7月)

「頑固じじい」のモデルは別人、この作品にかすかに親父さんの面影が彷彿される。彼の写真記録集「嘉左ヱ門 その生きざま」等にも親父さんの写真は一枚も出てこない。

「米を作る若者」

平成19年山形県の 庄内町では「あなたが選ぶ日本一おいしい米コンテスト」を始めた。つや姫・はえぬき・コシヒカリ等おいしい米のルーツである「亀ノ尾」「森多早生」発祥の地として、消費者の求める安全安心でおいしい米づくりを全国に情報発信している。日本一おいしい米コンテスト機械による判定ではない、実際に食べた人による審査結果をもとに最優秀賞が決定する。「あなたが選ぶ日本一おいしい米コンテスト」には私も第一回から参加していた。平成19年、私の「あきたこまち」は決勝大会の準決勝まで進んだが決勝に進むことはできなかった。

平成22年第4回から高校部門が加わった。高校部門は、友人朝日新聞「清水弟」氏の提案で実現した。当時朝日新聞鶴岡支局に努めていた清水記者は、ことのほか庄内町の「あなたが選ぶ日本一おいしい米コンテスト」を評価していた。全国にある農業高校に呼びかけ「あなたが選ぶ日本一おいしい米コンテスト」の高校部門、「米の甲子園」が始まった。清水氏は高校部門最優秀高の副賞を「皆川嘉左ヱ門」氏に依頼したいとの提案があった。「皆川嘉左ヱ門」氏もかつて米と乳牛を飼い酪農組合に牛乳を毎日出荷し農業高校に登校していた。平成22年夏のある日、清水氏と私と皆川氏のアトリエで会談の結果「米を作る若者」が実現した。第4回大会の高校部門の最優秀賞は長崎県大村城南高校の「にこまる」に輝いた。

                           米を作る若者 2018.4.11

清水氏の「若者に希望を与えるもの」という依頼に彼は相当苦慮したらしい。後日談だと彼は出身校の増田高校の校長と打ち合わせ、陸上部の生徒を紹介され制作された。この像は10年続くことになっていたが清水氏の提案により昨年2017年から嘉左ヱ門氏の子息、皆川義博(秋田公立美術大学准教授)氏にバトンが移されていた。

今回皆川嘉左ヱ門氏の逝去で「米を作る若者」の一つを清水弟氏と庄内町の好意で提供を受けることになった。葬儀後の初七日に庄内町から送られてきた。写真は自宅の居間で撮った「米を作る若者」と杉材で作られたケース。私にとって唯一の皆川の作品、貴重な遺作品となった。

「鹿島様」衣替え

 

湯沢市 岩崎緑町 鹿島様 衣替え 2018.4.29  

4月29日湯沢から十文字に向かうと岩崎の国道13号線沿いで、「鹿島様」の衣替え作業をしていた。鹿島様は道祖神の一種で、秋田県中南部の一帯を中心見られる。集落の境に置かれ、疫病などの災厄が集落に入ってこないように設けた。湯沢市岩崎地区に3体の鹿島様があり、13号線沿いの鹿島様は岩崎地区緑町が担当している。

大きさが3~4mの大きな像でイナワラで胴体部分を10数人で作業していた。この鹿島様の面は、皆川嘉左ヱ門作を想い出し尋ねたら作業中の一人が「親父の時代造られたこと、制作者が今月始め亡くなった」と話し出した。立っている鹿島様の面はイナワラで覆われていて見えにくい。衣替え時は全体像が見られた。許しを得て面を撮らせてもらった。

この場所を通過のたびに鹿島様を意識する。どこかに皆川デカの風貌と重なる。

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異常気象 再「夏のない秋 実れ・あきたこまち」

2017年09月06日 | 足跡
今年の天気は例年と比べて今一つハッキリしない日が続いた、田植の終わった6月から低温が続き稲の分けつも少なく、秋田県農林水産部は6月13日作況ニュース3号で以下の状況を発表した。

「6月上旬この期間、低気圧や前線の影響で曇りや雨の日が多かった。寒気の影響で気温も低く、3日に角館で、4日に脇神、雄和、田沢湖、矢島で日最高気温の低い方からの6月としての1位の値を更新した。また、6日は、男鹿、阿仁合、雄和、東由利、にかほ、矢島、湯の岱で日最低気温の低い方からの6月としての1位の値を更新した。旬平均気温は低い~かなり低い。旬降水量合計はかなり多い。旬日照時間合計は少ない~かなり少ない。6月上旬で気温平均15.9度で平年差-2.1%、降水量102ミリで418%、日照時間28.5hrで44%と調査結果公表している。

東北各県の状況について8月31日河北新報の記事。

<コメ作況>東北4県「やや良」天候不順の影響小さく

拡大写真 東北農政局は30日、東北の2017年産水稲の作柄概況(15日現在)を発表した。太平洋側で続いた低温と長雨の影響は調査した時点では小さく、4県で「やや良」(平年比102~105%)、2県で「平年並み」(99~101%)の見通しとなっている。

河北新報オンライン 17.8.31

各県の作柄は図の通り。地域別では、8月に入ってから低温の影響を受けた青森県の南部・下北、7月下旬に大雨に見舞われた秋田県南が「やや不良」(95~98%)となり、他の地域は「やや良」か「平年並み」となった。7月の好天で生育が順調に推移した一方、登熟(もみの実入り)は出穂後の低温と長雨で進まず、青森、岩手、宮城は「やや不良」で、秋田、山形、福島は「平年並み」だった。登熟の良否は粒の張りに影響するほか、刈り取り時期も左右する。東北農政局の担当者は「登熟のスピードが緩慢になっており、品質、収量の上でも適期刈り取りが重要になる。今後の天候の推移を注視したい」と説明した。
 東北の地域別作柄は次の通り。
 【青森】平年並み 青森、津軽▽やや不良 南部・下北
 【岩手】やや良 北上川上流、北上川下流▽平年並み 東部、北部
 【宮城】やや良 南部、中部、北部、東部
 【秋田】平年並み 県北、県中央▽やや不良 県南
 【山形】やや良 村山、置賜、庄内▽平年並み 最上
 【福島】やや良 中通り、浜通り、会津

9月1日付けでJAこまち、JAうご、農業共済、湯沢主食集商組は「雄勝稲作情報」を全農家に配布した。これは8月20日現在の生育状況について、管内8地点の平均値を雄勝地域振興局の調査結果。これによれば㎡当たりの穂数は平年比の98%、着粒数も平年比98%で例年とほとんど変わりがないが地域、ほ場の格差が大きい傾向にあるとした。特に着粒数は標高200ⅿを超えると全平均値の70%前後となっている。調査8地点中の3地点、1地点は平均値の60%、標高160m地点に見受けられる。調査時点の8月20日は例年よりも1週間から10日遅れの出穂から10~15日後の調査結果。次期調査の9月15日の結果がまたれる。
雄勝稲作情報 №8 平成29年9月1日

現在のところ「河北新報」の報道で東北各地、湯沢、雄勝地区の稲作情報でも冷害への危機感は見られない。9月に入って天候はやや持ち直しているようにも思えるが、低温傾向が続いている。稲の登熟にどのような形になるのか心配される。気象庁は1日、今年の全国の梅雨入りと梅雨明けの時期を確定し、8月2日頃としていた東北地方の梅雨明け時期を「特定しない」に修正した。梅雨明けが特定できなかったのは、2009年以来。同庁は「冷たく湿った北風の影響が弱まらなかった」と分析している。1993年の大冷害の年も梅雨明けは特定されなかった。

このような状況で1993年(平成5年)の大冷害騒動が頭から離れない。私は1993年ハガキ「河鹿沢通信」で冷害状況を記録し友人、知人に送っていた。8月の「夏のない夏 八月のうぐいす」1~3に続いて9月に「夏のない秋 実れあきたこまち」1~4を発行した。異常気象傾向のこの時期、24年前の9月7日から21日まで4回の記事、「夏のない秋 実れあきたこまち」を再掲載し当時の状況を確認しておきたい。

「夏のない秋 実れ・あきたこまち」①1993.9.7 ②9.13 

「夏のない秋 実れあきたこまち」① 1993.9.7

河鹿沢通信19号、8月20日発行で仙台管区気象台は8月13日梅雨が明けたと発表したが、その後10日も降り続く雨に低温に「この夏は夏がなく梅雨明けがすぐ秋だ」と書いて送った。こともあろうに、仙台管区気象台は9月に入って6月2日といった梅雨入りも実は6月3日であったといい8月13日梅雨明けも修正し、特定しないと発表した。「梅雨明け」なしというのである。その結果、当初梅雨の期間が史上最高の72日間だったとの発表が、「梅雨明け」なしとの修正で期間がいつまでなのかわからない異例の事態となってしまった。9月早々の好天も3日ともつづかず、さらに日本列島を直撃する台風で雨、雨がつづいている。梅雨がまだつづいているのか、秋の長雨に突入してしまったのか。はっきり区別がつかない日がつづいている。秋田地方気象台によれば、8月上旬から中旬までの平均気温は平年を 3.5度も下回る21.3度で1951年の統計開始以来、下から3番目で真夏日もわずか5日間しかなかったと発表した。

8月後半の出穂の「あきたこまち」に、花の咲かない粒も多くみられたし、「茎が太く、大きな穂をしっかり稔らせるイネは出穂開花時がにぎやかで、えい花のオシベがきちんと6本そろっている」(薄井勝利著 豪快イネつくり)と比較してそのオシベが4本、5本であったり、中にはないものもあった。一穂の開花が天候不順で、まばらで6本のオシベがあっても気のせいかやや小さめで力強さをみることはなかった。日増しに実のつかない障害型の冷害はハッキリしてきたし、さらに出穂から登熟に必要な積算温度約40日間で 800~900 度は、先に秋田地方気象台発表した8月上、中旬の平均気温21.3度からみて不可能に近い。9月は8月と比較して確実に気温が下がり登熟に必要な積算温度は確保できないと考えるのが常識だ。
つまり 8月20日発行「河鹿沢通信」19号で指摘した障害、遅延の両方の「大型冷害」が確実となった。

麓地区は海抜約 140メートル地帯、有機米栽培の稲川町農協の中心地だ。その中で薄蒔きの健苗、3.3 m2あたり60株以下の栽培の稲は一般栽培との違いがハッキリし、成育は進んでいる。それでも平年の20%減で止まれば良い方か。海抜 160メートル以上、稲庭地区の成育が遅れ、イモチ被害等平年の30%以下の収量もありそうだし、中には皆無のところもでても不思議ではない状況がつづいている。

「夏のない秋 実れあきたこまち」② 1993.9.14

大型冷害が、さらに進行している。日増しにハッキリしてくる不稔、「あきたこまち」の出穂は8月中に終わったが、「政府米」用として登場した「秋田39号」の成育の遅れは想像以上だ。9月6日になって開花というのもある。8月末になって「大型冷害」の様相が決定的になると、秋田県を始め各市町村議会で対策論議が盛んとなり、でてきた「対策案」は決まって「稲熱病防除」のため薬剤費を助成するのだという。冷害予想が極度になりせめて「穂イモチ病」を徹底防除して減収を最小限で止める、ということにそのネライがある。各市町村、議会は目に見える対策として効果的かもしれないが、農家の立場からみたら必ずしも歓迎できるものではない。現在決まっている、町や農協あるいは県の防除費を、仮にプラスしてみても10アールあたり数百円ほどからせいぜい千円にも満たない。多くの農家の経営規模からみたらそれこそ晩酌の2 、3 本のビール程度の助成。大型の冷害予想からしたら、超ミニプレゼントとみるべきでないのか。

一方、財政規模の窮屈な市町村からみると、総額数百万から一千万円の防除費補助の財源負担は大きい。多くの農家がそれほど歓迎しない助成と、市町村にとって大きな財政負担になる資金は、もっともっと農業にとって有効な使い方があるはずだ。県、市町村あるいは農協、そして一部の政党が声を大きくして防除費の助成をとの報道に多くの農家は賛成とも思えない。今年の稲作の結果はあと一ケ月もしたらわかる。それが今まで経験したことのない大型冷害になったにせよ、中には技術と管理で減収を最低限でおさえた事例はでてくるはずだ。9月10日現在でも古くからの「苗代半作」といわれるように「健苗」と「早期田植」、さらに「坪あたり60株以下」の粗に植えつけし、稲そのものの能力を十分引き出す栽培管理した圃場の減収は最小限に止まりそうな情勢だ。

「地球の寒冷化」をいわれてきた昨今、冷害は今年限りという保障はない。まだまだつづく可能性が大きい。20数年にわたる減反、あいも変わらず国際価格よりメチャクチャに高い「日本の米」と、農業叩きが繰り返されている中、確実に農家は「米」栽培から意欲が離れつつある。数百万から一千万規模の財政負担が可能なら、これらの資金で今年の大型冷害でも平年作を勝ち取った事例を分析し、さらに多くの農家に広める「モデル田」や「基金」として、活用すべきではなかったか。

「夏のない秋 実れ・あきたこまち」③ 1993.9.17 ④9.21

「夏のない秋 実れあきたこまち」③ 1993.9.17

昭和51年、県は9月6日に5回目の本部員会議を開き、「県稲作異常気象対策本部」を「県稲作冷害対策本部」に改めた。それは「異常気象に対する稲作技術指導から一歩進め、被害農家の救援体制づくりを急ぐほか、次年度以降の営農技術対策として地域別栽培基準の作成や地力増強対策の推進に力を入れる」ことになった。当時の主力品種はキヨニシキ、トヨニシキで県の奨励品種の中で耐冷性が高いのはヨネシロだった。そのヨネシロも300 メートルの標高となれば、出穂が9月になってのところが多く収穫が皆無の状態だった。同年農林省発表の10月15日現在の作況指数で、秋田県は東北で最高の93、全国平均は94だった。しかし、朝日新聞秋田支局が調べた県内の市町村別作況指数( 昭和51年10月 4日付朝日) は、稲川町が85とある。推定日は 9月17日、ちなみに推定日 9月30日で湯沢市75、東成瀬村50、皆瀬村40、雄勝町50~60、羽後町は推定日9 月20日で69と報告されている。

そして今年、51年の冷害をはるかに超える「大冷害」が予想されるのに何と対応の鈍さなのか。イモチ防除費の、一部助成以外ほとんど示されていない。警告だけで対策の希薄なのは、「米」に対する行政対応の低さからくるのだろうか。 当時雄勝農業問題研究会は、昭和48年 3月に農業問題研究集会を湯沢市で開いた。当時気象庁和田静夫長期予報官が、2、3年先に「大型冷害」の心配があり、稲作は耐寒性品種を準備すべきとの指摘があった。早速、大曲の東北農試に出向き耐寒性品種を相談したら、県内には今のところないので青森の黒石農試に相談するよう助言された。それが青森で昭和48年に奨励品種に指定された「ふ系 104号」だった。雄勝農業問題研究会では、早速種もみを取り寄せ49年、50年と試験栽培し冷害年の51年には湯沢、雄勝管内で130 ヘクタールまで拡大していた。

秋田県は、これらの民間運動に触発された形で「ふ系 104号」を県の奨励品種に指定、ここに「アキヒカリ」と名をかえ誕生となった。「アキヒカリ」は、その後東北各地に広まりうまい米「あきたこまち」誕生まで約10年間、東北の耐寒性品種として地域の経済を大きく支えてきた。しかし、今この未曾有の大冷害が予想される中で「秋田39号」、「あきたこまち」以外農家が栽培する品種はない。「うまい米」崇拝の中で耐寒性の品種イコール「まずい米」のレッテルをはられ、かつての耐寒性品種が消えていった。「うまい米」で耐寒性のある品種の誕生は不可能なのか。51年当時いわれた「政治冷害」はまだつづいている。

「夏のない秋 実れあきたこまち」④ 1993.9.21

9月17日、皆瀬村若畑地区に行く。9月10日の秋田魁新報で、標高 420メートルの若畑で不稔率あきたこまちで98.9%、たかねみのりで90.2%の記事があった。標高 160メートル前後で成育の遅れている稲庭地区では穂イモチで赤茶色の田圃が一面に見える。
昭和9年、秋田魁新報「凶作地帯を行く」のルポ由利郡笹子村のタイトル同様「青稲の直立不動、稔ればイモチ病」そのままの状態だ。稲庭地区以外もまだまだイモチ病は広がる様相。 成育がいくらか進んだからイモチ病があるので皆瀬村若畑地区、長石田地区の稲は「直立不動」。稲川町では大谷地区にも「直立不動」型の稲がある。皆瀬村若畑、長石田地区を見聞し、もしかしたら皆瀬村では全村民の飯米の自給ができないのでは、と考えてしまった。9月の彼岸がもうすぐで、気の早い雑木が少し色づいてきたというのに一部穂揃いしない稲と、穂の空っぽの稲が「直立不動」で整然としている。その姿に不気味にも思える。かつての農民は、凶作と高い小作米で「米」をつくっていて「米」を食べられない時代がつい数十年前までつづいていた。それが、高度経済成長政策と農業近代化政策のおこぼれを頂戴し、「田植機稲作」が浸透していた今、「米」をつくっていて「米」を食べられないことなど大方の農民は経験していない。

9月15日、コメの民間調査機関、「米穀データバンク」は「冷夏による不作のため、日本は百万トン以上のコメを外国から緊急輸入することを年内に決定、来年実施されるだろう」との見通しを発表した。この報道によると、92産米 がこの 8月末で政府米が50万トン、自主流通米が20万トンの計70万トンしか残っていない。全国の 1ケ月の主食用コメ消費量が約60万トンなので、92年産米はこの 9月中に食べ切ってしまう状態という。今後、93年産が出回ってくるとはいえ、来年の 8月、 9月になると国内産米がゼロになるというのだ。

食糧庁は「来年夏から出回る94年産米を前倒し供給すれば、米需給は心配ない」と必死に否定している。しかし、「米穀データバンク」のいう 1ケ月の主食用コメ消費量が約60万、「食糧庁」は約83万トンだという。農業関係筋の予想は93年産最終作況「85」( 著しい不良) 程度に落ち込んだ場合、収量は消費量10ケ月分の850 万トン程度となり、冷害が来年もつづけば確実に「米不足」になる。それは、「農業軽視政策」の「つけ」がいよいよ現実のものとなり、今さら減反緩和策をとってもどうにもならないかもしれない。
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再 夏のない夏 ハ月のうぐいす 1~3号

2017年09月01日 | 足跡
1993年は大冷害の年だった。今年も田植以降低温傾向が続き「あきたこまち」の出穂は例年と比べて一週間から10日も遅かった。東北の太平洋側は「ヤマセ」が強く、日照不足で作柄に大きく影響しそうだ。

1993年8月、ハガキ「河鹿沢通信」で「梅雨と小さな秋」と「夏のない夏」八月うぐいす1~3号を発行した。冷害傾向の今年なので以下に「夏のない夏 ハ月のうぐいす」1~3号を再掲載しておく。

梅雨と「小さな秋」 1993.8.8

気象庁の発表で今年は6月2日に「梅雨入り」だと宣言があり、いつもより約半月も早かった。そして、例年だと7月末か8月早々に「梅雨明け」が発表されていたのだが、それが今年は8月の七夕祭りというのに梅雨空は一向に晴れそうもない。春からの異常天候は長々とつづき、田植え後遅くとも、6月半ばで終わっていた一番草の牧草の刈り取りも今年は7月の末までずれ込んでしまった。それも刈り倒したあと連日の雨で、黒っぽくなった「乾し草」を収納する有り様。 雨と低温で稲の成育は大幅に遅れている。

例年だと8月早々にも「走り穂」があったのに、今年はやっと「はえの尻」なったばかりで、「セミ」の鳴き声もしない低温で成育がストップの状態なのだ。いつものとおり牛舎での作業中、NHKラジオから女性キャスターの問い、「日本の米は外国と比べてどうなんですか」男性解説者「高い、メチャクチャに高い」。翌日の新聞、「日本の米は国際価格の5倍」の記事。常に、考え込んでしまうのだが。経済や国家の仕組みをそのままにして価格だけ比較する考え方の貧しさ、このことによってどれだけ農業生産の意欲が低下してきたことか。

今春発表の民間調査機関、「労務行政研究所」によれば今年の初任給は1987年の円高不況以来の低い伸び率で大卒19万4045円、高卒15万1008円だという。( 調査は東証一部上場企業 189社の回答) 一年で順調に行ってやっと手にできる10アール分の粗収入を大卒1ケ月で得られる経済の仕組みでは 農業後継者が育たないのはある意味で当然のことなのだ。まして規模拡大で米価を今の1/3 か1/5 せよなどとの政策なら、ますます後継者はもとより農業者までいなくなる。

仮に農業の規模拡大や企業経営体を説く、マスコミで少しは名前の売れている評論家や大学教授の講演料ときたら、これまたテレビに良く見る日本公告機構のコマーシャル「東京の中学生が3年間で空き缶を拾いで50万円にもなりネパールに学校が建った」というようなお金が、2時間程度のたいしてためにもならない話で手に入ってしまう。だから、「日本の米が高い」のマスコミ、財界の総攻撃を耳にすると偉い先生方の講演料とか給料は、国際標準とやらの何十倍となるのかなどとついつい考えこんでしまう。8月の低温で稲は大変な事態に向かっているというのに、NHKラジオから早くも「小さい秋みつけた」のメロデーが流されだした。

「夏のない夏」八月のうぐいす 1~3号 1993.8.20~8.25

ハガキ「河鹿沢通信19号 20号

① 1993.8.20

8月も15日になっても稲の穂が出ない。気象庁は、6月2日東北地方に「梅雨」入り宣言、8月13日梅雨が開けたと発表したが依然と雨がつづく、この夏は夏がなく梅雨明けはすぐ秋の様相。 気温13度の朝は、もちろん季節は真夏だというのにセミの声もせずひっそりと静まり返っている。セミに変わって朝の時を告げたのが8月に入ってからのそれこそ季節はずれの「うぐいす」。梅の木ならさまにもなるだろうが近くの柿、桐、槻の木、栃などの木で夜明けからしきりに鳴く。

それも一週間も続いたろうか。その鳴き声もいつのまにやら消え、また不気味な静けさの朝がつづいた。終戦記念日というどんより重たい雲の朝、田圃の見回に行くといつの間にか聞こえなかった「うぐいす」今度は八坂神社の境内、「切り崖」周辺でカン高く鳴いている。

せっかくのセミも、孵化途中寒さのため地面に落ちて死んでいるというこれほどの冷たい夏。今稲づくりしている者にとっては経験したことがない夏でもある。もしや、昭和9年の大冷害に匹敵災害となるのではないのか、、、、、、。

以下は昭和9年秋田魁新報『凶作地帯を行く』のルポ記事からの抜粋を紹介。

「蝋燭の暗い灯に悲痛な訴え続く、花咲かぬ稲の姿よ・須川村の高松」。「封印された馬が実らぬ稲運ぶ、免税の申請二百十町歩・呪はれた仙道村」。「豆さへ実らぬ田代村の哀歌、谷間の紅葉ばかり徒ら錦を飾る」。「温泉郷と飢餓群、国有林と民、ここにも惨たる変相図・秋の宮村を見る」。さらに、「官行造林のため蕨根も掘れない、養蚕も駄目、煙草も駄目・東成瀬村の下田」。

これが湯沢、雄勝地区の記事「凶作地帯を行く」のタイトルだ。記事の一部「刈った稲はどうにもならぬから火をつけて焼いたが燃へもしない。さりとて馬に喰わすと腹をイタするから呆れたものだとカン高く叫ぶ。成る程窓外に五分程度刈られた稲を見ては成る程とうなずかれる。さらに一農民は曰く今年の稲は役人みたいだ。頭はチットも下げないといふ。それならいい方だ植えたまま青々と生えているのがある」。 秋田魁新報は8月17日の朝刊で「障害不稔の恐れも。県、異例の実態調査へ」と警告した。しかし、実際は障害型冷害ばかりか遅延型冷害と合併症状で「大型冷害」が進行している。8月一杯穂の出ない田圃が稲川町にも出そうだし、最悪だと半作か。

② 1993.8.22

8月18日、いつものようにセミの鳴き声一つしない朝、当然「すずめ」の声も何もしない。
夏というのに山間部では「電気毛布」がないと寝られないという話や、夜は石油ストーブが必要というところもあるという。10時近くなって、ところどころ雲の空き間から弱々しいお日さまが出てくるころになってやっと、アブラゼミやミンミンゼミが鳴き出した。

「稲川野」の稲は早い田圃で出穂が始まったばかり、ほとんどの稲は「穂孕」の状態で成育が止まっている。川連から増田方面、成瀬橋まで車で走って見てもほとんど同じ。それでも出穂は多めに見ても1~2割ほどの田圃しか確認できない。それがこんなにも違うのか、国道398号線の山谷峠を超え湯沢市、羽後町へ向かうと約90%近くも出穂。穂の出ていないところを探すのがやっと、という状態なのだ。稲の草丈も明らかに違い10センチは稲川町より長く見える。同じ時間帯に湯沢からせいぜい海抜250 メートル前後の山谷峠の東側は雲も幾分多めだ。雲の多い分気温も低めとなるのか。太平洋側からの「やませ」が、栗駒のやまなみを超え、皆瀬川沿いをそのまま冷気が強烈に直撃しているのかとも考えてしまう。

羽後平野と比較して、田植えが幾分遅いにしてもその成育の差は、歴然としている。5日から一週間の遅れにも見える。さらに「止め葉」の半分ほど赤茶けて枯れているものも皆瀬川筋には見られる。いずれ天気が回復したとて、登熟にも大きく影響はするはずだ。しかし、出穂を喜んで見ても半月ほど前の減数分裂期の低温で、障害型の不稔は心配だ。この期間は最も低温の影響が受けやすいといわれ、花粉母細胞の分裂期に当たり、成育が進んで幼穂が水面より高い位置だと水管理程度で低温対策が不可能となる。それでも稲の穂揃いは、何かしらホットする安らぎはあるものだ。

天気は依然として回復しない。毎日曇りか雨、気象台は8月13日梅雨明け宣言をしたが、8月22日になっても「家の中」はじめじめとし畳にカビさえ見える。低温と日照不足は稲の登熟には致命的なのだ。「青稲の直立不動、稔ればイモチ病」これは昭和9年の冷害、秋田魁新報の由利郡笹子のルポ、この年冷害に良く耐えた品種は「愛国」で一番負けたのが「陸羽 132号」だったという。「うまい米」とばかり「あきたこまち」にかたよってしまった現在、冷害被害はどの程度でおさまりがつくのか。不安な日々がつづく。

「梅雨と小さな秋」と「夏のない夏八月のうぐいす」③

③ 1993.8.21

昭和9年の「凶作地帯を行く」は同年10月16日から11月5 日まで21回にわたって秋田魁新報に連載された。収穫が平年の50パーセントを大きく割り、特にルポ地の山間部に皆無のところもあったという。 農家でさえ食べるものがなく、借金に苦しみ、田や畑、娘まで身売りせざろう得なかった当時の状況が生々しく報告されている。

以下はその記事の一部。「寒サノ夏ハオロオロ歩キ」と「雨ニモ負ケズ」を世にだした「宮沢賢治」のあまりにも有名な詩もこのころのもの。低温と雨つづきに、天候の回復を祈るしかない毎日に「オロオロ」するばかりで、何もできないのは今の時代も同じだった。また、農民詩人「北本哲三」の「おその」という15才の女性が百円の金と引換えに稼ぎに行く、詩「売られ行くものよ」で人間一匹百円也と詠った作品もこのころの時代。

貧しさからの脱出のために娘一人が 200円から 300円で売られ、借金を差し引くとせいぜい 100円しか残らなかったという。当時の米の値段と比較して 100円は今の 100万ほどいう人もいる。『米に生きた男』の著者「及川和男」氏がいう、当時の価格が「白米一升1円20銭、金1グラム3円40銭」と比較したらその10分の1の10万円程度か、、、、、。8月25日、平年に比べて10日から15日遅れの「穂揃」の季節が稲川野にやっときた。それは梅雨明け宣言発表以来、さらに10日も雨が降り続いてやっと「太陽」の見える2日目でもあった


8月26日稲川町異常気象対策本部の稲作現地調査が行われた。海抜114 メートルから190 メートルまで9ヶ所の地点で、稲川町の等高線沿いの平均的なところとなる。稲川町で最も標高の高い「小沢地区」では、まだ80%は出穂せず8月中に穂揃となるのか疑問だった。中に30%ほど出穂したのもあったが、イモチの被害もありさらに草丈が短く出ていた穂も何となく弱々しく平年の三分作か。

海抜 163メートル 稲庭の梺ではイモチと低温障害の白孚、まだ穂が揃わない。あまりにもイモチが多く、仮に天候が回復したとしても半作以下となる可能性十分考えられた。稲川町では、岩城橋周辺から海抜 150メートル以上となれば稲の姿が一変し、出穂の遅れは歴然とする。

8月も25日ともなれば、出穂時期の安全限界になる。
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再々 「清貧の思想にみられる新農政の展開」

2017年08月25日 | 足跡
2013年2月「清貧の思想にみられる新農政の展開」を投稿した。1993年ハガキ「河鹿沢通信」創刊を取り上げた。今回再々として2013.2月の記事を取り上げた。

ブログは2008年1月からOCN「麓の風」。「河鹿沢通信」は同年11月でココログで始め、このブログは2008年6月の岩手、宮城内陸地震をきっかけに「麓左衛門日記」で始まり2012年7月ココログの「河鹿沢通信」から移動「新河鹿沢通信」なったものだ。

ハガキで「河鹿沢通信」の発行を思い立ったのは1993年1月のことであった。1989年にやっとのことでワープロを手に入れた。 富士通のデスクトップで当時の新しい型だった。21万ほどだで当時の自分にとっては高価な買い物だった。富士通にしたのは変換が親指も使いローマ字変換な苦手な自分にピッタリと思ったように思う。パソコンなどはとても高価でパソコンのパの字も話題にでることもなかった。

当時弟が秋葉原の電器店に勤めており、オーデオの販売担当でパソコンの販売はしていなかった。「近い将来パソコンの価格は20万以下になるだろう」と言ったら「とんでもないことだ」などと反論された時代だった。

字の汚い自分はほとほと何かを書くことに抵抗があって、「タイプライター」出現を心待ちしていた。当時警察署などの窓口で免許証の書き換え手続きにはやっと和製タイプライターが入り、珍しくもあり目にすることが楽しみでもあった。

それが1989年やっと手に入る価格でワープロが自分の物になった。その興奮は忘れられない。マニアルを片手に悪戦苦闘の毎日。近くで持っている人も知らず聞くこともできない。
それでもなんとか使いこなせるようになると「通信」発信などという欲にかられて始まったのがハガキの発行「河鹿沢通信」であった。ハガキに見出しを抜いて8ポイントの活字は1000字ほど書く事が出来た。

発行者を 「奈珂 郷」とした。

3、4、5、6号は「清貧の思想」に見る「新農政」の展開。
当時中野孝治著「清貧の思想」(草思社)がベストセラーになり、農林水産省が発表した「新しい食料・農業・農村政策の方向」に絡めて私論を知人・友人に送った。

その年の夏は経験したことのない冷夏。大冷害となった。 通信19号から22号まで「夏のない夏 八月のうぐいす」。23号から27号まで「夏のない秋 実れあきたこまち」を発行した。20年程前の記録を随時「足跡」として振り返って見ることとした。

記は93.3.3~「清貧の思想」に見る「新農政」3、4号 原文のまま

河鹿沢通信 3号 「清貧の思想」に見る新農政の展開 ① 1993.3.3

「清貧の思想」(草思社刊)中野孝次著が今ベストセラーになっている。
講談社「日本語大辞典」によれば「富貴であることより潔白であることをのぞんで、貧乏に安んじていること」とある。
光悦、西行、芭蕉、良寛、兼好等の生き方をとうして「生活は簡素にし、心は風雅の世界に遊ぶことが人として最高の生き方だとする。日本が外国に対して最も誇ることの文化だ」という考えが、今日の日本の隅々で、バブル経済への反省がうまれつつあるなかで共感をもって迎えられた。 振り返ってみれば、かなり思い当たることがこの「麓」の集落にみることができる。
平均耕作反別77アールで稲川町の集落のなかでも大きいほうではない。
1990 年 2月発刊の「農の息吹き」いなかわ地域・農業振興推進会議編によれば麓戸数59の内農家戸数44戸中、「麓」に居をかまえた時期が江戸時代、又はそれ以前というのが14戸、戦後が 6戸にしかすぎない。農地改革前の土地所有形態で「小作」という農家が14戸だった。
そんななかで現在まで農家戸数の大きな変動はない。もちろん水田が中心であり戦前は養蚕が盛んであった。稲川町史よれば、養蚕振興は1700年代からであり秋田藩で繭を作るよう藩に献言した最初の人が川連村の「関喜内」であった。また800 年の伝統という川連漆器の「木地師」も麓の東の山並みを越えた「大滝沢」で作られていたという。 木地師はその後山を越え今の集落でも戦前まで作られていた。そして、その通り道を今でも通称「夏街道」と地元ではいう。 夏街道同様、地藉にも地図にも見当たらない地名がざっと列挙してもその他に「大屋敷」、「河鹿沢」、「柳沢」、「宿」、「森越」さらに「万華の小屋」という地名がある。他にも詩歌をたしなみ、絵を描き、学問に励み医者となった人など多くの偉人がうまれている。 我が集落にも多くの「風雅の世界に遊ぶ」考えがあったことを伝えている。そんなわけで筆者はそういう考えが集落を今日まで発展させてきた基盤のひとつであると考えるわけだ。

4号 1993.3.7

平成4年6月農林水産省は「新しい食料・農業・農村政策の方向」を発表した。
今後十年程で大規模稲作経営が広範に成立し、他産業並みの生涯所得が得られると政策はいう。だが農村現場でどれほどの評価があるというのだろうか。 かつて昭和36年に「農業基本法」が成立し基本法農政がスタートしてすでに30数年経過した。あのときもそのようなことがいわれた。しかし、多くの農民が選択したのは規模の拡大ではなく「兼業」という道だった。この30数年、「規模拡大」を選択した農家や、基本法で示した「選択的拡大」といわれた方向に進んだ農家は、一体どうなったのか。確かに中にはそれなりの成功した事例もある。
振り返ってみればいち早く「離農」したのも彼らだったし、離農までとはいかなくとも「多額の借金」でその返済に追われているのも彼らに多い。そしてそれらの累積負債が所属する農協の経営をも圧迫し、合併構想のひとつのネックともなっている。

昭和63年岩手県の教育会館で、NHKテレビでのあるシンポジュームで「規模拡大こそこれからの農家の生き残る道」を説く大学教授に、「規模拡大でコスト低減と農家の残る道というのはある種の伝説だ」と質問したら、「高齢の昭和ひとけた生まれの人達が農業まもなく引退する。後に続くやる気のある担い手は少数だ。だから大規模農業はすぐの目の前だ」と説いた。この考えはこの「新農政への展開」のシナリオとも見事に一致する。だが、基本法農政で示した方向は実現できなかった。今後も、家族構成は変わらないだろうし若い担い手は確かにすくない。 今後、今の政策が続くかぎり大幅に増えるとは思われない。農基法農政の十分な反省もなく「規模拡大、農地の流動化促進」を説く政策は多くの農民からは支持されていない。現実に「農業を中核」として地域が成り立っているなかで、多くの兼業農家をどうするのか「政策」は示していない。だから「離農」を前提とした「新農政への展開」なら「地域の崩壊」は確実に進み、風雅などは育たない。

「清貧の思想に見る新農政の展開」シリーズ ③と④ 



「新農政」、「新しい食料・農業・農村政策の方向」では「農村は人間性豊かな生活を享受し得る国民共有の財産」また「個性ある多様な地域社会」と並べたてている。
しかし、都市の過密と地方の過疎が進行している現実のなかで、どれだけ政治の恩恵を地域社会は受けてきたのだろうか。 30数年来政策の中心は、規模拡大路線だった。その政策のなかで土地を手放さない、貸さない農家を「やる気」ない農家とし、制度として規制できないかと話し合ったという。「やる気」ない農家が多いので、やる気のある「規模拡大農家」が育たないという考えなのだ。そのため、意図的とも思える外圧を背景に農産物価格の引き下げに奔走した。農産物価格の引き下げ政策が多くの兼業農家の離農に結びつくと考えた。だが、その政策誘導もままならない。

高度経済成長政策のときは企業の人手不足の要員となり、バブル華やかしの景気のときは「安くて、美味しくて、安全」な食料の供給を、と急かせられた農村。バブル崩壊の今、「新農政」は都会人のため「グリーンツーリズム」を唱え出した。バブル崩壊でリゾート開発、全国いたる所で山々を切り崩し、畑を埋め別荘、スキー場、ゴルフ場開発。その開発が頓挫しつつあるときに「都市住民の間では最近、田舎がちょっとしたブーム、自然と触れ合い、心の豊かさを取り戻したいとの欲求から」というのがグリーンツーリズムの考え方だ。
平成5年度から実施、と政策の目玉ともなっている。ヨーロッパ諸国では、すでに古くからの週末の過ごし方として定着している。スイスの「山岳民宿」や、ドイツの「クラインガルテン(市民農園)」などにみられる。

全国農業会議所発行の「つちとみどり」1993.2月発行によれば豪華なレジャーではなく「家族一緒にお金よりも時間を使って心豊かに過ごすニーズ」が高まってきた。
その背景が「グリーンツーリズム」だという。しかし、今の農村のなかで、なにかしら通り抜けていく「虚脱感」を感ずるのは自分だけなのか。

④  

今回の不況は、高慢な態度で勝手にバブルをふくらませ、破裂してしまった「自家中毒」型のものだともいう。だから不況の乗り切りは、時間がかかり企業倒産、解雇等がもっと進むのかもしれない。なにもかも、経済的効率至上主義で物事をおしはかる考えが主流の世界には「人間らしさ」、などという考えがなかなか育たなかった。ただただ、物が豊富で頑張ればたいていのものが手に入る社会は反面さまざまな公害を撒き散らしてきた。ゴミは産業や日常生活のなかからあふれ、全生産物の52パーセントは廃棄物といわれる。経済成長は反面、廃棄物成長となり環境の汚染につながりますます生活を制約することとなった。高度に進んだ今のくらしを「清貧の思想」の時代には戻せないとの考えもある。しかし、今バブル崩壊の大型不況は何か高慢でやや傲慢さもあった社会への反省のチャンスにはならないものだろうか。

「新農政」の方向でとても新しい世界が開けるとは思えない。一部の組織体が、農業生産を代替できたとしても圧倒的多数の農家、農業人口の吸収は地域の経済が背負いきれないし、か
といって過密な都市でも背負いきれない。どこまでも、こんな経済至上主義が発展すると、他
の国でと思っていた「経済難民」の急増は現実のものとなろう。始まっていると考えたほうが
いいのか。

------

手前味噌に言えば、振り返ってみると約20年前と状況が変わったとはとても思えない。 今日の農村の実情を見るとむしろ政治は何をしてきたのかとさえ思う。農業の規模拡大とは圧倒的多数の離農者を生むことだ。限られた農地は一人や二人の成功者を得るために離農促進政策が当然かのようにすすめられきた。多くの農家は農地から離れた。離されたと云うべきかもしれない。規模拡大は多く農家を政治的に追い出して成り立ったものだ。

離れた農民がはたして良い暮らしに出会っただろうか。農地を手放したのは経済的にペイしないからだったし、農から離脱したとしてもその未来に展望があったわけではなかった。地域一体でとか農業法人でとか農地を集約して一定の規模となっても極めて限られた少数の人間だ。さらに市場原理の考えでいけばそれらの限られた人たちの明日は必ずしも保障されない。多くの農家の離農は地方の崩壊をもたらした。地方小都市のシャター通りは確実に進行し、現在進行の「生活保護費の切り下げ」や「消費税導入」はさらに崩壊が加速されることだ。

地域の崩壊は政治的産物に他ならない。
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「出稼ぎ」とNHK連続テレビ小説「ひよっこ」

2017年08月02日 | 足跡
元朝日新聞記者の清水 弟氏から2017年の新年早々電話があった。NHKが4月から始めるテレビ小説「ひよっこ」の背景は、1970年前後の農村から都会への「出稼ぎ」農民の姿が主題になっている。昨秋制作にあたって「出稼ぎ」について、当時の様子が知りたいとスタッフから連絡があり面会したという。

出稼ぎの盛んだった秋田県で、当時朝日新聞秋田支局にいた清水 弟氏は背景や問題点を克明にルポした。、朝日新聞秋田版の連載「出稼ぎ」は、1973年10月から翌年2月までの五部で63回、さらに続けて75年12月に「出稼ぎ遺族」が10回。その後新聞連載に加筆して1978年秋田書房から「出稼ぎ白書」が発刊された。

NHKテレビ小説「ひよっこ」の制作スタッフがドラマの背景にある「出稼ぎ」について、清水 弟氏に白羽の矢がたったということは極めて適切な対応だったと思える。NHKスタッフから取材要請があったこと、「農村通信」誌から原稿依頼でこのことを含めて執筆中、当時の出来事の確認のために湯沢市のホテルで対談をした。

「農村通信」は山形県酒田市で発刊されている地域情報誌。約45年前秋田、山形、宮城の三県で出稼ぎ、減反、圃場整備の問題等三県交流の農業問題研究会が開かれた頃から、「農村通信」誌が山形県庄内地域を中心に定着していることはは知っていた。

以下は清水 弟氏が「農村通信」に投稿した「机の上の計算はカラウソだった」の記事全文。一部は私へのメールの部分、関係する書籍等の写真を加えた。清水 弟氏の了解があったのでブログで紹介することにした。

地域農業情報誌 「農村通信」2017 2

「机の上の計算はカラウソだった」

「出稼ぎのことを教えていただきたい」。NHK制作局の若い方から電話をもらったのは昨年十月のことだ。朝日新聞秋田支局にいたころ、出稼ぎ問題を取材して連載し、『出稼ぎ白書』(1978年、秋田書房刊)をまとめたが、もう40年も昔の話である。取材されるようになったら新聞記者もお終いだと思いつつ、約束の場所に出かけて行った。古い切り抜き張と掻き集めた資料を持って…。  (ジャーナリスト 清水弟)

「出稼ぎ白書」秋田書房 1978.10
 
2017年4月からNHKの連続テレビ小説「ひよっこ」は、ヒロイン「谷田部みね子」の父「谷田部実」が奥茨城(茨城県の奥?)の農家という設定で、彼は不作の年に作った借金を返すため、一年のほとんどを東京の工事現場で働いていた。それが稲刈りで帰郷したのを最後に消息を絶ってしまう。東京オリンピックの1964年から始まるドラマで、高度成長期の名もなき人々を描く波乱万丈青春記だとか。

制作局ドラマ番組部の若いスタッフは、原作シナリオの細部をチェックするため、当時の出稼ぎの実態を知りたかったのだ。「奥茨城」に出稼ぎがあったのかどうか、「集団就職した金の卵」というヒロインも、秋田や山形など東北地方ならまだしも、奥とはいえ首都圏の一角でも「集団就職」したのだろうか。そんな疑問はともかく、秋田の出稼ぎ事情や上野公園にたむろする手配師の様子、飯場での生活ぶり、賃金は現金払いだったかなど、矢継ぎ早の質問に答えた。最後は、どなたか出稼ぎ経験者を紹介してもらえませんか。

秋田は記者(キシャ=汽車)になって3年目、まだトロッコ並みの私が出稼ぎを取材したきっかけは、秋田版の記事(1973年4月8日付け)だ。「出稼ぎ死者。この冬だけで79人。40、50台に多い病死。前年の13%増。高血圧押して重労働も」当時、秋田県の出稼ぎ者は推定7万人で、出稼ぎ互助会に入っている4万3千人のうち、病死や事故で死んだ方が七十九人いた。内訳は病死が59人(前年46人)で40代、50代の脳卒中が目立ち、労災事故での死者は11人(同17人)だった。

埼玉県の工場で同僚にも気付かれないまま死んだ25歳の青年は、ポックリ病だった。過酷な作業現場が事故に結びつくケースもあり、北海道の青函トンネルの工事現場では、湿度が高いため、上半身裸で電気溶接していた、26歳の青年が感電死した。そのころの秋田県は、交通事故の死者が年間130人前後だった。その秋田でそれほどの人が出稼ぎ先で亡くなっているのは問題ではないか。前任地の茨城県・水戸支局で、私は東海村の日本原子力研究所や原発を取材していた。「原子力エネルギーは将来重大な問題になる。おびただしい犠牲者も出かねない」と感じたが、いま、目の前で起きている現実、出稼ぎの犠牲者数と深刻さに圧倒されたのだ。

ただちに取材計画をまとめた。

新聞社の旗がついたジープで、県南の湯沢市や羽後町などの農家に通い始めた。出稼ぎ組合を作った羽後町の高橋良蔵さん(1925年〜2013年)のお宅に日参し、出稼ぎで父や息子を失った遺族にアンケートした。出稼ぎを拒む若い人たちのひとり、雄勝郡稲川町川連の長里昭一さん(74歳)はこんな詩を書いていた。

 「のぼるよ泣け」

 のぼる のぼる

 いいがら大きな声で泣げ

 もっともっと大きな声で……

「な バッパのいうごど良ぐ聞げ な」

 と 家を出た のぼるの父と母

 (以下略)「むらの詩」原田鮎彦 秋田文化出版社 1973

連載当時の長里さんは(31)水田1・2ヘクタールに6頭の乳牛を飼う水田酪農。連載で仲間の井上直一さん(26歳)を紹介した。井上さんの親友があの青函トンネルの工事現場で亡くなった羽後町の佐藤清四郎さん(26歳)だったと気づいた。

雑誌「北の農民」7号 北の農民社(1973)に今は亡き井上さんの書いた「出稼ぎに逝った友へ」が掲載されている。「農業だけで生活することを許さない。子どもから父ちゃん、母ちゃんを奪い、じいさん、ばあさんに重労働を強いる。それでも飽き足らず田んぼも命を奪っていく。一体誰が考えて、誰が請け負って、誰が末端で進めているのだ」「もうこれ以上流されてはいけない。仲間を失ってはならない。疑問を、悲しみ、怒りを、すべてを結集してぶっつけていかなければ、我々農民の生活は守り得ない」。

「北の農民」1~5号 北の農民社 1971.3~1972.7

秋田版の連載「出稼ぎ」は、1973年10月から翌年2月までの五部で63回、さらに続けて75年12月に「出稼ぎ遺族」が10回。

東京の自動車工場や工事現場では体験取材もした。新聞社の出張手当と出稼ぎ先の日当を二重にもらう幸運に恵まれたことも。忘れられないのは、神奈川県相模原市の土建現場の飯場で過ごした雨の日だ。1973年10月28日、日付を覚えているのは、父の命日の前日だったからである。

大粒の雨が降っていた。プレハブの屋根をたたく雨の音で目が覚めた。朝6時。大雨洪水注意報が出ている。仕事は休み。食堂で朝食を済ますと布団に潜り込んだり、テレビを見続けたり。日当3800円は諦めても、食費500円はいつも通り。出稼ぎ者のひとりが「雨の日はタコだよ、タコ」と教えてくれた。空腹が高じると自分の脚を食べるというタコになぞらえた。裸電球がふたつ、横に渡した紐にぶら下げた洗濯物の影が天井に映る。飯場のみんなが息を殺してひたすら時間がたつのを待っている。塹壕で休む兵士のようだ。夕方、私は飯場を抜け出して駅前の喫茶店に入り、コーヒーを飲んだ。翌朝早く起こされた。「清水君、電話」。兄嫁からだった。危篤だった父が死んだ。家族を残して出稼ぎに来た人たちも、きっと同じような事情を抱えているのだと思った。

出稼ぎ対策は、労働条件向上や未払い賃金の補償など労働省ペースで進められ、出稼ぎ奨励策でしかなかった。出稼ぎしなければ暮らせないのが異常でないか。食糧自給を掲げながら、農民が体ごと吸い込まれるように出稼ぎに駆り出され、農村が崩壊していく現実こそ問われるべきだと思った。

『出稼ぎ白書』の末尾につけた年表を読み返すと、1960年1月の「政府、農産物などの自由化の基本方針決定」に始まり、61年の農業基本法公布、第一回農業白書。62年には農政改革以来の大事業といわれた農業構造改善事業スタートなど、日本の農業が刻々と姿を変えて行った。電気洗濯機やテレビなどの普及が進み、米価は65年で玄米60キロ6538円。

「猫の目農政」とか「ノー政」と言う言葉がよく聞かれた。農政の矛盾のシンボル、八郎潟干拓地に生まれたモデル農村・大潟村には、1973年春以来、何回も足を運んだ。農家住宅の赤、青、黄色の三角屋根が並び、村役場や公民館、巨大なカントリーエレベーターなど大潟村の街並みはプラモデルのようだった。1970年に始まるコメの減反政策は大潟村を例外扱いせず、むしろ率先して国の方針に従うよう指導された。普通の農村より過酷な形で、モデル農村は農政の矛盾にさらされた。

あの日は抜けるような青空だった。

1975年9月5日、青刈り。入植者の顔は苦痛に歪んでいた。カタカタカタと軽快な音を立てトラクターが走り周り、牧草刈り取り機が稲をなぎ倒していく。稲の葉が強い日差しを浴びてたちまち丸くなる。ピチピチと音が聞こえるようだ。収穫二週間前のモミは、かぐわしい香りを発散させている。声にならないうめきが漏れ、入植者の目が真っ赤だった。青刈りの光景に息を飲んだ。もちろん青刈りを見るのは初めて。非道で無情、残酷、極悪、理不尽、様々な罵詈雑言を束にしても追いつけないほどの事態に思えた。あの日だけで約100ヘクタールの、9千俵(1俵60キロ)近い「米」が青刈りされた。

入植者580戸のうち、約400戸が農林省の指示を上回るもち米を作付けした。度重なる是正指導をくぐり抜け、打開策を探り続けたものの結局、260ヘクタールを処分した。「私が育てた稲だから最後まで見守りたい。子供を育てるのと同じに育ててきた。いい加減な農林省の指導のせいで青刈りを強制されるなんてひどすぎます」と訴えた女性も、「今日はカカアを連れて来なかった。こんなのを見たら卒倒するか泣き崩れるか」と語った男性もほとんど泣き顔だった。悩みに悩んでノイローゼで、入院した人や、青刈りしながら「これで4ヶ月分の生活費が消えた」と嘆く人も。取材を終え、青刈りされたひと束を拾った。「いただいていいですか?」と聞くと、「いくらでも持って行きな」。 そのときの稲束が、いまも私の手元にある(写真)。カラカラに乾燥しているが、籾殻を剥くと、思いのほか大きな玄米が顔をのぞかせる。

 

秋田支局から東京社会部(立川支局駐在)に異動したのが77年春。都農業試験場では当時まだ「日本晴」「東山38号」「ヤマビコ」「コシヒカリ」など10種類の種もみを確保していた。 作付面積は77年で1200ヘクタール(水稲930、陸稲270)と、東京オリンピック前の計7000ヘクタールからは激減したのだが……。

警察署担当(サツ回り)で事件や事故に追われながら、多摩ニュータウンなど都市化の進むなか、どっこい頑張っている農家を訪ね歩いていた。東京版の連載「東京百姓列伝」(79年8月2日から10回)では、小松菜、春菊、ホウレンソウなど「東京っこ野菜」の生産者や野菜泥棒の話、会員制農業、一個5千円もしたギフト用の立方体のスイカなどを紹介した。

圧巻だったのは、父親が遺した蓮田や畑など1・4ヘクタール分の相続税3億8千万円を現金にしてジュラルミンの箱に詰め、江戸川税務署に払った元レンコン農家(48歳)の話。現金払いは遺言で、税務署から銀行支店に運んだ札束を数えるのに機械2台をフル回転させて1時間20分かかった。地価は10アール(300坪)当たり1億円を上回り、高額所得番付にも出た。彼が吐き捨てるように言った。

「国が農業やれねように、やれねようにしてんだ。農林水産省の机の上の計算はカラウソさ。米が余るのも貿易の都合上、アメリカから麦を買うからで、オレンジもレモンも同じ。東京の農家が潰れるのは時間の問題だよ」その東京で、在来野菜を懸命に守っている人物に出会ったり、棚田保全に熱心なグループに紹介されたり。気がついたら、「東京に一番近い棚田」という千葉県鴨川市の大山千枚田保全会のトラスト会員(会費、年間3万円)になって13年目に入る。

農林水産省担当の専門記者にこそなれなかったが、新聞記者として農業にこだわり続けたのは、お米が大好きだからだ。コメ離れが進んで心配はなさそうだが、冷害など深刻な不作に備えるには農家の友人に頼るしかない。

TPP(環太平洋経済協定)、農畜産物輸出拡大、強い農業づくり、農協改革等々政府が掲げる政策をみると、まだそんなことを言っているのかと呆れてしまう。アベノミクスならぬ「アホノミクス」である。尊敬する佐賀の農民作家、山下惣一さんが喝破した「強い農家が生き残るのではない。残った農家が強いのだ」という言葉を噛みしめる。残っている強い農家が、しなやかに、したたかに、美味しい米を作り続けることを願うばかりだ。

清水 弟(しみず・てい)1947年、新潟県長岡市生まれ。朝日新聞社記者として水戸、秋田支局、東京社会部、パリ特派員、日曜版編集長を経て山形県鶴岡支局、千葉県館山支局。編著に「地球食材の旅」(小学館)など

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「蝉語の夏」と安保法案

2015年07月20日 | 足跡
7月16日、衆議院本会議で与党の賛成多数で可決され、衆院を通過したとマスコミは報道した。15日衆院特別委員会で、与党は安全保障関連法案を強行採決で可決した。この模様を「皆様のNHK」は中継しなかった。ネットでYouTubeはリアルタイムで報道した。締めくくり総括質疑でまともに応えられない総理、あげくに「残念ながら、まだ国民の理解が進んでいる状況ではない」と認めつつ強行採決に臨み、さらに翌日の16日衆院本会議で野党欠席の中で衆院通過させた。

この状況で詩人小坂太郎氏の「蝉語の夏」を思い出した。「蝉語の夏」は「北の民話」民話伝承館 1998.11月刊に収められている。「蝉語の夏」の初出一覧は、冬の伝説1990.10月叢園148号とある。1998年5月から7月まで朝日新聞日曜版の連載された24編、北の大地から庶民の生きざまを鋭く描く詩編。

前回のブログでスモモの思い出に浸っていて、その延長上にあったのかもしれない。青いスモモと蝉の鳴く季節。7月15日頃からハルゼミとヒグラシが鳴き始めた。「蝉語の夏」が到来した。

蝉語の夏 詩集 北の民話 小坂太郎

蝉語の夏

青い李の実に 掌の塩をつけて
がりっと噛めば 酸っぱい海がふくらんでくる

腹いっぱいに陽の光を吸った
濃い葉群れのおしゃべり
季節が着物だった 少年時代

どこまでも道は走り その行きつく果ては
空につながっていた

日がな蝉語を聴いてたから
蝉語を話すことができた
なきたいときは木に登って
たっぷり蝉語でないた

(オナゴはみんな唖蝉だから、、、、)

黄土の風吹く大陸では
戦争がはじまっていて
蝉の脱殻のように
ぬけ出していったまま
還ってこない
タマシイのことなどをしらずに

7月15日衆院特別委員会「安全保障関連法案」審議から16日の衆院本会議まで皆様のNHKの報道にはあきれてしまった。国会周辺や全国でやむことのない「戦争法案反対」、「9条守れ」の多くの国民の声を無視した。16日は台風11号情報一色、17日は新国立競技場の建設計画を「国民の声に耳を傾けた結果、計画を白紙に戻しゼロベースで見直す」との報道。明らかに安保法案から国民の目をそらせる展開。バカげたとしか言いようのない「新国立競技場」建設計画ゼロベース見直し。混乱の責任は誰も取りそうもない。内閣の支持率の急減の中でとった目くらまし策。

60年安保以来といわれる学生の蜂起、高校生や中学生まで抗議の中で「私は全共闘世代」、「国民の命、国を守る責任は私」等にやけ顔。憲法学者の違憲を無視し「粛々」、「刹那的な世論」等傲慢な政権は極度になった。「新国立競技場」建設計画白紙を宣伝することで「安全保障関連法案」だけではなく、TPP,辺野古基地、原発再開から国民の目をそらそうとした政権の思惑は破綻寸前になってきた。

国会前に集まって反対の意思表示をしている若者、政治に無関心と云われた若者が立ち上がった。将来身に降りかかってくる可能性が大きいからデモに参加している。「刹那的な世論」等といわれたら叛骨のエネルギーが倍増する。傲慢な政権の安保法案を廃案まで追い込まねばならない。

金子兜太氏 2015.07.17 埼玉新聞 引用

金子 兜太(かねこ とうた、1919年(大正8年)9月23日 - )は、埼玉県出身の俳人。加藤楸邨に師事、「寒雷」所属を経て「海程」を創刊、主宰。2015年7月に全国で掲げられた「アベ政治を許さない」のプラカードの文を、澤地久枝氏の依頼を受けて揮毫。このプラカードを全国の若者が掲げて抗議する。95歳と若者とのコラボ。ネット社会では誰でも専用ホームページ登録でコンビニから手にすることが出来る。金子氏は朝日新聞(7.19)に『自分の文字が揺れるデモの光景をテレビで目にし、「反対」の声はじわじわ効いてくるくるはず』と感じているという。
、、、、、、、。

小坂太郎「蝉語の夏」が脳裏を横ぎっていた。前回の「夏の贈り物」の時代とクロスしたのかもしれない。小坂氏の想いとのズレがあるかもしれないが、安保法案審議と全国に燎原の火の如く広まった反対デモのあらしの中で、小坂太郎氏の「蝉語の夏」を引用させてもらった。

「蝉の脱殻のように ぬけ出していったまま 還ってこない」時代を繰り返さないために。
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夏の贈り物

2015年07月15日 | 足跡
「夏の贈り物」、食べれる「夏の木の実」を意識したのは3年前、房総への旅で再会した友人との話からだった。友人の柴崎君は小学の時から親しい関係。彼は地元に就職後間もなく東京へ出て行った。昭和30年代高度経済成長へ向かう時代だった。当時帰省の度に尋ねてきた。地元に残った者にとって都会のニュースはある種の新鮮な響きがあった。

以来時代は変遷、再会は還暦の後一度だけで。古稀を通過し彼が退職したことを知り、房総行きを企画した。早春の3月、東京湾を望むある街の寿司屋で実現した。中卒以来の出来事を振り返ると話題などつきない。「夏の木の実」はその時の主要なキーワードだった。

戦後の混乱していた時代は小学生。食糧が乏しいのは日常。学校給食などはない世代にはあまり思い出したくない時間。それでも米や野菜を作っている農家にはいくらか食べ物はあった。腹が減るとこの時期にはキュウリ、トマトに茹でたジャガイモ。何にもなければ残りごはんの「焼味噌つけおにぎり」が最高のおやつだった。

友人は川連漆器の生産地。小学生の時に「根岸(川連集落)に行くのが楽しみだった」と云う。6月から7月にかけて「夏の木の実」の季節。房総の新鮮な寿司にサシミと地酒、あの頃を話題にすると時間はアッと云う間に過ぎてしまった。

6月の「シャゴミ」(ナツグミ)木に登りよく食べた。我家の坪庭に「シャゴミ」の木があった。あまり大きい木ではなかったが30数年前には伐ってしまった。生命力が強いのか根元から側枝が出てきて今も実をつける。大粒の「シャゴミ」の木は他の友達の家にあり、何人かで食べ歩くのが楽しみな出来事だった。柴崎君との話を思い浮かべて、一粒食してみたが渋い味だった。ナツグミを「シャゴミ」と呼ぶのは秋田、岩手、山形周辺だけだろうか。

シャゴミ(ナツグミ)2015.6.15 自宅

当時最も美味いは「クワノミ」だった。当地域で「カンゴ」とも言った。桑の実を桑の子から音変化しカンゴになった。当時はまだ養蚕が盛んで村には相当の桑の木があり、「桑の実」は豊富だった。当地方は文政9年(1826)秋田藩に養蚕方が置かれ、養蚕役所の支配に命じられた「関喜内」の出身地だ。文化3年(1806)肝煎りの「関喜内」は自費で現在の福島県伊達郡に養蚕の研究に行き、地域に広めた人物で当時桑、漆、杉などの苗木等を分け与え奨励したと云われている。そのような背景の川連集落は畑や山にもたくさんの桑の木が植えられていた。

6月から桑の実は食べ放題。あまりにも口に運ぶものだから、食べた全員が口元が赤紫色に染まってしまった。なつかしい想いに染まる。現在は集落に桑の木をほとんどない。養蚕が廃れると同時に切り倒されてしまった。わずかに残っている老木も多くは実をつけない。ここ数年「クワノミ」を見たことがなかった。このたび「雄勝野草の会」の研修で訪れた、山形市野草園で見事な「クワノミ」に出合った。


 クワノミ 2015.6.10 山形市野草園

一粒食べてみた。当時の味がほのかに蘇って懐かしくなった。

キイチゴ 2015.7,10 川連町坪漆

「キイチゴ」(木苺)は赤い実と黄色の実(黄苺)のものがあってどちらも似たような味、黄色の実の「キイチゴ」の葉がモミジに似ていることから「モミジイチゴ」等と云った。クマの大好物とも云われる。少々枝に棘があり、腕を血に染めたりしたが忘れられない味だった。

「クワノミ」や「キイチゴ」と並んで屋敷周りには「スグリ」の季節になる。少し渋みの味のものとビー玉ほどの大きさになるものとがあったが、この頃少なくなったしまった。我家の坪庭の当時の「スグリ」が残っている。樹齢150年以上にもなる栃の木の根元、雪椿と一緒の所で日陰になり、あまり多くの実はつけない。友人木村宅に見事な「スグリ」に再会した。

スグリ 2015.7.2 湯沢市川連町屋布廻

「スグリ」は一般的にジャムやシロップなどに加工されている。ビタミンが豊富に含まれ、「アントシアニン」など「ポリフェノール」が多いので健康食品の材料に使用されている。「アカスグリ」より「クロスグリ」の方に「アントシアニン」が多く含まれていると云われいる。目の疲れや視力の改善に有効な効能をもつ果実としてひろく知られている。木村宅からこの見事な「スグリ」を譲り受けて「スグリ酒」をつくることにした。容器にホワイトリカーと氷砂糖と一緒に入れるだけだから比較的簡単な作業だ。

「スグリ」酒はきれいな赤色になる。熟成するにしたがって色が変わっていく。最低3ケ月後の楽しみなのだが、来年又「スグリ」の実のつくころまで熟成させれば見事な「スグリ酒」ができあがるはずだ。

さらに屋敷や畑に「オットウ」(サクランボ)、「ウメ」、「スモモ」と続いた。特に「スモモ」の種類は多く、赤いから「アカスモモ」、中が赤いので「スイカスモモ」などを名をつけて呼んでいた。その後「ソルダム」、「サンタ・ローザ」、「フームサー」、「ハダンキョウ」(巴旦杏)等スモモの名前を親父から聞いて知った。スモモの木は結構太くて大きいので、枝さきの実は長い竹竿でたたいて落とした。明治時代の曽祖父の時代から植えられていたらしい。当時スモモ(李、酢桃)のカタカナの名前が珍しかった。「スモモ」の原産は中国で、世界各地で栽培され品種改良され日本に入ってきたと云われている。各家に様々な品種が植えられており仲間の家を食べ歩いた。「スモモ」のそれぞれ独特の味は今でも忘れられない。

当時「スモモ」等には消毒はしなかったので虫がつく前に先に食べるしかなかった。自家の坪庭の一角を占めていた特に虫には弱かった「ハダンキョウ」。熟れたこの味は「スモモ」第一だった。今振り返ってみると食べるのが先で、完熟前の実を食べていた。それでもおいしさは格別。「ハダンキョウ」を取り忘れ、さらに虫の被害から免れた「スモモ」が完熟した。この味が忘れられず探し回ったあの日は懐かしい。「ハダンキョウ」は古くから日本に伝わっており、和歌などにも詠まれる。「スモモ」は自分の花粉では結実しにくい自家不和合性なので、ほとんどの品種で受粉樹が必要であることから、さまざまな品種が植えられていた。現在集落で「スモモ」の木を見ることはほとんどない。

夏の贈り物「木の実」の物語。
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「むのたけじ」氏の反戦と共に

2015年02月02日 | 足跡
反骨のジャーナリストと言われた「むのたけじ」氏が1月2日で満100歳を迎えた。地元紙秋田魁新報、東京新聞等が報道した。東京新聞は2015年1月7日朝刊で、「むのたけじさん100歳 反戦生ある限り」と次のように100歳の誕生を祝った。

「反戦を訴え続けてきたジャーナリスト、むのたけじさんが、二度のがん治療を乗り越え二日、百歳になった。「今の日本は戦争のにおいがぷんぷんする。生きている限り、戦争をなくすことに役立ちたい」。戦後七十年を迎え、放つ言葉には一層の力がこもる。

「負け戦を勝ち戦と報じ続けてきたけじめをつける」。一九四五年八月の終戦を受け朝日新聞社を退社。故郷の秋田県横手市でミニコミ誌「たいまつ新聞」を発刊し、三十年間、反戦記事を書き続けた。今、さいたま市で暮らし、講演や執筆をする。昨年の衆院選を振り返り「投票率52%なんて国は主権在民とはいえない」と一喝。「国民は自分たちの意見が反映された生きた政治にするために、考え、もだえなければいけない。それが全くない状況のままだった」と憂えた。

安倍政権が進めてきた特定秘密保護法制定や集団的自衛権行使容認に、戦争の影を感じるという。「安倍さん個人の話ではない。彼を前面に出し、日本を変えようとする政治、経済界の勢力がある。誰が何を求め、何をしようとしているのか。それを明らかにするのが記者の務めだ」。戦争の話になると口調が熱を帯びる。「人類の三大敵は病気と貧困と戦争。戦争をやめ、その分のエネルギーと金を回せば病気と貧困を解決できる、それがなぜできないのか」。危機感をあふれさせ、時に拳を振り、足を踏み鳴らした。
(TOKYO Web)DATE:2015年1月8日


「むのたけじ」先生とは20代の頃から「秋田県農村文化懇談会」で一緒だった。1960年代に農文懇がむのたけじ氏、西成辰雄氏等が中心になり結成された。私の参加は1965年頃からだった。農文懇の機関紙「炉火」が発行され、6号に「むのたけじ」氏の巻頭言「自己変革の鏡」がある。
炉火 6号 1967.5発行
「日本の教師に訴える」明治出版 1967年で、出稼ぎ農民が多くなっていく現状の中で「親と子供たちの関係」に教師がどうつきあうのか。子供将来のしあわせを願うなら親がしあわせになれ、と農村婦人の親と子の話があふれていた。炉火6号巻頭言「自己変革の鏡」に、『この本は「変革の書」として世に送ったつもりだ。人間の個人を変え、集団を変えていくための最初の原則に関する祈り、訴えを語ったつもりだ。週刊朝日の書評で「直言や激情の勇み足もある」と指摘、、、書評子のいう「勇み足」が、私にはとっては「四股を踏む」ことだ。それがないなら、この本はゼロにひとしい」。と発売直後の本について「炉火」で主張している。

そして、この本から6年後1973.4に「解放への十字路」を評論社から出版された。時論・1972年後半期、すべてを〈日本解放戦線〉へ等、問に対する返信という形で、第一信から第一六信まで続く。当時の私は出稼ぎで死亡した青年の東京地裁で裁判、日中国交回復後の訪中でのある種の衝撃、減反強化の中で経営の不安定等で混乱していた。たまたま参加していた「秋田県農村文化懇談会」で、「むの」先生に浅学を顧みずに「十字路と言われれば混乱してしまう、本のタイトルの十字路とは何ですか」等と尋ねてしまった。むの先生はしばし沈黙の後、「むのたけじが十字路にさしかかっているからかな、、、」と話した。巻末に「終わったところから始まるに〈岬〉と〈十字路〉について」がある。当時は理解するのに時間が必要だった。

「一本でありながら幾通りにも分かれ、幾通りにも分かれて一本に結ぶもの、そういう結節点が地上の生活、それは〈十字路〉なんだ」。幾通りの道から無数の十字路で結ばれる。統一戦線。多様の中に統一、、、。生活の場、生産の場に無数の〈十字路〉をつくることで促進される。

『「地方文化」とはなんだ」は「解放への十字路」の96ページにある。その中「、、、民衆を国内植民地のドレイにしてきた歴代の支配に報復する、その拠点としての「地方」であり「文化」である。屈従を強制されてきたわれわれ民衆が一人間として、一社会存在としておのれを回復していく、その創造運動としての「文化」である。両者を結ぶものは、私にとって「地方文化」ではない。「解放」である。、、、、、大事なことは、支配と被支配の歴史の縦層をえぐって、そこで自分の立場をきめることだ』。とある。

「解放への十字路」は当時衝撃の書だった。ぶしつけな質問に正面から対応してくれた。40数年前の会話が昨日ように想いだされる。

岩手農民大学・岩手県農村文化懇談会、第12回「農民文化賞」の受賞(2001.12.8)は「むのたけじ」先生でした。岩手農民大学は1989年12月に「農民文化賞」を制定している。「日本農業の危機が叫ばれているとき、わが国農業および農民が築き上げてきた文化的遺産の灯をたやすことはできない。その栄光を歴史にてらし、継承・発展させる使命は重く大きい。それゆえ、いまこそ農民文化に大きく寄与・貢献した未来感あふれる証を、秀れた実践業績の一つひとつに求めて頚影し、ふるさとの大地のするべとする」。が制定主旨という。

選考委員会はむのたけじ氏は、文筆・講演活動に優れた才能を持つ新聞人・革新的文化人・評論家、農村変革の実践家として、「高い理想・自由と解放の炬火を農の心に灯す日本のヴィクトル・ユゴー」と評価された。

農村文化サークル「虹の会」の会員を中心に、2001年12月「むのたけじ」先生の「第12回 農民文化賞」受賞を記念して祝賀会が開かれた。案内が届き参加した。あいさつの中で「まだ賞は似合わない」と受賞を強く辞退していたことを話した。さらに余生という言葉に抵抗の意を述べ「一日多く生きれば、それだけ経験を積む、学ぶべきものがあれば学ぶ、日々成長できる。死ぬるとき、そこが人生のてっぺんでなくてはならない」との想いを熱く語った。対談集「むのたけじ 現代を斬る」イズミヤ出版 2003 はこの集会がきっかけとなって出版された。

先日友人T氏からメールが届いた。以下はその全文。

「今年は雪が深そうですね。
むのさんが1月2日で満100歳になりました。お祝いの会と言うか、100歳報告会が17日に新宿で開かれ、参加して来ました。とても100歳とは思えない大音声で30分近く挨拶したむのさんに圧倒されました。岩波書店の編集者が4人、朝日が2人、NHKが3人はじめ、琉球新報や出版社の関係など40人近くが集まっていました。むのさんは現在、埼玉県の次男宅に住んでおられるようです。老人の怪気炎に、これだけ元気なら小生のことも覚えておられるかも知れないと期待しましたが、ダメでした。完全に忘れられていました。最近、むのさんの岩波新書が3冊出ていますが、いずれもそこそこ売れて版も重ねているといいます。むのさんの本が売れているとなると、日本はかなり危ないのでないかと心配になります。秋田では100歳のむのさんを囲む会など開かれているのでしょうか」。


T氏のいう、「むのさんの本が売れていることは日本がかなり危ない」の指摘が現実になってきた。

テロ行為を支援する立場ではないが、今回の人質事件は最悪の結果に陥った。フランスのパリ新聞社襲撃テロ事件直後に、世界の火薬庫ともいわれる中東へ軍事関連企業と出向き、イスラム国と敵対する国に援助すると表明した。これは結果的にイスラム国側から見れば挑発と捉えるかもしれない。真に「人道支援、難民支援」なら国際機関を通す方法があったのだ。

さらに連日、悲惨な結果に「テロリストを絶対に許さない。罪を償わせるために国際社会と連携して行く。日本がテロと屈することは決してない」。との談話がテレビ報道で繰り返されている。「罪を償わせる」とは相手からみれば「宣戦布告」とも取れる。言葉は受け取る立場で解釈が異なる。

官邸は人道支援の名のもとに自衛隊の海外派遣、戦争できる国をめざす憲法をないがしろにする方向を向いている。テロ対策の陰で巧妙にTPP、農協改革の強行、金と政治の問題等にフタを決め込んでいる。2015年予算案は防衛費の増、社会福祉予算の削減に向かった。政権との癒着を指摘され、お花畑状態を思わせていたマスコミは最悪の結末でやっと事件検証を発言しだした。本日2月2日、全国紙を始め多くの新聞は社説でこの事件を扱っている。秋田魁新報は社説に「邦人人質事件 政府対応の検証を急げ」を掲載した。

「人類の三大敵は病気と貧困と戦争」反戦 100歳「むのたけじ」






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農の祭典「第137回秋田県種苗交換会」

2014年11月11日 | 足跡
第137回県種苗交換会が男鹿市で開かれた。恒例の如く農機会社の招待で出向いた。高速道路の湯沢から横手道から秋田道で昭和・男鹿半島インターで降り、開催地の男鹿市の会場まで約2時間半のマイクロバス。

秋田県内はもとより、岩手、宮城、山形、遠く新潟ナンバーのマイクロバスが並ぶ農機具展示会場。海のない内陸から海端での農機具展示会場へ、「農機と海」の珍しい風景。米の概算金暴落の中でもトラクター、コンバイン、田植機の実演等にいつもと変わらない人だかり。精一杯説明を聞きながらも「今年の米の値段では手が出ない」と自嘲気味の言葉を吐く参加者の象徴される交換会農機具会場だった。主会場で農産物が出品展示されている男鹿市総合体育館までシャトルバスで約30分かかるという。ごった返す観客で帰途の時間まで十分な時間がなく今回はあきらめた。


海の側の農機具会場 2014.11.1 男鹿市

種苗交換会の柱は「農産物の出品・審査」と「談話会」といわれている。今から19年前の平成7年第118回種苗交換会は横手市で開かれたときのテーマは「転換期に対応する水田農業の確立」だった。全県から10名参加で工藤東北大助教授の司会で意見交換した。JA稲川有機米研究会として参加したことは忘れられない。まだ有機の呼び名が市民権を得てない時代だった。

秋田県種苗交換会史が「明治編」・「大正・昭和編」・「昭和編(2)・百年の歴史」・「昭和編(3)・平成編」がある。平成9年(1997)の第120回まで記録されている、「昭和編(3)・平成編」は800ページにもなる大作で、各年度の農産物の受賞者や談話会の記録が記録されている。

10月30日から一週間に渡って開かれた今年の第137回県種苗交換会に85万人が足を運んだという。毎年この時期に開かれる種苗交換会は秋田の風物詩、交換会が終わると冬が到来する。

参考文献として種苗交換会の歴史がJA秋田中央会より刊行されている。貴重な文献なので以下に引用し紹介する。

『明治11年(1878年)9月、県勧業課長樋田魯一が主催して、秋田市の浄願寺を会場に第1回の勧業会議が開催された。

当時県庁職員であった石川理紀之助翁は、その会議の推進役となり第2回目からは幹事に就任している。 この会議に出席したのは、農事に堪能な、民間から選ばれた45人の勧業係員で、その際、由利郡平沢の佐藤九十郎か『種子交換会の趣意の見込書』が提議され、これを樋田会頭が採用、歴史的な種苗交換会の発端となった。

同15年からは、技術・経営情報の交換を主とする勧業会議(勧業談会・現在の談話会の前身)と種子交換会を合体して、名実ともに「秋田県種苗交換会」と呼称された。この間、明治12年、県は地域指導に当たった4老農、大館の岩沢太治兵衛、秋田の長谷川謙造、雄勝の高橋正作、湯沢の糸井茂助を勧業ご用係に任命。翌13年には「夫れ道を学ぶに友なかるべからず。・・・」の趣意で始まる歴観農話連が設立され石川理紀之助翁が催主(会頭)となっている。

明治19・20年は、県主催による開催があやぶまれ、また22年も休会となるところを、歴観農話連が後援し、同連の会員が各々私費を投じて交換会を存続させている。こうした結果、種苗交換会は日清・日露・太平洋戦争中といえども一度も休会することなく136回目を数えるに至っているのである。

この継続の精神こそ、秋田の「農の心と技」を、「話し合い・ふれあい・助けあい」の3心によって広めようとする熱意に他ならない。

思いおこしてみても、数里先の隣村、農家同士の交流もない閉鎖社会というのが、明治初期の県内農村の実情であった。これをお互い公開し、話し合い、見せあうことを強く進めたのが石川理紀之助翁、森川源三郎翁で、歴観農話連の同志もこれをバックアップしたのだった。
明治33年(1900年)、県農会が法定設立され、種苗交換会の主催者は全面的に、県から県農会へ移管されることになった。交換会会頭は、小西文之進、小山巳熊、と代わり、同41年から斉藤宇一郎翁に引き継がれた。談話会員からの要望を入れて、地方開催に踏み切ったのは、明治42年からのことである。

これが現在まで忠実に順を逐って開催される端緒となり、このあと池田亀治、佐藤維一郎に次いで片野重脩が会頭となり、新穀感謝祭がとり行われている。時代は下って、太平洋戦争後の混乱期に農業団体の再編とその育成に尽力した武田謙三は、種苗交換会の継続にも意を注いだ。やがて、民主化された県内農協の新生・再建への礎を築いた長谷山行毅会頭の下で、農業(事)功労者表彰、交換会史の編纂がなされている。

こうして主催者は、県及び農話連から明治34年に県農会、昭和19年に県農業会、昭和23年に県生産農協連、同29年からは県農協中央会とかわり、開催地も秋田市~北秋田~平鹿~山本~仙北~鹿角~南秋田~雄勝~由利とほぼ10年ごとにめぐってくるようになったわけである。

種苗交換会では、明治13年からの審査を加えて農産物の展示・交換が、今日にまで延々と継続されている。水稲・畑作物・及び工芸作物・果樹・野菜・花き・農林園芸加工品・畜産品及び飼料・林産品の区分で出品、選賞を行っている。また主要行事である談話会は、県内農家の実践者で構成され、その体験や意見発表を通し、本県農業の振興や農家生活の向上、農協運動の発展に大きく寄与してきた。例年、新穀感謝農民祭とともに開幕し、農業功労者の表彰と農産物の審査発表が行われる。会期末には交換会関係者(談話会員,JA役職員)の物故者追悼会が営まれて、最終日の褒賞授与式によって閉幕している。

歴史と伝統を誇る種苗交換会を語るとき忘れてならないのが、石川理紀之助翁と森川源三郎翁、斉藤宇一郎翁の3大人である。種苗交換会の開催にあたり、私達は先人の偉業を讃え、これを現代に生かさなければならない。

交換会のサブタイトルになっている「先人に学び農業の未来をひらく」という言葉は、ここからきているのである』。

長文を引用した。秋田の農民はこの種苗交換会で一年の農の作業終了を迎える。当然畜産は毎日の作業、りんごの収穫は最盛期、ハウスの作業は続くので一年の終わりとは言えないが、稲作中心にみれば作業はほとんど終わりとなり雪の季節に向かう。4月の消費税導入から雲行きが怪しい経済情勢の中で、衝撃的な米の暴落概算価格で顔色がさえない晩秋となった。今日知人の来宅があった。話の中で「来年から稲作を他の人に委託することにした」という。

田圃からリタイヤが広まっている。このままで進めば国産の食べ物は一部の人にしか手に入らなくなるのかもしれない。農家は自分が食べる分は可能な限り作りつづける。



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無音の叫び声

2014年10月22日 | 足跡
10月18日、山形長井市の友人宅を訪問した。43年間の牛飼いを止めた年から田植、収穫の農作業が終わると温泉一泊のドライブを続けている。今年は10月17~18日、新潟県村上市の瀬波温泉泊となった。ランクルプラドで自宅から瀬波温泉まで約210kの距離。

山形の鶴岡から村上までの海岸線を走った。波が荒かった。波の花というのだろうか荒波が岩にぶつかり道路を覆う、プラドは雨がないのにワイパーが欠かせなかった。海辺のホテルで仲居さんが「海は台風の影響で波が荒い」と話したが、「穏やかな海より少し波が高い方がらしくて良い」等と言ってしまった。初めての荒波の景色はある種の美しさがあった。止むこともない荒波に慣れないせいか夜半に目が覚め、2011年東日本大震災の大津波がひらめいてなかなか寝つかれなかった。

翌朝寝不足でホテルを発ち、国道113線経由で長井市に向かう。瀬波温泉から長井の友人宅までは約85kのドライブ。初めての長井市の友人宅訪問は、先輩の木村迪夫氏の足跡をたどる長編ドキュメンタリー映画、「無音の叫び声」の製作「市民プロデューサー」の一員に加えてもらうためだった。


無音の叫び声 ポスター

木村氏とは、かつて「やまびこ学校」佐藤藤三郎氏の著「25歳になりました」出版社 百合出版 (1960/02)で知り、1972年全国から15人で訪中した時からつきあい。1977年NHKあすの村づくり「土くれのうた」で一緒だった。(ブログ、2013.12.7「追想 土くれのうた」で詳細)長編ドキュメンタリー映画「無音の叫び声」の監督原村政樹氏、製作にあたって次のように書かれているので全文掲載する。(http://www.eiga-muon.net/)


長井市の友人と「無音の叫び声」や米の概算金暴落等の意見交換し、長井から白鷹、寒河江経由で帰途についた。途中「無音の叫び声」の製作市民プロデューサー募集が気になり帰宅を変更、ランクルプラドを上山市牧野の木村迪夫宅へ向けた。白鷹から上山まで約35k。偶然かもしれないが多忙な木村氏は在宅、「無音の叫び声」の原村監督が来ていた。原村政樹氏とは初対面。3年前程前から企画を知っていたので話がはずんだ。製作市民プロデューサー募集と映画の普及活動で以下の集会を企画していた。



会場の上山市山元地区公民館は旧山元小中学校。かつての「やまびこ学校」の舞台、閉校後山元地区公民館となっている。「山びこ学校」は、山形県山元村(現在は、上山市)の中学校教師、無着成恭氏が、教え子の中学生たちの学級文集、内容的には生活記録をまとめて、1951年(昭和26年)に青銅社から刊行したもの。正式名称は、「山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録」である。2008年1月現在、岩波書店(岩波文庫)から刊行。舞台となった上山市立山元中学校は2009年3月廃校となった。

10年ほど前佐藤藤三郎氏宅を訪問している。狸森の地名が懐かしい。団塊の世代以降の人には当時一世風靡した「やまびこ学校」はわからないかもしれない。上山市木村迪夫氏、佐藤藤三郎氏、佐賀県唐津市山下惣一氏、さらに製作委員会会長は日本の有機農業の先駆者で南陽市高畠の星寛治氏は同年代。まもなく80歳になろうとしている。社会情勢が後戻りしていく時代の中でも、前に進もうとするエネルギーのしたたかさには脱帽してしまう。映画製作に多くの市民プロデューサーが生まれ、一日も早く「無音の叫び声」の上映ができることを期待している。 「無音の叫び声」製作委員会TEL070-695-3517
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「フジバカマ」と故高橋克衛公民館長 120号

2014年10月15日 | 足跡

秋の花の代表的な「フジバカマ」にほとんど関心などはなかったが、「フジバカマ」と結びつけたのは訪中だった。昭和47年11月(1972)国交回復後の中国を訪問することなった。日本の普通の農民と交流案は中国政府と日本のある機関とで結ばれ、訪中農村活動家連絡会議が主催した。全国から15名で約一ケ月間中国農民、労働者等と交流することになった。この交流事業は国交回復前から進行していて、私たちは第三次の訪中団として中国訪問となった。国交回復直後なので航空協定も結ばれてはなくて、香港経由での訪中が決まっていた。

当時の佐藤町長が壮行会を開いてくれた。当時の稲川町に飲食店は少なかった。同年の沓澤君が農協のそばに食堂を開設して間もなくの頃で、町の関係者が10数人、町長の呼びかけで集まってくれた。ほとんど会って話をしたこともない町の有力者が集まるという壮行会、おそれ多くて佐藤町長の申し出にお断りしたのだったが、秋田県から国交回復直後の訪中なのだからとの熱意に甘えることになった。当時町の青年会の活動が停滞、各地域に様々な分野の青年団体が生まれていた。町の音頭で各青年団体が連絡協議会をつくることにことになり、途中参加の自分がどういう風の吹き回しか、初代の連絡協議会の代表を務めることになってしまった。秋田県は青年の翼で、ソ連等外国へ青年の派遣事業が盛んで稲川町でも該当者が多くなり、海外へ研修に行く人が増えてきていた。

壮行会で各所属の代表者から訪中のへの身に余る激励の言葉をいただいた。壮行会の席で公民館長の高橋克衛氏がそばに寄ってきて、「中国へいったら是非「フジバカマ」を見てきてほしい」という。「フジバカマ」は初めて聞く野草の名でとまどった。当時、国交回復2ケ月後の訪中で期待と不安の中で、他の人と一味違う公民館長のいう「フジバカマ」に失礼ながら特に関心などなかった。11月末から約一ケ月間、南は広州から北は北京、天津までの行程。「フジバカマ」のことなどはすっかり忘れていた。

フジバカマ 紫紅色 自宅 2014.10.13

それが平成に入った頃だったろうか、あるホームセンターの園芸を扱うコーナーに「フジバカマ」を見つけた。さっそく購入して坪庭に植えた。「フジバカマ」に、かつて訪中送行会での高橋公民館長の話を思い出したのだ。「フジバカマ」」は比較的地味な野草と思う。近年「雄勝野草の会」入会後調べてみたら、園芸店で販売されているのは園芸用の「フジバカマ」で実際のものとは違うということがわかった。かつては日本各地の河原などに群生していたが、今は数を減らし、環境省のレッドリストでは準絶滅危惧(NT)種に指定されている。 

「フジバカマ」は、源氏物語や古今和歌集など、1000年以上前の文献や物語にも登場し、平安時代の女性が、十二単のなかに香料として忍ばせていたとも言われています。薬として使われていた歴史もあるようで、 日本人とのおつき合いはかなり長い。

「フジバカマ」(藤袴、Eupatorium japonicum)とはキク科ヒヨドリバナ属の多年生植物。秋の七草の1つ。本州・四国・九州、朝鮮、中国に分布している。原産は中国ともいわれるが、万葉の昔から日本人に親しまれてきた。8-10月、散房状に淡い紫紅色の小さな花をつける。


白花のフジバカマ 自宅 2014.10.13  

生草のままでは無香のフジバカマであるが、乾燥するとその茎や葉に含有されている、クマリン配糖体が加水分解されて、オルト・クマリン酸が生じるため、桜餅の葉のような芳香を放つ。中国では乾かした葉を湯につけて洗髪に利用した。中国名:蘭草、香草英名:Joe-Pye weed;Thoroughwort;Boneset;Agueweed(ヒヨドリバナ属の花)植物学者の湯浅浩史著「植物ごよみ」に『フジバカマの語源は江戸時代、谷川士清が「花の色をもて藤と称し、其弁の筒なるをもて袴とす」と解釈して以来、異論がほとんどなかったが、上野博士はフジバカマは不時佩(ふじばかま)ではないかとと説く。香をはかまにたきこめて不時の災いにそなえたというのである』との記述がある。

高橋克衛氏はあきた(通巻116号) 1972年(昭和47年) 1月1日発行に以下の記事があった。

元気はつらつ稲川明治大学
 
高齢者教育は、生涯教育の到達点、いわば終点であり有終である。本県における高齢者教育は、生涯教育が叫ばれる以前、老人福祉の問題とからめて推進されてきた。老人クラブを母体としそれに地域の公民館が積極的に入り込んで行なった高齢者学級―老人大学がそれである。
、、、。

雄勝郡稲川町の明治大学も、県内では活発に活動しているユニークな存在として知られている。NHKテレビの電波にのって全国に紹介されたこともあり、雑誌『家の光』43年11月号のグラビアにはというタイトルで、町民運動会に参加した稲川明治大学生の、ほがらかで元気あふれる老人パワーが登場する。なにしろ佐藤東一町長が、県婦人児童課長時代の"家庭の日運動"の生み親だけに福柾優先を町政のモットーにかかげ、そのうえ結婚六十三年、文字どおり偕老(かいろう)同穴のご両親が健在とあって、ことさら老人問題には関心が深いのだ。したがってここの特色は、単なる高齢者教育といった孤立した作業ではなく、の一環として老人福祉と生涯教育とが、町政のもっと高次元の場所で手を結びあっている点にあるのだ。
、、、。

死に花を咲かせる  老人学級に関する悩みは、各地とも学習プログラムにあるようだ。なにしろ、それぞれに長い人生の甲羅を経た人たちの集合である。そこには当然、教養の差、趣味の違い、地位や財産の差が生じてくる。狭い地域だと家対家、人対人の感情問題がからまる時もある。こうした人たちを一堂に集めて、いったい共通する何を教えたらいいのか…昨年夏の全県公民館研究大会の高齢者教育分科会でも、このことがいちばんの問題となった。これについて、県老人クラブ連合会長の佐藤欣一郎氏は「老人には別に何も知識を教える必要がないではないか。ただ家の中に籠って閉鎖的になりがちな老人を、地域のみんなで暖く外へ連れ出し、そこで同じ年配の仲間のだれかれと語り、笑い合い、からだを動かしてさっばりした気分になって家に帰る、それだけでいいと思う。私は生涯教育は、老人の場合生涯(いきがい=生甲斐)教育だと思う。あゝ生きていてよかったと思うこと、そして自分に残された力をわずかでも、家庭なり社会に役立てられれば、それか生きがいであろう。そして生きがいの積み重ねが"死にがい"である」と語る。死に花を咲かせてやるために老人教育の場がある、それだけで有用なのかもしれない。
、、、。

明治大学の大好評に、町民から要望がたかまった。私たちにも大学を!と。そこで来年度からは「大正大学」と「昭和大学」をも開設します、と佐藤町長の言明。大デモンストレーションのため八月三十日の町の記念日の前後に、社会福祉と生涯教育を合せた町民大会を開く計画が、もう着々と練りあげられていた。
 あきた(通巻116号) 1972年(昭和47年) 1月1日 引用

振り返ってみれば、稲川の明治大学の活動は格調の高いものだった。高橋克衛公民館長の情熱が抜きんでていたことにもあったのかもしれない。その後の世代はあきた(通巻116号)にあった「大正大学」と「昭和大学」等の開設はほとんどできないことかもしれない。当時の老人クラブへの入学学齢は65歳とあった。現在の団塊の世代以降の世代が対象となる。時代背景があまりにも違ってきてはいるが、昭和の「稲川の明治大学」のようなパワーはあるとは思えない。
現在川連集落に老人クラブの組織はない。数年前に加入者も少なく解散された。今年の川連地区の敬老会に参加したのは、麓集落では対象者三八名中タッタ一人だったという。

フジバカマの咲く季節になって、ネットで故高橋克衛氏の「あきた(通巻116号) 1972年(昭和47年) 1月1日号」を引用し振り返ってみた。故高橋克衛氏の義兄にはあの農民文学の重鎮、伊藤永之介氏がいた。高橋克衛氏の文章の深みは伊藤永之介氏とのつながりにもありそうだ。ネット上にすでに廃刊になった「あきた」の通巻号で故高橋克衛氏の文章に出合える。

それにしても1972年、故高橋公民館長はなぜ「フジバカマ」を是非見てこいと言われたのか、園芸用でも「フジバカマ」の咲く頃になると思いだされる。戦地の中国大陸でほんものの「フジバカマ」との強烈な出合いがあったと推察できる。それがどういうことだったのかはすでに故人となられて今では知ることができない。1972年当時、山野草への意識や関心はほとんどなかったことがある意味では悔やまれる。

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詩集「豚語」と「農業・農村所得倍増計画」

2014年08月31日 | 足跡
今再び真下章詩集「豚語」を読み返した。ハガキの「河鹿沢通信」、「豚語」2001.1.15発行の通信52号を思いだし、改めて農業政策の怪しさを検証してみた。浜矩子同志社大学教授のいうドアホノミクスを垂れ流す、安部内閣の「農業の大型化で、生産性が高く、競争力が上がる」の規模拡大論が提唱されている。「農業・農村所得倍増計画」というものらしい、かつてどこかで聞いたことのある政策だ。

農基法制定50年以来、伝説のごとく規模拡大論に惑わされて多くが挑戦し、破滅していった事例を正しく検証されてはこなかった。検証されていないのだから繰り返し似たような政策が続く。いたるところに残骸として残っている廃畜舎や、廃園し雑草の多い茂る果樹畑を見るにつけ、憤りと悲しさがわいてくる。かろうじて存在している規模拡大した基礎体力のない農家は、周りの中小農家の存在で成り立ってきた一面がある。周りの多くの中小農家がいないのだから、いくらか規模の大きい農家の存立基盤も脆弱なのだ。株式会社の農業参入も優勝劣敗の法則の社会で結論が見える。彼らの食料の生産は転売の可能性が大きい土地の裏付けがあってのこと。企業の畜産業へは侵入は数がすくない。侵入も既存農家への畜産小作の形で存在してきた。この形が永続的に継続する保証はない。

適正規模の家族農業の定着では取り巻く外部資本、農機、肥料農薬、流通関係に利益が少ない。関連産業を第一として農業政策は、規模拡大策を推奨する。中小の農家等よりも数倍の取引できる規模拡大農家の存在こそ関連産業の利益拡大につながる。しかし、地域の永続的な繁栄は、地域に多くの農家が存在することにある。近年集落営農、法人等と何か目新しいような位置づけに見えるがほとんど実質は変わってはいない。一握りの規模の大きい農家や、法人等という形を変えた農家が存在してもその地域が豊かとは言えない。もしかしたら世界一高い生産資材で海外と同等の農産物は生産できないのは当然なことだ。規模拡大等などとはものの一面でしかありえない。

繰り返される農業政策で耕作放棄地が増大している。今の政策でも放棄地増大は止まらない。お友達で「産業競争力会議」等という得体のしれない会議の提言で、地域の崩壊が進むことがあっても活性化はしない。「産業競争力会議」を、経済評論家の佐高信氏はそのものズバリ「経済格差拡大会議」が実態だと云っている。

13年前、詩集「豚語」をかつて古本屋で見つけて以下のハガキ「河鹿沢通信」を出した。


詩集「豚語」とハガキ「河鹿沢通信52号」2001.1.15 52号

ハガキ通信「豚語」

名もないものは殺されてもいいのか
豚のように
ひと言の挨拶もなく
いのちは引き裂かれてもいいのか ・・・・ (のように)

生き返るな
生き返って
再びその目に憎しみを入れるな ・・・・ (再び)


この詩集は群馬県の赤城山麓で豚を飼う、「真下 章」氏の詩集「豚 語」の中からの引用である。豚ではなく牛を飼う自分は、この「豚語」の詩集がどうしても読みたいと思った。昭和60年の頃だったと思う。この詩集を初めて知ったのが雑誌だったのか新聞の書評だったのか今は思い出せない。
しかし、今回偶然立ち寄った古本屋で見つけた。読みふるしでも、作者の贈呈本でもなさそうだ。見つけた感激は大きい、「まさかこんなところで」とも思った。売価100円。 再版1988.9.20 紙鳶社 発行定価1200円、見つかった喜びの反面、価格100円はなぜか痛々しく、つらさもあった。1979年初版、「愛情 などという煮ても焼いても食えない代もので、豚飼いなど一生できるものではない。まして社会的責任だとか誇りだとかいう煽てにのるほど、お天気な風景でもない」・・のあとがきも新鮮で真新しく思えた。

農業での自立、規模拡大、複合経営など等。この数十年間で多くの農民は、為政者と能無し官僚の甘言に乗せられ、多くの人は敗北、挫折をした。挑戦した者の労苦は筆舌しがたい。彼らのいう「市場原理」とやらに翻弄されながら。
さらにその政策はエスカレート。そのため挑戦者の中には田んぼを失い、さらにこの世にサヨナラした者もいる。挑戦しないことが農業として生きる道ではないかと、繰り返して叫んでもきた。養豚ではなく「豚飼い」、酪農ではなく「牛飼い」の方が豚や牛と語りあえた。暮改の行政下での火傷はあまりにも大きい。だから、他の人の「田んぼ」までなどと欲張ると、田んぼとの語りもダメになる。

あんたに借りはひとつもねえ ・・・・ (負債について)

と、この作者はあくまで「豚」の目線で、その屈辱を人間どもに問いかける。
   ハガキ「河鹿沢通信52号」2001.1.15 52号

農政に呼応し確率した規模拡大農家の多くに、基礎体力の脆弱さは大きい。昭和40年代農業構造改善事業等で生まれた、協業経営や規模拡大した経営の多くはすでに廃業してしまった。農政の掛け声としての6次化が存在しても、基礎体力の弱い農家に不可能なことに過ぎない。結局は関連産業の収益増に結びつく。さらに規模の大きい農家の忙しさは普通の農家の数倍。知人のH氏は10haの田んぼに野菜や花を栽培し直売所等で販売しているが経費と臨時作業の労賃等で100万円の売上に、90%以上の経費がかかってしまい手取りがほとんどないと嘆いた。過酷な労働時間と経費の増大、簡単には縮小できない現実がある。そのよう状況で仮に規模拡大で周辺農家よりも10数倍の売り上げがあったとしても、差引収入はほとんど大きな差はない。
超多忙と収益性のさほど上がらない経営は早晩消滅する。

売り上げの増大はイコール経費の増大へと比例する。経費のほとんど関連産業等への移行だったことに気がついても、規模拡大してしまった農家の退却は即破産を意味する。特に畜産は年中無休。飼料の自給をメーンに農政は進めてきたが定着できなかった。畜産と耕種と循環農業が確立できない大型畜産の継続は難しい。形を変えて耕種農家もあまり変わりがない。やみくもに拡大しても必ずしもコストの低下には結びつかない。激多忙での経営にはおのずから限度があり、現在の米の価格では投資した機械設備等が回収は難しい。単作の経営ではアルブレヒト・テーヤの云う合理的農業にはならない。安定しないから持続しない。

私的機関の「産業競争力会議」は米の値段を60k9,000円を目標とする案を今春発表した。現実に10,000円米価到来でこの数年で生まれた拡大農家の存立基盤が揺れ動いている。多くは継続困難が目の前に来ている。今から十数年前になるが某テレビ局が調査した、20ha規模と1.5ha規模の集約農家との所得はほぼ同じだった経過もある。

真下 章 詩集「豚語」から

   豚 語

  さあ
  これで一対一だ
  お天とうさましか
  みちゃあいねえ

  いいから
  帽子をとれ
  そしたら靴を脱ぐんだ
  はだしになったら
  上衣
  上衣をとったらネクタイ
  バンドの次は
  シャツ
  下着を脱いだら
  パンツもだ

  みんなだ
  そうだそれでいい
  そしたら四つん這いになって
  ブウー
  と ひと声云ってみろ

  俺とおんなじじゃねえか
 

この詩集「豚語」のなかから「豚語」、「怒りは」、「再び」、「のように」、「負債について」、「天の川」等当時食い入るように読み共鳴した自分がいた。再び手にして時代が変わっても新鮮な認識は輝いて見える。


あとがきに以下のようにかかれている。



真下さんは生業として、業として豚を飼った。米からの脱却の一端として養豚業に向かった人も大勢いる。真下さんは豚と人間とを区別しなかった目線がこの「豚語」の詩集にあふれ出ている。牛を飼う人も又、コメもリンゴも、ハウスのトマトであったりキュウリでも、「、、語」と真下さんと同じように、作物と人間とを同列の目線で見ることができれば、この時代の軽薄な政策のいかがわしさが透けて見えてくる。

あとがきにある「豚」を「農業」に変えてみれば以下の文章になる。

「愛情 などという煮ても焼いても食えぬ代物で、農業(豚飼い)など一生できるものではない。まして社会的責任だとか誇りだとかいう煽てにのるほど、お天気な風景でもない」。

アベノミクスは失敗に終わる。4月から強引に3%引き上げ8%の消費税は便乗値上げを誘発し、重くのしかかっている。個人消費は大きく減少し物が売れない時代に入った。円安経済の中で実質賃金の低下、年金額の減少で個人消費が低迷は当然。大企業の利益の内部留保が空前の伸びが報道される中、働く者への還元は限定的。多くの中小企業で働く者の実質賃金は低下傾向。聞こえてくるのは勤め先の倒産、非正規雇用の身分の不安定からくるものばかり。町中心部の閉ざされたシャッターは錆びついてしまった。

先に政府は4-6月期のGDP(国内総生産)は年率6.8%のマイナスと発表した。この中に売れ残りを在庫を景気にプラスの要素としていたことが指摘され、実際のマイナスは発表の倍以上の16%との説がある。数字操作を駆使してまで増税する魂胆が透けて見える。

消費税8%の情勢分析が不明瞭にして、消費税10%説は60k10,000円以下の米価と連動し個人消費は停滞、地方の経済は一層先行きが見えなくなる可能性が大きい。1%と人の成長に99%が犠牲になる市場原理主義から地域の豊かさは生まれない。
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細谷昭雄さんを偲ぶ会

2014年06月14日 | 足跡
元社会党所属の衆議院議員で、全国出稼ぎ組合連合会会長を務めた細谷昭雄氏が、3月12日に脳出血で入院先の仙北組合総合病院で87歳の生涯を閉じた。「細谷昭雄さんを偲ぶ会」が、佐々木長秀元社民党県議や小山誠治、藤井春雄元大仙市議、栗林次美大仙市長等が呼びかけ人となって、5月11日午後2時から大仙市大曲エンパイヤホテルで開かれた。会場には約250名が各地から集まって細谷さんとお別れをした。

細谷氏は公立学校教員を20年勤務した後、71年に県議選に出馬して初当選。県議2期務めた後衆院議員2期、参院議員1期務め国政の場で農業問題、教育問題の専門家として活躍した。そして故・栗林三郎衆院議員から引き継いだ「出稼ぎ運動」 を中心とする「大衆に依拠した政治活動」に半生をささげ、出稼ぎ者の福祉向上と権利を守るための活動を展開、出稼ぎ者の組織化を図り、有給休暇、退職金制度を勝ち取るなど大きな功績を残した。平成元年(1989)全国出稼連合会会長を栗林三郎氏から受け継いだ。昭和45年から40年間続けたで出稼者訪問は1000カ所を超え、約8200人の出稼ぎ者と合い劣悪な飯場の改善、労災事件25件、賃金不払い事件40件等の解決に奔走した。平成7年7月再選を目指した参院選で惜敗し、政界を引退した。 (一部引用)

 
「安らかに眠るな この社会を糾弾せよ」 むのたけじ氏 大仙市大曲エンパイヤホテル 2014.5.11

あと半年後、2015.1月で100歳になる「むのたけじ」氏は、細谷氏の足跡をたたえつつも、右傾化著しいこの時代に「安らかに眠るな」と遺影を指さし細谷氏を送った。厳しい顔の「むのたけじ」氏は右傾化の時代に細谷昭雄氏を失った悲しみの中、多くの参加者に「現状に甘んじるな、行動を起こせ」と警鐘したものに違いない。会場にいた自分は「むのたけじ」氏のこの発言に思わず立ち上がり、自分への叱咤の意味を込めて手をたたいていた。

平成13年2月24日逝去した、栗林三郎氏の「栗林三郎さんとお別れする会」は平成13年3月11日大曲市フォーシーズンで開かれた。平成25年7月30日高橋良蔵氏が亡くなり、平成25年11月15日、「高橋良蔵さんを偲ぶ会」が湯沢市ロイヤルホテルで開かれた。


ハガキ「河鹿沢通信」58号(鹿河沢訂正)「栗林三郎氏逝く」 2001.03.25

細谷昭雄さんは7月30日の故高橋良蔵氏の葬儀、11月15日の「高橋良蔵さんを偲ぶ会」に参加し元気な姿を見せていた。ただ遺影に向かって「もうすぐ私もそちらに行く」と呼びかける細谷氏に異様な姿に見えた。激動の時代の同志との別れに一抹の寂しさがあったことは確かなことかも知れない。思わず細谷氏にかけより言葉を交わしたことが昨日のように思いだされる。


ひとすじの道 高橋良蔵さんを偲ぶ会 配布の小冊子 

かつて、鶴田知也氏は栗林三郎氏を陶淵明の「清風脱然到」という詩句で讃えた。高橋良蔵さんの偲ぶ会で参加者に配られた小冊子「ひとすじの道」だった。故高橋良蔵氏の生涯はまさしく農ひとすじ。農民の地位向上に地域の活性を創造していた。故栗林三郎氏のライフワークは「米と出稼ぎ」に代表される。これはそのまま故高橋良蔵氏、故細谷昭雄氏にも共通される。この偉大な三人の足跡は秋田の農民運動に大きな成果を残した。故細谷昭雄氏は誠実な方だった。教師の出身でありながら「出稼ぎ農民」の地位向上を生涯奮闘した姿勢に敬服する。「清風脱然到」と「ひとすじの道」を合わせ持った指導者だったと思う。

「偲ぶ会」で2011.8.6から9.10まで秋田魁新報の連載記事シリーズ 時代を語るで出版された「小さな石を拾うように」(一部修正)が配られた。前にネットで拝見していたが小冊子で拝読すると故細谷氏の誠実な姿と運動に頭が下がる。栗林三郎氏の後をついで国会議員になってからのつき合いだったが、この本で知らなかった細谷さんを知ることができた。

[
「小さな石を拾うように」細谷昭雄 秋田魁新報社

現政権の首をかしげるような歴史認識と集団的自衛権、戦争ができる国の行く先はどこか。そして郵政民営化で味をしめた政権は大胆にもJAや農業委員会制度へも手をかけ出した。栗林三郎氏、高橋良蔵氏、細谷昭雄氏をつないだ「米と出稼ぎ」は、過去の時代になったようにも見えるが農村、農業は「米」で代表され、かつての「出稼ぎ」は「派遣」に名を変え、正社員とは雲泥の差のある劣悪な労働条件のなかにある。

「細谷昭雄氏の偲ぶ会」で、99歳「むのたけじ」氏の発言、「安らかに眠るな」のフレーズが忘れられない。




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