尊敬する佐賀県の山下惣一さんが7月10日に亡くなり、偲ぶ会が12月18日東京都千代田区の「日本教育会館」で開かれた。今回「山下惣一さんを偲ぶ会のご案内」をいただき、久しぶりの上京と思ったが、抜き差しできない所用と重なり出席を断念した。
下記は訃報を伝える7月14日の朝日新聞。
昭和32年中卒で農業に従事し、定時制高校を終えて本格的に家業の農業に入ったのは昭和36年。「農業の憲法」とまで言われた「農業基本法」が制定された年である。
大きな変化が生まれそうな情勢に翻弄されていた時代。農の定着のために各地の情報を集めた。現在のようにインターネット等はあろうはずもなく。情報収集はテレビ、ラジオを中心に書店に出向き関連する本、雑誌が中心だった。
そんな中で昭和41年、目に飛び込んできたのが佐賀県の「新佐賀段階」の米つくり運動に驚かされた。米どころを自賛する秋田の昭和40年、41年の反収は454㎏、441㎏。「新佐賀段階」運動の佐賀県は昭和40年、反収512㎏、41年、542㎏の驚異的な収量を上げていた。秋田で反収500㎏を超えたのは昭和42年からだった。
その佐賀に住む、「山下惣一」さんを朝のNHKテレビ「あすの村づくり」で知った。当時山形の「やまびこ学校」の「佐藤藤三郎」さん、その著「25歳になりました」で「木村廸夫」さんに出会い、後に有機米運動の先駆者の「星 寛治」さんも知ることになった。
テレビで向き合う「山下惣一」さんはある種の強烈の思いで接してきた。「海鳴り」や「減反神社」等で農民作家の称号が定着し、書籍も60数点も発行、国内での講演数は軽く1000は越え、世界60か国も訪問したという。したたかなエネルギーはどこから生まれ、どんなところで暮らしてきたのだろうか等と想いながら接してきた。ネット社会に割と早めに接してきからgoogleのマップを通して、「唐津市湊」を意識してきた。
私の読書スタイルは著者の描きだした背景を近づくために、表現されている場所に立ってみること重要なスタイルになっている。山下さんの住む「唐津市湊」地区の山や畑、田圃風景をデスクトップに映し出し、ページをめくる。時には集落内やみかん山等道路をマウスで巡ってみる。「ああ、、」山下さんはこの道路を軽トラで走っていたのか等と想いをはせながら彼の書籍に入ってしまう。
佐賀県唐津市湊地区全景
唐津市湊は農業集落の「岡」と漁業集落の「浜」が各300戸計600戸の大きな集落という。初めてこの風景に接したとき今までイメージしていた農村とは大きく違うと思った。唐津の湊は600世帯で農と漁が大きなつながりを持って形成されている。600世帯の集落は各地に存在するが多くは100世帯以下、50世帯以下が圧倒的なのが東北の農村の姿。
人間形成の中で多くの人は生まれた環境と、接してきた人間関係が大きく作用してくる。生い立ちが私と似通っていたからより親しみがあったのかもしれない。
家の光協会発行の月刊誌「地上」誌のエッセイ「農のダンディズム考」は、1994年から2021年まで、約30年にわたって連載してきた。このエッセイで山下さんの並外れた感覚と思考のしたたかさを毎号楽しみにしてきた。
山下惣一さんを知った1970年以来、直接会ったのは12年前の2010年になる。気さくな山下さんは書籍やエッセイで発信している姿そのまま、約40数年のブランク等なかったような感覚で話していた。不思議な出会いでもあった。
2022年7月10日、「山下惣一」さんは逝ってしまった。
偲ぶ会の追悼小冊子に特別寄稿の依頼があった。そうそうたるメンバーの中に自分が入っているのに驚かされた。この頃文章を書くなどということはほとんどない。ささやかなブログを時たま書いているが全く気ままなもの。テーマも期限もないある種のわがままさを自認しているものにとって、締め切り日やテーマ等を与えられると金縛りになってしまう。今回締め切りギリギリで1000字の文章を送った。
山下さんとのひと時
「ところで今も秋田でツツガムシ病はあるのか」と山下さんは言う。「あるよ」というと誰でも知っている童謡「つつがなしや友がき、、、」を口ずさみジィーっと北上川の川面を眺めて無言となった。
10年ほど前、岩手県北上市で「TPPに反対する人々の運動」の会合に首都圏や、置賜百姓交流会の仲間等20数名が集まった。
北上の展勝地にあるレストハウスで会食は賑やかなものだった。展勝地レストハウスは北上川の辺にあって、近くに「北上夜曲の碑」や「サトウハチロー記念館」がある。
しばし談笑の合間にレストハウスの外、小さな丘のようになっていた場所で「山下」さんと二人で北上川の緩やかな流れを見ていた。秋田ではツツガムシ病をケダニ病と呼び、県南の雄物川流域に発生が多い。昔から全国的に発生する風土病とされる。
私の農業従事は1960年前後。「農業基本法」が制定され「緑の法律」等などと言われ、多くの人が翻弄されていた時代。「青年会」に入り、仲間と「農業問題研究会」等を組織した。運動の過程で「やまびこ学校」の山形の佐藤藤三郎さん、木村迪夫さんを知る。同時に山下惣一さんを当時NHKテレビ「明日の村づくり」で知る。
1972年11月、国交回復直後中国政府の招待で中国訪問。15名の中に佐藤藤三郎さん木村迪夫さんがいた。私の「農に定着」のためには偉大な二人と親交のあった、「農の立場を主張」する山下惣一さんは大きな存在になっていた。
私が山下惣一氏と出会ったのは2010年12月、「反TPP集会IN東京」の集会からだから日は浅い。1960年代から多くのエッセイや書籍に共通する、洒脱で豊富な知識に裏打ちされた表現に多くの人が喝采し育てられてきた。初対面も長い空間の時を感じさせない親しさが山下さんにはあった。
「東北の人間は嫌いだ。まじめすぎる、、、」と。彼は会話の冒頭によく私に言った。その度に張り詰めた「ベルト」を思い浮かべながら、「うーん、、、」と言ってそれ以上の発言はしないできてしまった。
数分前までレストハウスにぎやか懇談会。二人で見つめた北上川の川面。山下さんは玄界灘の海面を思い出していたのだろうか。訃報を聞いた時からこの時間が脳裏から離れない。
激動の今、山下さんに「やすらか」には似つかわしくない。あの軽妙な語りはいつまでも、、、との想いは消えない。
山下さん、ありがとうございました。
「山下惣一さんを偲ぶ会」を終えた2022年暮れ、「百姓は越境する」No.41号誌が送られてきた。
私の拙い追悼文も掲載されている。限られた1000字で印象深かった「山下惣一」さんとのひと時を振り返った。会話がほとんどないわけではなかったが合えて、「つつがなしや、、、、」を切り取ってみた。今までとは別の「山下惣一」さんに会えたこのひと時、私にとって極めて貴重な時間となった。
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