私の村の菩提寺神應寺は創建から約960年になる。集落の形成は寺創建以前、1000年以上前から形成されていた古い村。現在140戸の村だが江戸後期には大きな神社が二つ、お寺が三つあった。二つの神社の一つは「八幡神社」、天喜5年(1059)八幡太郎源義家が京都八幡大神を勧請して祀った。八坂神社は長治元年(1104)勧請、慶長4年(1599)川連城の領主の保護を受け再興されている。その後宝暦6年(1756)に現在地に建立、現在の神社は寛政12年(1800)に再建された。
三つのお寺の一つは神応寺、康平年中(1058~1066)に八幡神社の社務人が開山したといわれている。神応寺は川連城の北の登り口あたりにあって、文禄元年(1600)川連城が最上義光の軍に攻められ落城したあと現在地に移った。佐藤久治著「秋田の密教寺院」によれば「真言宗、八幡山、神応寺」として稲庭の「真言宗、金米山、長楽寺、地蔵院」、三梨の「真言宗,仏喜山、観音寺」が稲川の「真言、密教寺院」三寺院と記されている。
竜泉寺は天正元年(1573)川連城主の嫡男桂之助と、岩崎城主の息女能恵姫の祝儀の途中皆瀬川で竜神にさらわれ、菩提を弔う為に建てられたといわれている。明治22年の火災後約1k離れた野村地区に移った。明治時代に二つのお寺が無くなり、現在は神社二つとお寺が一つが集落にある。
小さな村に二つの大きなお寺があった所に,妙音寺が慶長19年(1614)に開山された。妙音寺は祈祷寺といわれているが、隠れ切支丹のよりどころだったとの説もある。慶長19年(1614)の開山から明治2年(1870)の廃物希釈で廃寺になるまで256年続いたお寺だ。
今回「妙音寺」の歴代の墓地を尋ねた。墓地は集落の近くで住宅からせいぜい100mほどしか離れていないが、ほとんど訪れる人はいない。近くに黒滝明神の祠がある。かつての銀杏は樹齢1000年と云われていたが伐採されてしまい、現在二代目の木で直径1ⅿは超える太さの雄で近くの黒滝子安観音にある銀杏は雌、あわせて「夫婦の木」と言われている。
黒滝明神の祠と大銀杏 お堂は約20年前に新しく建て替えられた 旧お堂も側にある
墓地はこのこの祠から50mほどの所にある。今回数年ぶりで訪れたら墓石が倒れていた。倒れていた墓石を元の位置に立て直したが苔で覆われ文字は見られなかった。
倒れている妙音寺歴代墓地
五つある墓石の一つに延享2年とあった
湯沢市と合併前の稲川町広報「広報いなかわ」No682(平成5年10月10日)に佐藤公二郎氏の「いなかわのむかしっこ」に「川連山妙音寺廃寺の昔をしのぶ」がある。この文に『佐藤久治著「秋田の山伏修験」によれば、川連山妙音寺の文政8年(1825)の僧構成は、鑁隨実乗(ばんずいじつじょう)年齢32歳、先達は伊勢の世儀寺とある。
このほどわかった妙音寺歴代和尚の系図には、開山が慶長19年(1614)12月8日「源養房圓秀」で、鑁隨実乗は11世「源養院鑁隨」と思われる。10世「法教院實峯」が文政4年(1821)巳亥正月15日に亡くなっている。鑁隨実乗28歳の時となる。
佐竹義宣は慶長7年(1602)徳川家康から国替えの命を伏見で受け、水戸城家老の和田昭為に指示を出した。「秋田への随員は一門・重臣の他93騎」と制限した。93騎とは譜代93家、93の軍団を編成していた。「佐竹国替記」には331家、茨城歴史地理の会代表の江原忠明氏のよれば、系図が残っているケースだけで587家に上った。さらに常陸から移住する人が後を絶たず、3年後に院内峠に採用しない旨の立札が立てられたといわれる。引用(秋田魁新報平成2年1月から連載「時の旅-佐竹氏入部400年」から
妙音寺は常陸から佐竹義宣の国替えと一緒に来た「対馬」家(現高橋)から分かれて慶長19年(1614)12月に開山。佐竹氏が常陸から移転した天徳寺は寛永元年(1624)金照寺山の山麓に移したが、火災で焼失し寛永5年(1628)に現在地に再建されている。佐竹氏の国替えと一緒に来た系図に残っているといわれる587家は、地域に定着するまで緊密な関係にあったことは想像される。妙音寺の開山した「源養房圓秀」は、度々天徳寺の関係者を訪れ教えを被っていたといわれている。
先の広報いなかわの№682「いなかわのむかしっこ」に「妙音寺最後の和尚さんを黒滝賢瑞といい、その父は黒滝一曜である」とある。明治4年(1604)、歴代和尚を記録し本家に預けてこの地を去ったのは黒滝源造氏である。そして父の黒滝一曜は、13世智覧一曄和尚ではないのだろうか。字は違っているが「一曜と一曄」同じ人物のようだ。
九世源養院宥教 寛政九年(1797)没が寛政元年に源養院から妙音寺に名をかえている(御許容 )。10世法教院實峯 文政4年(1821)巳年正月15日と記された以降、廃仏毀釈の明治2年(1969)まで48年の間、11世 源養院鑁隨 凶父、12世黒滝禅滝和尚 卯年正月4日、13世智覧一曄和尚はこの地を離れる時は健在だったのだろうか。世源養院鑁隨 凶父と記されている背景は一体どのような状況だったかは今のところわからない。
村にあった神応寺と竜泉寺は回向寺、妙音寺は檀家を持たない祈祷寺。回向寺は先祖回向を行う寺という意味で、一般的には自分が行った善行を、他者の利益として差し向けることと言う意味で、良いことは回って戻ってくるという言葉でもある。江戸時代は檀家制度が確立され、檀家が寺院を経済的に支えるという関係性のある寺となっていた。
祈祷寺は多くは将軍や大名などが先祖供養の回向寺とは別に、利益祈願や一族の繁栄、戦の無事などを目的に建立した。庶民も江戸時代には、先祖の墓を設置し先祖供養を行った回向寺とは別に、無病息災、家内安全、商売繁盛などの個人利益をお願いしに行く祈祷寺は需要な関係にあった。江戸時代は、厳しい寺請け制度の元で厳格に管理されていたものの、二つの寺院へ出入りはそれほど規制はなく自由だったと云われている。
広報いなかわの№682「いなかわのむかしっこ」に幕末、文化、文政(1818~1829)年間の頃は「権大僧都、蜜雲権月法印」が妙音寺の修験者(山伏)であったとある。修験道は、古来、山々を神として崇拝した山岳信仰をもとに、神道・仏教・道教が融合して生まれた宗教で、険しい山にこもって難行苦行することにより、特異な法力や呪力、験力を獲得できるとされています。
広報いなかわ昭和48年7月10日号「町の歴史と文化」に「山伏・修験」に「山伏が、どれだけ秋田の文化を高めてきたかは民俗芸能や、古文書でわかる。読み書きができる山伏たちは地域社会の良き教師であり、京都との往復修業によって、地域文化の担い手となった。一般の人は、山伏は単なる宗教家、呪術使いといったイメージでとらえているが、そうではない。彼らは経を読み、祈願をし、占いをする一方、医術と教育に通じ著述と、農作業のリーダーだった。修験道を実践する行者でありながら、片方では中世文化の推進役、«生活総合コンサルタント»だった。山伏文化、修験文化を無視して歴史を語ることはできない」と「秋田の山伏・修験」の著者、佐藤久治氏の談が載っている。
妙音寺は開山の時は源養院、正徳2年(1712)の「十一面観世音」造立には川連山相模寺の名号もある。そして寛政元年(1789)に妙音寺に名を変えている。
妙音寺には遠く湯沢や羽後町からも信者が出入りしたとされる。修験者(山伏)となって各地で修業し現世の利益を庶民に説き支持されたから、慶長19年創建から明治の廃仏毀釈まで約256年間続いたものと思える。ご本尊は佐竹氏の国替えの時、常陸から一緒に持ってきた約70cmの「千手観音像」。黒滝源造氏がこの地を離れるときに本家に預けた。この像と歴代墓地に接すると「妙音寺」の栄華がしのばれる。
黒滝の子安観音
妙音寺の近くには黒滝の子安観音のお堂がある。キリシタン禁制の江戸時代に建てられた石造りのマリア像がご本尊。このマリア像のレプリカは旧稲庭城跡にある今昔館に展示されている。祈祷寺の妙音寺は、庶民の願い事を叶えることで信者を増やしてきた。住職はキリシタンとの関わりが強かったと云われ、訪れる信者は地元ばかりではなく山を越えた湯沢・雄勝、横手地方まで広まり、信者の通う道を「キリシタン通り」と呼んだと伝えられている。現在はほとんど知られていない。
現在も集落では観音様の講の行事は続いている。この観音講は黒滝子安観音ではなく、岩清水神社を祀っている。岩清水神社を地元では観音様と云い、毎年5月上旬に講が開かれ神主が祭礼を司っている。ご本尊は石造の像右手には宝剣、左手には如意宝珠を持っている。右手の宝剣は不動明王の持物で、左手の如意宝珠は観音の持物とも云われている。一時期ご神体が盗難にあい別のものを祀ったとの説もあるが真偽は定かでない。キリシタンとの関連性については今の処わからない。
キリシタンと妙音寺について「妙音寺を偲ぶ 2」で追跡してみたい。
※ 上記の黒滝明神は旧妙音寺の跡に建てられている。この場所から150mの処に黒滝神社稲荷大明神、天正2年(1574)5月造立があったとされる。妙音寺が開山される40年前になる。現在は存在しない。廃仏毀釈で壊された可能性もある。今ある黒滝明神と関連あるのかは不明。
銀杏の大木を伐ったら禍が続き、鎮めるために祠を建てたとの説がある。