新河鹿沢通信   

暮らしの中から 村の歴史 足跡 集落 跳躍  麓風小舎     

映画「銀の匙」と秋田の酪農

2014年03月28日 | 足跡

映画「銀の匙」を観た。週刊少年サンデーに連載され、テレビアニメでも好評で今回映画化された。新聞で農業高校で酪農を題材にした映画「銀の匙」を知り、今回「イオンシネマ大曲」に行ってきた。秋田県の農業の柱は「米」だった。昭和35年制定の「農業基本法」はコメ作の偏った農業から、他の作物との複合経営が叫ばれた。いまでは死語かも知れないが、当時小畑知事は「水田酪農」推進策を提唱した。翻弄されながらも時期を同じくして「米+酪農」の経営を創造し、40数年継続した「酪農」からリタイヤしてから5年となる。

映画「銀の匙」ポスター 引用

湯沢市から映画館が無くなってから20数年になる。秋田の県南からすべての映画館が消えたのは、2006年10月大曲駅前の「月岡シネマ」が最後だった。映画を観る機会はほとんど無くなってしまった。2008年10月大仙市の国道13号線沿い敷地面積164,278㎡、商業面積47,020㎡、駐車台数3000台の「イオンモール大曲」がオープンした。この中に5スクーリンを持つシネコンプレックス「イオンシネマ大曲」が併設された。オープン以来2回ほど訪れたが、今年は2月の「小さなおうち」と今回の「銀の匙」となった。

読売新聞は、2014年3月21日に下記の記事を掲載した。

「未知の酪農、乗馬も特訓」
「公開中の「銀の匙(さじ)Silver Spoon」は、農業高校を舞台にした人気コミックが原作の酪農青春記だ。酪農とは無縁のサラリーマン家庭で育った主人公が淡い恋心を抱くヒロイン・御影アキ役を(広瀬アリス)が演じる。主人公を酪農の世界へ先導する役だが、自身は「牛や豚に触るのも初めて」だったと言う。舞台は北海道・帯広。受験戦争に疲れた八軒(はちけん)(中島健人)は「親元を離れられる」という理由で大蝦夷(おおえぞ)農業高校に進学する。家畜の命を巡る様々な現場や酪農家の厳しい現実を目の当たりにし、仲間と共に成長していく」。

「アキは酪農の現実を見て育っていますが、私は全部初めての経験。何も知らない世界に放り込まれ、とにかく前に進むしかない“リアル八軒君”でした」撮影前に搾乳などの実習を受けた。酪農家と同じリズムで生活し、午前3時起床は当たり前」。
、、、、、、、、、。
「作品では、電気ショックで気絶させた家畜の豚を解体するシーンなど、普段目にしない生産の現場も描かれる。「ただの青春映画ではない。命をいただくありがたさ、『いただきます』や『ごちそうさま』の意味を改めて考えさせられる作品になったと思います」と語る。
(2014年3月21日 読売新聞) 要点引用

 アニメ 一場面 引用

作者の荒川 弘(あらかわ ひろむ、1973年5月8日)は、日本の女性 漫画家。北海道出身。女性とは思ってなかったので少々ビックリした。デビュー前は、家業の酪農と畑作農業を手伝いながら「エドモンド荒川」のペンネームで、2011年『週刊少年サンデー』19号から連載『銀の匙 Silver Spoon』を開始したという。

広大な土地と大型農機による酪農と畑作(主にジャガイモ)を手がける農家に生まれ、農業高等学校卒業後7年間家業を手伝っていた。作品の随所に酪農業の労働をしたからこそできる表現に出会い共感を覚えた。作者は、日本全体としての食糧自給率の低さを対比させた上で、都会人の食糧問題への認識の目に余る身勝手さと農家の実状を描きつつ、「飢えたくなければ、銀座でベコ(牛)飼え。ヒルズを耕せ。」と訴えるなど、漫画家となった現在も一貫した農民視点の人物。消費者のたべものへ対する警鐘を訴えている。

銀の匙 Silver Spoon は 受験失敗をきっかけに、北海道の大蝦夷農業高校へ入学した「八軒勇吾」は、同級生の「アキ」や「駒場」のように明確な将来の展望を抱けない自分に違和感を抱きつつも、酪農実習や部活に奮闘していた。北海道の大自然と動物たち、そして個性豊かな仲間に囲まれ、これまで経験したことのない生活を送る中で「八軒」は戸惑い、悩みながらも自分の進むべき道を見つけ始める。過酷な酪農業の実態は、大型負債で廃業に追い込められた「駒場」をとおして現実の酪農の実態を表していが、俗にある青春ドラマとしてみればあすこまでが限界かも知れない。映画の中で「八軒勇吾」がぶつかって戸惑いをみてクギ付けになった。映画の後観たYoutubeのアニメでは、酪農廃業の実態は映画より深く踏み込んでいた。現実と対峙する若者へ、実態を切り開いていく可能性を覚えた。(一部引用)

かつて、私はコメ中心の農業から「酪農」を取り入れようと考え、当時北海道野幌の酪農学園大学内にある、酪農学園機農高(現在とわの森三愛高等学校)の「酪農通信講座」を受講、7月にスクーリングに参加。自分探しの6日間の学習を通じて戸惑うのは、「八軒勇吾」同様、他の受講生が明確な展望を持っていたことに圧倒されていたことにあった。だからスクーリングを終わって迷走の末、酪農への夢を一時捨てた。もう一度出発点の戻ってから見つめなおしてから酪農と考え回り道をした。回り道は退却できない条件整備だったかもしれない。さまざまな曲折の後、一頭の乳牛を手にしたのは、機農高通信科中退後5年にもなっていた。酪農体験記はいずれ振り返って見たい。


秋田県農協乳業株式会社 看板 2012.3.30

秋田県内では酪農家が激減している。かつて1000戸もあった酪農戸数はここ20年で500戸ほどになりさらに減少し、間もなく全県で100戸割るのは時間の問題になっている。乳牛頭数10,000頭が、6,000頭に激減。横ばいの乳価に比べて飼料等の経費が上昇、なんと牛乳1キロ(1㍑)当たりの生産者価格が120円の「缶コーヒー」一本の値段よりはるかに安く、ペットボトルの水より安い牛乳の生産者価格では多くの酪農家は採算が合わない。多額の負債を抱えた酪農家の救済策はあるのだろうか。状況は数年前の「口蹄疫」騒ぎと、円安政策で飼料の高騰が続き経営維持がさらに深刻になっている。

県は、要点経営再建策で40~60頭へ規模拡大というが、昭和50年代で北海道酪農でささやかれた「ゴールなき規模拡大」だけでは、再建は不可能に近い。ゴールが見つからない競争に入ってしまえば走り続けなければならない。個人経営ではいずれ限界が近づく。府県で放牧地をもたない「舎飼」には過酷な現実がある。酪農や畜産は一定の規模は重要な要素だが、行政は頭数拡大すると負債がかさむ実態を把握していない。酪農も農業も足し算政策だけでは展望が生まれない。条件が限られてはくることだが、専業でなく複合経営に展望があったのだが、今後はどう推移するのか。イケイケどんどんの市場原理の中では、「不足払い制度」を早急に導入していかなければ、酪農、畜産生産者は衰退してしまう。

さらに秋田の酪農家にとって衝撃的な出来事があった。2012年3月主要な牛乳メーカーのひとつで、秋田県農協乳業(横手市)、全国農業協同組合連合会(全農)の子会社が解散した。県北で生産した生乳は東北森永乳業秋田工場(大館市)、秋田以南は秋田県農協乳業(横手市)に運ばれ一部「農協牛乳」やその他の名前で県内のスーパーなどで販売されていた。秋田県産牛乳は県内消費量とはぼ同じ生産規模だと言われていたが、近年北海道をはじめ他県産牛乳の販売攻勢にさらされ、県農協乳業も集荷した生乳の6割は県外へ出していた。

1995年(平成7年)秋、秋田県農協乳業株式会社は酪農家の大きな夢を乗せて発足した。秋田の専門酪農協の「雄平酪農協」を中心に「雄勝酪農協」、「羽後酪農協」に各総合農協、地域の製酪業者、秋田県経済連、全酪連で発足した。解散まで実質約15年ほど創業したにすぎない。解散に担当者は「県南の市場は価格競争が特に激しく、経営が維持できなかった」と話したというが、発足から解散まで一部かかわった一員としては極めて残念なことだった。官僚化してしまった会社組織に、生産者農民の改善策等には聞く耳をもたなかった。個人的なことではあるが、この出来事は酪農業から早期撤退した一要因になっている。

映画「銀の匙」を鑑賞してある種の感動を覚えた。経済動物を飼う困難さと現実、そんな中で若い世代が、動物の出産や肉としてされていく現実に向き合って掴み取る共感さにある種の未来を感じた。テレビアニメ等を観ることはないが今回映画「銀の匙」鑑賞後、パソコンでYoutubeアニメも観た。映画と同じ感動を浸った。多くの農家も消費者も、映画「銀の匙」から未来を切り開いていく若者のパワーを掴み取って欲しい。

ストリートビューで集落の散歩

2014年03月22日 | 集落
パソコンの検索エンジンにグーグル(GooGIe)の地図にストリートビューの機能がある。2013年10月から湯沢市のほぼ全域が閲覧可能になった。川連町麓、川連、上野の市道が閲覧できるようになっている。この機能を使って三集落の全戸を検索してみると、140戸のほぼ全戸の自宅前まで行ける。何軒かは道路の狭いところや行き止まりの所まではできないが、360度のカメラには捉えられている。下記は麓、川連集落内の地図の画像、対象になっている市道は青線で表示されている。この青線のどの部分でも人型のアイコンをドラックすると、その地点の360度の風景が表示される。また地図上で住所を検索して、人型のアイコンをドラックすると写し出せれる。キー操作での画面は車を運転して見える風景そのものに見えて移動できる。


ストリートビュー内 麓、川連の市道

Web産経ニュースで次の記事があった。

白神山地もネットで散策 「ストリートビュー」秋田にも拡大
「インターネット上で街並みなどの写真を閲覧できる米グーグルの「ストリートビュー」の対象範囲が秋田市など秋田県内24市町村の市街地にも拡大した。青森県ではこれまでの青森市などに加え弘前市など27市町村が新たな対象に。これで全都道府県の主な市街地が見られるようになった。グーグルによると、秋田県ではこれまで湯沢市の一部しかストリートビューを見ることができなかったが、世界遺産の白神山地もネット上で散策できるようになった」。
2013.10.4 02:15  引用


宿の十字路付近 湯沢市川連町川連 ストリートビュー画像 

写真に見られるように交差点を示す白い矢印が、約1秒ほど表示されて消える。白い線の方向へマウスやカーソルで進める。画面はパノラマで立ち止まって360度の方向が確認でき、画面には画像撮影時期2012.9とある。9月何日だったかを画像から検索すると2012.9.22(土)秋分の日12:00~13.20頃中心とわかった。周囲の農作業の状態、祝日の国旗等から推定された。

googie ストリートビュー について、「ウィキペディア」というフリー百科事典で次のような解説がある。

「googie ストリートビュー は撮影用の自動車。屋根の上に、GPSユニットと、全方向撮影用のカメラユニットを載せている。この他に三輪自転車が使われている。道路を走行して撮影したデータを位置情報と共に保存していく。インターネットを通じて提供しているWebサービス。2007年に開始された。カメラを地面から高い位置に搭載した車両(当初は自動車、後に三輪自転車も加わる。)を多数走らせて撮影した道路沿いの風景が、Google マップおよびGoogle Earth上で、地上約2.45メートルから撮影された360度のパノラマ写真で表示される。

ストリートビュー機能は、Googleマップでは、利用可能な地域に地図を合わせることで、縮尺の調節バーの上の(「Pegman」)が黄色に点灯する。この状態で人型のアイコンを地図上にドラッグすると、利用可能な地域(日本では主要な国道をはじめ、都市部の道路が青色で表示されるので、そこにアイコンを配置(ドロップ)することで風景を閲覧できる。

車載カメラは3次元方向のほぼ全周(水平方向360度、上下方向290度)を撮影しているためキーボードを操作してポインタを動かすことで、上下(仰角・伏角)・前後・左右へと視野を移動させたり、ズームアップやズームアウトさせたりすることもできる。
「ウィキペディア」 要点引用

初めての方は、カタカナや英字記入が多くてわかりにくいかもしれないが、実際の画面はマウスのクリックで簡単に使うことができる。このストリートビュー機能で集落内を散策してみると、集落内の数人がこの撮影車と会っていることがわかる。先日、集落内でこの車と遭遇したと想われるN君に尋たら、一昨年の9月22日の記憶は定かではなかった。仮に出会ったとしても、何を目的にする車両なのかがわからなければ記憶にないのは当然かもしれない。しかし、googieストリートビュー の存在と実際の画面を観ることでビックリする。

2012年9月、集落を撮影した自動車がある家のガラス戸にその姿が見える。


集落内撮影中の車両(2012.9.22)パソコン画面 デジカメ

その影から推定すると下記の車体に似ている。


パソコン内の撮影用自動車画像 (引用)

自動車の屋根の360度撮影のカメラがこの写真では赤いが、集落内を回ったカメラ装置は赤ではなかった。ガラス戸に移ったいる画像では青く、カメラ装置も少し違うようだ。

ネットでストリートビュー機能は「グーグル」のニュースで2007年供用時から知っていた。数年大都市が中心で秋田県にはいつごろなのだろうかなどと思っていた。首都圏はいち早く検察可能で、マップ上では住所表示して人型のアイコン(「Pegman」)を移動するとすぐ目的地が表記される。それが2011.3.11東日本大震災の被害地域が、2011.7月いち早く検索できるようになった。さらに震災後、多くの方から震災前の街の様子を記録したストリートビューを残してほしいという要望で現在、「未来へのキオク」で震災前後の同地域のストリートビューを公開しています。今回のストリートビュー公開により、「震災前」、「震災直後(2011年撮影)」、「震災3年目(2013年撮影)」が閲覧ができるようになった。

2013.10に公開された秋田県内は、2012.9に撮影され県内ほとんどカバーされ、湯沢市川連町のわが地域が検索可能を知ったのは2013.10の末だった。2014.3.22現在、隣町の羽後町は国道、県道で町道は一部分だけ、東成瀬村は国道も村道も入ってはいない。山形県も秋田県よりは公開が遅れているようだ。

今回麓の他川連、上野集落をストリート散歩してみた。三集落の戸数は140戸もある。数年全地域を散策することはなかった。画面散策してみて改めて時代の移り変わりを知ることになった。この10年前から解体された家が4戸、空き家(状態含む)が8戸、伐り倒されてしまったリンゴ園、新築家屋3戸、その他ハウスや車庫等新しい建物ができている。

近年の社会構造の激変は激しい。町の中心部はシャッター通り化し、郊外に出ると耕作放棄地の拡大、高齢化の進行は「空き家」の増加へと進んでいる。今後、ストリートビュー画像が頻繁に更新されるのは大都市以外そうはないことだろう。「川連集落」の画像更新が次にあるのは、数年後か数十年後かはわからないが、次の更新まで、この集落ばかりではなく他の地域も激変の予感がする。震災地域並みに数年ごとの画像更新があったら等と考えてしまう。

全国の国道、県道、市町村道がカバーされるのはそう遠くないことかもしれない。ストリートビュー機能で自宅にいてパソコン画面上で多くの知人、友人の自宅前まで行けるようになった。住んでいる環境を知ることで親近感が深まるのも確かなことだ。便利というべきか、そこまでもと考えるべきかは、それぞれの価値判断になるのだろうか。



 

村の「けもの」(獣)たち 

2014年03月15日 | 集落
今年「麓集落」の住民が一同に会したのは、1月「神應寺庫裏の雪下ろし」、今年から神職宅で開かれた一年の安全を祈願する「春祈祷」。2月「火まつり」に続き3月9日が部落総会だった。総会のすべての議事終了後の懇親会で、「里山スノーシュー探索で例年より動物の足跡が少ない」ことを話題にしたら、市役所勤務の栗林君から「カモシカ」が自宅に来たという話になった。2月9日(日曜日)午前10時28分頃玄関前で出会い、その後3日間ほど同じ場所に来たという。周囲は大雪で木の芽が隠れたせいか、わずかな食べ物を求めて玄関前の庭木の芽を食べた跡があると話し、携帯カメラの画像を見せてもらった。


2014.2.9.10:28 栗林君宅玄関前 携帯(栗林)

写真でもわかるように小さめな「カモシカ」だ。下記の写真の足跡に見られるように集落を大回りしたり、他の人からも集落内道路に足跡があることは聞いていた。内沢やカジカ沢探索で例年より少ない動物の足跡の中で「カモシカ」は確認されていた。その足跡もいつもより小さ目だったから、もしかしたらこの「カモシカ」だったかもしれない。「カモシカ」は一年中同じ地域を行動圏として、直径500m~1Kmの縄張りを持っているといわれている。10数年前から「切崖」を行動圏の中心にしていることが知られていた。麓集落では数少ない雑木林の一角だ。この場所は湯沢市稲川支所から直線距離で400m弱。約100m離れた道路は稲川中学校に通じる交差点、国道398号線から分かれて横手市の「みずほの里ロード」につながる。大型の自動車もひっきりなしに走る場所になる。


集落を回る足跡 住宅を回っている 2014.3.9 黒森

かつて「カモシカ」は保護されていなかった時代には、人家のそばに出てくることも少なかった。特に戦後の社会の混乱で良質な肉と毛皮を目的とした密猟が絶えず、昭和30年に国の「文化財保護法」により特別天然記念物に指定され保護されるようになった。戦後の拡大造林政策で杉林の増加と木材の価格の暴落で山林の荒廃が増え、さらに保護されることで人を恐れなくなり集落の近くを行動圏にする「カモシカ」も出てきた。

「カモシカ」は哺乳綱ウシ目(偶蹄目)ウシ科カモシカ属に分類されている。シカではなくウシの仲間ということになる。シカの雄の角は枝に分かれるが、「カモシカ」の雄の角は枝分かれはしない。以前肉は「カモの味がするシカ」なので、「カモシカ」名がついたとの俗説を聞いたことがある。一方カモは鴨でなく、毛を氈(かも)と呼んでいたことによる氈鹿(かもしか)との説が正しいのかも知れない。

自宅の縁の下に「アナグマ」が棲みついている。昨年夏ごろから気がついていたが、昨晩やっと姿を見ることができた。自宅は築100年の住宅で「アナグマ」や野良猫は自由に出入りができる。棲みついたとおもわれる昨年夏ごろからは、それまで数年住み慣れた野良猫は「アナグマ」に占領されてどこかに移ってしまった。夜行性と言われ、野良猫から陣地を占領した「アナグマ」は、縁の下をわが物顔に走り周る。平成10年秋撮った写真が下記のだから数年前から棲みついているのかもしれない。


アナグマ 自宅坪庭 2010.9.10

ニホンアナグマ(日本穴熊、学名:Meles meles anakuma)は、ネコ目イタチ科アナグマ属に属するアナグマの日本産亜種。独立種とする説もある。体は頑丈で幅広く、全体にずんぐりとした感じがする。尾は短くて、四肢も太くて短い。また、四肢にはそれぞれに5本の指を持っているが、前足の爪はとても長い。毛色は背側が灰褐色や褐色などで、腹部と四肢は黒っぽく、口先から目、耳にかけて暗い縞があり、その間は白っぽい。体長は40~50cm。尾長6~12cm。体重4~12kg。一見してタヌキに似ているが、タヌキはイヌ科に属しているが、アナグマはテンやカワウソなど同じイタチ科に属していてる。当地では「アナグマ」も「タヌキ」も「ムジナ」と呼んでいる。

一般的には夜行性といわれているが、我家の「アナグマ」は昼夜問わず動き回るが、特に夜中が賑やかだ。大雪のため屋根までぎっしりの雪で夏のような身動きが制限されている。住宅の雪囲いのわずかな隙間が彼らの通路らしく、昨晩はこの雪囲いの丈夫な杭がジャマらしく前足の爪を雪囲いをしているビニールテープを引っ張りはがしにかかった。ガリガリと音をたてテープを引き裂き、丈夫な杭を寄せてしまった。縁の下から外への出入り口にある杭がジャマだったらしい。引きちぎりに夢中の「アナグマ」はLEDの電燈がまぶしかったのか、照らされても驚く素振りがなかった。

アナグマはヨーロッパからアジアにかけての寒帯から温帯域に広く分布し、国内では北海道を省く、本州・四国・九州に分布している。山地から平野部の森林地帯、雑木林、草原などに生息し、分布域が広い為、様々な環境に見られる。主として夜行性の動物で、昼間は巣穴に潜んでいることが多いという。

縁の下の「アナグマ」が集団か単独かはわからないが、下記は2012.8.8の写真、4頭のうちの2頭撮れた。もしかしたらこの「アナグマ」が集団で棲みついているのかもしれない。「アナグマ」は主にミミズや昆虫類などを食べる、カエルやトカゲ、ヘビなどのほか、モグラやウサギなどの小動物、鳥など、何でも食べるといわれている。また、雑食性で果実などの植物食も食べるといわれるが、冬の食べ物はどうしているのだろう。我家の越冬野菜等の被害はみられない。昨晩の「アナグマ」はそれにしても丸々と太っていた。一般的には縄張りの広さは地域や食糧事情などによって変わるが、平均で1~4k㎡と言われているから、140戸近い集落を縦横に回っていることになる。雄は2年、雌は1年ほどで性成熟し、寿命は10~15年程度と考えられている。昨晩の狭い雪囲いの間の「アナグマ」は撮影できなかったが、写真と同じか、その一族と思われる。


アナグマ ポンプ小屋前 2012.8.8

「アナグマ」は分布域が広いこともあり、国際自然保護連合のレッドリストでは、現在のところ絶滅の恐れが少ないとされている。昔から「けもの」では最高に美味との話もある。
捕獲する場合、事前にアナグマは市役所経由で県知事の捕獲許可が必要で、知事宛の許可願い「有害鳥獣捕獲等依頼書」を出し、許可が下りて初めて捕獲できるのだそうだ。
雪がきえたら縁の下から追い出したいものと願っている。

昨年の冬は天井に「ハクビシン」が棲みついたが、どうにか追い出した。集落内で貯蔵のリンゴやジャガイモの食い散らかしも聞こえてきた、この冬も健在らしい。昨夏はとうとう「クマ」も出没して大騒動になった。旧稲川庁舎から1Kmにも満たない地域で夜な夜な動物が這い回っている。戦後荒廃した山々に植林により杉林ばかり、杉林は手入は行き届いていないので、これらの動物が棲むには適さなくなったようだ。比較的食べ物の豊富な集落を棲む場所に決めたのかもしれない。

最上小国川ダム計画問題を考える

2014年03月03日 | 地域
山形県の最上小国川ダム計画で犠牲者がでた。ダム建設に反対する小国川漁業協同組合長が2月10日自ら命を絶った。朝日新聞は2014.2月12日報道の後、2月27日下記の記事を全国版に載せた。この記事によれば山形県は昨年12月、小国川漁協に要求を着きつけた10年に一度の漁業権の更新に、「県との協議の席に着かない限り漁業権の更新を認めない」と示唆した。この背景は「ダム計画」反対のすれば漁業権は認めないということで、組合長は「県との交渉で追い詰められていた」と漁協理事が話している。まさに権力の横暴そのものだ。


朝日新聞 2014.02.27

小国川漁協はとホームページに以下の記事を配信した。
「去る2月10日、当組合の沼沢勝善組合長がお亡くなりになりました。全く突然の出来事で、私たち組合員も驚きと悲しみでいっぱいです。またご遺族の気持ちを考えると、本当に何と申し上げればよいか言葉も見つからず、心が痛むばかりです。
沼沢組合長は平成9年に小国川漁業協同組合の組合長に選出され、以来これまで17年の長きにわたり組合長を務めてこられました。組合長として小国川の漁業振興に努めるばかりでなく、「松原鮎」と称される小国川の良質なアユを守るため、冷水病の危険がある種苗の放流をストップしたり、夏には釣り具メーカーが開催するアユ釣り大会をたくさん受け入れて、遊漁の振興や発展に寄与したり、多くの実績を上げられてこられました。小国川のほとり建てられた「小国川稚鮎センター」でアユの中間育成事業に着手し軌道に乗せたことも、忘れてならない大きな実績の一つです。

そして近年は、皆さんご存じのように山形県が最上町の赤倉温泉上流に建設を計画する「最上小国川ダム」に、反対の立場で漁協の先頭に立って奔走されてきました。ただ反対するのではなく、ダム以外の方法で治水は可能か否か、河川工学や治水の専門家の方たちに意見を聞いたり、全国各地のダムや治水対策について勉強したり。本当に真摯に問題と向き合い、最善の策を模索してきました。しかし、そうして決議に至った組合としての総意「ダム以外の方法での治水」は、県からはまったく受け入れられることなく、県はただただ「ダムによる治水を丁寧に説明したい」と繰り返すばかりでした。そうして起きたのが、昨年末の漁業権更新に関する問題です。10年に一度更新される漁協権の更新にあたって「公益への配慮」ということが県から漁業権付与の条件として提示され、それについて沼沢組合長は大変心を悩まされていました。なんとか漁業権は更新されたものの、今年に入って最上小国川ダム建設について協議する場への参加を促され、多くの委員がダム建設を容認するようなムードの中で、沼沢組合長は先頭に立って「ダム以外の治水対策の検討」を訴えました。まさに孤軍奮闘。その姿には悲壮感さえ漂い、痛ましいほどでありました」 以下略

1月28日に「第一回最上小国川流域の治水対策協に関する協議会」に組合長以下5名出席した。協議ではまず山形県県土整備部の岡邦彦部長が、「これまで県が最上小国川の治水対策について検討してきたプロセス」や、「治水の手法として流水型ダム(穴あきダム)が適当とする理由」など、これまで何度も語られてきたことをまとめる形で説明。当組合も沼沢組合長や青木理事が、「赤倉温泉地区を中心とする小国川流域の治水対策として、県が掲げる流水型ダム(穴あきダム)案にはいくつもの疑問や懸念があり、当組合としては河道改修による治水対策を望むこと。また県は河道改修による治水はできないと否定しているが、当組合は専門家の意見も聞いて河道改修による治水は十分に可能と考えていること」などを申し述べました。
小国川漁業協同組合ホームページから 2014.01.29掲載

この会議以降第二回の協議に向け10日、漁協で打ち合わせ会議が予定されていたという。年末来の騒動で組合長は深刻な疲労がたまっていたことが想像される。

最上小国川は最上川支流で、唯一天然河川で東北では有名なアユの産地。全国から年間3万人も訪れるアユ釣りのメッカと言われ、その経済効果は年間21.8億円の試算がある。この川に総工費約80億で赤倉温泉地域の治水を主な目的として「穴あきダム」をつくると云う計画だ。
「穴あきダム」とは「増水時だけ水をためる治水専用ダム」でダム湖を造らず、発電や農業利水はできない。島根県営益田川ダムが06年3月に完成したほか、長野県の浅川ダムなど全国10カ所で計画されている。


山形県 最上小国川ダムの概要  引用

「穴あきダム」増水時だけ水をためる装置というが、2013.8.9の秋田県仙北市の集中豪雨被害の大規模な土砂崩れ、2008.06.14の岩手・宮城内陸地震(マグニチュード7.2)で「荒砥沢ダム」上流の崩落地の最大落差は148m。土砂が水平距離で300m以上移動した。穴の部が1.7×1.7が2ケ所の「穴あきダム」。どう説明されても?を拭いさることは素人にはできない。大きく環境破壊しても「ダム建設」ありの詭弁にも思える。「穴あきダム」がこれらの災害に直面すると穴あき装置がふさがれ長期間機能の閉鎖、長期間濁水が下流を汚染し清流の「アユ」の被害は甚大なものとなる。年間全国から3万人訪れ、現在経済効果21.8億円の経済効果のある天然河川は貴重なものだ。全国的に自然破壊されている河川の状況から見たら、この河川はユネスコの「自然遺産」に匹敵する価値がある。規模が小さいなら、日本版の「日本ユネスコ」の自然遺産登録があって良い河川だ。何しろ東北を代表する「松原アユ」と呼ばれる天然鮎の産地。

湯沢市の雄物川支流皆瀬川に昭和38年に完成した皆瀬ダム、完成以降下流は大雨毎に半月以上も泥水が流れ、アユのエサとなる苔が育たず、かつてアユの郷のイメージは遠くなってしまった。どこで起こるのか予想のつかない災害を考えると上記の図のように「穴あき」の構造が1.7mで大丈夫なのか。普段は下流に水を流す「穴あきダム」というものに、何が何でもダム建設を推進する、「ダムムラ」の陰謀などと思えてしまう。

この度の「最上小国川ダム」計画で犠牲者が出てしまったことで、この計画推進の山形県の行政指導に問題がなかったのか、全国的に知られることになった。小国川漁業協同組合長は死をもってこのダムの建設に抗議した。漁業組合長の無念さがいかばかりかと思う。漁協組合員数は1200人という。漁業法23条は、漁業権を民法上の物権とみなし、土地に関する規定を準用すると定めている。

上関原発建設に伴う漁業補償金問題で、2013.3.29祝島の講演会で熊本一規・明治学院大教授(環境経済学)は「漁業権を持つのが漁協であれば総会決議で決められるということになりますが、そうでなければ漁業権者の全員の同意が必要と」語っている。2014.2.27朝日新聞の記事で熊本教授は今回の漁協長の死の抗議にあたって、「県の対応は前代未聞。ダム問題で賛否が割れた他県の事例でも、県が漁業権の更新を盾に取るような手法はとならい」と批判している。

原発や各地のダム問題は「原子力ムラ」、「ダムムラ」等は「目的を推進することで互いに利益を得てきた政治家と企業、研究者の集団」と言われその結束は強固だ。研究者の集団には大学の研究者、マスコミ、業界紙や監督官庁等官僚機構ともつながっている。政権交代後益々露骨な振る舞いに見える。かつての時代からの「由(よ)らしむべし知(し)らしむべからず」の精神が大手を振って光り輝いてきた。

個人的な関係だが、熊本一規明治学院大教授とは面識があった。2013.12.07ブログ「追想 土くれのうた(NHKあすの村づくり)で紹介した1973年「菅原裁判」を全国出稼組合指導の下に起こした東京地裁での裁判闘争で、当時東大大学院の学生だった熊本氏が東京で、私が秋田での事務局だった。熊本氏とは第4回口頭弁論の時東京地裁で一緒になって以来会ってはいない。2011.3.11福島原発事故のあと出版した「脱原発の経済学」(緑風出版)で、熊本一規氏の近況を知り今回朝日新聞で健在ぶりを知った。もう40年も前の事だが人とのつながりの不思議さ、尊さを知り当時を振り返ってみた。。「菅原裁判」は熊本教授の視界から消えかかっているのかもしれないが、当時からのよしみで成瀬ダムについても環境学の立場からの知見を伺いたいものだとの想いが生まれた。

先日2014.2.21秋田地裁で成瀬ダム住民訴訟・証人尋問があった。被告側から国交省東北地方整備局河川部長・工藤啓氏、同湯沢河川国道事務所所長・平野令緒氏が尋問された。この件も近いうちに投稿したい。