先日、首都圏からUターンのI氏が「道端の石の文字、車ではなく馬でないのか」と話し出した。突然の話題で「場所は」と話したら、「村の通りのリンゴ畑、少し離れて六地蔵様がある。その場所を通る度に不思議でならない」という。しばし?。「石碑だと古くなると文字の一部が欠けることがある」等々。「車と馬」との話で混乱した。
その夜自宅に帰ってもI氏の「車?、馬?」が頭から離れない。旧龍泉寺の山門「山門禁葷酒」のことではないかと気づいたのにそれほど時間はかからなかったが、なぜ車と馬なのかすぐには理解できないでいた。葷酒の酒の文字が土に埋まって、「山門禁葷」と見えるのは極めて日常的な光景なので、特に違和感はなく過してきた。しかし始めて目にした人には理解できなかったらしい。禅宗のお寺の山門前にある「山門禁葷酒」または「不許葷酒入山門」はよくある。菩提寺の神応寺にこの碑はない。現在旧龍泉寺跡には「榧の木」と「六地蔵」と「山門禁葷酒」の碑が残っている。この碑にリンゴの枝が覆いかぶさり、一般的に歩く人しか目につかないらしい。
2015.6.13 旧龍泉寺山門前「山門禁葷酒」
「山門禁葷」葷の文字の「くさかんむり」が「4字くさかんむり」の++なっている。氏はこの++と「わかんむり」冖を見落として読んでしまった。だから「山門前に止めるを禁じたのは車ではなく馬」の間違いとの説だった。「4字くさかんむり」の++が中央で大きく離れ、縦線が中心に向かって斜めになっている。現在「くさかんむり」は「3字くさかんむり」で、「4字くさかんむり」は使われてはいない。わかりやすくするために文中の++は記号文字で表記したが、本来は++は中央ではなく文字の上に表記で「4字くさかんむり」となる。
2015.6.22 旧龍泉寺山門前
赤い帽子の地蔵さんは六地蔵、参道の両側はリンゴ園。白い標柱は「龍泉寺跡カヤの木」とあり平成10年11月、旧稲川町教育委員会が建てた。
「山門禁葷酒」または「不許葷酒入山門」について、ウィキペディアには次のように解説している。
「大乗仏教や道教においては、殺生を禁ずる目的から、動物性の食品(三厭(さんえん)、すなわち獣・魚・鳥)を食べることを禁じられた他、「葷」(くん)と呼ばれる臭いの強い野菜類を食べることもさけられた。
多くの場合、陰陽思想に基づく「五葷」(主にネギ科ネギ属の植物であるネギ、ラッキョウ、ニンニク、たまねぎ、ニラ)を避けるのが特徴である。ネギ科ネギ属の植物は、硫化アリルを成分として多く持っており、これが臭いの元となっている。『説文解字』は「葷」を「臭菜也。从艸軍聲」(臭い野菜。部首は草冠で音は軍)と説明している通り、本来はネギ属の植物を指していたが、なまぐさと訓読みするように、現在の中国語では主に「素」(そ)の対義語として、動物性の食品を指すように意味が変化している。
禅宗などの寺院に行くと、「不許葷酒入山門」あるいは「不許葷肉入山門」などと刻んだ石碑が建っていることが多い。これは「葷酒(葷肉)の山門に入るを許さず」と読み、肉や生臭い野菜を食べたり酒を飲んだものは、修行の場に相応しくないので立ち入りを禁ずるという意味である」
車社会になり歩く人が少なくなった現在、道路脇の「山門禁葷酒」の碑にほとんどの人は関心を示さない。今回偶然に話題に上ったが多くの人は碑があることを知らなかった。道路脇のこの碑は歩けばすぐに目につく。車社会で道路、街道を歩いているのは車の運転できない人、運動のため、小学生等に限られてきている。「くさかんむり」に軍(ぐん)という文字「葷」の文字は初めての人が多かった。だから本来、土に隠れている酒の文字があることに気がつかない。「葷酒」(くんしゅ))の文字は遠い過去の言葉になってしまったのだろうか。酒のことを「般若湯」(僧の隠語)は聞いたことがあると云う。浄土真宗には「御酒海」がある。
お酒はなぜ「般若湯」というのか(http://www.kongokaku.org/faq/faq5-12.html)に次の記述がある。
「仏教徒が守るべき日常生活における規則に「五戒」というものがあります。五戒とは、よく知られているように、不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒の五つです。
これら五つのうち、最後の不飲酒戒の場合は、酒を飲むこと自体をいましめたというよりも、酒を飲むことによって、前の四つの戒めを犯しやすくなるからという理由によって制定されました。こういった戒律は日本に伝わってくると、日本人は「酒を飲むこと自体がいけないのではないから、酒を飲んでも他の悪いことをしなければよいはずだ」と解釈するようになった。
、、、、。
「般若波羅蜜多」・「般若の面」などで知られてる「般若」というのは、単なる人間の知識や知恵ではなく、真実を見抜くさとりへの智恵ということで「般若湯」とよんだ。とある。(一部省略)
龍泉寺は天正元年(1573)岩崎城主の息女能恵姫が、川連城主の嫡男挂之助に嫁入りの途中皆瀬川の龍神にさらわれた。龍泉寺はその菩提をともらうために建立されたと言い伝えられている。明治22年火災のあと川連町野村地内に移った。龍泉寺は創建から約440年になる。この碑「山門禁葷酒」、「榧の木」、「六地蔵」は川連集落地内の旧龍泉寺跡に残っている。これは貴重な歴史遺産で大事に来世につなげたいものだ。
能恵姫の伝説は湯沢市の岩崎から川連、東成瀬村の赤滝が舞台となっている。岩崎氏の居城である岩崎城には姫を祀る水神社が創建され、菩提寺である永厳寺に供養塔がある。旧龍泉寺跡の榧の木の根元には姫の供養塔の祠がある。現在の祠は昭和37年9月、麓の「川崎うん」さんが発願主で川連地区の63名の協賛者で再建された。祠の中に協賛者の氏名と再建額1万2千4百円と記録されてある。先日親戚の葬儀で一緒になった龍泉寺現住職さんから、約40数年経過し傷んできた祠の再建の話があった。
龍泉寺は曹洞宗。本尊は江戸時代初期に製作された釈迦如来坐像で胎内仏が二躯安置されている。
家の東側に昔からため池があった。そして、北側の縁側の近くに平成9年、坪庭に小さな池を新たに造った。懇意にしていたG氏がバックホー持参で、300k前後の沢石を周りに配置し坪池はできた。池の中に中島に見たてて石質の柔らかな石を入れ、苔で表面を覆いフウチソウ、マイヅルソウ等を植えたらいつの間にか中島として定着した。以来「金魚」が中島の下のわずかな空間を棲みかにし、坪池の主になっていた。畳3畳分ほどの広さの池の「金魚」は7匹前後。池の広さと棲む「金魚」は比例するのか、多く放しても自然淘汰なのか、いつも7~8匹位で巡回していた。
金魚のいない坪池 2015.6.8
この冬は4年ぶりの豪雪から解放され比較的雪が少なく、例年だと雪のある時期から「金魚」が見られていたが、今年は春の目覚めが遅いのか出てくるのが遅い等と思っていた。それが一匹もいないことに気づいたのは4月になってからだった。全滅は「イタチ」の仕業かも知れない。坪池から「金魚」が一匹もいなくなったのは初めてだ。このほど横手市の業者から「金魚」を求めて池に放した。
6月5日、坪池に「イトトンボ」を見つけた。いつもの年より少し早い発生。毎年出てくる。「イトトンボ」とは総称で、このトンボは「カワトンボ」の類かもしれない。今のところこの一匹しか見当たらない。
カワトンボ? 2015.6.8 北の坪池
このトンボは約10m程離れた二つの小さな池を棲みかとしているようだ。
カワトンボ? 2015-06-11 東の坪池
「アメンボ」は大型で6匹水面を這い回る。「アメンボ」は見たところ体長が4~5センチほどで、足は6本で前足は短いが、中足は片方で10センチほど、両足を広げると約20センチにも見える。素早い動きと水面へ太陽の照り返しでなかなかデジカメに収まらない。やっと撮れた一枚。
アメンボ 黒いのはカワニナ 2015.6.8
ウィキペディアに「アメンボ」ば「外見は科によって異なるが、翅や口吻など体の基本的な構造はカメムシ類と同じである。カメムシ類とはいかないまでも体に臭腺を持っており、捕えると匂いを放つ。「アメンボ」という呼称も、この匂いが飴のようだと捉えられたことに由来する」とある。捕えたことはないからどんな匂いかはわからない。「アメンボ」は飛ぶことも出来るという、今日の坪池には3匹しか見えなかった。明日は戻ってくるのだろうか。
金魚のいない坪池 2015.6.8
この冬は4年ぶりの豪雪から解放され比較的雪が少なく、例年だと雪のある時期から「金魚」が見られていたが、今年は春の目覚めが遅いのか出てくるのが遅い等と思っていた。それが一匹もいないことに気づいたのは4月になってからだった。全滅は「イタチ」の仕業かも知れない。坪池から「金魚」が一匹もいなくなったのは初めてだ。このほど横手市の業者から「金魚」を求めて池に放した。
6月5日、坪池に「イトトンボ」を見つけた。いつもの年より少し早い発生。毎年出てくる。「イトトンボ」とは総称で、このトンボは「カワトンボ」の類かもしれない。今のところこの一匹しか見当たらない。
カワトンボ? 2015.6.8 北の坪池
このトンボは約10m程離れた二つの小さな池を棲みかとしているようだ。
カワトンボ? 2015-06-11 東の坪池
「アメンボ」は大型で6匹水面を這い回る。「アメンボ」は見たところ体長が4~5センチほどで、足は6本で前足は短いが、中足は片方で10センチほど、両足を広げると約20センチにも見える。素早い動きと水面へ太陽の照り返しでなかなかデジカメに収まらない。やっと撮れた一枚。
アメンボ 黒いのはカワニナ 2015.6.8
ウィキペディアに「アメンボ」ば「外見は科によって異なるが、翅や口吻など体の基本的な構造はカメムシ類と同じである。カメムシ類とはいかないまでも体に臭腺を持っており、捕えると匂いを放つ。「アメンボ」という呼称も、この匂いが飴のようだと捉えられたことに由来する」とある。捕えたことはないからどんな匂いかはわからない。「アメンボ」は飛ぶことも出来るという、今日の坪池には3匹しか見えなかった。明日は戻ってくるのだろうか。
三年前の内沢山神社の祭り朝、神社の掃除で御堂所にあるご神体が仏像であることがわかっていた。それまで御堂所の中まで掃除することがなかったが、落ち葉やごみクズが入り込んでいるのに気づき、掃除の過程で初めて知った。しかし、仏像がどういうものか、山神社がいつごろ造立されたのか知っている人はいなかった。今回修復工事の協賛金を集落に呼びかけで、「覚書」があることを知った。
内沢山神社
集落の「高橋喜右衛門」家から、山神社の覚書「観音社 山神社日記」明治4年(1872)「黒瀧源蔵」著が出てきた。「黒瀧源蔵」氏は明治新政府の「廃仏毀釈」で廃止に追い込められた麓集落にあった「妙音寺」の住職だった。妙音寺住職が「廃仏毀釈」でこの地を離れる時に、本家の「喜右衛門」に「覚書」として預けた。それには以下のような記述がある。(抜粋)
天中天平等 延享三歳丙丑 諸旦那豊楽延 如意満足
奉造立山神宮諸願如音大旦那繁昌之如
国土安穏 二月一二日
別當 麓邑智傳坊 施主久右衛門
とあり延享3年造立の「智傳坊」は妙音寺住職だった。さらに内沢山神社の造立、再建の経過が記されている。
川連 内沢
山 神 社 造営修覆村中信心者
延享 三年丙丑二月十二日造立 (1746)
宝暦 七年丁丑二月十六日再建 (1756)
宝暦十二年 午七月二三日再建 (1762)
安政 六年 未九月二二日再建 (1859)
此度御一新附大山
(西暦編入筆者)
造立が延享3年(1746)で3回に渡って再建されてきたことが記されている。延享3年造立から宝暦11年まで16年の間、2回の再建は何を意味するものだったろうか。現在の御堂は安政6年の再建で156年になる。「観音社 山神社日記」に「惣戒師釈迦牟尼如来奉造立山神大権現」とある。
惣戒師釈迦牟尼如来奉造立山神大権現貮尺四面御堂所
寶暦十二歳午七月二三日 別當麓村 智傳坊
右同断 干時安政六年未九月二二日 大工重次
導師楽市頭喜寶院慈了
別當祈願師妙音寺教勧 願主両麓村中
家運長久如
明治以前「神仏習合」と云われ、神と仏は一体だった。ウィキペディアに次のような解説がある。
「神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰と仏教信仰が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆ともいう」。
また「釈迦牟尼如来」について
「釈迦牟尼如来とはインド各地を巡って真理を広められた仏様。山神社の大乗仏教では、釈迦牟尼仏(釈迦如来)は十方(東南西北とその中間である四隅の八方と上下)三世(過去、未来、現在)の無量の諸仏の一仏で、現在の娑婆(サハー、堪忍世界)の仏である。また、三身説では仏が現世の人々の前に現れた姿であるとされている。「釈迦牟尼仏」の「牟尼」というのは聖者とか修行に励んでいる人の事。「釈迦如来」の方は「如来」というのは如来自体が釈迦の化身。「如来」は「仏」の中でも最高ランク」。 とあった。
又、山神大権現の権現について
「権現(ごんげん)は、日本の神の神号の一つ。日本の神々を仏教の仏が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号である。権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す」とある。
2015.05.12 内沢山神社 貮尺四面御堂所 祭典 奉納 御戸帳
明治27年(1894)8月25日の川連村大水害の時、泥水が山神社の天井まで達したと語り継がれている。内沢の流れから山神社の天井までは約7~8mはある。地形からみると山神社前は内沢本流と滝ノ沢、牟沢との合流点でこの付近が土砂崩れでせき止められて一時的にダムが形成されたものと思われる。「川連水害記」には内沢の土砂崩れ沢がせき止められたのは数十か所あったと記されている。降り続く豪雨でせき止められた箇所が決壊し集落に達し流失家屋11戸、死者5名の大惨事があった。
仮説だが水没した当時、内沢山神社の神体がなかったのでないかと思われる。高度経済成長時代は毎年のように例大祭が行われていたが、昭和40年代後半になって例大祭が不規則になってしまった。このことをに憂慮した集落の建具士の「T氏」が中心になって、例大祭が復活してきた経過がある。当時「山の神様に神体がないということで新たに造った」との話が伝わったが詳しいことは知りえない。
その後集落の「I家」に「神体」が保管されていることがわかり、昭和50年代後半に「山神社」に再安置された経過がある。「I家」にいつごろから山神社の神体が保管されていたのか現当主に尋ねたが詳細はわからなかった。「黒瀧氏」が明治の「廃仏毀釈」で「神体」が破壊されるのを恐れて「I家」に預けたとも想像できるが確証はない。
明治新政府は慶應4年3月に発した太政官布告(通称神仏分離令)、明治3年に出された詔書「大教宣布」などの政策によって引き起こされ、「廃仏毀釈」で「神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭が行われた。寺や神社の廃止や統合があったとされるが仏像の「神体」は現在も各地に存在している。2015.11.25「小沼神社と仁王門」で紹介した「小沼神社」には「十一面観音菩薩立像」と「聖観音菩薩立像」の2体が安置されている。
2015.05.12 内沢山神社 祭典 鳥居の御払い
2015.05.12 内沢山神社 祭典
今年は内沢山神社造立から269年、現在の山神社の再建から156年になる。御戸帳も新しく奉納され造立、再建で守られてきた内沢山神社が集落の協賛で豪雪の被害から修復され、例祭も厳かに執り行われた。山の神様は例祭を境に川連の田圃の神様として、川連野を見守っている。
内沢山神社
集落の「高橋喜右衛門」家から、山神社の覚書「観音社 山神社日記」明治4年(1872)「黒瀧源蔵」著が出てきた。「黒瀧源蔵」氏は明治新政府の「廃仏毀釈」で廃止に追い込められた麓集落にあった「妙音寺」の住職だった。妙音寺住職が「廃仏毀釈」でこの地を離れる時に、本家の「喜右衛門」に「覚書」として預けた。それには以下のような記述がある。(抜粋)
天中天平等 延享三歳丙丑 諸旦那豊楽延 如意満足
奉造立山神宮諸願如音大旦那繁昌之如
国土安穏 二月一二日
別當 麓邑智傳坊 施主久右衛門
とあり延享3年造立の「智傳坊」は妙音寺住職だった。さらに内沢山神社の造立、再建の経過が記されている。
川連 内沢
山 神 社 造営修覆村中信心者
延享 三年丙丑二月十二日造立 (1746)
宝暦 七年丁丑二月十六日再建 (1756)
宝暦十二年 午七月二三日再建 (1762)
安政 六年 未九月二二日再建 (1859)
此度御一新附大山
(西暦編入筆者)
造立が延享3年(1746)で3回に渡って再建されてきたことが記されている。延享3年造立から宝暦11年まで16年の間、2回の再建は何を意味するものだったろうか。現在の御堂は安政6年の再建で156年になる。「観音社 山神社日記」に「惣戒師釈迦牟尼如来奉造立山神大権現」とある。
惣戒師釈迦牟尼如来奉造立山神大権現貮尺四面御堂所
寶暦十二歳午七月二三日 別當麓村 智傳坊
右同断 干時安政六年未九月二二日 大工重次
導師楽市頭喜寶院慈了
別當祈願師妙音寺教勧 願主両麓村中
家運長久如
明治以前「神仏習合」と云われ、神と仏は一体だった。ウィキペディアに次のような解説がある。
「神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰と仏教信仰が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆ともいう」。
また「釈迦牟尼如来」について
「釈迦牟尼如来とはインド各地を巡って真理を広められた仏様。山神社の大乗仏教では、釈迦牟尼仏(釈迦如来)は十方(東南西北とその中間である四隅の八方と上下)三世(過去、未来、現在)の無量の諸仏の一仏で、現在の娑婆(サハー、堪忍世界)の仏である。また、三身説では仏が現世の人々の前に現れた姿であるとされている。「釈迦牟尼仏」の「牟尼」というのは聖者とか修行に励んでいる人の事。「釈迦如来」の方は「如来」というのは如来自体が釈迦の化身。「如来」は「仏」の中でも最高ランク」。 とあった。
又、山神大権現の権現について
「権現(ごんげん)は、日本の神の神号の一つ。日本の神々を仏教の仏が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号である。権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す」とある。
2015.05.12 内沢山神社 貮尺四面御堂所 祭典 奉納 御戸帳
明治27年(1894)8月25日の川連村大水害の時、泥水が山神社の天井まで達したと語り継がれている。内沢の流れから山神社の天井までは約7~8mはある。地形からみると山神社前は内沢本流と滝ノ沢、牟沢との合流点でこの付近が土砂崩れでせき止められて一時的にダムが形成されたものと思われる。「川連水害記」には内沢の土砂崩れ沢がせき止められたのは数十か所あったと記されている。降り続く豪雨でせき止められた箇所が決壊し集落に達し流失家屋11戸、死者5名の大惨事があった。
仮説だが水没した当時、内沢山神社の神体がなかったのでないかと思われる。高度経済成長時代は毎年のように例大祭が行われていたが、昭和40年代後半になって例大祭が不規則になってしまった。このことをに憂慮した集落の建具士の「T氏」が中心になって、例大祭が復活してきた経過がある。当時「山の神様に神体がないということで新たに造った」との話が伝わったが詳しいことは知りえない。
その後集落の「I家」に「神体」が保管されていることがわかり、昭和50年代後半に「山神社」に再安置された経過がある。「I家」にいつごろから山神社の神体が保管されていたのか現当主に尋ねたが詳細はわからなかった。「黒瀧氏」が明治の「廃仏毀釈」で「神体」が破壊されるのを恐れて「I家」に預けたとも想像できるが確証はない。
明治新政府は慶應4年3月に発した太政官布告(通称神仏分離令)、明治3年に出された詔書「大教宣布」などの政策によって引き起こされ、「廃仏毀釈」で「神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭が行われた。寺や神社の廃止や統合があったとされるが仏像の「神体」は現在も各地に存在している。2015.11.25「小沼神社と仁王門」で紹介した「小沼神社」には「十一面観音菩薩立像」と「聖観音菩薩立像」の2体が安置されている。
2015.05.12 内沢山神社 祭典 鳥居の御払い
2015.05.12 内沢山神社 祭典
今年は内沢山神社造立から269年、現在の山神社の再建から156年になる。御戸帳も新しく奉納され造立、再建で守られてきた内沢山神社が集落の協賛で豪雪の被害から修復され、例祭も厳かに執り行われた。山の神様は例祭を境に川連の田圃の神様として、川連野を見守っている。