★スパイラルスペース ひなたぼっこ★ ・ ・~あったかい学びの部屋~

 私、かんちゃんが日常生活に隠れている大切な宝物を探します。幸せになれる考え方、過ごし方を一緒に見つけましょ。

誰のための、何のための… ?

2011-03-09 12:06:58 | 勘違いしてましたシリーズ!
この半年間、夢中で人のために何かすることを学びました。
自分が人によく思われたい とか
自分はこんなにもやってるってアピールしたい とか
そんな自分本意をそぎ落としていく作業の連続でした。

いつも自分に問いかけながら…
「これは人に見せるためにやってないか?」
「やっている自分に酔っていないか?」
「人に いい嫁と思われたくてやってないか?」
初めの頃は日々自分に問いかけていました。

しばらくすると、
義母の病院に通うこと も
祖母の病院に通うこと も
義父のご飯を作って持って行くこと も
私の日常生活の一部に組み込まれました。
そうなると
あまり意識しなくても
「してやってる」感は
なくなっていました。

どれも私のやれる範囲で精一杯のことができました。

このことを学んだ半年間でした。
この三月から新たなステージに進みなさい
そういうことだろう…。

三月からは自分の不妊治療やなかなか行けなかった歯医者にも通って
自分のことをしっかりやりなさいってことなのかなぁ?

そう思ってました!

でも、私の学びのステージがワンランク UPしているなら、
誰かのための行動を学んだ後に自分のための行動って、
おかしいよな~。
視野が狭まって自分本意に逆戻りしてる…。

もしかして、
不妊治療も自分のためと思っているから
なかなか授からないのかな?
「自分が子どもが欲しいから」ではなく、
私たち夫婦の元に生まれたいと思ってくれている
魂のために、その魂を育てる役割が与えられるのなら、
精一杯 大切に育てる…
そのために治療していると考えるとなんだかしっくりいくんです。
今まで自分のエゴのために不妊治療に通っているという
罪悪感がどこかにあったのかもしれません…。

看護学校の仕事も 毎年ひと学年80名程ですが、
今年はふた学年、170名程の学生さんと出会います。
何のために生まれてきて、
何をどうすればいいのか?
幸せに生きられる考え方、道理を
共に考えて、伝える 役割が待っています。

家族や身内だけでない、
様々な人たちのために身を粉にして働くことを
しっかり学んでいきたいと思います。

「死んだらおしまい」っておかしくない???

2010-09-26 17:42:44 | 勘違いしてましたシリーズ!
自己防衛って動物的本能だから仕方ないって思っていました 

でもよく考えると
動物は自己防衛しますが、自己犠牲もします。
動物も自分の子どもを守ったり、仲間を守ったりします。
犬はいざと言うとき、自分を犠牲にして飼い主を守ったりします 

最後の最後まで自分を防御するのに必死になるのは人間かもしれない…

  こんな声が聞こえてきます 
  「人間は考える頭脳があるから最後まで自分の身を守る方法を考えるけど
  動物は考える頭脳がないから。」

そう。
人間は余計なことを頭で考えすぎる…
自分の身を守ることばっかり。

  「自分の身を守って当然何じゃないの?」

確かに自分の身を守ることは大事。
けど、自分が助かれば人はどうでもいいの?
自分さえ助かれば周りはどうなってもいいの?

「ん・・・でも自分が死んじゃったらそれでおしまいだから。」

死んだらおしまい?
そう考えるとなんとしてでも自分が死なないように…
人を押しのけてでも自分が助かろう…ってなるんだよね。
「死んだらおしまい」って言葉、私も子どもの頃から何度となく言われたし、
耳にした覚えが。
だからそうだと思い込んでいたときもあったけど、
そう考えるとおかしいんだよね~
人を押しのけてでも生き延びたらそれでいいの?
一体何のために生きてるの?
長く生きればどんな残酷な人間になってもいいの?
そんなのおかしくない???

もう一つ。「死んだらおしまい。」って考えるからおかしなこと。
しんどい時、苦しい時、この状況から逃げ出したい時、
「死んだらおしまい。」って考えるから
「死んでおしまいにしよう…。」ってなるわけで。
逃げ出して、おしまい=リセット するつもりでも
そうは問屋が卸してくれないでしょって。
自分が逃げ出した課題は、また生まれ変わって遭遇するはず。
自分で解決するまで。
そうじゃないとおかしくないですか???


というわけで
今の私には「死んだらおしまいではない」って考える方がしっくりくるんです 

褒められるためにがんばった子供時代。

2010-05-19 10:00:53 | 勘違いしてましたシリーズ!
今思うと、子どもの頃って
お父さん、お母さんに褒められたい…
先生に褒められたい…
そんな思いで行動することが多かったなって。

でも、大人に褒められるために行動する、
行動の目的が「誰かに褒められること」になると、
その誰かがいるときだけ、見ているときだけ、
いいことをするようになるんですよね。
お父さん、お母さん、先生たちの目に入らない、耳に届かない ところではいいことをしなくなるんですよね。
そんな自分に「褒められるために何かをするっていうのは何か違うよな…。」
と子どもながらに気づいていたんですよね。
それでも子ども、その先のこと、
「じゃあどうしたらいいのか
ということまでは考えるに至らずに
そんなことは忘れてしまったんですね~。
なんか間違ってる…と感じていたことだけははっきりと覚えています。

子どもは大人に褒められて
「これはいいことなんだ~。」
と認識します。
そうしていいことと悪いことを覚えていくので、
いいことをしたらたっぷり褒めてあげるのは大切なことだと思います

本当にいいことと悪いことがわかっていれば、
人に褒めてもらう必要ってないんですよね。
自分でいいことをしたってわかるから 

だけど、大人になってもまだ人に褒められて喜んでいたり、
自分を褒めてくれない人のことを良く思わなかったり、
まだまだお子ちゃまだな~って自分で恥ずかしくなります。
本当にいいことと悪いこと自体、わかっていない大人は大半じゃないかな。
もちろん、私も含めて。

生きた証を残したいと思ってた・・・けど。

2010-02-08 08:44:52 | 勘違いしてましたシリーズ!
二十代の前半の頃、
「自分が生きた証を残したい 
という思いを強く持っていました。

若い自分が何でこんなことを思うのか…
当時から不思議ではありました。

が、学生時代の自分の研究課題が
「生と死の教育 
というものだったこともあり、
こんなことをず~っと考えていたんですね~

この問題意識の発端は
小学校の高学年の頃にあるように思います。
「人間はみんな必ず死んでいくのに、何で生まれてくるんだろう…。」
このことが不思議で不思議でたまらなかったんです 

二十代前半に強く思っていた
「自分が生きた証を残したい。」
というのもこの疑問と深く関係していることに最近、気づきました。

というのは
考え方の基本に
  人間は一回限りの生命
という発想がありました。
でもそう考えると子どもの頃の疑問
「必ず死ぬのに何故生まれてくるのか?」
という疑問が解決しないんです。

魂は永遠に死ぬことはなく、
人間は何万回と生まれ変わって、
魂が成長し続けるために生まれるんだ
って考えると、この長年の疑問が解決するんです 

そう考えると、
一回一回、自分が生まれ変わるたびに自分が生きた証を残して何の意味があるのか?
って思うようになったんです。

自分が生きた証…
なんだかとってもエゴエゴだったなって気がします。
結局、自己満足。自己顕示欲でしょ 

今、与えてもらった命を精一杯生きる、
与えられた命をめいっぱい使ってもらう、
そんな風に生きたいと思うようになりました。


ちなみに「100万回生きた猫」という絵本、
私は気に入っています 

不登校児が私に教えてくれること。

2010-01-28 11:59:04 | 勘違いしてましたシリーズ!
子どもが不登校することで、本人や親御さんはいろいろなことを真剣に考えます。
そこに意味がある…

「こうあるべき」とか「こうでなければならない」
なんていうものはこの世の中に何一つない、
ということを
子どもたちは身を持って、
自分自身と周りの大人たちに気づかせてくれているような気がする…


そんなことを考えていて、ふと思いました。

あるべき・すべき・~でなければって思うのはやめようって、
これ、まさに私自身が昨年一年間、自分自身に言い聞かせ続けてきた言葉じゃないの 

今この時期に、
不登校になりかかっている男の子の家庭教師をすることになったっていうのは
まさに大きな意味があったんですね。
この子が私にも
「こうあるべき」「こうでなければならない」
という完璧主義的な考え方をもうやめようって
教えてくれている気がします 


今まで、不登校の子どもたちと関わっていて、
「お世話やお手伝いをしてあげている」と思っていましたが、
大きな勘違いだったようです 


「感じのいい人」

2010-01-16 08:35:38 | 勘違いしてましたシリーズ!
私の中で
「感じのいい人」というのが
かなり重要なポイントとなっていたと思います。

自分自身も人から「感じのいい人」と思われるように振舞うことに
多大なエネルギーを費やしていた…

人を見るときも、
「感じのいい人」かどうかが、
第一の視点でした 
というのは
「あの人は感じがいいから、周りに気を使えるいい人」
「感じのいい人は人の気持ちを考えられるいい人」
という価値観があったからです。
感じのよくない、無愛想な人は周りに気を使わせて失礼な人…
そう思っていました。


ところがここ数年、
なんだかとっても無駄なところにエネルギーを注いでいたんじゃないかって思うようになりました。
「感じのいい人」を装う、そう振舞うのは
自分が周りからよく思われたいから。
 自分をよく見せるために使っていたエネルギー 

相手に「感じのいい人」を求めるのは
それが「いい人」と思っているから。
 そうでない人は「あんなんじゃダメだわ~」と勝手に決め付けて。


「感じのいい人」はどれだけでも装える、
言わば 身につけている洋服のようなもの 
洋服は、選ぶのは自分だけど、自分自身ではありません。
自分をよく見せるために、着飾ることにものすごいエネルギーを費やしていたって感じがするんです。
そのエネルギーをもっと自分自身を磨く、
心が曇らないように磨くことに費やせれば、
どんなにか自分が光り輝くことか
周りを輝かせることができることか 

自分が着飾ったところで、
周りを光り輝かせることはできません 




「ムダな時間」

2009-11-11 19:11:56 | 勘違いしてましたシリーズ!
「ムダな時間」と聞いて、みなさんはどんな時間の過ごし方を思い浮かべますか 

  何もしないでボーッとしている時間?
  手を動かしていないとき?
  体を動かしていないとき?

ずいぶん前にNHK教育テレビの「こころの時代」という番組のゲストに渡辺和子さんという方が出てお話をされていました。
渡辺さんはノートルダム清心学園の理事長をされている方です。
その渡辺さんがシスターの修行中のこんなお話をされていました。
   ・・・
  庭の草むしりをしていたときのこと。
  渡辺さんはただひたすら、黙々と草むしりをしていました。
  それを見ていた先生に「あなたは時間のムダをしている。」と言われたそうです。
  「なぜそんなことを言われるのか?私は効率よく草をむしっていたつもりなのに…。」
  すると先生がこう言われたそうです。
  「同じ草むしりをするなら、『みなさんお幸せに。』と祈りながらなさい。そうすれば同じ時間がどれだけ生きるか。」
  渡辺さんはハッとしたそうです。
  言われてみるとどこかで「何で私がこんなことを…。」と思っていたかも知れない…。
   ・・・
私がこのお話をはじめて聞いたのは十年ほど前だったでしょうか。
意味がよくわかりませんでした 
でも、近頃このお話をよく思い出すんです。
大事なこと、本当に時間を大切にするってことは
 『何かをすること』ではないんじゃないかって。
大事なのは常にどんな気持ちでいるかってこと。
「祈り」というと宗教っぽい感じがありますが、
人の「思い」とか「念」て、確かに伝わるなって思います。
 同じ時間を自分の幸せを願うのに使うのと全人類の幸せを願うのに使うのとどちらが「有効的な時間」か。
全人類の幸せを願いながら草むしりをすると、きっと優しい気持ちでできるでしょう。
喜んで、すすんで、積極的にできるでしょう。
この姿、この人のパワーは必ず周りの人たちに影響を与える…
自分の時間の使い方ひとつで、周りが変わる…そんな気がします。

「人間らしさ」って???

2009-11-02 18:34:02 | 勘違いしてましたシリーズ!
「人間らしさ」って何だと思いますか?
私は「感情が激しいのが人間らしい」って思っていました 
というか思わされていた…、
大人にそういう価値観を刷り込まれていたんだと思います。

昔…何歳の頃だったか…高校生だったか大学生だったか覚えていませんが、
親にこんなことを言ったことがありました。
「私は、何があっても動じない、デンと構えて揺るがない、いつもにこっと笑って、そこにいるだけで周りが癒される、そんな人になりたい。」って 
返ってきた親の言葉は
「そんなの無理や。仙人じゃあるまいし、人間らしくないわ。」でした。
  ガ
一撃でした 

親の言う通りだと思ったわけではありませんが、
そんな風にして
感情をあらわにするのが人間らしい姿だと刷り込まれてきたような気がします 

でも、数年前にあの時の自分が描いていた「こんな人になりたい」理想の人間像を思い出しました。そして間違いではないんじゃないかという思いが強くなってきました。

感情的なのが人間なのではなく、
感情をコントロールできるのが人間なんだ、って

感情をなくしたり、押し殺すのとは違います。
怒るときは怒ればいい 
泣くときは泣けばいい 
笑うときは大声で笑えばいい 
ただ、その感情をいつまでも引きづらないこと 

夫婦喧嘩をした翌日、昨日のムカムカを腹に持ったまま過ごすのか、
「こいつバカか?」と思われてもいいから、すっきりさっぱり昨日の感情は手放してしまうことができるのか。
気持ちひとつで感情を手放せるのが人間の能力なんだと思います