2010年、最初に読み終えた本が、「西行」。
お正月だったから、なんとなく歌人を選んだのでしたが、思いのほか深かったです。
西行といえば、花。桜の歌人。
そして、もとは北面の武士。
ちょうど、院政→平家の時代で、保元の乱の当事者、崇徳院とも関係していた人。
私は、後白河院関係を調べていた時期があったので、西行の出自に関しては
このくらいの知識しかなかったです。
それから、西行といえば誰もが思い出す、
願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月のころ
という歌。
そして、本当に後年、如月に河内の弘川寺で亡くなってるんですよね、偶然かな。
こういう歌が印象的であり、他にも散っていく桜を詠んだ歌など、
花は花でも華やかさではなく、どこか儚いような歌を詠んでいる印象があったのだけど、ぜんぜん勉強不足でした。
力強い歌もあれば、ユーモラスな歌もある。
なにせ、後年、松尾芭蕉がその足跡をたどるほど、残したモノも歌も大きかった。
代表的な歌集「山家集」には、1552首も収録、
歌にかける情熱はこれだけではありません。
当時は歌合というものがあって、二つの歌を比べて、判定を頼む、ことが
よく行われたそうですが、西行は異例の「自歌合(じかあわせ)」で、
自分の歌の判定を、なんとあの藤原俊成、定家父子に依頼しているんです。
それが、「御裳濯河歌合」(俊成)と、「宮河歌合」(定家)。
後者は、完成が西行の亡くなる直前だったといいます。
僧侶であり、歌人であり、漂白の旅人であり、また、73歳という当時では
長生きの方なので、エピソードも多いためか、説話や絵巻、またのちに世阿弥が能「西行桜」を書いたりと、後世にもいろいろな部分で語り継がれていきます。
だから、今も古い感じがしないんですかね、少なくとも、平安朝歌人よりは
拙い私の感覚でも新しいな…。
文学史的にも勅撰の「古今和歌集」→「新古今和歌集」で、技巧的にも
「よい」と思われるものの捉え方が違ってきた時期…なんじゃないかと思います。
…とはいえ、歌合の、俊成や定家の判を読んでみても、私にはサッパリ優劣が
分かりませんでしたが…orz
最後に、ちょっと気になった一首。
仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば
これ、源氏物語で、紫の上が死ぬ間際に、見舞いに来た幼い匂宮に、
「自分が死んだら、この屋敷をあげるから、ここの庭にある桜や梅を慈しんでね。
そしてときどきは、仏様にお供えしてね…」
…というようなことを言う場面があったと思うのですが…。
(源氏物語「御法」巻。今、確認しました^^;)
西行も、当然源氏を読んでいたのか、源氏自体が何か古典を題材にしていて、
こういう思想が自然だったのか、この「西行」本にはこのことは触れられていませんでしたが、ちょっと面白い発見でした。
ちなみに、昔読んだ源氏の注釈書では、紫の上が、「自分に桜を供えて」ではなく、「仏様に供えて」と言っている点が素晴らしい、と書いてあった気がします。
た、確かに!!
お正月だったから、なんとなく歌人を選んだのでしたが、思いのほか深かったです。
西行といえば、花。桜の歌人。
そして、もとは北面の武士。
ちょうど、院政→平家の時代で、保元の乱の当事者、崇徳院とも関係していた人。
私は、後白河院関係を調べていた時期があったので、西行の出自に関しては
このくらいの知識しかなかったです。
それから、西行といえば誰もが思い出す、
願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月のころ
という歌。
そして、本当に後年、如月に河内の弘川寺で亡くなってるんですよね、偶然かな。
こういう歌が印象的であり、他にも散っていく桜を詠んだ歌など、
花は花でも華やかさではなく、どこか儚いような歌を詠んでいる印象があったのだけど、ぜんぜん勉強不足でした。
力強い歌もあれば、ユーモラスな歌もある。
なにせ、後年、松尾芭蕉がその足跡をたどるほど、残したモノも歌も大きかった。
代表的な歌集「山家集」には、1552首も収録、
歌にかける情熱はこれだけではありません。
当時は歌合というものがあって、二つの歌を比べて、判定を頼む、ことが
よく行われたそうですが、西行は異例の「自歌合(じかあわせ)」で、
自分の歌の判定を、なんとあの藤原俊成、定家父子に依頼しているんです。
それが、「御裳濯河歌合」(俊成)と、「宮河歌合」(定家)。
後者は、完成が西行の亡くなる直前だったといいます。
僧侶であり、歌人であり、漂白の旅人であり、また、73歳という当時では
長生きの方なので、エピソードも多いためか、説話や絵巻、またのちに世阿弥が能「西行桜」を書いたりと、後世にもいろいろな部分で語り継がれていきます。
だから、今も古い感じがしないんですかね、少なくとも、平安朝歌人よりは
拙い私の感覚でも新しいな…。
文学史的にも勅撰の「古今和歌集」→「新古今和歌集」で、技巧的にも
「よい」と思われるものの捉え方が違ってきた時期…なんじゃないかと思います。
…とはいえ、歌合の、俊成や定家の判を読んでみても、私にはサッパリ優劣が
分かりませんでしたが…orz
最後に、ちょっと気になった一首。
仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば
これ、源氏物語で、紫の上が死ぬ間際に、見舞いに来た幼い匂宮に、
「自分が死んだら、この屋敷をあげるから、ここの庭にある桜や梅を慈しんでね。
そしてときどきは、仏様にお供えしてね…」
…というようなことを言う場面があったと思うのですが…。
(源氏物語「御法」巻。今、確認しました^^;)
西行も、当然源氏を読んでいたのか、源氏自体が何か古典を題材にしていて、
こういう思想が自然だったのか、この「西行」本にはこのことは触れられていませんでしたが、ちょっと面白い発見でした。
ちなみに、昔読んだ源氏の注釈書では、紫の上が、「自分に桜を供えて」ではなく、「仏様に供えて」と言っている点が素晴らしい、と書いてあった気がします。
た、確かに!!